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これでお仕舞い~婚約者に捨てられたので、最後のお片付けは自分でしていきます~
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「――貴女に悪いところなんて何もないんだ」
ふたりきりの部屋、ふるえる声で彼は言葉をつむぐ。
「すべては僕のわがままなんだ」
それは相手を思いやるようでいて、その実自分の罪悪感を少しでも消したいがためのもの。
「本当にすまない、どんなに罵ってくれてもいい、君が求めるならどんな贖罪だってしよう、しかし、」
「――かしこまりました」
それ以上聞いてはいられなかった。
「殿下の御心のままに」
王族の言葉をさえぎるなど不敬だ、との咎めなら甘んじて受けよう。しかし、これ以上彼の自己陶酔による上辺だけの謝罪を聞いて、惨めな思いをしたくなかった。
今まで私にこんな態度を取られたことがなかったためであろう、口を開いた状態のままぽかんとかたまる彼の、貴き碧眼を見つめ返す。
ああ、そんなお顔をしていても、貴方は美しい。
いましがた私は目の前のひとに、婚約を破棄された。
「お言葉の途中ですのに、失礼をいたしました。まずは婚約破棄の件、かしこまりました。
恐れ入りますが、国王・王妃陛下はすでに承知されていると考えてよろしいですか?」
「あ、……ああ、いや、陛下方にはこれからお伝えしに行くつもりで……。彼女のことは以前からさりげなく話していたから、お察しだとは思うが」
彼女、と口にするときの殿下は、後ろめたいような、それでいて愛おしい者を思う目をしていた。思わず目を伏せてしまう。
それにしても、お察しだと思う、ですって?
眉を寄せそうになるのを、理性でこらえた。
王家の直系という立場である彼に、王家の影がついていないとでも思っているのだろうか。
ここ最近の行状、彼女との交際の進捗、なんならこの婚約破棄だって、すべて報告されているに決まっている。王宮でのふたりきりのお茶会にて突然始まった婚約破棄宣言で、壁際に控える使用人たちがひそかに動揺するなか、ひとり静かに部屋を立ち去ったメイドは、おそらくその手の者であろう。
婚約者である――いや、さきほどまで婚約者であった私にすら、影はついていたのだ。だから私は、一挙手一投足にも、気を抜くことができなかった。
それもこれも、すべては貴方との婚約を守るためであったというのに。
様々めぐる感情を押し殺し、深く細く息を逃がす。もうすべては過ぎたことだ。
「そうですか。しかし、殿下はすでに成人されていますので、この婚約破棄が全くの無効とみなされる、ということはないのではないでしょうか。
王家と侯爵家の政略的な婚約ではありますが、当人たちの意思がある程度尊重されると期待できるのではないかと」
第三王子である彼と私の婚約は、蔑ろにされるものではないが、きわめて重要視されるものでもない。王太子殿下は我が国筆頭貴族の公爵家令嬢と婚姻されて久しく、第二王子は隣国の王女に婿入りされている。王女殿下方の婚姻も順調に進んでいる。さらには先日、王太子殿下にご次男もお生まれになった。当代の治世は安定し、次代も盤石の今、第三王子の婚約ひとつふいになろうと、大した問題はない。
何より、私は王妃陛下より事前に保障をいただいている。
「もちろん両陛下のお言葉をいただくまでは、私が何かを申し上げるなどおこがましいことですが。殿下の婚約破棄のご意思が固い以上、私もそのように動きたいと存じます」
婚約破棄が成立する確信があるにも関わらず、しれっとうそぶいてやる。
「それでは御前を失礼いたしたく」
彼にほとんど言葉を挟ませる余裕を与えないまま、部屋を立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってくれ、どこに行くんだ。
……いや、貴女には悪いことをしたと思っている。他に、なにか、言いたいことはないのか?」
私があまりにもあっさり婚約破棄を受け入れ、さっさと今後のために動こうとしていることを呑み込めないのか、いまいち要領を得ない彼の言葉に苦く笑う。
