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 牛丼屋から場所を移し、蒼は伊澄とともに彼の家に向かった。
 伊澄の住まいは単身者用のマンションの三階だった。近いと言っていた通り、店から徒歩五分程度だったが、無言だったこともあり体感時間はやけに長く感じた。理由は間違いなく言葉がなかったからだ。伊澄は思い詰められているような様子であり、何か話そうと思ったがそんな空気ではなかった。
「……どうぞ」
「お邪魔します」
 連れて行かれるがままに、蒼は伊澄の部屋へと足を踏み入れる。
 物珍しさから失礼とわかっていながら視線をやってしまう。部屋の大きさは蒼より広いが、蒼と同じく一Kのようで通された部屋はベッドとテーブルが同じ部屋にあった。生活空間は分けているようで、この二つには距離がある。
 部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。脱ぎ捨てた服が床に落ちてあったり本が散らばっている。ゲーミングパソコンと思しき立派なパソコンがデスクの上に鎮座しているが、机周りはやはり片付いているとは言えなかった。
「ごめんね、汚い部屋で」
「い、いえ」
「適当に……あ、この辺りにどうぞ」
 ローテーブルの前にクッションを置き、蒼に座るよう促した。言われたとおり、その場所に腰を落ち着ける。どう座ろうか迷ったが、足が痺れないよう胡座にした。伊澄なら許してくれるだろうという思いからだ。
「お茶……じゃなくて、水しかないんだった。水持ってくるね」
「ありがとうございます」
 待っていると、水を注いだグラスを持って伊澄が戻ってきた。
 蒼の前に一つ置き、向かい側となる場所にもう一つを置く。テーブルを挟む形で、伊澄が腰を下ろした。
 正座だった。畏まった座り方も相まって、重い空気が漂いはじめる。
 伊澄に誘いに流されるままに、部屋にきてしまったが、何の話をするつもりなのだろう。まさか淫夢に関わる原因を知っているのだろうか。流れ的にその可能性が高いが、全く別のことかもしれない。伊澄の目的が見えない。
 ごくりと大きく息を呑む。緊張を少しでも和らげようと水を飲んだ。しかし水が喉を通り抜けるだけで、なにも変わらなかった。
 硬い表情で、伊澄が蒼を見つめている。
「――柿内くん」
 ぽつりと声が落ち、夜を思わせる黒の瞳が真っ直ぐ蒼の姿を映している。
「今から……俺は、信じられないと思う話をするけど、真実だから……聞いてほしい」
「……は、はい」
 大層な前置きに、蒼の緊張は増した。もぞもぞと足の先を動かす。
「俺…………実は、サキュバスなんだ」
 薄い唇を開き、伊澄は告げる。静寂の中に波紋が落ちた。
「……………………え?」
 蒼の口から間抜けな音が漏れる。
 現実の世界に非現実的な単語が投げ込まれた。
 突然何を言い出すんだろう。開いた口が塞がらない。
 サキュバス?
 サキュバスと言ったのか、伊澄さんは。
 サキュバス………?
