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萌芽
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「きゃああああ! 嫌ああああ!」
わたしは——当時十一歳のわたしは三つ上の姉の絹を裂くような絶叫に飛びあがり、一目散に声のした方——両親の寝室へと向かった。
「だめ! だめだめ! 今はちょっと入れない! ふ、二人とも、今日は大人しく寝ていなさい!」
動転しているが、父の大きな声が襖の向こうから響いた。
「姉——ちゃん?」へたり込んで泣いている姉を気遣う。
「いや、だって——だ、大丈夫だから。あれは——普通の、こと、だからあああ!」いいながら姉が両こぶしで自分の頭を殴りつけた。
「ぜ、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん。くそ。もう何なん、何なん!」襖に手をかける。
「バカ! 開けたら殺すからね! あ、あんたももう寝なさい。でないと殺す。もう寝よう、うん、たぶんそれが一番、うん、一番」
十一歳の男子小学生には訳が分からなかったのだろう、姉に引きずられながら両親の寝室に悪態をつき続けた。
わたしが事の顛末を理解するには三年が必要だった。当時中学二年生、多感な姉はしかしやや潔癖なところがあったのだろう、両親の性交渉に完全にNOとしか反応できなかったのだ。
「おい、それ——」
「マジマジ、マジもんのやつ」
「それ、観れるのかよ」
「明日なら親、いないから。六時までは帰ってこない。部活は腹が痛いとかで抜け出せ。したら三人でうち集合な」
わたしも姉と同じ年齢となり、性への興味関心はずば抜けていた。もはや生涯最高だったのではないかと今では苦笑を漏らす。それほどに“エッチ”が観たかったのだ。
「じゃあ、ビデオ再生するからな——」
「——何なんこれ、インタビュー番組? ただのバラエティじゃね?」
「黙って観てなって!」
何の脈絡もなく現れた男優が無言で女優に激しくキスをしはじめ、わたしたち三人は固唾をのんで見守った。もはやだれもしゃべる余裕も失せ、画面の肌色にすべてをかっさらわれていた。
「なあ、ここ、観えるようにはならんのん?」
「っさいなあ、無茶いうなよ。そ、そんなの実物に頼めよ、か、彼女作れればだけど」
「お、おれちょっとトイレ借りる」
「おれも——後でトイレ行きたい」
精通は経験していたので精液がどのような性状で、どのように射精されるかの知識も自らをもってひと通り理解はしていただろうか。栗の木もそこら中に生えているわけもなく、しいていえばプールの塩素の薬剤がそれに近かった。つまり、わたしがトイレを借りたときにすでにその匂いがしていたということになる。
(うっ——くせえ)自分のことは棚に上げて、友人の匂いに不満を覚えた。
そのときの姉は十七歳。華の女子高生として、ではなくひたすらガリ勉の集まる塾の中でも特に秀でたガリ勉として名を馳せていた。たかだかAV一本で人生が目覚めるかのような体験をした中学生のわたしと違った。深夜、確か二時か三時だった。何やら玄関の方で話し声がする。のっぴきならない気配を感じたわたしは見つからなように、そうっと会話にそば耳立てた。
「こんな時間にどこに行ってたの」母が眠そうな声で質す。
「——最近、模試の順位が上がらなくてイライラしてて、ちょっと散歩に行ってただけだよ」
「四時間もか?」父の声。
「ま、待ち伏せしてたの——もしかして、あたしの日記帳見た!? じゃあ、あたしの半ヘルも見たんでしょ。——信じらんない。最低の親に生まれたわ。ええそうですよ、好きな人に会いに行ってましたよ。で? それで? 日記帳を盗み見て、待ち伏せするような親だからこんな娘になるんじゃないの?」平手打ちの音。
「それはないんじゃないの!? お母さんたちも完璧じゃないけどさ、あなたまだ高校生でしょ、高校生らしいふるまいってのがあるでしょ!」
「——最高ね。出かけるところを叱るんじゃなくて泳がして、わざわざ逃げられなくしてから捕らえるのね。あんたら、人の親に向いてないわよ。刑事にでもなったら? あたし、出てくから捕まえてみなよ」
