出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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前編

4 來宮神社

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 チェックインを済ませ、部屋に案内された雄一は、大好きな窓際の椅子にもたれてさっそく煙草に火をつけた。

 暗くなったため、窓から見えるはずの海は夜に溶けていたけれど、向こうの山にはライトアップされた熱海城がよく見えた。
 雄一はそばに置いた相棒のボストンバックから日記帳を取り出した。旅先での記録を取るのも、彼の趣味の一つなのだ。


 家を出たのが午前一〇時過ぎで、熱海に着いたのは一二時ごろ。それから海を見るために商店街を抜け、浜辺への道を下っていくと、一つの素敵な路地裏を見つけて入った。


 そこで、彼はペンを止めた。少女とぶつかった路地裏。その少女の落とし物を思い出したのだ。

(確か、まだバックの中だったな)

 淡いピンクをした小さな巾着袋。
 揺らすと、カチカチと音がする。
 雄一は中を見たい衝動に襲われたけれど、さすがに他人の――しかも持ち主が女の子とあってはと考えて、それをそっと机の上に置いた。

 きっと少しだけ背伸びをした乙女チックな内容なのだろう、と、勝手な恥じらいを感じたのだ。

 二本目の煙草の咥えて、再びペンを握り、今日一日を振り返る。



 この落とし物を拾った後も、雄一は少女を探しながら、熱海の町をぶらぶらと歩いていた。

 昼は寿司を食った。地元で取れ立ての魚たちは、まさに格別だった。

 寿司屋を出てから、熱海銀座通りの商店街を歩いていると、路地裏からバイクが出てきて危うくぶつかりそうになったことを思い出した。

 少女といい、このバイクといい、熱海の人は曲がり角には無頓着なのかと少しだけ腹を立てていると、そのバイクはすぐ先のカフェレストランの前に停まった。

 ヘルメットを取ったバイク乗りは、少女と出会った路地裏で見かけた例の青年であった。

 短時間に二度も同じ顔を見ることに、雄一はまた「何かの縁」だと感じ、熱海のこと、そして少女のことについて聞こうと青年に話をかけた。

「こんにちは。ひとつ聞いてもいいかな?」

 青年は少し驚いた顔をして、軽く会釈をした。端正な顔で、短く切りそろえた髪が雄一には好印象だった。
 日に焼けて黒くなった顔も、働き者の証拠である。

「はい?」
「観光で来ているんだけれど、何か面白くて変わったところはないかな?」

 ああ、と言って、青年は首に巻いたタオルで顔の汗を拭った。

「食べ物ならやっぱり海鮮ですかね。山の方に向かって歩いて三本目の道を左に曲がるとうまい寿司屋がありますよ。ああ、後海岸沿いに貫一とお宮の像もありますね」
「貫一とお宮ってあの金色夜叉の?」
「そうですよ」
「そっか。確か熱海が舞台だったな」
「有名な、貫一がお宮を蹴っているところですね」

 青年はバイクの荷台に回って荷物を下ろし始めた。

「君は金色夜叉を読んだことあるの?」

 よいしょ、荷物を持ち上げて、青年は笑って答えた。

「俺には難しくて無理ですよ」

 笑った時に入いる目尻シワが愛嬌を感じさせた。

「ありがとう。見てみるよ」

 では、と荷物を店内に運び込もうとした青年を雄一が再び呼び止める。

「そうだそうだ。君はこの町に詳しい?」
「え? まあそれなりに……」
「顔も広い?」
「こういう仕事をしてますし、広い方だと思いますよ」  
「実はある人を探しているんだ」

 そういって、青年に少女を見たかと聞いてみた。あの路地裏には雄一と少女、そしてこの青年もいたのだ。しかも、少女と同じ方向に走ったというと見た可能性は高い。

 雄一は少女の服装や背丈、印象的なぱっちりとした丸い瞳など、できるだけ詳しく説明はしたのだけれど、青年は「見てない」と答えた。

「お力になれずにすみません。もう少し年寄りならわかるんですけれどね……」

 青年はもう一度笑ってみせた。やはり目じりには愛嬌のあるシワが入る。

「そうか。こちらこそ仕事の邪魔をして申し訳なかった」

 今度こそ青年は店内に入っていった。
 そしてすでに寿司を食べてしまった雄一は、同じくエンジンがかかりっぱなしのバイクを横目にして、教えられた「貫一とお宮」の像を見に海岸へ足を向けたのであった。