「王宮にいただいた私の部屋に参りたく存じます。
――そうですね、言いたいこと、というのであれば、殿下にお願いが」
「なんだ、何でも言ってくれ」
ほっとしたように顔をほころばせる貴方。そんな場面ではないでしょうに。
「殿下、王宮を辞す前に、少々お時間をくださいませ。
あの部屋を、片付けたいのです。
あそこには、大切な思い出の品々が、たくさんありますから」
深く息を吸って、吐く。
「すべて、私の手で仕舞いたいのです」
私の声はふるえていなかっただろうか。
ひとつ、ひとつ、と取り上げていく。
お気に入りの紅茶の缶。琥珀色の蜂蜜。淡く光を弾く銀の匙。
とっくりと眺め、息をつく。
ここは王宮の私の部屋。
この国では、王子の妻となる者は、いよいよ婚姻も近くなった頃から、すべからく王宮に上がる。それが臣籍降下であったとしても、王族に準ずる立場になるという自覚と覚悟を持たせるため、というのが建前。
実際のところ、王宮には呪いがかかっていて、ここにいる間は国王・王妃両陛下のご意思に大きく背く行いはできない。それにより、王子の妻となる者を外的要因から守る――隔離し監視する、という意味合いが大きい。
例外は王族である。だからこそ、殿下はさきほど独断で婚約破棄を敢行するという暴挙に出られた。
――つまり今私がここにいるということは、それほどまでに婚姻が秒読みであったということ。そして今、「これ」をできるということは、陛下方のご意思に反していないということ。
――この茶葉、貴女が好きだと思って。
――この蜂蜜、茶や菓子に合うんだ。
――これ、僕とおそろいの匙なんだ。よかったら使って?
脳裏によみがえりそうになる声を振り切って、ひとつ、ひとつ、と「箱」に納めていく。
王宮に上がったばかりの頃は、あんなにも喜んでくれたのに。日常に使う細々としたものを、まめまめしく手ずから選んで贈ってくださったのに。
そんな煩悶は、「箱」にものを仕舞うことで落ち着いていく。
それでもこの部屋には思い出のものが多すぎる。
ああ、早く、すべて、仕舞ってしまわなくては。
豪奢な作りの首飾り。
――これは婚約の折に贈られたもの。隣国で新しく採れ始めた貴重な碧い宝石が使われていて、私との婚約を前向きに考えていてくださっていることが伝わって、嬉しかった。宝石と同じ色の瞳に、窓から差し込む午後の日差しをまとった金色の髪に、思わず見とれてしまって、後で父に笑われたわ。
宝石を花の形にあしらった髪飾り。
――これは婚約して初めての私の誕生日にいただいたもの。私が喜んだら、殿下がご自身の手で髪につけてくれた。侍女が整えてくれた髪型がちょっと乱れたけど、そんなこと全然気にならなかった。少しの間だけ耳に触れた指先に、どきどきした。
精緻な細工を施した銀細工。
――初めてふたりで街に下りたとき、商会の店で、一緒に選んで買ってもらった。この意匠は何を模したものか、ふたりで的外れな憶測をしてはお店の方のやんわり訂正されて笑いあったっけ。殿下もお揃いで買うと言って、ならばそちらは私から贈るということになって。そのあとお会いするときは毎回付けてきてくださったのに、ある時から――。
仕舞う。仕舞う。
最高級だけれど私には似合わない仕立ての服。使用人を通して贈られた定型文の手紙。私と彼、どちらの色でもない宝石の装飾品。
――だんだん、貴方のくださるものに心を感じなくなっていった。貴方は優秀だけれど、多くのものに感情を割けるひとではないから、きっと大切な貴方の心は、すべて彼女に向かっていたのだろう。
小さなものは捧げ入れるように、大きなものはやや押し込むようにして、「箱」に仕舞っていく。
ひとつ、ひとつと「箱」に入れるたび、それらが視界から消えるたび、心に渦巻く思いが静まっていくのを感じる。
これらのものを、自分の手で仕舞える時間をいただけて本当によかったと思う。
私は殿下をお慕いしていた。だから、殿下と彼女が急速に親密になっていくのに胸が痛かった。日々心が削られていくのを感じた。懇願も忠言も逆効果だった。殿下の心が離れていくのも、近いうちこの婚約をやめたいと言い出すであろうことも分かっていた。
