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Ⅳ「リセット」
031 憤懣
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三一 憤懣
やはり十八時ごろ、大講堂へ向かう。
パートリーダーの吉川がわたしのことを顧問に伝達したようだった。オーボエを専科とする奏者もいなかったため、そのままオーボエの首席奏者として入団した。正規の団員であって、ゲスト奏者ではないのだ。わたしは機能しなくてはならない。しかし、リードの調子がいまいちだな、と練習開始からすぐに責任転嫁をする。ロングトーンも安定せず、ぶれる。リードだ、そのせいで譜面に集中できないのだ。
しかし、わたしの施すオーボエの調整はいつも完璧なのだ。奏者であるわたし個人に問題があるのは、自明。でも調子が狂うほど嫌なことがあった、ともいい切れないし、まったくなかったとも断言できない。
自分のパート――シングル・ダブルリードは大講堂の外、強い西日からは日陰になり、風通しの良い場所で練習をしていた(大講堂内は弦楽器群に場所を取られていた)。パートリーダーの吉川が「朝野、どうした? 調子悪そうだな」と指摘し、「ああ、はいはい。また平松か。ちょっかい出されたんだろ?」と悪戯っぽく平松をにらんだ。「なんでわかったん?」と平松がいうと、「ほらきた。事実確認できてないのに、あたかもセクハラしたようにいうのはやめな。まあ、どうせしたんだろうけど」と結論した。
わたしは無言でオーボエを検め、ひとりで指の練習をする。クラリネットの鈴谷もセカンドバスーンの瀬戸も黙っている。無視ではない。無言なだけだ。少なくともこの場に限っては。
「聖子、本当になにもないんだな?」と吉川。
わたしは黙ったままなので、吉川は仕方ないとばかりに舌打ちし、「鈴谷、メト六十六にして。十六分できれいに切ってタンギング。揃うまで」といい、鈴谷はメトロノーム速度を分速六十六拍にする(一分間に六十六回刻むメトロノームに合わせ、さらにその一回を四分割して発音し、パートでぴったり揃わせる練習だ)。吉川はバスーンを構えた。
「オッケー、一〇分休憩」吉川がいいながら、大講堂の両開きの扉を左右とも開け、「あたしの時計で一〇分したら、合わせ!」と中へと叫んだ。
リード楽器やフルート、金管なども大講堂へ集まり、汗を拭いたり麦茶を飲んだりして涼んでいた。室内へ入ってほどなく、わたしは薄手のパーカーを羽織った。エアコン、効きすぎだな。
「オッケー、一〇分だよ、全体合わせ!」と吉川がまたも叫ぶ。デニムのショートパンツにすらりと伸びる脚、半袖のぴったりしたカッターシャツを着たかの女は俊敏にステージに跳びあがる。「ほらほら、早く」と若干の苛立ちのようなものも感じさせる声で団員をせき立てた。
全員がステージに上がり、席に着く。
今日は部長や会計、その他事務の部員も来ていた。吉川はずっと手の指を揉んだり息を吹きかけたりしていた。「さらっと一回通すよ。録音いい?」と大講堂の階段状教室の真ん中あたりに陣取る事務の部員に声を飛ばす(すでにパソコンに直挿ししたダイナミックマイク、ビデオカメラは設置され、いつでもレコーディングができる態勢だった)
「オッケー、わかってると思うけど、緊張してもいいからな。むしろ緊張に慣れよう、とくに一年生。ここだけの話、本番は失敗してもごまかしちゃえ。雰囲気でどうとでもなる。本番はどうなっても仕方ないんだからさ。でも練習では常に一二〇%でお願いね。この団にまぐれとまさかは存在しない。だから今は失敗して大いに結構。プレッシャーも反復練習で慣れてくから、大丈夫」
吉川がわたしにうなずき、目で合図する(録音と録画が始まるほんの小さな音がする)。いつものA音。ちょうどピアノで「ラ」、つまりA音を弾くような、だれが出しても同じ音が出る、そう思わせるようなA音。倍音構成ふくよかな音に聴衆が酔いしれるさまをイメージする。
チューニングが団員全体に広がり、やがて音がやむ。吉川は再び菜箸を構え、振り下ろす。吉川はいいぞ、と笑顔で指揮を執る。
簡単でこっけいな曲であった。フルートから渡されたフレーズを、オーボエのわたしがシルキーに奏でてゆく。そのまま吉川の菜箸が示す通り、木琴のマリンバがころころと転がるように拾って、弦楽器群が一気に広げてゆく。大きな海流のように斉奏は広がりコーダに入ると、吉川の菜箸がぴた、とひと時止まる。一瞬の静寂ののち、菜箸を上へ掲げ、ハンマーのように連続して振り下ろす。三度目、振り下ろすと菜箸は小刻みに揺れながらうねるようにオーケストラを扇動し、最後の鋭いアタックで止まる。