 言葉の意味は、なんとなく分かる。ゲームに登場するキャラクターにもよく利用されている。
 サキュバスとは、あれだ。
 確か、夜な夜な夢の中に現れ、人間とセックスをして精液を摂取するとかいう、一般的に淫魔と呼ばれる存在だ。
 なぜ伊澄は、急にそんな話をするのだろう。
 事態を上手く飲み込めない。訝しげな視線を送ってしまい、伊澄は「信じられないよね……」と、低い声を落とす。
「だから、『証拠』見せるよ」
 証拠? と聞き返すより先に、伊澄の体にとんでもない変化が起こった。
 幻などではなく、瞬きしてもそれが消えることはない。蒼はまじまじと、伊澄の『姿』を見つめる。
 ――現れた黒い影。
 まず目に入ったのは伊澄の頭だ。尖った三角形のものが付いている。それは一般的に『角』と形容されるものだ。
 視線を動かせば、鞭のような細長い紐が宙を泳いでいる。しなやかな弾力性を持ったそれは、先端が三角形に尖っており、その根元をゆっくり辿っていくと恐らく伊澄の尻から生えていた。一般的に『尻尾』と形容されるものだ。
 そして背中には、黒い翼が広がっていた。鳥のような羽毛に覆われたものではなく、蝙蝠を思わせる翼に、蒼は見覚えがありすぎた。夢の中で目にした翼と同じだったのだ。
 呆然と、只人ではなくなった伊澄を見つめる。
 ゲームや小説に登場するような、悪魔と形容される姿をしている。ハロウィンの時に見るコスプレ衣装のようである。
「え……? 本物ですか?」
 間違いなく蒼の目の前で起こったというのに、俄かには信じられなかった。信じられなくて疑ってしまう。
「本物だよ。ほら」
 言うや否や、伊澄は翼と尻尾を動かした。作り物ではなく、自分の意思で動かせることを証明している。
「どう? これで信じられた……かな」
「……」
 信じる、信じないも、こんな非現実的なものを実際に見せられては、信じるしか道がなくなった。まじまじと尻尾を見つめてしまう。
 とはいえ、あまりにも非現実的な光景だ。
 もしかすると、蒼は夢を見ているのかもしれない。牛丼屋の帰り、蒼は自宅に帰って眠りこけているのかもしれない。疑いから、頬を思いっきり抓ってみたが、鈍い痛みがあるだけで、蒼はようやくこれを現実だと認識した。
 異質な光を宿した伊澄の目と自身の目を合わせ、こくりと頷きを返すことしか、もう出来なかった。
 ――事実は小説より奇なり。
 なんて諺があるが、蒼が置かれている状況を的確に表現している言葉であった。
「俺、サキュバスなんだ……。男だけど」
 男だけどサキュバス。頭の中で整理し、繰り返す。
「珍しい……ことなんですか?」
「割と。基本雌型がサキュバスで、雄型はインキュバスって言うから。役割も微妙に違っていて、インキュバスの方は女性の寝込みを襲って悪魔の子を人間に宿すことが目的なんだ。でも、俺たちサキュバスは違う」
「どう違うんですか……?」
「……人間から、精液をいただくことが目的なんだ。サキュバスにとって人の精液は食事と同じで、必要不可欠なものなんだ。だから……その、」
 
「柿内くんのものを、こっそりいただいて、おり、ました……」
 
 ほんとうに、ごめんなさい。
 
 消え入りそうな声で頭を下げた。
 伊澄はサキュバス。
 だから人間の精液が必要不可欠。
 蒼のものをいただいていた。
 自分がサキュバスだと言うことを打ち明けたのか、その理由が見えてきた。蒼の中で、ようやく点と点が一本の糸に繋がる。
「え? つまり俺の見てた夢……というのは、夢じゃなくて……」
「うん。現実のこと、だよ」
「ま、マジで……?」
 思わず敬語が崩れてしまった。
 可能性を疑った。唇の怪我と伊澄の絆創膏から、現実に起きたことかもしれないと。だが、非現実的なことだと否定した。ありえないと思っていた。伊澄がサキュバスという非現実的な存在であるならすべてに辻褄がいく。
 夢の中の伊澄と、今目の前にいる伊澄が同一人物?
 蒼の上で腰を振り、蒼のものを咥え込んでいた伊澄が、尊敬する先輩である伊澄と同じ?
