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IX 『ひとりよりふたりが良い』
084 起床
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八四 起床
まだ暗い部屋で目を覚ます。朝だ。冬の朝は嫌いだ。そもそも冬の朝が好きなひとなどいるのだろうか。今朝はゴミ出しなのだが、この寒い朝に起きだし、捨てに行くなんて無理だろうと昨夜のうちに判断した。正解だった。真夜中の寒さなど、早朝の凍えるような冷気には到底及ばない。時計を見ると六時十五分。部屋は昨晩タイマーをしたエアコンの暖気ですでに暖まっている。起床時間である六時半まで十五分ほど、布団の中で昨夜のことを思い出していた。
――佐々木さん、今ごろはどこか遠くの留置場で起きだす頃だろうか、「あれ、あったかい」とでもつぶやきながら。
「まあ、どんな形であれ生きてるだけましってことだな。亡くなったら善くも悪くもなれないから。そのひとのこと、もう悪くはいえないもんな。聖子のやったことは無駄じゃなかったんだ――ただ風呂に入れただけなのに、ああ書いてたから。おれも、まあ、顔面押し付けて悪いことしたな」
LINEで高志とそんな会話をした。
「ごめん、高志。ここのところ朝がしんどくて。少しでいいから覚醒させたいの。朝起きたとき、五分くらい話し相手になってくれない?」
秋も深まるころ、高志にそう頼んだ。実際には電話をかけると高志はまだ夢の中、というのが常だった。アラームでなくわたしの着信で起こすのも気が引けたが、仕方がない。それにかれの朝の身支度はずいぶんと手早いもので、わたしとのモーニングコールに付き合うのもさしたる負担でもないようだった。
わたしの朝は年を追うごとに重くなっているように感じる。高志とのモーニングコールがなければ起き上がることすらしづらくなってきたのだ。
昨夜はいろいろあった。凍死しそうな路上生活者――佐々木さんを拾い、湯に入れてあげ、気づいたら佐々木さんはいなくなっていた。
高志は夜のうちに自分のアパートへと帰り、わたしはコンビニ必要最低限の酒を買った。
『亡くなったら善くも悪くもなれない』か。どこかで聞いたな――横山里美だ。『亡くなった人はみんな、愛されるよね』。かの女もそういっていた。頬のそばかすがコンプレックスだった。通信制高校から四年制大学に上がって、続けられないと悲観していた。が、その具体的な理由は話してはくれなかった。でも――当面は大丈夫だろう。それより今は、布団から手も足も顔を出せない亀のような現況を打破すべきだ、そう結論し、しかしわたしだけではどうにもならないことに歯噛みする。
六時四十五分ごろ、途方もない努力の末に起きだす。黒のタートルネック、濃紺のスキニーフィットジーンズ、ダークブラウンのチェスターコートをまとう。講義に必要なテキスト類は夜のうちにすべてバックパックに準備してある。一応中身を検める。スヌードを巻き付け、手袋をはめる。気を引き締めていこう。クリスマスコンサート――第六十四回冬季定期演奏会まで、あとわずか。
朝食をコンビニで買い、理化学実験棟の高橋ゼミ準備室へ階段を上る。
「あ、ショウちゃん。おはよ」モスグリーンのふんわりしたニット、ギンガムチェックのスカート、臙脂色のタイツ、暖かそうな裏ボアのモッズコートで先にコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、横山さん」わたしがそういうと決まってかの女は「もう、里美かセシリアで呼んでっていってるのに」と頬を膨らませるのだ。年齢に見合わないところも可愛らしい。
「はいはい。それで、今日はなにするの?」わたしも笑いながら返す。
「なんだったっけかな、臨床分析と有機と免疫学と、あと、医療英語か。そんなもんだよ、二年の後期ってったって。ショウちゃんは?」
「こっちも似たような感じ。このあと生命計測で、有機と免疫学はいっしょのコマでしょ? その後は工学英語だから、ずいぶんと型にはまったカリキュラムだよね」
横山は「まあそうだよねえ」と相槌を打ちながら肩を撫でてくる。あの朝もこうして準備室で一緒だった――状況と環境と心境、わたしはこれら三要素で人は気持ちを構成されているとわたしはいったが、あのときのかの女は、(おそらくだが)心境の変化で自主退学をも考えるほどまでに悩んでいた。しかし目の前でおにぎり弁当を食べる横山は、本来の人懐っこさに戻ったように見える。
「大分ましになったみたいでよかったわ」準備室から講義棟へ並んで歩く。「内心、ひやひやしたけどね」とわたしはいう。
「ああ、あれはその、若さゆえってやつよ、ウェルテルみたいな」と、横山はカラータイツを突っ込んでいる辛子色のショートブーツを、わたしとは違う方へと向ける。「じゃ、またねえ」
「ええ、里美さんも」わたしは手を振る。
「え?」横山の顔の表情が停止する。「うち、なんかショウちゃんにいいことしたっけ?」
「いや、とくに何もしてないと思うよ。どうしたの?」