だから、王妃陛下は「箱」をくださった。
「これでお仕舞い」
すべて仕舞いおえ、私は静かな気持ちでふたを閉じた。
ぱたん。
さきほどまでの鬱屈が嘘のように、清々しさすら感じながら廊下を歩く。
最後に両陛下にご挨拶をして辞すべきであろうが、残念なことに第三王子殿下と重要なお話し合いをされているそうで、謁見不可とのこと。
そのことを伝えてくれた王妃付きの侍女は、さらに王妃陛下からの伝言を預かっていた。いわく、「仕舞い終わった「箱」はそのまま部屋に置いておきなさい」とのこと。そして、「落ち着いたら、また会いましょう」とも。
さすがだ。すべてお見通しのようだ。ふふっと笑みがこぼれる。
きっと、あとは王妃陛下がいいようにしてくださるだろう。
「――待ってくれ!」
いよいよ王宮の扉を抜けて外に出ようとしたところで、背後から呼び止められる。
焦燥に満ちたそれに振り向くと、声色通りの切羽詰まった顔で、殿下が駆け寄ってきていた。両陛下とのお話し合いはもう終わったのだろうか。
「ごきげんよう、殿下」
明らかに尋常ではない様子の彼に、素知らぬ顔で微笑みかける。今までなら、顔色の悪さを心配して、すぐさま彼に労いの言葉をかけていただろうが、もうそんなことはしない。
彼と私とは、今日からただの王族と臣下なのだから。
顔を蒼白にして声をふるわせる彼を笑顔のままで観察する。それは婚約破棄を告げたときの、どこか作ったような薄っぺらい失意の顔ではなく、まさに追い詰められた者のそれだった。
ああやっぱり、あのときは婚約破棄という劇的な状況に酔っていらしたのだろうなあ。
ひとごとのように考えながら、彼の言葉を待った。
「……あ、あ、貴女との思い出が……そのとき感じていたはずの気持ちが……どんどん、分からなくなっていくんだ。さきほどから。突然!
何を話したか、何をしたかは思い出せるのに、何を思ってそれを言ったのか、それをしたときどう感じていたのか、思い出そうとしても、忘れていく。ぽろぽろと、こぼれ落ちて……」
はたから聞けば支離滅裂とすら思われそうな彼の言葉だが、私には理解できた。
それはそうだろう、と内心でうなずく。微笑みながら。
――あの「箱」は、そういう仕組みだ。
殿下から何度目かの拒絶を受けたある日、王妃陛下が私の部屋へおいでになった。王妃陛下は息子の不徳を一通り謝罪なさり、恐縮する私に、今後どうなろうとも我が侯爵家に悪いようにはしないとおっしゃった。
そして、「箱」をくださった。
「お仕舞いにしたくなったら、そのときには使いなさい」と言って。
ひと抱えくらいの大きさのその「箱」には、特殊な呪いがかかっているという。中にものを入れて願いを込めると、それに関する思い出が、溶けるように消えていく呪いだ。記憶が消えるわけではない。起きたことを忘れるわけではなく、そのときの自分の感情のみを忘れるのだ。そして、あとから反芻しても、どうやってもそのときの思いを取り戻すことができない。まるでひとごとのようにしか感じられなくなる。
することは、「箱」に入れてふたを閉める、ただそれだけ。
この「箱」は(というより呪物の多くがそうなのだが)、王家と、王家が許可した者にだけ使用を許されるもので、入れられるものも色々な制限があるため、使用用途など限られる。例えばそう、忘れられなくて苦しい記憶から感情だけを消し去りたいときとか。
私はすべての思い出の品を「箱」に入れたわけではないけれど、特に思いの強いものの多くを入れられたから、自分の中の気持ちに区切りをつけることができた。
王妃陛下も、かつてお使いになったという。詳しくは話してくださらなかったが、ほんの少し悲しい顔をしていらっしゃった。国王陛下が王妃陛下にあまり頭が上がらない理由も、そのあたりにあるのだろうか。
ひそかに思いを巡らせながら、目の前で蒼白な顔をして言い募る彼に、なだめるように言葉をつむぐ。
「殿下。忘れていくということは、それはもう殿下に必要ないということではありませんか?」
――必要ないはずだ。だって、だからこそ、貴方は私との婚約を破棄したのでしょう?