ドアの閉まる音、ついで母の泣き声と父の深いため息だけがしばらく続き、わたしは自室に音もなく戻った。
「——気持ち悪い」
「親もだったけど、ダチもだったけど、姉ちゃんもかよ」
「もう、みんなそればっか」
「世の中にセックスが存在するからこうなるんだ」
「アダムとイブさえ——クソッ」
五年がたった。わたしは十九、とうに家を飛び出し歌舞伎町で汗と煙草と酒、香水と消臭スプレーと、ええ、あとほかになんかあったっけ? ——ああ、
栗の花。
そんな匂いがすべて同時に混ざった区画で身体を売って生計を立てていた。女なり男なり、質に入れたらいい値が付きそうなものをくれることもしばしばあった。まあ、質屋がないと暮らしていけないのもあった。気持ちはいらない、下品な音のする高価なライターは頂戴する。それから性病科と消費者金融、あとは——産科。
「何週、ってレベルじゃねえぞ、おい。どうして連れて来なかった、このクソガキ。下手すりゃおれら殺人罪だぞ」
と、一応の示しはつけておいて続きは別室で(妊婦はのぞく)、となる。何人も何人も殺すのを手伝ってきた。いや、殺しの片棒を担ぎ合ってきた。おれもこの医者も、どうにもならないことも知ってたし、何をどう取り繕ってもその行為への責任は取りえないと悟っていた。
自分の勤める店に来るのはだいたいが変態だ。というか、変態じゃない奴はバカか覆面で、そういう奴らは面白いほど簡単に死んでいった。この日は一見なのにおれを指名してきたおっさんがいた。どうせさっき初めてクスリに浸かった金持ちみたいなものだろう。妻子持ちだったがこれで逃げられたな、と冷ややかに見ていたら——「なに、持ち込み? 一点につき五千円だけど」そのおっさんが出したのは、ニーソだった。
「そうだ。君のことを調べる内に分かったんだ、ニーソじゃなきゃ確立しないんだと——」
この手合いには慣れている。対応もだ。「でもさ、これ、つながってないから二点扱いだけど、いいの?」おっさんがゆっくり深くうなずく。駄目だこりゃ。おれが五千円、店からちょろまかすだけだってこと理解してないな。まあ、その必要もないけど。
「じゃあ、お湯ためるね。アロマやバブルの好みとかは、ある?」
おっさんはきょとんとして、「君が穿いてくれさえすればいいのに、そこまでしなくても——」と、理解に苦しむ理解度の低さを現した。
こういったおもちゃ類の持ち込みが一律五千円というのは確かだ。受付にも書いてある。もちろん、ニーソ——というか、この丈ならサイハイかな——や、おもちゃの電池一本一本まで五千円が課せられるわけもなく、このあたりはおれたちキャストの裁量に委ねられている。
ま、そっちがそれでいいんならいいけど——どうせサービス終了後、唾液やローションにまみれた身体を一回は湯へと投じたい。ジジイども、ババアどものダシがきいた湯を捨て、新たに張り替える手間が省けるのなら好都合ではあるが。
ああいう「見るだけ」の客もさして少なくない数、来店する。ときにはキャスト同士二人や時には三人の睦び合いを見る、という下品極まりない客もチラホラだ。とにかく、何が来るか分からない店に勤め、それが常識としてまかり通る地に居を構えたのが運の尽き。
いや——本当はもっと早かったのかもしれない。性への欲求に振り回されていた頃か、それともそうした性への拒絶感——十四歳で両親の閨を見るという事故を起こしたときの姉のような——が最高潮に達した、歌舞伎町からの洗礼をまともに食らったあの転居当日か。
いずれにせよ、もはや選択権は残されていないのだ、ここに暮らす大勢の夢追い人には。
この前産科に連れて行ったフィリピーナはキュレットで掻爬して堕胎するらしい。眠っているうちに終わる。幸い、あの医者は腕も立つ。キュレットも——要するに金属製の虫歯をほじくる道具だ——歯科から流してもらうものを用いるので清潔に不安はない。
だが、何も学ばないだろうな。
いつものことだ。ベッドから起き出し、階段を何階分かのぼり、ビルの屋上へ出る。寒くも暑くもない。ちょうどいい。花粉症でないので春は好きだ。ハイライトに火をつける。傷に傷を重ねブロックをこすりつけてできた擦過傷のような左手でたばこを持つ。美味いとか不味いとか、そういったものとは無関係となったハイライト。空気みたいな存在、といえば一番しっくりくる。
