ハッピーレクイエム

煙 亜月

文字の大きさ
19 / 96
II Con amore è per te

019 不帰

しおりを挟む
一九 不帰

 約束。
「それでね、神様は死んでいいひとしか死なせないの」
 ――ちょっと聖子、まだ酒浸り? と電話が気遣う。
「だから高志もあの日、よく生きるべき日と、ほらあの、よく死ぬべき日が約束どおりにきて、きっとよかったんだと思うの」
 ――ていうか、あんた、休学してるでしょ? 一体どうすんの? 電話は語気をやや強める。
「わたしも、いつか死んで、でも正しく死なないと高志のところには行けないのかも。でもね、もうそういうのはどうでもいいの。なんていうか、もう、どうでもいいのよ」
 ――聖子、アパート? 今から行くからどこにも行かずに待ってて、と電話がまくしたてたので、
「うるさい! わたしは! わたしがどこへ行くかは主が決められる!」と断言し、力任せにスマホを窓へ投げつけた。窓は大きな音を立てて割れた。
 わたしは落ち着いている。とても落ち着いていて、寒風の入る部屋を眺めている。ここに高志はいた。でも今はいない。この先ずっと、永遠にいない。
 ここのところカーテンは常に開け放しで照明もつけず、パソコンの液晶画面を除くほか、青い街灯に照らされているだけのワンルームだった。部屋に冬の風が入り込む。それは寒いとか、悲しいとか、痛いとか、生きるとか、死ぬとか、わたしがそういうことを気にしない存在になったことを、ただ思い起こさせただけだった。
「だって、高志はもういないんだよ」

 投げつけたスマホは冬の窓を破った挙句、ベランダか道路にでも落ちたのだろう。あんなくだらないものでも、思い切り投げればアルミサッシのガラス窓程度は割ってしまえるのだ。好都合だった。わたしはだれとも話したくなかったし、メールも来てほしくない。つまるところスマホを一切操作したくなかったのだ。電話もいらない。高志とはつながらないから。LINEもいらない。高志はもう、死んでいるから。

 電話口で吉川が闇に向かってなにか話しているかもしれない(スマホが壊れていなければ、の話だが)。かの女にはオーケストラでも、個人としても、世話になりっぱなしだった。不義理なことをしたと、今になってはそう思う(しかし、こうしてカーテンも引かれていない窓を割ったことで、わたしは自身の命を長らえさせる要因を作ったのだが)。

 パソコンでバウアー作曲『オーボエとクラリネットのための二重奏』の音源を流す。あの日、かれが置いていった楽譜を本棚から取り出して見つめる。その楽譜にはかれの汚い字でたくさんの書き込みがあった。アモロザメンテ、愛情をこめて。コン・アモーレ、愛情をもって。アモローゾ、愛情豊かに。最終楽章、最後の和音。これは——手書きだ。高志の字だ。コン・アモーレ・ペル・テ――この愛を君に

「う、ううう! あああ!」
 どんなに悔やんでも、
 唸りながら居室から風呂場、調理場、玄関と部屋じゅうを四つ這いになって這いずりまわる。
 どんなに改めても、
 かれの煙草、整髪料、歯ブラシ、サンダル、その他かれの痕跡となる品々を集め、ラグの上に証拠品のように整列させる。
 どんなに愛しても、
 照明をつけ、順番に色かたちをしげしげと見て回り、ひとつずつにおいを嗅ぐ。とくにサンダルはかれの匂いに近かった。サンダルを嗅ぐ。嗅いで、嗅いで、嗅ぎ続ける。
 今さら、絶対に、かれは帰ってこない。
 わたしの人生は、かれに初めて息吹を吹き込まれたといえた。この品々はわたしたちの思い出ばかりだ。――違う。思い出なんかじゃない。高志はまだ生きている。この胸に高志が脈打っている。あの夏の日々に戻りたい。スマホを投げて割れたガラスから冬が、冬の厳しい寒さが断罪するように流れ込む。雪が部屋の中を舞っている。冬の夜風はわたしを不幸な気分にさせた。夏が好きだ。かれが好きだ。かれもわたしも寒がりだ。冬なんて、いやだ。

 窓が割れているのだ、それも大きく。さらに外の雪も舞い込んでいる。すぐに寒さに耐えかねたわたしは酒を飲むことにした。
 高志を失った後、蒸留酒を覚えた。体が酎ハイ程度にしか慣れておらず、かつもともと酒に弱いこともあり、短時間で酔えて都合がよかった。
 ウィスキーをらっぱ飲みし、喉の奥から胃袋までを酒が焼灼する感覚に心地よさを覚える。ただちに強い吐き気に見舞われた。嘔吐を我慢していたら頭痛を覚え(胸やけによるものかもしれないが)、鎮痛薬を飲む。吐き気と同時にすこしふわふわとする感覚があって、酒をもうひと口、ふた口と飲んだら、さらに浮揚感が増した。それは天上的に心地よく、自分は酒に溺れているのだと気づく。聖書では酔いしれてはならない、とある。人を救うための聖書なら、高志をも救えたはずなのに、わたしを救う余地はない。それは唯一断言できる。だから、人を救うための聖書は、わたしには意味も必要もない。
 次に精神科で処方された抗不安薬や睡眠導入剤をすべて座卓に出し、そのすべてを飲む。必要があったからだ。そうだ、必要があるのだ。強い不安があり、それに耐えかねてさっさと寝てしまいたかったのだ。
 この程度の量がいわゆるオーバードーズ、薬物の大量摂取にはちっともならないはずだ。トイレに向かうまで、その自覚はつゆほどなかった。鎮痛薬、向精神薬と風邪薬、ほかに胃薬も酒で飲んだかもしれないし、そうでないかもしれない。よたよたとトイレに向かう途中で再度、急激に吐き気が強まったが、我慢した。もったいない。つまり嘔吐で排出しなかったらある程度の致死性のある薬物量であろう、と期待していたことになる。便座に座ったが、尿意はあるのになにも出なかった。先ほどの薬物がなんらかの功を奏していると実感した。気持ちの悪い尿意に耐えながらトイレから戻ったわたしは、座卓に出した薬をその後も飲み続けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...