解消ではなく。事前に王家と侯爵家、当事者同士で話し合い歩み寄る機会も持たず。一方的に。
私をいらないと思ったから。
だから消してあげた。
私はずっと忘れたくなくて必死だったのに。貴方からどんな扱いを受けても、貴方との思い出を、貴方への思いを、ひとつだって手離したくなくてしがみついていたのに。
「そんな、そんなはずはない! 違う、思い出したいんだ、ずっと当たり前にあったから忘れていたけど、とても、とても大切な思いなんだ!」
――本当に大切なら、いつでも取り出して眺められる場所に置いておくべきだったのよ。
「でもそれは、失われてしまったのでしょう? ならばすべては、もう過ぎたことです」
「そんなことを言わないでくれ……! これは何が起きているんだ? 消えていくのは、貴女との思い出ばかりなんだ。なんなんだこれは、何かの呪いか……?」
――どんなに嘆いてももう遅いわ。「箱」のふたは閉じてしまった。もう戻らない。戻ってほしくもない。
私はずっと忘れられなくて、ようやく忘れる覚悟をして、忘れられて、こんなにも清々しい。
貴方はずっと忘れていて、忘れたことも忘れてしまっていたから、もう思い出せないことに気付いて、いまさら悔いる。
思えば私たち、ここのところすれ違ってばかりだったわね。
でも、もう重なることもないのでしょう。
だって目の前で貴方が悲しんでいるのに、心が動かない。
「殿下、案ずることはありません。失われた分は、他のもので埋めればよいのです。私もそうします。
彼女と、お幸せに」
心からの言葉として言えた自分を誇らしく思う。
呆然と立ち尽くす彼に向かって、これまでで最高と思える礼を取った。
そして王宮の扉をくぐり、もう振り返らない。
引き留めようと叫ぶ彼の声が聞こえた気がしたけれど、早々に馬車に乗ってしまったから、すぐに分からなくなった。
馬車の揺れに身をゆだねて目を閉じると、幼い声で誰かが私を呼んだ気がした。
でも耳を澄ませても、もう何も聞こえなかった。
彼は今回のことで多くを失うだろう。約束された安定的な未来。高位貴族への臣籍降下の道。王妃陛下の信頼。――もしかしたら、愛していたのかもしれない婚約者。
これまで大きな挫折を味わったことのない彼に耐えきれるだろうか。
彼もいつか、「箱」を賜るのかもしれない。あれは感情に振り回され苦しむ心を鎮めてくれる。心の一部を切り分けて捨てるようなものでもあるから、諸刃の剣だけれど。
私がこれまで彼に贈ったものも、捨てられていなければ手元に残っているはずだ。彼はそれらを「箱」に入れるだろうか。
そうなったとき、私は何かを感じるのだろうか。もしかしたら心の奥の奥にかすかに残っているかもしれない思いが、そのとき完全に消えるのだろうか。そうしたら少しだけ、喪失感を覚えるのかもしれない。
でもきっと、それでお仕舞いだ。
ふたりきりの部屋、ふるえる声で彼は言葉をつむぐ。
「すべては僕のわがままなんだ」
それは相手を思いやるようでいて、その実自分の罪悪感を少しでも消したいがためのもの。
「本当にすまない、どんなに罵ってくれてもいい、君が求めるならどんな贖罪だってしよう、しかし、」
「――かしこまりました」
それ以上聞いてはいられなかった。
「殿下の御心のままに」
王族の言葉をさえぎるなど不敬だ、との咎めなら甘んじて受けよう。しかし、これ以上彼の自己陶酔による上辺だけの謝罪を聞いて、惨めな思いをしたくなかった。
今まで私にこんな態度を取られたことがなかったためであろう、口を開いた状態のままぽかんとかたまる彼の、貴き碧眼を見つめ返す。
ああ、そんなお顔をしていても、貴方は美しい。
いましがた私は目の前のひとに、婚約を破棄された。