「いいね。いいと思う。だけどなんか違うんだよなあ、ボウイング、そろそろ揃えてくれないかなあ」汗みずくの団員に向かって菜箸で譜面台をかんかんと叩く。
「ひとり間違うただけやん」と鈴谷が口の中で抗議する。
「それから、チェロ、弦バス、生きてんの? 存在してんの?(注意された団員は無言である)フルートとかその辺、もうちょっと楽しく吹こう、武満じゃないんだからさ。あとマリンバ、トライアングル、クラベス、このあたり元気出して。コンマス、ちょっとあたしと交替。あとオーボエ、こっち来て。録音止めて!」
指名され、吉川に従って中央の階段からステージを下りる。徐々にざわめき始める団員を尻目に、吉川に連れられ外へ出る。
「(舌打ちをする)煙草吸いたくなるわ。一本いい?」と外に出て吉川が訊くので、「だめっていったらどうします?」とさらに尋ねると「それでも吸う」と火を点けたので、風上に移動して、燻されながら吉川の苛立ちが治まるのを待った。
二本目に火を点けようとするので「あの、吉川先輩」と声をかける。「ああ、なんだっけ?(吉川は舌打ちをする)聖子、平松とほんとになんにもないんだな? あんた、今日ふわふわしてるぞ」
わたしはやや考える(それよりも吉川の苛立ちのほうが心配になる)。とくになにも、と答えた。「そうなの?」と吉川はいい「噂によると」といって灰をそこら辺へ落とす。「平松の馬鹿、あんたのこと好きって公言しておいて、いった先から口止めするとか、あほ丸出しだから。聖子も気をつけなよ」といい、「いずれあたしも関係なくなるけどね」と結論して盛大に煙を吐き出し(ああ、美人がもったいない、とわたしは場違いに思う)、「戻るぞ!」と扉を両手で押し開け、「私語、やめ!」とがなりながら中へと入った。
その後の吉川は時折咳き込みながら(明らかに煙草の吸いすぎだ)、団員を叱咤した。今日はずっと苛立っているようにも感じられた。ノートパソコンは途中でディスプレイが閉じられたし、結局この日は一度しか通すことなく、吉川はミスだけを指摘し続けた。
やはり十八時ごろ、大講堂へ向かう。
パートリーダーの吉川がわたしのことを顧問に伝達したようだった。オーボエを専科とする奏者もいなかったため、そのままオーボエの首席奏者として入団した。正規の団員であって、ゲスト奏者ではないのだ。わたしは機能しなくてはならない。しかし、リードの調子がいまいちだな、と練習開始からすぐに責任転嫁をする。ロングトーンも安定せず、ぶれる。リードだ、そのせいで譜面に集中できないのだ。
しかし、わたしの施すオーボエの調整はいつも完璧なのだ。奏者であるわたし個人に問題があるのは、自明。でも調子が狂うほど嫌なことがあった、ともいい切れないし、まったくなかったとも断言できない。
自分のパート――シングル・ダブルリードは大講堂の外、強い西日からは日陰になり、風通しの良い場所で練習をしていた(大講堂内は弦楽器群に場所を取られていた)。パートリーダーの吉川が「朝野、どうした? 調子悪そうだな」と指摘し、「ああ、はいはい。また平松か。ちょっかい出されたんだろ?」と悪戯っぽく平松をにらんだ。「なんでわかったん?」と平松がいうと、「ほらきた。事実確認できてないのに、あたかもセクハラしたようにいうのはやめな。まあ、どうせしたんだろうけど」と結論した。
わたしは無言でオーボエを検め、ひとりで指の練習をする。クラリネットの鈴谷もセカンドバスーンの瀬戸も黙っている。無視ではない。無言なだけだ。少なくともこの場に限っては。
「聖子、本当になにもないんだな?」と吉川。
わたしは黙ったままなので、吉川は仕方ないとばかりに舌打ちし、「鈴谷、メト六十六にして。十六分できれいに切ってタンギング。揃うまで」といい、鈴谷はメトロノーム速度を分速六十六拍にする(一分間に六十六回刻むメトロノームに合わせ、さらにその一回を四分割して発音し、パートでぴったり揃わせる練習だ)。吉川はバスーンを構えた。
「オッケー、一〇分休憩」吉川がいいながら、大講堂の両開きの扉を左右とも開け、「あたしの時計で一〇分したら、合わせ!」と中へと叫んだ。