 簡単には結びつかないが、サキュバスの姿を晒した現実が、事実だと告げている。
「サキュバスである俺には、特殊な能力が何個かある、んだ……。せめてものお詫びに……今から掻い摘んで説明する。それで、柿内くんが疑問に思ってることはそれで解決すると思う」
「ぎ、疑問……」
「うん。疑問。柿内くんが変だなと思っていること、たくさんあるでしょ?」
「はぁ………まぁ、そう、ですね………」
 疑問、と言うより、現実にはあり得ないないだろと思っていることはたくさんあった。かなり混乱している。伊澄は「もういいかな……?」と蒼に確認をとってから、翼と角をしまった。蒼の知る、いつもの姿が目の前に現れる。けれども、まったくいつも通りではなかった。
「……えっと、最初にだけど、サキュバスには言霊の力があるんだ。単純なことしか出来ないし、そんなに効果が強いものではない。ニンゲンの脳に揺さぶりをかけて言うこと聞かすことが出来る。刷り込み、みたいなものかな……」
 言霊とか、脳に揺さぶりとか、刷り込みとか、柔らかい言葉で表現しているが、それってつまり洗脳ではないかと、心の中で突っ込んだ。
 到底信じられない話だが、角と尻尾を生やした伊澄の言葉には有無を言わせない力があった。
「柿内くんが、体を自由に動かすことができなかったのは、俺の言霊の力のせいだね……」
 思い当たる節がある。ありすぎる。
「いや、でも途中から結構自由に動けていたような……?」
 傷口はもう塞がっているが、違和感を抱き下唇に触れる。
 伊澄に口付けようと顔を近づけ、唇をぶつけてしまったのだ。あの夜をきっかけに、蒼は行為に関して自由を許された。
「あれは……俺の油断のせい。柿内くんに自由にしてもらった方が、気持ちいいなって思うことがあって……それで、力を、少し緩めてしまった」
 言葉が尻すぼみになる。
 目の前で申し訳なさそうに話す人物と、蒼の熱を目にして蕩けた笑みを披露していた人物。二人が同一人物だとは到底思えない。しかし、耳にする内容は蒼が経験したことで、実体験ほど説得力のあるものはなかった。
「その……次に、すすんでもいいかな……?」
 蒼が呆けた顔を披露していると、バイト中、蒼に色々教えてくれた時のような口調で伊澄が言った。我を取り戻した蒼は「あ、はい」と頷く。
「俺の体について、話すんだけど……俺は御覧の通り男で、でも、サキュバスだから、柿内くんも知っている通り……あそこが濡れる」
 あそことは、聞くまでもなく、尻の穴のことだろう。蒼は夢の中で何度も目にしている。
「それでいて、俺の体液には人間の興奮を煽る媚薬成分だったり、精子の量を増大させる精力剤みたいな力があって……。個人差は、勿論あるんだけど、大抵のニンゲンは萎えない状態に……その、絶倫になる」
「……」
「柿内くんが萎えたりしなかったのはそのせいかな」
 伊澄は隠蔽工作の数々を暴露していく。媚薬成分に精力剤、疲労回復効果もあるとは。ドーピング剤ではないか。薬として存在すればヒットしそうな代物だ。
「夢精してしまったのは、俺が食べきれなかったからなんだ……。気持ち悪い思いさせて本当にごめんなさい……」
 伊澄は頭を下げる。
「ゲームでいうところの回復魔法みたいに疲労回復効果もあって、柿内くんが疲れるようなこともなかった」
 伊澄は淡々と種明かしを続けているが、腑に落ちないことはまだあった。
「え……え? 今の話が本当なら、じゃあ、俺の部屋……本当に来てたんですか?」
「……うん。お邪魔しちゃってごめん。サキュバスは、夢を通じて対象としたものの場所に移動することが可能で……それを利用させてもらった。あと、正確にいうと夢と現実の境界線って感じで、夢を通して移動もできるし、現状修復も可能で、汚れもわからないように寝た時と同じ状態にしてた。……でも、まさか、柿内くんに見られていたなんて……」
 蒼は告げられた内容を口にすることで整理する。
「え、ということは、伊澄さんはサキュバスで……」
「うん」
「俺の夢じゃなくて、本当にあったことで、」
「うん」
「サキュバスだから、普通ならないありえないこと……俺の部屋に着たり、あそこが濡れたり、俺が絶倫になったり、夢精しちゃってたのも、伊澄さんの力……ってことですか?」