「お言葉の途中ですのに、失礼をいたしました。まずは婚約破棄の件、かしこまりました。
恐れ入りますが、国王・王妃陛下はすでに承知されていると考えてよろしいですか?」
「あ、……ああ、いや、陛下方にはこれからお伝えしに行くつもりで……。彼女のことは以前からさりげなく話していたから、お察しだとは思うが」
彼女、と口にするときの殿下は、後ろめたいような、それでいて愛おしい者を思う目をしていた。思わず目を伏せてしまう。
それにしても、お察しだと思う、ですって?
眉を寄せそうになるのを、理性でこらえた。
王家の直系という立場である彼に、王家の影がついていないとでも思っているのだろうか。
ここ最近の行状、彼女との交際の進捗、なんならこの婚約破棄だって、すべて報告されているに決まっている。王宮でのふたりきりのお茶会にて突然始まった婚約破棄宣言で、壁際に控える使用人たちがひそかに動揺するなか、ひとり静かに部屋を立ち去ったメイドは、おそらくその手の者であろう。
婚約者である――いや、さきほどまで婚約者であった私にすら、影はついていたのだ。だから私は、一挙手一投足にも、気を抜くことができなかった。
それもこれも、すべては貴方との婚約を守るためであったというのに。
様々めぐる感情を押し殺し、深く細く息を逃がす。もうすべては過ぎたことだ。
「そうですか。しかし、殿下はすでに成人されていますので、この婚約破棄が全くの無効とみなされる、ということはないのではないでしょうか。
王家と侯爵家の政略的な婚約ではありますが、当人たちの意思がある程度尊重されると期待できるのではないかと」
第三王子である彼と私の婚約は、蔑ろにされるものではないが、きわめて重要視されるものでもない。王太子殿下は我が国筆頭貴族の公爵家令嬢と婚姻されて久しく、第二王子は隣国の王女に婿入りされている。王女殿下方の婚姻も順調に進んでいる。さらには先日、王太子殿下にご次男もお生まれになった。当代の治世は安定し、次代も盤石の今、第三王子の婚約ひとつふいになろうと、大した問題はない。
何より、私は王妃陛下より事前に保障をいただいている。
「もちろん両陛下のお言葉をいただくまでは、私が何かを申し上げるなどおこがましいことですが。殿下の婚約破棄のご意思が固い以上、私もそのように動きたいと存じます」
婚約破棄が成立する確信があるにも関わらず、しれっとうそぶいてやる。
「それでは御前を失礼いたしたく」
彼にほとんど言葉を挟ませる余裕を与えないまま、部屋を立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってくれ、どこに行くんだ。
……いや、貴女には悪いことをしたと思っている。他に、なにか、言いたいことはないのか?」
私があまりにもあっさり婚約破棄を受け入れ、さっさと今後のために動こうとしていることを呑み込めないのか、いまいち要領を得ない彼の言葉に苦く笑う。
「王宮にいただいた私の部屋に参りたく存じます。
――そうですね、言いたいこと、というのであれば、殿下にお願いが」
「なんだ、何でも言ってくれ」
ほっとしたように顔をほころばせる貴方。そんな場面ではないでしょうに。
「殿下、王宮を辞す前に、少々お時間をくださいませ。
あの部屋を、片付けたいのです。
あそこには、大切な思い出の品々が、たくさんありますから」
深く息を吸って、吐く。
「すべて、私の手で仕舞いたいのです」
私の声はふるえていなかっただろうか。
ひとつ、ひとつ、と取り上げていく。
お気に入りの紅茶の缶。琥珀色の蜂蜜。淡く光を弾く銀の匙。
とっくりと眺め、息をつく。
ここは王宮の私の部屋。
