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Ⅳ「リセット」
036 虚勢
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三六 虚勢
肌を焦がすような陽光を浴びながら、倒れた准教授を搬送する救急車を見送る。平松は外のベンチでぐったりと煙草を吸っていた(汗も流れるままにしており、かれの指先の震えも焦点の定まらぬ視線も、まったく平松らしくなかった)。周りじゅうの学生という学生が騒いでいる。わたしはほぼ反射的にジーンズのポケットから自分のハンカチを差し出す。平松は受け取ったハンカチをぜんぶ広げて顔の汗をぬぐい、「洗って返すわ」とまだまだ噴き出す汗を拭いた。
「平松」
「車の免許取るときに一回習っただけ。くそ、ああもう、疲れた。ごめん、コーラ買ってきて」と頼まれ、いわれた通りにする。ペットボトルのコーラを開け、一口二口飲んで盛大にげっぷをする。「あ、すまん」と、初めて笑った。つられてわたしも吹きだし、そうしたら涙が出てきた。ポケットのハンカチを出しかけて目の前の男が使っていることに気づく。
「いいよ」平松は自分のハンカチを取りだし、渡そうとする。少しためらったが受け取り、目元を拭う。
「洗って返す」わたしはかれのハンカチで涙を拭きながら、なにをやっているのだろうと思った。
「化粧、落ちたな」と平松がいう。「いや、その、珍しく化粧してんなあって思ったから」
やはり講義の際、わたしの顔を観察していたのだ。しかし不思議と悪い気はしなかった。常識も良識もない、ただの馬鹿だと思っていたが、実際はそうでもないのかもしれない。むしろ、わたしがわたし自身に心地よい、あるいは興味のある事がら以外すべてを低く見て、今、この男を(わたしが新たに認めたなんらかの価値基準によって)評価し始めたのだろうか。
「そんなにわたしの顔見てたの?」
「やっぱり(大きなげっぷをする)、顔がいいから」との答えが返る。
「遅刻は確定、か」と、平松は北欧風の腕時計を見てつぶやく。次も同じ講義なのでふたりで並んで歩いていた。走る元気などはない。
「でも、救済措置は必要だと思うけどね」わたしもカシオの安物を見ていう。
「だな」と、疲れた声で返し「お前のハンカチいい匂いするね」と結んだ。
「平松」
「はい?」
「わたしのこと『お前』っていうなら、そのハンカチ捨てて」
「あ、ああ、ごめん」と答えた笑い声も尻つぼみにしおらしくなった。その様子があまりにおかしくて笑った。
「なんでそんなに簡単に心が折れちゃうの?」
「だって、好きだもん」
「子どもか」平松がおかしくてわたしは笑った。
「なんか、聖子、よく笑えますよねって感じ」
「え?」
「あの先生、たぶん心筋梗塞か、重い狭心症。カウンターショックも何度か動いたし、助かっても完全復帰は、微妙」講義室前のベンチにたどり着き、定刻を過ぎていたが、かれは煙草を取り出す。
「ああ、あなた真面目ね」というと、
「当たり前だろうが!」といきなり怒鳴り、ただちに「ご、ごめん」と謝る。「それになにかあったらおれの過失も問われかねない」
「それはないよ」とわたしは風上に移動しながら、座った平松にいう。
「第一に――緊急事務管理って知ってる?(平松は無反応なので続ける)日本の民法にあるんだけど、アメリカやカナダでのよきサマリア人の法に似ている、とみなされています。簡単にいうと人命救助、つまり、さっきみたいな善意による救命措置なんだけど、それで損害あった場合の賠償責任は免除されるかもしれない、という法律よ。よほど重大な過失や悪意がない限りね」平松はぽかんと開けた口をいったん結び、そして「ごめん、もう一回いって」と呆けた返事をするので再度、平易な言葉で説明した。
「なんでそんなこと知ってんの?」と訊かれる。
「続けます。第二に、あの救命措置は重過失も悪意もないのは自明よ。さらにいえば二〇年近く前に厚労省が同じ内容で通知を出したし。それでもなおあなたの過失を問うなら、社会的通念と法律との間で途方もないギャップが生じるわ」
わたしは続けた。
「最後に、あなたの正当性はわたしが立証する。わたしでなくとも、あそこにいた全員が。もちろん、動画撮ってた馬鹿どももね」平松はやはり口を開いたままだ。
「そういう訳で、わたしはあなたを尊敬します、以上。遅刻でもなんでもいいから、早く入ろう」
わたしはかれを最大限に称え、講義室の戸を開けた。
その日かれはどの講義室へ行っても英雄扱いで、どこで煙草を取り出そうとたちまちライターを差し出すお調子者たちに囲まれていた。遠巻きに見ていたが、人だかりのなか、かれ自身もヒーローにでもなったかのような様相だった。
「いや、訳わかんないんだ、だけど体が勝手に動くんだよ。でもどっちみちおれが動かなきゃいけなかったし、あの場では」と、かれもずっと浮かれ騒いでいた。
やはり、この男はとてもシンプルにできているのかもしれない。その見立てはおおむね正解のように思えた。一日浮かれていたかれを見れば、だれもがその単純さを自身に印象付けるだろう、それらのすべてが虚勢だと見抜けなければ。
