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会いたくなったら空でも見てね duranti dolore

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(v.d.S.)


 彼女は故意犯だったのだろうか。それとも試していたんだろうか。この時は彼女のことが好きではなかった。それが、退院してからS病院を懐かしむようになった僕は彼女にまた会いたいと思った。彼女と一緒にいる時に僕は翻弄されっぱなしで、離れ離れになってからはじめて恋慕を抱く。
 学校は今でも嫌で、もう二度と行くつもりはなかった。それなのに彼女とは、また会いたい。単純だ。よくある思い出の美化だ。

 省みるにあの時はどうかしていた。内因反応だと(一応の)診断は下されていた。今でも診断名はころころと変わり、いったい何がわたしを表す病気なのか、わからない。でも、と考えを改める。わたしはわたしだ。たまたま病気が介在していただけ。今は当時よりは病気とうまく付き合っている(とはいえS病院には三度入退院を繰り返したが)。病気を異物として否定し排するのは、ひいては自分への強い自己否定につながるし、ある程度は容認することに決めた。それが楽な苦しみ方だ。
 わたしには経血を流すように、生存のため定期的にリストカットする必要があるらしい。方法自体は異常かもしれないが、それしか知らなかった。でも、それを悲しむ存在ができてからは鳴りを潜めている。
 十二月に退院したのち、病院に電話してC棟の詰所を出してもらった。彼と何度か話をしたが、苛立っているように聞こえた。病気の具合が悪いのだろうか。二月に電話した時は「松永さんは退院されました」と、そっけなく告げられた。

 入院当時はわたしを認めてくれる人を探していた。今のわたしには一応の分別はある。自分の支配下にないひとでもわたしの望む行動をとることもあった。今のわたしには、関係していることをいちいち確かめずに済む関係ができた。一浪して入学した大学で、恋人ができたのだ。恋人は年上で、父のように大らかで、母のように気が利いた。バイトも始めた。毎日いろんなこと――楽しいことがたくさんあって忙しい。わたしは、確実に充実している。
 S病院に勤務するそのカウンセラーは手紙を受け取った。中にもう一通、手紙があり「中西麻里子様」とあった。松永謙太郎からだった。添え状では中西に渡すよう依頼してあり、松永本人の住所はどこにも書かれていなかった。守秘義務がある医療者は、患者の情報はどんなに親しい友達にでも絶対に教えられない。連絡先の分からない患者同士で、往々にしてこういった手段をとる。中身は分からないが、大方の予想はつく。信書開封罪を犯すまでもない。そのカウンセラーは鼻で冷たく笑って、そのあとで一人ばつの悪い顔をした。
「松永君、ね」
 カウンセラーは精神科という特殊な環境の馴れ合いから脱却できていない松永のことを憂いた。不登校、引きこもり、そして縊首自殺を企図。精神科病院と救急病院で青春の大切な時を浪費した彼は、思うに取り戻すべきものが分かって焦っているのではないか。無論、添えられた手紙に何がしたためられているのか分からない。松永が首を吊った時と同じような晩冬、カウンセラーは再々入院してきた中西麻里子に松永謙太郎からの手紙を渡した。

 こんなことがあった。
 最後にS病院に入院したときに松永から渡すように言付けられたとして、カウンセラーから手紙を受け取った。署名を見ると書いてから一年近く経っている。あれから、いつものようにC棟の詰所に電話をかけ、松永さんは退院されました、といわれてから二年後の春に書かれている。手紙にはよろしければ連絡ください、とあった。