横山は口角を上げ、「ひひっ、ショウちゃんが名前で呼んでくれた、それも自発的に。うん、何か知らないけど好感度、ゲット! それじゃあ、また有機で、ね」
まだ暗い部屋で目を覚ます。朝だ。冬の朝は嫌いだ。そもそも冬の朝が好きなひとなどいるのだろうか。今朝はゴミ出しなのだが、この寒い朝に起きだし、捨てに行くなんて無理だろうと昨夜のうちに判断した。正解だった。真夜中の寒さなど、早朝の凍えるような冷気には到底及ばない。時計を見ると六時十五分。部屋は昨晩タイマーをしたエアコンの暖気ですでに暖まっている。起床時間である六時半まで十五分ほど、布団の中で昨夜のことを思い出していた。
――佐々木さん、今ごろはどこか遠くの留置場で起きだす頃だろうか、「あれ、あったかい」とでもつぶやきながら。
「まあ、どんな形であれ生きてるだけましってことだな。亡くなったら善くも悪くもなれないから。そのひとのこと、もう悪くはいえないもんな。聖子のやったことは無駄じゃなかったんだ――ただ風呂に入れただけなのに、ああ書いてたから。おれも、まあ、顔面押し付けて悪いことしたな」
LINEで高志とそんな会話をした。
「ごめん、高志。ここのところ朝がしんどくて。少しでいいから覚醒させたいの。朝起きたとき、五分くらい話し相手になってくれない?」
秋も深まるころ、高志にそう頼んだ。実際には電話をかけると高志はまだ夢の中、というのが常だった。アラームでなくわたしの着信で起こすのも気が引けたが、仕方がない。それにかれの朝の身支度はずいぶんと手早いもので、わたしとのモーニングコールに付き合うのもさしたる負担でもないようだった。
わたしの朝は年を追うごとに重くなっているように感じる。高志とのモーニングコールがなければ起き上がることすらしづらくなってきたのだ。
昨夜はいろいろあった。凍死しそうな路上生活者――佐々木さんを拾い、湯に入れてあげ、気づいたら佐々木さんはいなくなっていた。
高志は夜のうちに自分のアパートへと帰り、わたしはコンビニ必要最低限の酒を買った。
『亡くなったら善くも悪くもなれない』か。どこかで聞いたな――横山里美だ。『亡くなった人はみんな、愛されるよね』。かの女もそういっていた。頬のそばかすがコンプレックスだった。通信制高校から四年制大学に上がって、続けられないと悲観していた。が、その具体的な理由は話してはくれなかった。でも――当面は大丈夫だろう。それより今は、布団から手も足も顔を出せない亀のような現況を打破すべきだ、そう結論し、しかしわたしだけではどうにもならないことに歯噛みする。
六時四十五分ごろ、途方もない努力の末に起きだす。黒のタートルネック、濃紺のスキニーフィットジーンズ、ダークブラウンのチェスターコートをまとう。講義に必要なテキスト類は夜のうちにすべてバックパックに準備してある。一応中身を検める。スヌードを巻き付け、手袋をはめる。気を引き締めていこう。クリスマスコンサート――第六十四回冬季定期演奏会まで、あとわずか。
朝食をコンビニで買い、理化学実験棟の高橋ゼミ準備室へ階段を上る。
「あ、ショウちゃん。おはよ」モスグリーンのふんわりしたニット、ギンガムチェックのスカート、臙脂色のタイツ、暖かそうな裏ボアのモッズコートで先にコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、横山さん」わたしがそういうと決まってかの女は「もう、里美かセシリアで呼んでっていってるのに」と頬を膨らませるのだ。年齢に見合わないところも可愛らしい。
「はいはい。それで、今日はなにするの?」わたしも笑いながら返す。
「なんだったっけかな、臨床分析と有機と免疫学と、あと、医療英語か。そんなもんだよ、二年の後期ってったって。ショウちゃんは?」
「こっちも似たような感じ。このあと生命計測で、有機と免疫学はいっしょのコマでしょ? その後は工学英語だから、ずいぶんと型にはまったカリキュラムだよね」
横山は「まあそうだよねえ」と相槌を打ちながら肩を撫でてくる。あの朝もこうして準備室で一緒だった――状況と環境と心境、わたしはこれら三要素で人は気持ちを構成されているとわたしはいったが、あのときのかの女は、(おそらくだが)心境の変化で自主退学をも考えるほどまでに悩んでいた。しかし目の前でおにぎり弁当を食べる横山は、本来の人懐っこさに戻ったように見える。
「大分ましになったみたいでよかったわ」準備室から講義棟へ並んで歩く。「内心、ひやひやしたけどね」とわたしはいう。
「ああ、あれはその、若さゆえってやつよ、ウェルテルみたいな」と、横山はカラータイツを突っ込んでいる辛子色のショートブーツを、わたしとは違う方へと向ける。「じゃ、またねえ」
「ええ、里美さんも」わたしは手を振る。
「え?」横山の顔の表情が停止する。「うち、なんかショウちゃんにいいことしたっけ?」
「いや、とくに何もしてないと思うよ。どうしたの?」
横山は口角を上げ、「ひひっ、ショウちゃんが名前で呼んでくれた、それも自発的に。うん、何か知らないけど好感度、ゲット! それじゃあ、また有機で、ね」
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