この国では、王子の妻となる者は、いよいよ婚姻も近くなった頃から、すべからく王宮に上がる。それが臣籍降下であったとしても、王族に準ずる立場になるという自覚と覚悟を持たせるため、というのが建前。
実際のところ、王宮には呪いがかかっていて、ここにいる間は国王・王妃両陛下のご意思に大きく背く行いはできない。それにより、王子の妻となる者を外的要因から守る――隔離し監視する、という意味合いが大きい。
例外は王族である。だからこそ、殿下はさきほど独断で婚約破棄を敢行するという暴挙に出られた。
――つまり今私がここにいるということは、それほどまでに婚姻が秒読みであったということ。そして今、「これ」をできるということは、陛下方のご意思に反していないということ。
――この茶葉、貴女が好きだと思って。
――この蜂蜜、茶や菓子に合うんだ。
――これ、僕とおそろいの匙なんだ。よかったら使って?
脳裏によみがえりそうになる声を振り切って、ひとつ、ひとつ、と「箱」に納めていく。
王宮に上がったばかりの頃は、あんなにも喜んでくれたのに。日常に使う細々としたものを、まめまめしく手ずから選んで贈ってくださったのに。
そんな煩悶は、「箱」にものを仕舞うことで落ち着いていく。
それでもこの部屋には思い出のものが多すぎる。
ああ、早く、すべて、仕舞ってしまわなくては。
豪奢な作りの首飾り。
――これは婚約の折に贈られたもの。隣国で新しく採れ始めた貴重な碧い宝石が使われていて、私との婚約を前向きに考えていてくださっていることが伝わって、嬉しかった。宝石と同じ色の瞳に、窓から差し込む午後の日差しをまとった金色の髪に、思わず見とれてしまって、後で父に笑われたわ。
宝石を花の形にあしらった髪飾り。
――これは婚約して初めての私の誕生日にいただいたもの。私が喜んだら、殿下がご自身の手で髪につけてくれた。侍女が整えてくれた髪型がちょっと乱れたけど、そんなこと全然気にならなかった。少しの間だけ耳に触れた指先に、どきどきした。
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――初めてふたりで街に下りたとき、商会の店で、一緒に選んで買ってもらった。この意匠は何を模したものか、ふたりで的外れな憶測をしてはお店の方のやんわり訂正されて笑いあったっけ。殿下もお揃いで買うと言って、ならばそちらは私から贈るということになって。そのあとお会いするときは毎回付けてきてくださったのに、ある時から――。
仕舞う。仕舞う。
最高級だけれど私には似合わない仕立ての服。使用人を通して贈られた定型文の手紙。私と彼、どちらの色でもない宝石の装飾品。
――だんだん、貴方のくださるものに心を感じなくなっていった。貴方は優秀だけれど、多くのものに感情を割けるひとではないから、きっと大切な貴方の心は、すべて彼女に向かっていたのだろう。
小さなものは捧げ入れるように、大きなものはやや押し込むようにして、「箱」に仕舞っていく。
ひとつ、ひとつと「箱」に入れるたび、それらが視界から消えるたび、心に渦巻く思いが静まっていくのを感じる。
これらのものを、自分の手で仕舞える時間をいただけて本当によかったと思う。
私は殿下をお慕いしていた。だから、殿下と彼女が急速に親密になっていくのに胸が痛かった。日々心が削られていくのを感じた。懇願も忠言も逆効果だった。殿下の心が離れていくのも、近いうちこの婚約をやめたいと言い出すであろうことも分かっていた。
だから、王妃陛下は「箱」をくださった。
「これでお仕舞い」
すべて仕舞いおえ、私は静かな気持ちでふたを閉じた。
ぱたん。
さきほどまでの鬱屈が嘘のように、清々しさすら感じながら廊下を歩く。
最後に両陛下にご挨拶をして辞すべきであろうが、残念なことに第三王子殿下と重要なお話し合いをされているそうで、謁見不可とのこと。