 その道中、彼はなんだか気の病んだような顔をした男を見かけた。目には濃いクマがあり、痩せこけていて、頭は少し禿げかかっていた。

 その男は、雄一の目の前の路地に入っていった。男の背中を陰で追って見ていると、男はある店の前で周囲をきょろきょろと警戒している。

 いよいよ怪しい。
 雄一はすでにその男に釘づけだった。

 結局、男はその店には入らずに、路地を抜けていってしまった。

 男が去ったあと、うろちょろしていたその店の前まで行ってみると、昼食中の貼り紙と、「出雲の駄菓子屋」と書かれた古い看板があった。

 疲労感が漂うその中年男性が、どうして駄菓子屋なんかに用事があるのか、と、雄一の内なる好奇心がメラメラと燃え始めた。

 後を追いかけてみよう。
 そう決意して歩き出すと、路地の向こう側に、なんと雄一が探している少女らしき影が見えたのだった。

 雄一はとっさに二つを天秤にかけたが、二の足を踏む思いで、少女を選んだのだ。


――しかし結局、今日は少女を見つけることが出来なかった。


 その一文を書き終えて、雄一はペンを置いた。そして、それが合図だったかのように、ノックの音が聞こえた。

「北野様。ご夕食の準備が整っております」

 仲居さんたちが次々と豪華な料理を机の上に置いていく。青豆豆腐と鯖の押し寿司などを前菜に、鮪、鰹、鮭、伊勢海老のお造り。さらに鮑の焼き物に加えて、出汁の香る松茸の茶碗蒸しが運ばれると、メインディッシュには熱海の地魚である金目鯛の煮つけが紀州の梅干しと共にやってきた。

 一人では贅沢すぎる夕食に、雄一は見るだけでも充分楽しめた。この時だけ、ほんの少し家族のことを思い出しては、申し訳ない気持ちになる。

 なんとかそれらの料理を食べ終えると、最後に仲居さんがデザートのマンゴープリンを持ってきた。「もう食べられませんよ」と笑って見せると「まだ大丈夫でしょう」と笑みを返してくれる。

 腹一杯の体で椅子に座り、縁側の窓を開けると気持ちの良い夜風が入ってくる。
 食後の一服も、いつもの数倍上手いと感じられた。

 雄一は窓を開けて顔を出した。温泉の煙突があちこちに建っていて、闇の中を煙が昇っていく。その下で楽しむ人たちの活気の結晶のようだと感じて、雄一は気分が良くなった。

 食べ物、温泉、景色――。

 どれもが彼の心を満足にした。落とし物の少女にバイクの青年との出会いもあり、今回の旅は大収穫と言っても良いだろう。

 少し坂が多いけれど、そのおかげで温泉にも深みがでる。

 雄一は煙草の火を消して、湿気を含んだ潮風を再び吸い込む。どこからか、酔っぱらいの歌い声が聞こえてきた。

 この世界では、皆幸せなのだろうと、思わず笑ってしまった。



 夕暮れも過ぎ、さっきまで白かった山際も、すでにその美しい光を失っていた。

 熱海駅の隣にある來宮このみや駅。
 樹齢二千年を超える大楠木が有名な來宮神社このみやじんじゃがあるところだ。

 悠久の時を越えて鎮座する守り神は、この二千年で、いったいどのような景色を見て、人々の生活に触れてきたのだろうか。

 説明が困難な大木の雰囲気は、その圧倒的な存在力によって参拝客の心を浄化させ、古えの、遙か昔の時代の空気を現代まで持って来てくれたかのようである。

 駅からは熱海の町を見下ろすことができ、町の光が点々と輝いていた。遠くにあるはずの水平線は闇の空と一体化してしまい、海と空とがまだ一つであった神話時代の混沌が顔を覗かせているみたいだった。

 古民家が並ぶ住宅街では、各々の窓から光と一緒に、その中の生活が漏れている。家の一軒一軒の中にはそれぞれの物語があるのだ。

 そんな物語から隔離され、民家と民家の小道を歩く少女がいた。

 彼女は熱海の暑い陽炎坂を登っては降り登っては降りてを繰り返して、終いには足の力がなくなって、駐車場の隅に座り込んでしまった。
 おかっぱに近い黒髪は、潮風と汗でボサボサになり、白いワンピースの所々には泥や汚れが着いている。

 少女は落とし物を探していた。

 それは少女にとって大切な物なのだ。小さな体で未熟な心でもあるけれど、それでも命に代わるくらい大切だと思える物。

 乾いた喉は声を出すことさえ嫌がった。
 見上げると、もう満点の星たちが見える。あれほどたくさんあるのに、彼女の小さな手では一つとして掴むことはできない。

 やがて少女は膝を抱えて蹲ってしまった。蚊に刺された膝小僧が赤くなって、大きく腫れている。固いアスファルトを肌で感じ、熱海の吐息を受けて、少女はいつの間にかウトウトとし始めた。

 目を閉じると暖かい部屋が夢現となって、彼女の視界に現れる。だけど、そんな幸せな世界が瞬く間に炎に支配されてしまった。

 逃げ場を失った少女は、ただ助けを呼ぶしかないけれど、声が上手く出ない。走りたくても足が動かない。やがて少女もその絶望に飲み込まれていった。
 眠りながらも、その閉じた目から一筋の涙を流していた。

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