 中西麻里子に手紙を出したのは二〇一四年の三月。突然の退院(敷地内で首つり自殺を図って救急病院に担ぎ込まれた。ひどい退院の仕方だが、手紙ではそれは伏せて、ある事情で、と書いた)を詫びた。また、あのころは状態が悪く、彼女からの電話の対応が不味かったことも重ねて詫びた。でも、そんなものは口実に過ぎない。無理とは分かってはいたが、一度でいい、彼女にどうしても会いたかった。
 彼女を何度夢見たのだろう。その朝には自失とも恍惚ともつかぬ気分で目覚め、夢の中であっても彼女に会えた事を喜んだ。
 自分に都合の悪い記憶? 忘れようとする。雑多な写真? 選り好みする。
 気分のよい記憶のみを反芻し、そうして思い出は事実と乖離してゆく。アルバムにはきれいな写真しか残らない。分かっている。あのころは確かに彼に愛着を持っていた。わたしを受け入れてくれると期待していた。彼からの手紙は受け取って一週間ほどしてから開封した。
 だが、あの頃のわたしと今のわたしは違う。あの頃のわたしは本物の病気で、彼には悪いことをしたと思っている。それなのに彼から手紙が来るなんて。わたしは過去と訣別したかった。今のわたしは日々よりよいわたしになっている気がする。当時の幼稚なわたしを反面教師とすることはあっても、懐古趣味に耽溺したりはしない。彼には申し訳ないが、昔のわたしを掘り返すのは気が引けた。あれから何年も経った。充分に大人だ。思い出を大切にすることと、感傷に耽るのとは違う。ふたりとも今がある。将来がある。わたしのお腹には新たな命が宿っている。振り返る理由も余裕も、ない。
 クリスマスには事実婚の届を出したパートナーといかにもお定まりといったデートをした。テーマパークで人ごみにもみくちゃにされながらパートナーはずっと手をつないでくれた。「星がきれいだね」とパートナーが呟き、わたしは「今この瞬間に何人のひとが星を見てるんだろうね」と空に向かっていった。「この空を見るのはふたりだけでいい」とパートナーがいった。聞き取れなかったので「え?」と耳を近づける。頬に口づけをされた。
 彼女にすでに手紙が渡っていることを人伝てに聞いた。でも、僕はそんな過去とはできればお別れしたかった。あの頃はほんの十代。今は何とか就職をし、この会社では病気のことは完全に伏せて働いている。病気のことは人事のやつらだって知らないはずだ。たぶんね。
 職場の内輪同士で気楽な飲みに出かけた。クリスマスが自社のサーバメンテだなんて。あとで関連企業のサービスで大量の詫び石が飛び交うだろうなあ。クリスマスの仕事帰り、エンジニア畑と飲むべきだとここぞとばかりに意気投合した。家に帰ったら寂しさでみんな自殺しそうだったのだ。
 飲み会も仕事と同じメンツで代わり映えもしないけど、だからこその仲間なんだ。一軒目で早くも酔いが回った僕は空を見上げた。名前も知らない星座がいくつもある。この星座のすべてに名前を付けたのだと思うと、先人たちの視力と発想力に敬意を表したくなる。サーバは大量の水を使う。まあ、サーバだけしか見どころがない会社だからね。サーバで使う水の浄化装置にも簡素化の流れがある。つまり、おいしい水の採水地である田舎にサーバは必然的に設置されるのだ。そんな田舎だから星もいくつもいくつも見える。このゆっくりとした美しさには都会に住んでいたころには気づかなかった。

 不意に彼女を思い出した。僕は苦笑する。何年ぶりだろう、僕の意識に彼女が存在するのは。彼女も会社の同僚や、同窓生や、恋人と酒を飲んで星を見ているのかもしれない、今、この瞬間に。僕らの道は再び交わる可能性は限りなくゼロに近い。でも、この星空のもとに彼女は、僕の知らない姿になったであろう彼女は現実として実在している。きっと幸せなのだろう。そう願うことが彼女のためであり、自分のためのような気がした。


『会いたくなったら空でも見てね』――――Ewigkeit



 
 Wachstumsschmerzen――――あとがきにかえて


 この小説にちりばめられたそれはもう”えもいわれぬ”謎の英字群ですが、察しの良い読者諸賢はこれらを処方用語だと、しかもドイツ語であると、ええまあ、そりゃもうお見抜きのことでしょう。

 箇条書きでかんたんにご説明しますね。


・3×ndE。「nach dem Essen(食後)」に「×3」。毎食後。
・M。Male。男性。反対はFemale。
・Adm。Admission。エーディー。入院。
・アナムネ。自然気胸のことではない。明確な様式はないものの、入院時に看護師の行なう聴き取りと思っていただければ。反対はEnt。Entlassen。ENTと大文字でつづると耳鼻咽喉科。
・アンヘドニア。快体験不能症。読んで字のごとく、楽しいとか嬉しいとか気持ちいいとかがごっそり抜け落ち、病的に快楽を追い求めてしまう状態。
・SだのOだのAだのPだの。SOAP形式での医療看護記録。S(subjective、主観的情報)、O(objective、客観的情報)、A(assessment、評価)、P(plan、計画)。
・duranti dolore。痛みの続く限りに。
・p.r.n. pro re nata。<ラテン>プロウ・レイ・ナタ。必要に応じ。
・v.d.S.。vor dem Schlafengehen。就寝前。
・Ewigkeit。永久。永遠。
・Wachstumsschmerzen。成長痛。

 実際の、今日的な用法と違う言葉もありますが、雰囲気重視で採用しました。成長痛は成長痛でありgrowing painsであり成長痛です。オスグッド・シュラッターとも違うようです。知らんけど。何はともあれ成長痛をドイツ語で表すのはドイツ人だけじゃねえかと思うこの頃、一年分の成長痛を書いたので少しは成長してほしいものですねえ! ふん!


 ふん! って、おい、あーた……せっかく読んでくださった方に「ふん!」はないでしょ「ふん!」は……。
 
 えぁ、今後ともお手柔らかにお願いいたします……うへえ。
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