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IX 『ひとりよりふたりが良い』
085 悲恋
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八五 悲恋
講義室を出たり入ったりして寒暖差に体が負けてしまいそうになる。昼休憩、文系キャンパスの学生食堂まで歩く。寒さ対策も万全にした喫煙者が、食堂からやや離れた喫煙区画に群がり、思い思いの味や香りの煙を吐いていた。一本の半分とはいえ、わたしも煙草を吸ったのだから一応の元喫煙者となろうか。しかし――煙い。マスクのノーズピースを曲げ直し、煙が入ってしまわないよう努める。
「あ、高志」喫煙者たちのなかにかれの姿を認める。手を振るとかれはこちらをちらりと見、また喫煙者たちの談笑に戻った。聞こえなかったのだろうか。いや、それはない。明らかにこちらに気づいていたはず。やり場に困った手はそのままゆるゆると下ろし、コートのポケットに突っ込む。あまり重要なことではない。無視したのではなく、煙を吸わせないよう気遣ってくれたのだろう、そう思うことにする。足早に移動し、早くできて早く食べることのできるカレーを発券する。ごく手短に祈り、味わいもせずに嚥下し、トレイを返してまた移動する。
講義を終え、大講堂に着いても冷気はわたしを逃さなかった。「ショウちゃん、免疫ぶりー」横山だ。
「免疫? 何それ」高志は横山に笑いながら尋ねる。「もう、男子は黙ってなって! ね、ショウちゃん?」
わたしは曖昧に笑い、「うん、免疫ぶり。高志も学食ぶり」と返す。
「いいなー、高志。ラブラブハッピーで」横山は笑っていいながらも表情を固くするのが見えた。
「へえ。横山さんも『高志』って呼んでるんだ」
「え? いや、でもうち、うちも高校のとき大体こんな感じだったよ」
「通信制なのに?」
「つ、通信でも地元の友達はいたよ、そりゃ。ど、どしたん、ショウちゃん。なんか、疑ってる? なんもないって、ほんとにないよ」
わたしはコートのポケットから手を出さず、かつかつとふたりに歩みよる。「なにがあるかって心配してるんじゃないよ、別に。わたしも今初めて気づいたんだけどね――誰かが平松のことを『高志』って呼ぶの、面白くないなあっていう感想を抱いた。シンプルにそれだけ。まあ、わたしは椅子や譜面台並べてるから、平松さんと横山さんはどうぞ続けてて。邪魔しちゃ悪いから」
「しょ、聖子。お前、なに――」
「『お前』って呼んでいいんだっけ?」
「わかった、わかったから」
「なにが? なにがわかったの?」
「あ――いや、いい。練習のあとで家に寄る」
「なんで? なんのために?」
かれはうなだれ、一呼間おいてから「そりゃ、聖子が大好きだからだよ」といった。
「そう。なら、いい」
かれはこの日の練習では若干ミスがあり、横山のミスは高志よりさらに多かった。演奏会まで五日、通しの練習はむしろ少なくなる。新たにミスを犯せば、たちまちにして本番へのプレッシャーにつながるからだ。基礎的な練習を徹底的に行い、できることを増やし、ミスのないことを精神、神経に浸透させるのだ。その基礎練習でさえもミスを出すのは、よい心理状態とはいえない。
高志とふたりで無言のまま歩いた。もうすぐアパートに着く。
「高志」
「聖子」
ふたりの言葉が重なる。
「なに?」
「いや、聖子からいえよ」
わたしはポケットから手を出し、かれの腕に手を回す。しなを作るようにして両腕をからめる。らしくない。
「その、わたしも過剰反応だったなって思ったの。今さらだけどね。なんか、悪いことしちゃったかなって。あの子、ああ見えて繊細だし。家着いたらLINEで謝っとくよ。高志も、その、ごめん」
音のないため息が、ふたりのマスクから白い吐息となって漏れる。
「おれこそ、ごめんな。疑われるかどうかって以前に気持ちのいいことでもないもんな。まあ、横山が寄ってくるタイプだったから、っていうのもあるけど――あ、いや、責任転嫁じゃなく、自覚が足りなかったって反省してる。悪かったよ、ごめん」
あした、どんな顔で横山に会おう。夜にLINEで謝ったところ、かの女からの返信は絵文字やスタンプだけで、テキストはなかった。繊細といえば繊細だが、立ち直りの早いところも横山だ。深くは考えない方がよいのだろうか。ただの束縛好きな女なら、かの女も理解しやすいのだろう、とも思う。この夜は高志が一緒にいるのに酒も飲まず、また肌を合わせることもなく、気まずさを感じながらかれを一階に降りて見送った。