そのことを伝えてくれた王妃付きの侍女は、さらに王妃陛下からの伝言を預かっていた。いわく、「仕舞い終わった「箱」はそのまま部屋に置いておきなさい」とのこと。そして、「落ち着いたら、また会いましょう」とも。
さすがだ。すべてお見通しのようだ。ふふっと笑みがこぼれる。
きっと、あとは王妃陛下がいいようにしてくださるだろう。
「――待ってくれ!」
いよいよ王宮の扉を抜けて外に出ようとしたところで、背後から呼び止められる。
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「ごきげんよう、殿下」
明らかに尋常ではない様子の彼に、素知らぬ顔で微笑みかける。今までなら、顔色の悪さを心配して、すぐさま彼に労いの言葉をかけていただろうが、もうそんなことはしない。
彼と私とは、今日からただの王族と臣下なのだから。
顔を蒼白にして声をふるわせる彼を笑顔のままで観察する。それは婚約破棄を告げたときの、どこか作ったような薄っぺらい失意の顔ではなく、まさに追い詰められた者のそれだった。
ああやっぱり、あのときは婚約破棄という劇的な状況に酔っていらしたのだろうなあ。
ひとごとのように考えながら、彼の言葉を待った。
「……あ、あ、貴女との思い出が……そのとき感じていたはずの気持ちが……どんどん、分からなくなっていくんだ。さきほどから。突然!
何を話したか、何をしたかは思い出せるのに、何を思ってそれを言ったのか、それをしたときどう感じていたのか、思い出そうとしても、忘れていく。ぽろぽろと、こぼれ落ちて……」
はたから聞けば支離滅裂とすら思われそうな彼の言葉だが、私には理解できた。
それはそうだろう、と内心でうなずく。微笑みながら。
――あの「箱」は、そういう仕組みだ。
殿下から何度目かの拒絶を受けたある日、王妃陛下が私の部屋へおいでになった。王妃陛下は息子の不徳を一通り謝罪なさり、恐縮する私に、今後どうなろうとも我が侯爵家に悪いようにはしないとおっしゃった。
そして、「箱」をくださった。
「お仕舞いにしたくなったら、そのときには使いなさい」と言って。
ひと抱えくらいの大きさのその「箱」には、特殊な呪いがかかっているという。中にものを入れて願いを込めると、それに関する思い出が、溶けるように消えていく呪いだ。記憶が消えるわけではない。起きたことを忘れるわけではなく、そのときの自分の感情のみを忘れるのだ。そして、あとから反芻しても、どうやってもそのときの思いを取り戻すことができない。まるでひとごとのようにしか感じられなくなる。
することは、「箱」に入れてふたを閉める、ただそれだけ。
この「箱」は(というより呪物の多くがそうなのだが)、王家と、王家が許可した者にだけ使用を許されるもので、入れられるものも色々な制限があるため、使用用途など限られる。例えばそう、忘れられなくて苦しい記憶から感情だけを消し去りたいときとか。
私はすべての思い出の品を「箱」に入れたわけではないけれど、特に思いの強いものの多くを入れられたから、自分の中の気持ちに区切りをつけることができた。
王妃陛下も、かつてお使いになったという。詳しくは話してくださらなかったが、ほんの少し悲しい顔をしていらっしゃった。国王陛下が王妃陛下にあまり頭が上がらない理由も、そのあたりにあるのだろうか。
ひそかに思いを巡らせながら、目の前で蒼白な顔をして言い募る彼に、なだめるように言葉をつむぐ。
「殿下。忘れていくということは、それはもう殿下に必要ないということではありませんか?」
――必要ないはずだ。だって、だからこそ、貴方は私との婚約を破棄したのでしょう?