リード楽器やフルート、金管なども大講堂へ集まり、汗を拭いたり麦茶を飲んだりして涼んでいた。室内へ入ってほどなく、わたしは薄手のパーカーを羽織った。エアコン、効きすぎだな。
「オッケー、一〇分だよ、全体合わせ!」と吉川がまたも叫ぶ。デニムのショートパンツにすらりと伸びる脚、半袖のぴったりしたカッターシャツを着たかの女は俊敏にステージに跳びあがる。「ほらほら、早く」と若干の苛立ちのようなものも感じさせる声で団員をせき立てた。
全員がステージに上がり、席に着く。
今日は部長や会計、その他事務の部員も来ていた。吉川はずっと手の指を揉んだり息を吹きかけたりしていた。「さらっと一回通すよ。録音いい?」と大講堂の階段状教室の真ん中あたりに陣取る事務の部員に声を飛ばす(すでにパソコンに直挿ししたダイナミックマイク、ビデオカメラは設置され、いつでもレコーディングができる態勢だった)
「オッケー、わかってると思うけど、緊張してもいいからな。むしろ緊張に慣れよう、とくに一年生。ここだけの話、本番は失敗してもごまかしちゃえ。雰囲気でどうとでもなる。本番はどうなっても仕方ないんだからさ。でも練習では常に一二〇%でお願いね。この団にまぐれとまさかは存在しない。だから今は失敗して大いに結構。プレッシャーも反復練習で慣れてくから、大丈夫」
吉川がわたしにうなずき、目で合図する(録音と録画が始まるほんの小さな音がする)。いつものA音。ちょうどピアノで「ラ」、つまりA音を弾くような、だれが出しても同じ音が出る、そう思わせるようなA音。倍音構成ふくよかな音に聴衆が酔いしれるさまをイメージする。
チューニングが団員全体に広がり、やがて音がやむ。吉川は再び菜箸を構え、振り下ろす。吉川はいいぞ、と笑顔で指揮を執る。
簡単でこっけいな曲であった。フルートから渡されたフレーズを、オーボエのわたしがシルキーに奏でてゆく。そのまま吉川の菜箸が示す通り、木琴のマリンバがころころと転がるように拾って、弦楽器群が一気に広げてゆく。大きな海流のように斉奏は広がりコーダに入ると、吉川の菜箸がぴた、とひと時止まる。一瞬の静寂ののち、菜箸を上へ掲げ、ハンマーのように連続して振り下ろす。三度目、振り下ろすと菜箸は小刻みに揺れながらうねるようにオーケストラを扇動し、最後の鋭いアタックで止まる。
「いいね。いいと思う。だけどなんか違うんだよなあ、ボウイング、そろそろ揃えてくれないかなあ」汗みずくの団員に向かって菜箸で譜面台をかんかんと叩く。
「ひとり間違うただけやん」と鈴谷が口の中で抗議する。
「それから、チェロ、弦バス、生きてんの? 存在してんの?(注意された団員は無言である)フルートとかその辺、もうちょっと楽しく吹こう、武満じゃないんだからさ。あとマリンバ、トライアングル、クラベス、このあたり元気出して。コンマス、ちょっとあたしと交替。あとオーボエ、こっち来て。録音止めて!」
指名され、吉川に従って中央の階段からステージを下りる。徐々にざわめき始める団員を尻目に、吉川に連れられ外へ出る。
「(舌打ちをする)煙草吸いたくなるわ。一本いい?」と外に出て吉川が訊くので、「だめっていったらどうします?」とさらに尋ねると「それでも吸う」と火を点けたので、風上に移動して、燻されながら吉川の苛立ちが治まるのを待った。
二本目に火を点けようとするので「あの、吉川先輩」と声をかける。「ああ、なんだっけ?(吉川は舌打ちをする)聖子、平松とほんとになんにもないんだな? あんた、今日ふわふわしてるぞ」
わたしはやや考える(それよりも吉川の苛立ちのほうが心配になる)。とくになにも、と答えた。「そうなの?」と吉川はいい「噂によると」といって灰をそこら辺へ落とす。「平松の馬鹿、あんたのこと好きって公言しておいて、いった先から口止めするとか、あほ丸出しだから。聖子も気をつけなよ」といい、「いずれあたしも関係なくなるけどね」と結論して盛大に煙を吐き出し(ああ、美人がもったいない、とわたしは場違いに思う)、「戻るぞ!」と扉を両手で押し開け、「私語、やめ!」とがなりながら中へと入った。
その後の吉川は時折咳き込みながら(明らかに煙草の吸いすぎだ)、団員を叱咤した。今日はずっと苛立っているようにも感じられた。ノートパソコンは途中でディスプレイが閉じられたし、結局この日は一度しか通すことなく、吉川はミスだけを指摘し続けた。
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