「ショウちゃん、おは」
昨日と違いニットはタートルネック、スカートではなくアンクル丈のブラックジーンズ、ピンヒールのブーティを合わせていた。唯一同じなのはモッズコートくらいのものだろう。足首が寒そうだが、お洒落だな、とわたしは横山に率直な感想を抱く。準備室で朝食を摂る面子はすでに固定されている。そもそも大学まで来て朝食を食べようとする者なんて限られるのだ。その中で横山は際立った洒落者だ。わたしはといえば、昨日とほとんど同じか、違っていても似たようなものばかりで気づかれにくい。地味なのだ、要するに。
「おはよう、横山さん。今日もお洒落ね」
「うふ、ありがと。これでも生存競争、がんばっとるんよ」と、横山は歯を見せて笑う。
昨日の一件を謝るべきだ。しかし、どう切り出したらいいのか――自分の会話能力の乏しさを悔やむ。これがディベートならば隠し持った牙を、どこからでも出せるというのに。
「あ、ショウちゃん。あの、昨日のことだけどね。結論からいうとうちが悪いんだ。うち、平松が好きで、仲良くなりたかったから。ショウちゃんから奪いたかったから。だから、うちが悪いんだ。だから、ごめんね」
「そんな、それは」
それは高志が決めることだ。自分の頭にある言葉の怖さにたじろいでしまい、二の句が継げなくなる。
横山は続ける。「だからそういうの、だれがどう決めることであってもなくても、クリスチャンならやっちゃだめなんだよ。うち、だめなことしたんだ。ほんと、ごめん」横山はうつむき、髪で表情は隠された。
高志が決めることだとか、クリスチャンだからしてはいけないとか、そんなの――自分で決めることじゃないか。横山は咳払いをし、小声で話し始めた。
「あのときショウちゃんに色々、退学したいとか話したけど、あれで吹っ切れたんよ。悪いやつになってもいい、後悔しなかったら何でもいい、って。だからあのとき、ぜんぶは話せなかった。まあ、当然だけどね。でもすっきりしたな。ショウちゃんや平松には迷惑かけたけどね」
わたしはなにもいえず、その場ではただ横山と祈りあって朝食を摂った。もやもやと気味の悪いわだかまりを抱え、恋愛という、正義も大義もないのに、勝者だけが存在する問題にぶち当たったことに違和感を覚えながら、なにを祈ればよいのか、なにを祈ったら悪いのかをずっと考えていた。
講義室を出たり入ったりして寒暖差に体が負けてしまいそうになる。昼休憩、文系キャンパスの学生食堂まで歩く。寒さ対策も万全にした喫煙者が、食堂からやや離れた喫煙区画に群がり、思い思いの味や香りの煙を吐いていた。一本の半分とはいえ、わたしも煙草を吸ったのだから一応の元喫煙者となろうか。しかし――煙い。マスクのノーズピースを曲げ直し、煙が入ってしまわないよう努める。
「あ、高志」喫煙者たちのなかにかれの姿を認める。手を振るとかれはこちらをちらりと見、また喫煙者たちの談笑に戻った。聞こえなかったのだろうか。いや、それはない。明らかにこちらに気づいていたはず。やり場に困った手はそのままゆるゆると下ろし、コートのポケットに突っ込む。あまり重要なことではない。無視したのではなく、煙を吸わせないよう気遣ってくれたのだろう、そう思うことにする。足早に移動し、早くできて早く食べることのできるカレーを発券する。ごく手短に祈り、味わいもせずに嚥下し、トレイを返してまた移動する。
講義を終え、大講堂に着いても冷気はわたしを逃さなかった。「ショウちゃん、免疫ぶりー」横山だ。
「免疫? 何それ」高志は横山に笑いながら尋ねる。「もう、男子は黙ってなって! ね、ショウちゃん?」
わたしは曖昧に笑い、「うん、免疫ぶり。高志も学食ぶり」と返す。
「いいなー、高志。ラブラブハッピーで」横山は笑っていいながらも表情を固くするのが見えた。
「へえ。横山さんも『高志』って呼んでるんだ」
「え? いや、でもうち、うちも高校のとき大体こんな感じだったよ」
「通信制なのに?」
「つ、通信でも地元の友達はいたよ、そりゃ。ど、どしたん、ショウちゃん。なんか、疑ってる? なんもないって、ほんとにないよ」
わたしはコートのポケットから手を出さず、かつかつとふたりに歩みよる。「なにがあるかって心配してるんじゃないよ、別に。わたしも今初めて気づいたんだけどね――誰かが平松のことを『高志』って呼ぶの、面白くないなあっていう感想を抱いた。シンプルにそれだけ。まあ、わたしは椅子や譜面台並べてるから、平松さんと横山さんはどうぞ続けてて。邪魔しちゃ悪いから」