「……うん」
 夢ではなく現実だった。
 蒼の上で淫らに喘いでいた伊澄と、バイト先で優しく接してくれる伊澄は同一人物だった。衝撃の事実である。
「ねぇ、柿内くん。幻視が弱かったのかな……。いつから、俺になってた?」
「ん?」
「夢の中で」
 話が見えてこない。蒼の首の傾きが深まる。
「柿内くん、俺と……その、せっくす、したって言ってたけど……最初から俺じゃなかったでしょ?」
「……」
「かわいい女の子だったんじゃないかな? やっていたのは俺だけど」
 伊澄が力無く笑う。
 ――何を言っているんだろう。
「え……? あの、何のことですか……? 俺の夢? というか、現実にあったことかと思うんですけど、そこに出てきたのは伊澄さんだけですけど」
 伊澄の話に違和感を覚え、蒼はそのまま言語化して伝えていた。
 サキュバスだと言うことを伝えられても、いまだに信じられない。蒼の上で腰を振っていたのは紛れもなくこの人だ。蒼の熱を咥えて舐めていたのも、間違いなくこの人だ。
 伊澄凉と言う名の男と、ずっとセックスをしていた。女の影など一度もない。むしろ女であれば悩まずに済んだのにと思ったぐらいだ。どういった意図でそんなことを口にしたのかわからず、伊澄の様子を観察していると、
「…………ずっと俺だった?」
 そう呟き、その表情がみるみる変化していった。
「本当に?」
「はい。伊澄さんしか見てません……」
「……ありえない」
 申し訳なさそうに下がっていた眉が歪み、その眉間に皺を刻む。静けさのあった夜の瞳が激しく揺らいだ。均整のとれた唇を震わせた後、伊澄は何かに耐えるようにぎゅっと噛み締めた。
「そんなこと……絶対にありえない」
 再び否定する。
 伊澄のこんな表情を、蒼ははじめて目にした。というより、始めて見る表情ばかりだ。
「……な、なにが、ありえないんですか?」
 動揺が蒼にも伝染する。
「………」
 気になって聞いてみたが、伊澄は無言で蒼の顔を見つめるだけだった。
 気まずい空気が流れ、蒼はひどく落ち着かなかった。何度も手を組み直し、グラスの水にも口をつける。空になったことにも構わず、水滴をも飲み込んだ。ちらちら伊澄へ視線を送りながらこの沈黙に耐えていると、伊澄は自身を落ち着けるかのように静かに息を吐き、その口を、ゆっくり開いた。
「……サキュバスは、」
 弱々しく、少し震えた声で、伊澄は言葉を紡ぐ。
「言霊によって催眠状態にして操ることができる……って、さっき、柿内くんに言ったよね? あれにはまだカラクリがあって……より相手を操りやすくする為、俺は、俺の姿は……相手が望む姿になる……。相手の目には、セックスしたいなと思える、実在の人物や、理想や妄想の人物の姿に映る、はず、なんだ……」
 ということは、つまりどういうことだ?
 伊澄は、言霊を吹き込んだ『相手が望む姿』になると言った。蒼はこの話を自分に当てはめる。行為中、伊澄によって言霊を吹き込まれた『蒼の望む姿』が、あの時見えていたものだ。だがそれは伊澄の姿で、何の変化もなかった。
「だから、かきうちくんに、俺が見えているわけが、ないんだよ……」
 そうは言っても、蒼の目に映っていたのは伊澄だ。
「見える訳ないんだよ……見えていたら、困る」
 苦し気な声を上げ、伊澄は否定の言葉を続ける。伊澄の膝の上で力強く固められた拳が、大袈裟なぐらいぶるぶる震えているのが見えた。
 眉を寄せ目尻を下げる姿は、今にも泣き出しそうなぐらい歪んでいる。唇をきゅっと噛み締め、伊澄は蒼の顔を凝視していた。潤んだ夜の瞳に、蒼の姿を宿している。
 その表情は、蒼に顔を近づけてきた伊澄の姿を思い出させた。
 そうだ。
 未遂に終わってしまったが、伊澄は蒼に口づけようとしていた。
 そんな姿に蒼は歯痒さを感じた。伊澄に悲しい顔をしてほしくなかった。だから伊澄に口付けた。心がざわめき始める。
「伊澄さん」
 名を呼べば、伊澄が視線を上げる。
「あの、さっき言ったことが本当なら……俺は、伊澄さんのことが……好きってことなんですかね……?」
 鈍感と言われる蒼でも、流石に気付き始めていた。答えに辿り着くまでの条件が揃いすぎている。自信がなくて何故か疑問になった。