わたしは——当時十一歳のわたしは三つ上の姉の絹を裂くような絶叫に飛びあがり、一目散に声のした方——両親の寝室へと向かった。
「だめ! だめだめ! 今はちょっと入れない! ふ、二人とも、今日は大人しく寝ていなさい!」
動転しているが、父の大きな声が襖の向こうから響いた。
「姉——ちゃん?」へたり込んで泣いている姉を気遣う。
「いや、だって——だ、大丈夫だから。あれは——普通の、こと、だからあああ!」いいながら姉が両こぶしで自分の頭を殴りつけた。
「ぜ、ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん。くそ。もう何なん、何なん!」襖に手をかける。
「バカ! 開けたら殺すからね! あ、あんたももう寝なさい。でないと殺す。もう寝よう、うん、たぶんそれが一番、うん、一番」
十一歳の男子小学生には訳が分からなかったのだろう、姉に引きずられながら両親の寝室に悪態をつき続けた。
わたしが事の顛末を理解するには三年が必要だった。当時中学二年生、多感な姉はしかしやや潔癖なところがあったのだろう、両親の性交渉に完全にNOとしか反応できなかったのだ。
「おい、それ——」
「マジマジ、マジもんのやつ」
「それ、観れるのかよ」
「明日なら親、いないから。六時までは帰ってこない。部活は腹が痛いとかで抜け出せ。したら三人でうち集合な」
わたしも姉と同じ年齢となり、性への興味関心はずば抜けていた。もはや生涯最高だったのではないかと今では苦笑を漏らす。それほどに“エッチ”が観たかったのだ。
「じゃあ、ビデオ再生するからな——」
「——何なんこれ、インタビュー番組? ただのバラエティじゃね?」
「黙って観てなって!」
何の脈絡もなく現れた男優が無言で女優に激しくキスをしはじめ、わたしたち三人は固唾をのんで見守った。もはやだれもしゃべる余裕も失せ、画面の肌色にすべてをかっさらわれていた。
「なあ、ここ、観えるようにはならんのん?」
「っさいなあ、無茶いうなよ。そ、そんなの実物に頼めよ、か、彼女作れればだけど」
「お、おれちょっとトイレ借りる」
「おれも——後でトイレ行きたい」
精通は経験していたので精液がどのような性状で、どのように射精されるかの知識も自らをもってひと通り理解はしていただろうか。栗の木もそこら中に生えているわけもなく、しいていえばプールの塩素の薬剤がそれに近かった。つまり、わたしがトイレを借りたときにすでにその匂いがしていたということになる。
(うっ——くせえ)自分のことは棚に上げて、友人の匂いに不満を覚えた。
そのときの姉は十七歳。華の女子高生として、ではなくひたすらガリ勉の集まる塾の中でも特に秀でたガリ勉として名を馳せていた。たかだかAV一本で人生が目覚めるかのような体験をした中学生のわたしと違った。深夜、確か二時か三時だった。何やら玄関の方で話し声がする。のっぴきならない気配を感じたわたしは見つからなように、そうっと会話にそば耳立てた。
「こんな時間にどこに行ってたの」母が眠そうな声で質す。
「——最近、模試の順位が上がらなくてイライラしてて、ちょっと散歩に行ってただけだよ」
「四時間もか?」父の声。
「ま、待ち伏せしてたの——もしかして、あたしの日記帳見た!? じゃあ、あたしの半ヘルも見たんでしょ。——信じらんない。最低の親に生まれたわ。ええそうですよ、好きな人に会いに行ってましたよ。で? それで? 日記帳を盗み見て、待ち伏せするような親だからこんな娘になるんじゃないの?」平手打ちの音。
「それはないんじゃないの!? お母さんたちも完璧じゃないけどさ、あなたまだ高校生でしょ、高校生らしいふるまいってのがあるでしょ!」
「——最高ね。出かけるところを叱るんじゃなくて泳がして、わざわざ逃げられなくしてから捕らえるのね。あんたら、人の親に向いてないわよ。刑事にでもなったら? あたし、出てくから捕まえてみなよ」
ドアの閉まる音、ついで母の泣き声と父の深いため息だけがしばらく続き、わたしは自室に音もなく戻った。
「——気持ち悪い」
「親もだったけど、ダチもだったけど、姉ちゃんもかよ」