「しょ、聖子。お前、なに――」
「『お前』って呼んでいいんだっけ?」
「わかった、わかったから」
「なにが? なにがわかったの?」
「あ――いや、いい。練習のあとで家に寄る」
「なんで? なんのために?」
かれはうなだれ、一呼間おいてから「そりゃ、聖子が大好きだからだよ」といった。
「そう。なら、いい」
かれはこの日の練習では若干ミスがあり、横山のミスは高志よりさらに多かった。演奏会まで五日、通しの練習はむしろ少なくなる。新たにミスを犯せば、たちまちにして本番へのプレッシャーにつながるからだ。基礎的な練習を徹底的に行い、できることを増やし、ミスのないことを精神、神経に浸透させるのだ。その基礎練習でさえもミスを出すのは、よい心理状態とはいえない。
高志とふたりで無言のまま歩いた。もうすぐアパートに着く。
「高志」
「聖子」
ふたりの言葉が重なる。
「なに?」
「いや、聖子からいえよ」
わたしはポケットから手を出し、かれの腕に手を回す。しなを作るようにして両腕をからめる。らしくない。
「その、わたしも過剰反応だったなって思ったの。今さらだけどね。なんか、悪いことしちゃったかなって。あの子、ああ見えて繊細だし。家着いたらLINEで謝っとくよ。高志も、その、ごめん」
音のないため息が、ふたりのマスクから白い吐息となって漏れる。
「おれこそ、ごめんな。疑われるかどうかって以前に気持ちのいいことでもないもんな。まあ、横山が寄ってくるタイプだったから、っていうのもあるけど――あ、いや、責任転嫁じゃなく、自覚が足りなかったって反省してる。悪かったよ、ごめん」
あした、どんな顔で横山に会おう。夜にLINEで謝ったところ、かの女からの返信は絵文字やスタンプだけで、テキストはなかった。繊細といえば繊細だが、立ち直りの早いところも横山だ。深くは考えない方がよいのだろうか。ただの束縛好きな女なら、かの女も理解しやすいのだろう、とも思う。この夜は高志が一緒にいるのに酒も飲まず、また肌を合わせることもなく、気まずさを感じながらかれを一階に降りて見送った。
「ショウちゃん、おは」
昨日と違いニットはタートルネック、スカートではなくアンクル丈のブラックジーンズ、ピンヒールのブーティを合わせていた。唯一同じなのはモッズコートくらいのものだろう。足首が寒そうだが、お洒落だな、とわたしは横山に率直な感想を抱く。準備室で朝食を摂る面子はすでに固定されている。そもそも大学まで来て朝食を食べようとする者なんて限られるのだ。その中で横山は際立った洒落者だ。わたしはといえば、昨日とほとんど同じか、違っていても似たようなものばかりで気づかれにくい。地味なのだ、要するに。
「おはよう、横山さん。今日もお洒落ね」
「うふ、ありがと。これでも生存競争、がんばっとるんよ」と、横山は歯を見せて笑う。
昨日の一件を謝るべきだ。しかし、どう切り出したらいいのか――自分の会話能力の乏しさを悔やむ。これがディベートならば隠し持った牙を、どこからでも出せるというのに。
「あ、ショウちゃん。あの、昨日のことだけどね。結論からいうとうちが悪いんだ。うち、平松が好きで、仲良くなりたかったから。ショウちゃんから奪いたかったから。だから、うちが悪いんだ。だから、ごめんね」
「そんな、それは」
それは高志が決めることだ。自分の頭にある言葉の怖さにたじろいでしまい、二の句が継げなくなる。
横山は続ける。「だからそういうの、だれがどう決めることであってもなくても、クリスチャンならやっちゃだめなんだよ。うち、だめなことしたんだ。ほんと、ごめん」横山はうつむき、髪で表情は隠された。
高志が決めることだとか、クリスチャンだからしてはいけないとか、そんなの――自分で決めることじゃないか。横山は咳払いをし、小声で話し始めた。
「あのときショウちゃんに色々、退学したいとか話したけど、あれで吹っ切れたんよ。悪いやつになってもいい、後悔しなかったら何でもいい、って。だからあのとき、ぜんぶは話せなかった。まあ、当然だけどね。でもすっきりしたな。ショウちゃんや平松には迷惑かけたけどね」
わたしはなにもいえず、その場ではただ横山と祈りあって朝食を摂った。もやもやと気味の悪いわだかまりを抱え、恋愛という、正義も大義もないのに、勝者だけが存在する問題にぶち当たったことに違和感を覚えながら、なにを祈ればよいのか、なにを祈ったら悪いのかをずっと考えていた。
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