 口にした途端伊澄は驚いた顔をしていたが、蒼自身も驚いていた。
 ――蒼が、サキュバスである伊澄を伊澄の姿のまま目に映していた理由。それは至極簡単なもので、蒼がセックスしたいと望む、実在の人物が伊澄だったからだ。つまり、蒼が伊澄を好きだという裏付けではないか。
 疑問が可能性へと変わっていく。伊澄ではなく、蒼自身が「そうかもしれない」と肯定していた。徐々に、明確な形となっていく。自分に問いかけたことで、感情の正体に気づきつつあった。
「あ、いや、俺……伊澄さんのことが……好き、だと思います」
 たった今自覚しただけに、曖昧な言葉でしか告げることしかできない。けれども、間違いなく自分の中に芽生えていた感情だった。吹っ切れた蒼はなんでも言える気がする。心の中に浮かんだ想いをぽつぽつと告げる。
「はじめから、いやじゃありませんでした」
 嫌悪感ははじめからなかった。自分の妄想ではなく、伊澄自身が仕掛けた事態だというなら申し訳ないという気持ちも霧散していく。
「伊澄さんと夢の中でセックスするの、むしろ……気持ちよくて、好きでした。だからってわけじゃ、もちろんないですけど……」
 行為を重ねるごとに絆されたという可能性は捨てきれない。だがそれも、蒼がはじめから伊澄に好意がなければ不可能だ。おかしな話、夢に出てきた相手が店長や葛西、女性である三浦だったとしても、こんな気持ちにはならなかった。相手が伊澄だったから、蒼は行為を重ねるうちに『好き』という感情を育ててしまったのだ。
「伊澄さんが、女のお客さんに話しかけられてた時、この人は俺のものなのにとか、なんか……そんなことを思っちゃったんです。それって俺が、伊澄さんを好きじゃないと思わなくないですか?」
 口にした通り、蒼は嫌な感情を抱いた。あれは嫉妬からだろう。あえて問いかけてみたが、伊澄はゆるゆると首も横に振った。
「柿内くん。それ、は……勘違いだよ」
 ははっと渇いた笑い声を漏らし、真っ向から否定する。
 悲しげな姿に胸が打たれる。伊澄に悲しい顔をしてほしくない。だから夢の中で蒼は伊澄に口付けたが、その行動の真意を見いだす。
「俺の……サキュバスの悪夢に惑わされているだけだ」
「でも、それなら順番がおかしくないですか? 俺には、はじめから伊澄さんが見えてました。俺が伊澄さんをそういうふうに見ていないと、普通は見えないんです……よね?」
 他ならぬ伊澄が言ったことだ。
「……普通はそうだけど、柿内くんは特殊だったのかもしれない……」
 苦し紛れの言い訳だと思った。自分から口にしたことを覆そうとしている。
「その特殊な理由が、俺が伊澄さんを好きってことじゃないんですか……?」
 ――伊澄のことはバイト先の先輩として尊敬していた。
 何もわかっていなかった蒼に丁寧に仕事のことを教えてくれた。蒼がミスをしても、うまくフォローしてくれた。話しやすい先輩だと思っていた。同じゲームが好きで嬉しかった。帰りにご飯に誘われ、同じ時間を過ごせることが楽しかった。
 人として好きだとは思っていた。
 それだけでなく、無意識に、無自覚に、蒼は、伊澄に落ちていた。好きかもしれないと告げたことで、徐々に感情が形を成していく。
 現に今、蒼の胸は伊澄のことしか考えていない。
「俺……伊澄さんのこと、好きかもです。いや、好き……です」
 自分の思いを真っすぐ伝える。今、この瞬間に、目の前の人へ伝えなければならないと思った。
「……違う。間違ってる」
 否定する伊澄に「まちがってなんかいません」と言葉を被せた。
「…………勘違いに、決まっている」
「勘違いでもないですって」
「…………嘘だ」
「嘘じゃなくて、俺は伊澄さんが好きです。今自覚したばかりですけど……」
「かきうちくん……がっ、おれを好きなわけがない…………っ!」
 叫びにも似た声を上げ、頑なに伊澄は否定する。
 蒼を嫌っているからではない。むしろ、その逆だと思えた。鈍感な蒼でも理解できる。
「――伊澄さん。俺、まだ伊澄さんに聞きたいことあります」
 伊澄を逃す気など、蒼にはない。聞く権利が自分にはある。そう思うと強気に出られた。
「伊澄さん、俺にキスしようとしたの、なんでですか?」
