ハッピーレクイエム

煙 亜月

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IX 『ひとりよりふたりが良い』

082 公園

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八二 公園

 まさかとは思ったが、ふたりとも実験衣姿でこの日は練習に臨んだ。暑い。真冬とはいえ、目の詰まった実験衣を着ていてはさすがに熱がこもる。見れば横山もタオルハンカチで額を拭っている。目が合うとかの女は笑みを浮かべ、楽器と弓とを置いて実験衣を脱ぐ。わたしもそれに倣い、パイプ椅子の背もたれに実験衣をかける。

 最近では通しの練習がほとんどだ。
 冬季定演の前半の部のブラームス『大学祝典序曲』、ビゼー『カルメン』より抜粋、ベルリオーズの交響詩『フィンランディア』は、それぞれ超絶技巧を凝らした作品ではない。それより、後半のメーンであるベートーヴェンの交響曲第三番『英雄』へ、いかに体力を温存するかが焦点となるだろう。オーボエは息が余るので、ブレス(息継ぎ)ではまず大きく吐いてから吸う動作となる。さらに、アンブシュア(吹くときの唇の形)はリードを唇で口内へ巻き込むような形をキープするため、演奏時間の長い曲では疲れも強く、唇周辺に痙攣やしびれを起こすことだってある。予防法としては、日ごろから高い負荷を長い時間かけることだけだ。音楽家に天才はいない。技術習得に途方もない時間と労力、生活のすべてを費やした者のうち一部が賞を獲ったことで、初めてその才能が認められるだけだ。

 ステージの下で部長の田中とコンサートマスターの男子学生、学生指揮者の吉川、それに顧問が集まっている。
「よし、団員は注目」
 部長が手をメガホンのようにして、ステージ上、階段型教室、ほかバルコニーなどで練習している団員に呼びかける。団員が手を止め、楽器や弓、マレットを置く。
「ええ、このたび、わが団の第六四回冬季定期演奏会のパンフレットについてですが、スポンサーさんの広告枠が無事、すべて埋まりました。これで大きな負債を抱えることもなく演奏会を開催できます!」
「すばらしい。田中にしてはよくやった!」と吉川が頭の上で拍手をする。つられて団員も拍手し、「ほら、みんなも田中にしてはよくやったって思ってるよ。一杯奢ってやるってよ」吉川が茶化す。
「ま、まあ、なんにせよ、団員の諸君、あとは練習に没頭するだけだ。今まで通り、そう、今まで通り、今までで最高の演奏をよろしくお願いします!」田中が頭を下げ、拍手や足踏みが一気に強まる。

 この頃まで――といっても演奏会直前ではあるが――は、わたしも自らの死があんなのも近づいているとは感じていなかった。勉強があり、音楽があり、仲間があった。目標があり、進捗があり、生き甲斐があった。どういえばいいのだろう。充実していた頃が虚であったのか、それとも実だったのか。裏を返せば表があるのは知っていた。しかし演奏会のいよいよ直前、一週間前にすべてがひっくり返るとは、まだ知らなかったのだ。来るべき死というものへの予見ができなかった。それだけのことなのだろう。
 かれは鈴谷や瀬戸、ほかの団員とも談笑していたし、よもや数日後に恋人に一緒に死んでくれなどと懇願されることなども、やはり予見できなかったのだろう。もし予見できたとしたら――わからない。わたしにはわからない。人間にはあしたの心配なんてできないのだ。

『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。』。新約聖書マタイによる福音書六章三十四節。
 この言の通りなら、あした自分の身になにかがあるとしても、今から用意も準備もできないのだ。なにがあっても人間には覆しようのない、神の範疇なのだ、と。

 その練習からの帰り、街灯の多い道を歩く。コートの裾から、ブーツの爪先から手袋の指先から、どこからでも冬が押し入ってくる。帰ったら一番にお風呂に入ろう、そう決めて足早に歩く。家の近くにある公園――申し訳程度のベンチとブランコ、砂場があるだけの狭小な一画――に、ひとり、路上生活者の寝姿が見えた。見なかったことにするべきだ、いつも見えていなかったのだから――合理的な判断を即座に下す。だが、と歩調が緩む。果たしてあの人はこの寒さに耐えられるのか、わたしが見過ごしたせいで、もし凍死でもしてしまったらどうする。わたしは立ち止まって、注意深く(警戒しつつ)その路上生活者を観察する。まさか、死んではない――よね? 生唾が喉を下る。歩幅が狭く、呼吸が浅くなる。意を決し、半身でゆっくりと近づく。「あの――」接近すると匂いが強い。路上生活者は、生まれ故郷でも、この大学近辺や周辺の駅でも行政が積極的に排除し、また職を周旋しているのだ。こんな冬の公園になど、そうそういるものではない。「だ、大丈夫ですか? 寒く――」
「うああ!」その男は大声で喚いた。わたしはその場に尻もちをつく。ああ、だめだ、瞬時に自分の失策を悟る。「あ、あ、あんた――」男も地面にへたり込んで、じりじりと後退しながらいった。
「あ、あんた、区役所のひとですか?」

「――アル中だったんだ、俺。中学のころからね」路上生活者の男――佐々木と名乗った――は、いった。佐々木は歩きながら語った。
「それで、病院――精神科のね、まあそこから外泊中にやっちゃってさ(「お酒を?」と訊く)。ああ。ウィスキーひと瓶ぽっち。親に勘当されて、その、薬にも手を出してさ。二十代は警察と病院とを行ったり来たり。この前、お袋に三〇万渡されて、家を追い出された。今は失踪扱いになってるんだ。家も恰好だけ行方不明者届を出してる。もう少しで届の期限が切れる。だから警察とか、役所に見つかるとまずいんだよ。今度こそ病院に入れられて、出たら出たで就労支援という名の重労働。なのに、あ、あんた――ちょっと、なあ」
 わたしは佐々木の繰り言は意に介せず、自分のアパートの四階までを上る。
「とりあえず入って。一応、彼氏がいるから痕跡は残さないで。お風呂とご飯しか出せないし、朝にはわたしより先に出てってもらうけど、警察に突き出すよりはましでしょ?」
「な、なんで」
「なんで、って? わたし、そういうのが放っておけないの」
 佐々木は急に無言になる。わたしは家の鍵を開ける。
「お、おじゃまします――」
「高志」
 かれがリビングでテレビを見ていた。
「聖子――だれ、その、ホームレス」

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