解消ではなく。事前に王家と侯爵家、当事者同士で話し合い歩み寄る機会も持たず。一方的に。
私をいらないと思ったから。
だから消してあげた。
私はずっと忘れたくなくて必死だったのに。貴方からどんな扱いを受けても、貴方との思い出を、貴方への思いを、ひとつだって手離したくなくてしがみついていたのに。
「そんな、そんなはずはない! 違う、思い出したいんだ、ずっと当たり前にあったから忘れていたけど、とても、とても大切な思いなんだ!」
――本当に大切なら、いつでも取り出して眺められる場所に置いておくべきだったのよ。
「でもそれは、失われてしまったのでしょう? ならばすべては、もう過ぎたことです」
「そんなことを言わないでくれ……! これは何が起きているんだ? 消えていくのは、貴女との思い出ばかりなんだ。なんなんだこれは、何かの呪いか……?」
――どんなに嘆いてももう遅いわ。「箱」のふたは閉じてしまった。もう戻らない。戻ってほしくもない。
私はずっと忘れられなくて、ようやく忘れる覚悟をして、忘れられて、こんなにも清々しい。
貴方はずっと忘れていて、忘れたことも忘れてしまっていたから、もう思い出せないことに気付いて、いまさら悔いる。
思えば私たち、ここのところすれ違ってばかりだったわね。
でも、もう重なることもないのでしょう。
だって目の前で貴方が悲しんでいるのに、心が動かない。
「殿下、案ずることはありません。失われた分は、他のもので埋めればよいのです。私もそうします。
彼女と、お幸せに」
心からの言葉として言えた自分を誇らしく思う。
呆然と立ち尽くす彼に向かって、これまでで最高と思える礼を取った。
そして王宮の扉をくぐり、もう振り返らない。
引き留めようと叫ぶ彼の声が聞こえた気がしたけれど、早々に馬車に乗ってしまったから、すぐに分からなくなった。
馬車の揺れに身をゆだねて目を閉じると、幼い声で誰かが私を呼んだ気がした。
でも耳を澄ませても、もう何も聞こえなかった。
彼は今回のことで多くを失うだろう。約束された安定的な未来。高位貴族への臣籍降下の道。王妃陛下の信頼。――もしかしたら、愛していたのかもしれない婚約者。
これまで大きな挫折を味わったことのない彼に耐えきれるだろうか。
彼もいつか、「箱」を賜るのかもしれない。あれは感情に振り回され苦しむ心を鎮めてくれる。心の一部を切り分けて捨てるようなものでもあるから、諸刃の剣だけれど。
私がこれまで彼に贈ったものも、捨てられていなければ手元に残っているはずだ。彼はそれらを「箱」に入れるだろうか。
そうなったとき、私は何かを感じるのだろうか。もしかしたら心の奥の奥にかすかに残っているかもしれない思いが、そのとき完全に消えるのだろうか。そうしたら少しだけ、喪失感を覚えるのかもしれない。
でもきっと、それでお仕舞いだ。
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「確かに俺達の婚約は政略的なものだ。しかし俺は国王になる男だ。ほかの男と睦み合っているような女を妃には出来ぬ! そちらの有責なのだから侯爵家にも責任を取ってもらうぞ!」
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今更ながらに気が付いたのでしょうか?
すみません。
どちらにもとれるな、と考えを巡らせてみてはいたのですが
悲しいけれど素敵なお話しなので、読み間違えしたくないなと思いまして。
もし、機会があれば陛下との謁見時のお話し、
王子サイドの気持ちの変化や、思い出が消去されていくコトに気が付いた時の感情、
彼のその後なども読んでみたいです。