 びくっと伊澄の身体が跳ねる。
 未遂に終わったが、伊澄は蒼に口づけようとしていた。もしかして……の可能性は捨てきれない。むしろ条件として十分すぎる。
 伊澄は答えない。
「俺に、なんで本当のこと教えてくれたんですか?」
 構わず蒼は続ける。
 こんな特殊な力があるのなら、蒼の記憶を消すことぐらいできたのではないか。それができなくとも、蒼をただの食糧だと認識しているのであれば、気にする必要などなく「何その夢」と笑っていればよかった。にも関わらず、蒼は打ち明けた。
「黙っていればわからなかったと思います。それなのに、どうして教えてくれたんですか?」
「………………そ、それは」
 伊澄が沈黙を破る。
「答えてください。伊澄さん」
 言い淀む伊澄を促せば、恐る恐るといった様子で続きを口にする。
「か、柿内くんに悪いと思って……気持ちの悪い夢を見せてることへの、罪悪感に耐えられなくなったから……」
 サキュバスという性に奔放な種族だというのに、伊澄の性格は蒼の知るものと変わらない。ただ、その言葉をそのまま受け取ることはできなかった。
 ――罪悪感を抱くと共に、蒼に嫌われたくないと思っていたのではないか。そんな風に勝手に解釈した。
「なら、伊澄さん。どうして俺だったんですか?」
「……」
 再び口を閉じた。
 精が欲しいのであれば、蒼でなくともよかったはずだ。伊澄の学友でも構わないし、バイト先で考えるなら店長でもいいし葛西でもよかったはずだ。伊澄が蒼以外を誘惑しているというのは考えたくない話だが。
 にも関わらず、伊澄は蒼を選んだ。
 そこに意味があるとするなら、答えは見えてきた。どくんどくんと、嫌なぐらい心臓が音を立てる。口の中は渇いていた。
「――伊澄さんも、その……俺のこと、す、『好き』だからじゃないんですか……?」
 上擦った声が出たが、蒼は口が動くままに尋ねた。
 鈍感だと言われていてもわかった。
 口づけようとした理由も、それを寸前で止めた理由も、精を貪る相手として伊澄を選んだ理由も、そして蒼の想いを否定する理由も、全てに辻褄がいく。
「い、やだ……っ」
 それはとても苦しげで、悲鳴を上げているかのようで、蒼の胸をぎゅっと締め付けた。
 蒼は――伊澄にそんな顔をさせたい訳じゃない。
 伊澄には、笑っていてほしい。
 そう強く思った時、蒼の体は勝手に動いていた。夢と同じ行動をとり、ローテーブルを飛び越えて、伊澄の体を引き寄せそのまま顔を近づける。伊澄が持つ黒のビー玉が眼前に迫り、驚きに声を滲ませた声が耳を打った。かきうちくん。という声は音にならなかった。代わりに伊澄のくぐもった声が耳に入る。
 蒼は。
 伊澄の唇に自分のものを重ねていた。夢の時とは異なり、ぶつけずに済んだ。かさついた唇の感触と、熱が蒼に伝わってくる。
 唇を離せば、潤んだ瞳に、真剣な顔をした自分の姿が映っている。どくんどくんと、鼓動を刻み始める。体が熱くて熱くて仕方がない。きっと蒼の顔は真っ赤だろう。
「…………か、かきうちくん」
「伊澄さんの想いを聞かせてください」
「……」
「俺のこときらいですか?」
 ふるふると伊澄が首を振る。その反応に安堵し、続けて聞いた。するりと言葉が出てくる。
「伊澄さん。おれ、のこと好きですか……?」
「……」
「伊澄さんの言葉で聞きたいです」
「……」
「いすみさん」
 自分でもこんな風にやさしい声が出るのかと驚いた。名を呼べば、伊澄が身を縮こませるのがわかった。なかなか返答がなかったが、「……き」とか細い声が耳を打つ。
「………………おれも……柿内くんが好き……」
 じっと待っていると、そんな言葉が返ってきて、耳にした途端、蒼の心にあたたかいものが流れ込んでくる。自覚したばかりの感情――伊澄を好きだという思いが、どんどん膨らんでいく。
「伊澄さん、顔を見せてください」
 直接言葉でももらった。伊澄も自分を好きなのであれば、図々しくなれた。
「いすみさんの顔が見たいです」
 再度言えば、伊澄の顔がおそるおそる上がる。
 瞳は潤んでいるが、悲しみに塗れたものではない。戸惑いが全面に出た、いろんな感情が入り混じった顔だった。自然と口角が上がる。その顔を見つめる。伊澄の夜の瞳が、蒼を見つめ返している。たまらず蒼は口にしていた。