「もう、みんなそればっか」
「世の中にセックスが存在するからこうなるんだ」
「アダムとイブさえ——クソッ」
五年がたった。わたしは十九、とうに家を飛び出し歌舞伎町で汗と煙草と酒、香水と消臭スプレーと、ええ、あとほかになんかあったっけ? ——ああ、
栗の花。
そんな匂いがすべて同時に混ざった区画で身体を売って生計を立てていた。女なり男なり、質に入れたらいい値が付きそうなものをくれることもしばしばあった。まあ、質屋がないと暮らしていけないのもあった。気持ちはいらない、下品な音のする高価なライターは頂戴する。それから性病科と消費者金融、あとは——産科。
「何週、ってレベルじゃねえぞ、おい。どうして連れて来なかった、このクソガキ。下手すりゃおれら殺人罪だぞ」
と、一応の示しはつけておいて続きは別室で(妊婦はのぞく)、となる。何人も何人も殺すのを手伝ってきた。いや、殺しの片棒を担ぎ合ってきた。おれもこの医者も、どうにもならないことも知ってたし、何をどう取り繕ってもその行為への責任は取りえないと悟っていた。
自分の勤める店に来るのはだいたいが変態だ。というか、変態じゃない奴はバカか覆面で、そういう奴らは面白いほど簡単に死んでいった。この日は一見なのにおれを指名してきたおっさんがいた。どうせさっき初めてクスリに浸かった金持ちみたいなものだろう。妻子持ちだったがこれで逃げられたな、と冷ややかに見ていたら——「なに、持ち込み? 一点につき五千円だけど」そのおっさんが出したのは、ニーソだった。
「そうだ。君のことを調べる内に分かったんだ、ニーソじゃなきゃ確立しないんだと——」
この手合いには慣れている。対応もだ。「でもさ、これ、つながってないから二点扱いだけど、いいの?」おっさんがゆっくり深くうなずく。駄目だこりゃ。おれが五千円、店からちょろまかすだけだってこと理解してないな。まあ、その必要もないけど。
「じゃあ、お湯ためるね。アロマやバブルの好みとかは、ある?」
おっさんはきょとんとして、「君が穿いてくれさえすればいいのに、そこまでしなくても——」と、理解に苦しむ理解度の低さを現した。
こういったおもちゃ類の持ち込みが一律五千円というのは確かだ。受付にも書いてある。もちろん、ニーソ——というか、この丈ならサイハイかな——や、おもちゃの電池一本一本まで五千円が課せられるわけもなく、このあたりはおれたちキャストの裁量に委ねられている。
ま、そっちがそれでいいんならいいけど——どうせサービス終了後、唾液やローションにまみれた身体を一回は湯へと投じたい。ジジイども、ババアどものダシがきいた湯を捨て、新たに張り替える手間が省けるのなら好都合ではあるが。
ああいう「見るだけ」の客もさして少なくない数、来店する。ときにはキャスト同士二人や時には三人の睦び合いを見る、という下品極まりない客もチラホラだ。とにかく、何が来るか分からない店に勤め、それが常識としてまかり通る地に居を構えたのが運の尽き。
いや——本当はもっと早かったのかもしれない。性への欲求に振り回されていた頃か、それともそうした性への拒絶感——十四歳で両親の閨を見るという事故を起こしたときの姉のような——が最高潮に達した、歌舞伎町からの洗礼をまともに食らったあの転居当日か。
いずれにせよ、もはや選択権は残されていないのだ、ここに暮らす大勢の夢追い人には。
この前産科に連れて行ったフィリピーナはキュレットで掻爬して堕胎するらしい。眠っているうちに終わる。幸い、あの医者は腕も立つ。キュレットも——要するに金属製の虫歯をほじくる道具だ——歯科から流してもらうものを用いるので清潔に不安はない。
だが、何も学ばないだろうな。
いつものことだ。ベッドから起き出し、階段を何階分かのぼり、ビルの屋上へ出る。寒くも暑くもない。ちょうどいい。花粉症でないので春は好きだ。ハイライトに火をつける。傷に傷を重ねブロックをこすりつけてできた擦過傷のような左手でたばこを持つ。美味いとか不味いとか、そういったものとは無関係となったハイライト。空気みたいな存在、といえば一番しっくりくる。
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