ハッピーレクイエム

煙 亜月

文字の大きさ
上 下
22 / 96
III disgusting

022 楽器

しおりを挟む
二二 楽器

 講義を終えて、図書館での自習を早めに切り上げる。帰りにディスカウントストアで買った惣菜を持ってアパートの階段を上がる。買ったばかりの焼き餃子のにおいが食欲へ強烈に働きかける。父も餃子が好物だった。母が父のためによく作っていたので、わたしも自然と好むようになった。
「一応、荷物は受け取るよ。でもね」

 わたし、重荷はもういいの。

 狭い部屋の真ん中に置かれた座卓で目を開けたまま祈り、温めた惣菜や冷凍ご飯を食べているとドアホンが鳴る。テレビ代わりのパソコンが表示している時刻を確かめる。指定した時間ちょうどに再配達が来たようだ。冷蔵庫にマグネットでとめたネーム印を取り、息を殺してスコープをのぞく。いったんチェーンをつけたまま解錠してドアを開けると配達員が重そうに荷物を抱えていた。ドアチェーンを外し、配達員に礼をいって荷物を受け取る。その段ボールの箱はずしりと重く、わたしの腕力では座卓の脇に置くだけで精一杯だった。腰をやられるところだった。息を整え、しばらく開梱をためらう。宛名書きの母の字に図らずもなつかしさを覚えるが、即座に気のせいだと結論して手を洗い、食事を続ける。箸を運びながらも、ちらりちらりと段ボール箱に視線が向かってしまう。
「ちょっと待っててね」
 温めた餃子のパックに一度蓋をして、荷物を開けるために座卓を少し隅にずらす(夕飯も台所の調理台へ避難させる)。ペン立てから取った鋏を開いて片刃を使い、ガムテープに切れ目を入れ、中を検める。アパートには持ってこなかった品々――被服や缶詰や、アルファ米といった保存食、無洗米、それから楽譜と、ビニール袋で密閉されたうえ、緩衝材で丁寧に包まれたオーボエの黒いケース、中学高校と使ってきたリードケース、聖書、現金が三万円入った封筒、それとは別な封筒に短い手紙と白い小さな紙箱があった。なるほど重くなるわけだ。手紙の結びには「いつもの楽器屋さんで買ってきました。お使いください」とあり、白い箱を開けてみると、すぐにでも吹ける完成リードがパッケージで入っていた。
 半ば自動的にコップに水道水を注ぎ、五本あった完成リードをすべて入れて水分を含ませる。座卓に置いたオーボエとリードのコップに対峙する。
 音楽なんて、悪い思い出しかないのに。ただ、母と父の思いを無下にはできないから、と自分の好奇心を抑えられない釈明をする。
 オーボエ本体はいくら良い木材であっても、三年もノーメンテで経年しているのだ。管体への油脂分も欠乏し、保管場所によってはクラックが入っていてもおかしくはない。まずは管体の外観、そして内部を入念に点検した。致命的な異常はないように思えた。手早く歯を磨き、口もとをぬぐう。
 コップに浸漬した五本のリードのうち、一番良いものを選び、口にくわえる。舌先にある感覚が懐かしいのかなんなのか分からなくなる。このまま噛みちぎっても、あるいはオーボエ本体をへし折ってもだれも咎めようもない。ふと、そんな考えが浮かぶ。みぞおちの痛みを感じた。
 このメーカーの完成リードは評判も高い。高価なものだ。だが、母の思いは汲みきれない。あれだけ娘の心を乱した(一時期は不登校にもなりかけた)音楽へ、また進んでゆけというのか。リードだけで発音してみる。直線的できりっとした音に戸惑った。お前はそうまでして楽器を吹きたいのか、と。
 パソコンの時計をまた確認し、オーボエの上管、下管、ベルを組む。もう時間も遅いし。この安アパートの壁も薄い。しかし少しだけなら音が出てしまってもいいだろう。リードを取り付けた楽器がわたしという奏者の手にあった。ストラップを通し、姿見の前で構える。左手は正確に第二オクターブのラ――ドイツ表記でA音の運指をして、息を吹き込むためにすっ、とブレスをする。
 A音は鳴った。眠らせておいた楽器も、三年のブランクはたしかに感じられたが、かつてわたしがこの楽器を馴致していた事実に変わりもなかった。楽器を構え、奏者として立つ。それがどれほど素晴らしく、どれほど怖いかをわたしは理解していた。
 十五分ほど経ったろうか、隣人に壁を正確なリズムで五回叩かれ、わたしは楽器をしまう。座卓の上に柔らかなクロスを敷き、一緒に送られてきたキィオイルや精密ドライバーでできる限りのメンテナンスを施す。楽器をケースにしまい、餃子の存在を思い出す。
「冷めたな」
 温めなおした夕食を摂り、シャワーを浴び、ベッドへもぐりこむ。入眠はしづらかった。ベッドのヘッドボードのライトをつけ、聖書を適当に開いて読む。『神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた』。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

六華 snow crystal 5

なごみ
現代文学
雪の街、札幌を舞台にした医療系純愛小説。part 5 沖縄で娘を産んだ有紀が札幌に戻ってきた。娘の名前は美冬。 雪のかけらみたいに綺麗な子。 修二さんにひと目でいいから見せてあげたいな。だけどそれは、許されないことだよね。

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

変態紳士 白嘉の価値観

変態紳士 白嘉(HAKKA)
現代文学
変態紳士 白嘉の価値観について、語りたいと思います。

花束のような日々

相沢 朋美
現代文学
投げやりな気持ちで外に出た派遣社員の奈美は、会社近くのカフェである女性と出会う。大学生の聖夏は、失恋して泣く若い女性にギターで弾き語りをした。小学6年生の恭子のクラスでは、女子だけを図書館に集めて話し合いが行われる……。様々な登場人物の日常を綴った短編集。

スルドの声(交響) primeira desejo

桜のはなびら
現代文学
小柄な体型に地味な見た目。趣味もない。そんな目立たない少女は、心に少しだけ鬱屈した思いを抱えて生きてきた。 高校生になっても始めたのはバイトだけで、それ以外は変わり映えのない日々。 ある日の出会いが、彼女のそんな生活を一変させた。 出会ったのは、スルド。 サンバのパレードで打楽器隊が使用する打楽器の中でも特に大きな音を轟かせる大太鼓。 姉のこと。 両親のこと。 自分の名前。 生まれた時から自分と共にあったそれらへの想いを、少女はスルドの音に乗せて解き放つ。 ※表紙はaiで作成しました。イメージです。実際のスルドはもっと高さのある大太鼓です。

Ms.Aug. 雲と火の日記(Dec.2024)

弘生
現代文学
どんな時でも空が在るもの 何があっても空は在り続けるもの 希望を与えてくれるのも空 虚しさを教えてくれるのも空 どうにもなんでも見あげてしまう

【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜

鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。 誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。 幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。 ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。 一人の客人をもてなしたのだ。 その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。 【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。 彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。 そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。 そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。 やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。 ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、 「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。 学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。 ☆第2部完結しました☆

思い出の日記

福子
現代文学
『魔法のiらんど大賞第1回:2007年度ジャンル賞:純文学』受賞作品。2010年には、読売新聞地方版でも紹介されました。 命とは? 生きるとは? 家猫・健太と野良猫・クロが織り成す、幸せとは何かを探す、命の物語。 『お前、幸せか?』

処理中です...