「伊澄さん。俺と……付き合ってください」
「え、……えぇ!?」
 言えば、この場に不釣り合いな頓狂な声が上がる。蒼としては自然な流れだと思ったが、伊澄からすれば信じられないことだったのだろう。滲んだ瞳がこちらを見つめる。
「俺なんか、だめだよ。かきうちくん……」
 先輩としてでもなく、サキュバスとしてでもなく、素の伊澄凉は幼く見えた。
「勝手に、柿内くんを襲うようなやつだよ?」
「伊澄さんなら、いいです。夢の中でも歓迎? っていうかありです」
「……柿内くんを騙してたんだよ?」
「ぜんぜん、嫌じゃなかったんで」
 なんでも受け止めるつもりだった。相手が伊澄であれば、なんでも許せてしまう気がした。
「……い、伊澄さんがいいんです」と続ければ、伊澄の心をようやく溶かすことが出来たようだ。こくんと頷きが返ってきて、蒼と伊澄の想いは繋がった。
「……伊澄さん。あの、俺たち……これで恋人? になったということでいいですかね?」
 改めて口にすると、照れが入ってしまう。伊澄も無言のまま、こくこくと頷きを返した。
「なら、俺の精液が欲しい時はいつでも声かけてください」
 夢の中で(正確には夢を装った現実)襲う必要などない。
 欲しいと思った時は声を掛けて欲しい。伊澄を想っての発言だったのだが、当の本人はぱちぱちと瞬いた後、零れ落ちそうなぐらい大きく目を見開く。ぼんっ! と音を立て火が出たのではないかと思ったぐらい、伊澄は顔を真っ赤にした。
「ど、どうしたんすか……?」
「………………」
 困ったように眉を下げ、視線を泳がせる。
「い、いすみさん?」
「む、むりだよ……」
 無理? 何が無理だというのだろう。どうして? という視線を送っていたのだろう。伊澄は視線を泳がせ、
「………………は、恥ずかしい」
 長い沈黙の後、そう声を落とした。
「は、恥ずかしい……?」
 聞き返せば、こくんと頷きが返ってくる。
 ――恥ずかしい。
 その単語を繰り返し、蒼は思った。
 いやいや、今更何を言っているのだ。
 夢の中の伊澄は羞恥とは無縁だった。いつだって美味しそうに伊澄の精液を貪っていた。
「え、あ、え? 伊澄さん、俺の上に跨って腰振ってたじゃないですか」
「い、言わないで!」
 悲壮な声が耳を打つ。
「あれは……かきうちくんが、俺じゃないと思っていたから……っ!」
「でも、伊澄さん、俺のを美味そうに……」
 伊澄の手が蒼の口を覆った。それ以上は言わせないと、強い意志を感じる。
「そう! さっき言った通り俺はサキュバス! でも、こういうのはほんとは苦手で、昔から周りにサキュバスらしくないって言われてて! でも精液がないと苦しいから、だからサキュバスらしくするにはどうしたらいいかなってずっと考えて、AV見て研究して、それっぽくしてただけ、だから……伊澄くんが俺って認識してるなら話は別!」
 早口で捲し立てる。
 AV見て研究……?
 確かに腰遣いはそれっぽい気がするが、間違いなく伊澄は感じていた。喘ぎや感度はとても演技とは思えない。美味そうに食べていたのは事実だ。色々と言いたいことはあったが、必死に訴える伊澄に折れ「わかりました……」と答えた。伊澄は蒼の口を解放する。そして、
「は、はずかしすぎる……っ」
 言いながら、顔を覆った。
 その反応に蒼の心はとくんと跳ねる。それはおさまることはなく、とくとくと心音は激しくなっていく。
 清楚。清廉。
 笑った顔が素敵で、バイト先の頼れる、やさしい先輩である伊澄。
 そんな伊澄の正体はサキュバスでいやらしい面も持っていた。
 これだけでも十二分なのに、どうやら彼には別の一面もあるようだ。
 ――かわいすぎる……っ。
 蒼は、間違いなくときめいていた。伊澄を好きだと自覚している今、そのかわいさがより際立つ。
 まさかこちらの方が夢ではないか。そんな疑いを持つが、
 新たな伊澄の面を見て嬉しいと思うと同時に、蒼の心を掴んで離さず、伊澄のことがますます好きだと思った瞬間であった。
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