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第一夜
雨の森にて
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なぜこうなってしまったのか…それはわからない。だが順を追って語っていこう。
それは、前々日の夕刻ごろに端を発する。
始まりは、夕闇が迫る雨の森をひた走っていた時だった…。
…雨は嫌いだ。
大事なものを、根こそぎ奪って流れてゆくから。
ちょうどこんな雨の日だったんだろう…俺から家族が去っていったのは。
俺は孤児院で育った。
育ての親であるシスター・リズからは、俺の家族は河川の氾濫による洪水で全員亡くなったと聞いている。つまり俺の家族は、雨に奪われたのだ。残されたのは俺一人。あとは首から下げている、サイズの合わない赤い石の指輪だけだ。顔も覚えていないが母親の形見だろうそれは、以来ずっと身に付けるようにシスターからは言いつけられていた。今では体の一部となっている。
俺はカシアン。
伸び気味の黒髪に黒瞳、母親似と思われる中性的な顔立ちの他は取り立てて特徴も思いつかない。一応の肩書きは二十歳を少し越したばかりの学者見習いなのだが、見習いというよりもただの下っ端といったほうが実像に近いだろう。現に今も上司である教授の命で書類を届けにいったところだ。たまたま生まれ育った孤児院がこの近くだったため『里帰りがてら、行ってくるといい』と言われて押し付けられたのだ。
しかし、妙だ。ここらあたりの森は知っている場所のはずなのに、ここがどこなのかわからなくなっている。…この年になって迷子になるとは思わなかった。昼なお暗い森は、時間の感覚を曖昧にさせる。
見上げた木々の隙間からほんの僅かに覗く雨雲が、だんだんと色合いを濃くしていく。そう時をおかずして、濃紺に変わっていくだろう。木が生い茂る森だからか、雨がそう激しく感じないのが救いだった。だが、ただそれだけ。
ふと、嫌なことを思い出した。同僚で友人でもあるオリバーが同じように書類を届けに行き、そのまま行方不明になっていると聞いた。他の同僚の見解は『教授の変人ぶりに嫌気がさして実家にでも逃げ帰ったんじゃないのか?』というのが共通の認識となっているが、その行方不明になった場所というのがこの辺りの森だったはず。まさか…この森の狼にでも襲われたんじゃないだろうな?
遠くからオオカミの遠吠えが聞こえてくる。気のせいだろうと思いたかったが、現実はそんなに甘くはなかった。遠くかすかな声が、今ははっきりと耳に届く。これは早く人里に…せめてオオカミを防げる小屋にでもたどり着かないと、明日の朝日を拝む前に奴らの腹の中に入ってしまう。
歩く速さが小走りから本気の走りに切り替わる。足元で跳ねる水の音がオオカミを呼び寄せないことを祈るばかりだ。
走って、走って…。
足を止めればすぐそばにオオカミの息遣いが聞こえる気がして、必死に走り続けた。決して臆病風に吹かれたわけではない。実際、オオカミの群れが近づいてくるのがわかる。遠吠えが近くなっている!
木々の向こうに、かすかに明かりが見えた気がした。あれが魔女の小屋だろうと誘いの鬼火だろうと、構うものか! 明かりが近くなってくる。助かる…これで助かる!
ふと、足元から地面の感覚が消失した。
しまった! 明かりに注目するあまり、足元の注意を怠ったか!
崖か何かを踏み外したか…そのまま俺は暗闇の中に落下していった。
あの変人教授…このまま死んだら、狼の腹の中からでも恨みの念を飛ばしてやる…!
その心の声が、俺の最後の記憶になった。
それは、前々日の夕刻ごろに端を発する。
始まりは、夕闇が迫る雨の森をひた走っていた時だった…。
…雨は嫌いだ。
大事なものを、根こそぎ奪って流れてゆくから。
ちょうどこんな雨の日だったんだろう…俺から家族が去っていったのは。
俺は孤児院で育った。
育ての親であるシスター・リズからは、俺の家族は河川の氾濫による洪水で全員亡くなったと聞いている。つまり俺の家族は、雨に奪われたのだ。残されたのは俺一人。あとは首から下げている、サイズの合わない赤い石の指輪だけだ。顔も覚えていないが母親の形見だろうそれは、以来ずっと身に付けるようにシスターからは言いつけられていた。今では体の一部となっている。
俺はカシアン。
伸び気味の黒髪に黒瞳、母親似と思われる中性的な顔立ちの他は取り立てて特徴も思いつかない。一応の肩書きは二十歳を少し越したばかりの学者見習いなのだが、見習いというよりもただの下っ端といったほうが実像に近いだろう。現に今も上司である教授の命で書類を届けにいったところだ。たまたま生まれ育った孤児院がこの近くだったため『里帰りがてら、行ってくるといい』と言われて押し付けられたのだ。
しかし、妙だ。ここらあたりの森は知っている場所のはずなのに、ここがどこなのかわからなくなっている。…この年になって迷子になるとは思わなかった。昼なお暗い森は、時間の感覚を曖昧にさせる。
見上げた木々の隙間からほんの僅かに覗く雨雲が、だんだんと色合いを濃くしていく。そう時をおかずして、濃紺に変わっていくだろう。木が生い茂る森だからか、雨がそう激しく感じないのが救いだった。だが、ただそれだけ。
ふと、嫌なことを思い出した。同僚で友人でもあるオリバーが同じように書類を届けに行き、そのまま行方不明になっていると聞いた。他の同僚の見解は『教授の変人ぶりに嫌気がさして実家にでも逃げ帰ったんじゃないのか?』というのが共通の認識となっているが、その行方不明になった場所というのがこの辺りの森だったはず。まさか…この森の狼にでも襲われたんじゃないだろうな?
遠くからオオカミの遠吠えが聞こえてくる。気のせいだろうと思いたかったが、現実はそんなに甘くはなかった。遠くかすかな声が、今ははっきりと耳に届く。これは早く人里に…せめてオオカミを防げる小屋にでもたどり着かないと、明日の朝日を拝む前に奴らの腹の中に入ってしまう。
歩く速さが小走りから本気の走りに切り替わる。足元で跳ねる水の音がオオカミを呼び寄せないことを祈るばかりだ。
走って、走って…。
足を止めればすぐそばにオオカミの息遣いが聞こえる気がして、必死に走り続けた。決して臆病風に吹かれたわけではない。実際、オオカミの群れが近づいてくるのがわかる。遠吠えが近くなっている!
木々の向こうに、かすかに明かりが見えた気がした。あれが魔女の小屋だろうと誘いの鬼火だろうと、構うものか! 明かりが近くなってくる。助かる…これで助かる!
ふと、足元から地面の感覚が消失した。
しまった! 明かりに注目するあまり、足元の注意を怠ったか!
崖か何かを踏み外したか…そのまま俺は暗闇の中に落下していった。
あの変人教授…このまま死んだら、狼の腹の中からでも恨みの念を飛ばしてやる…!
その心の声が、俺の最後の記憶になった。
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