肌を焦がすような陽光を浴びながら、倒れた准教授を搬送する救急車を見送る。平松は外のベンチでぐったりと煙草を吸っていた(汗も流れるままにしており、かれの指先の震えも焦点の定まらぬ視線も、まったく平松らしくなかった)。周りじゅうの学生という学生が騒いでいる。わたしはほぼ反射的にジーンズのポケットから自分のハンカチを差し出す。平松は受け取ったハンカチをぜんぶ広げて顔の汗をぬぐい、「洗って返すわ」とまだまだ噴き出す汗を拭いた。
「平松」
「車の免許取るときに一回習っただけ。くそ、ああもう、疲れた。ごめん、コーラ買ってきて」と頼まれ、いわれた通りにする。ペットボトルのコーラを開け、一口二口飲んで盛大にげっぷをする。「あ、すまん」と、初めて笑った。つられてわたしも吹きだし、そうしたら涙が出てきた。ポケットのハンカチを出しかけて目の前の男が使っていることに気づく。
「いいよ」平松は自分のハンカチを取りだし、渡そうとする。少しためらったが受け取り、目元を拭う。
「洗って返す」わたしはかれのハンカチで涙を拭きながら、なにをやっているのだろうと思った。
「化粧、落ちたな」と平松がいう。「いや、その、珍しく化粧してんなあって思ったから」
やはり講義の際、わたしの顔を観察していたのだ。しかし不思議と悪い気はしなかった。常識も良識もない、ただの馬鹿だと思っていたが、実際はそうでもないのかもしれない。むしろ、わたしがわたし自身に心地よい、あるいは興味のある事がら以外すべてを低く見て、今、この男を(わたしが新たに認めたなんらかの価値基準によって)評価し始めたのだろうか。
「そんなにわたしの顔見てたの?」
「やっぱり(大きなげっぷをする)、顔がいいから」との答えが返る。
「遅刻は確定、か」と、平松は北欧風の腕時計を見てつぶやく。次も同じ講義なのでふたりで並んで歩いていた。走る元気などはない。
「でも、救済措置は必要だと思うけどね」わたしもカシオの安物を見ていう。
「だな」と、疲れた声で返し「お前のハンカチいい匂いするね」と結んだ。
「平松」
「はい?」
「わたしのこと『お前』っていうなら、そのハンカチ捨てて」
「あ、ああ、ごめん」と答えた笑い声も尻つぼみにしおらしくなった。その様子があまりにおかしくて笑った。
「なんでそんなに簡単に心が折れちゃうの?」
「だって、好きだもん」
「子どもか」平松がおかしくてわたしは笑った。
「なんか、聖子、よく笑えますよねって感じ」
「え?」
「あの先生、たぶん心筋梗塞か、重い狭心症。カウンターショックも何度か動いたし、助かっても完全復帰は、微妙」講義室前のベンチにたどり着き、定刻を過ぎていたが、かれは煙草を取り出す。
「ああ、あなた真面目ね」というと、
「当たり前だろうが!」といきなり怒鳴り、ただちに「ご、ごめん」と謝る。「それになにかあったらおれの過失も問われかねない」
「それはないよ」とわたしは風上に移動しながら、座った平松にいう。
「第一に――緊急事務管理って知ってる?(平松は無反応なので続ける)日本の民法にあるんだけど、アメリカやカナダでのよきサマリア人の法に似ている、とみなされています。簡単にいうと人命救助、つまり、さっきみたいな善意による救命措置なんだけど、それで損害あった場合の賠償責任は免除されるかもしれない、という法律よ。よほど重大な過失や悪意がない限りね」平松はぽかんと開けた口をいったん結び、そして「ごめん、もう一回いって」と呆けた返事をするので再度、平易な言葉で説明した。
「なんでそんなこと知ってんの?」と訊かれる。
「続けます。第二に、あの救命措置は重過失も悪意もないのは自明よ。さらにいえば二〇年近く前に厚労省が同じ内容で通知を出したし。それでもなおあなたの過失を問うなら、社会的通念と法律との間で途方もないギャップが生じるわ」
わたしは続けた。
「最後に、あなたの正当性はわたしが立証する。わたしでなくとも、あそこにいた全員が。もちろん、動画撮ってた馬鹿どももね」平松はやはり口を開いたままだ。
「そういう訳で、わたしはあなたを尊敬します、以上。遅刻でもなんでもいいから、早く入ろう」
わたしはかれを最大限に称え、講義室の戸を開けた。
その日かれはどの講義室へ行っても英雄扱いで、どこで煙草を取り出そうとたちまちライターを差し出すお調子者たちに囲まれていた。遠巻きに見ていたが、人だかりのなか、かれ自身もヒーローにでもなったかのような様相だった。
「いや、訳わかんないんだ、だけど体が勝手に動くんだよ。でもどっちみちおれが動かなきゃいけなかったし、あの場では」と、かれもずっと浮かれ騒いでいた。
やはり、この男はとてもシンプルにできているのかもしれない。その見立てはおおむね正解のように思えた。一日浮かれていたかれを見れば、だれもがその単純さを自身に印象付けるだろう、それらのすべてが虚勢だと見抜けなければ。
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