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3章
兄と弟と妹と(後) :緋桐
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俺が今まで常識だと思っていた事は、一体何だったのだろうか?
あの日からずっとそんな考えばかりが心に浮かぶ。
近年、我が国……いや、ヒノモト国の上層部で話題となっていたのは、ヤマト国で流通している画期的な商品や、兵座や貸馬屋をはじめとした新しい組織や機構だった。よほど優秀な人材を登用したのだろうともっぱらの噂だったが、その人物の特定までは出来なかった。ただ商品に関しては全て吉野家という御用商人が関わっていた為、ヤマト国と何かしらの取り引きをした吉野家が国の予算を使って開発をしたのだろうと予測が出来た。なにせ吉野家に関する詳しい情報が全くと言って良いほどに得られないのだ。国が主導で情報を隠蔽していると見て間違いなく、俺達ヒノモト国上層部の予測はほぼ確定だと思われていた。
その吉野家が、俺が幼少時に途絶えたとされた碧宮家だったなんて誰が想像できただろうか。しかも俺にとって人生を変えた恩人とも言える櫻嬢……いや、心の中で呼びかける名なら誰に憚る必要もないのだから、櫻姫で良いだろう。櫻姫が間違いなく姫であったことにも驚いた。5年前、牡丹様が念押しのように素性は探るなと言っていた事の意味が今になって解る。ということは、牡丹様は櫻姫たちの素性を知っていたということだ。俺にも一言教えておいてくれたら……と思ったが、同時に当時の俺が相手なら今の俺だって教えないとも思った。
当時の俺は良くも悪くも若く、正義感を暴走させて今直ぐにでも碧宮家を復興させなくてはと独断で動いていたかもしれない。それが彼女たち一家を危険にさらす行為だなんて思わなかっただろうし、思ったとしても俺なら守れると驕っていた可能性もある。
俺の腕は2本しかなく、守る事のできる範囲は限られていて……
俺の考えは所詮一人の考えでしか無く、多数の知恵には敵わない。
そんな事にすら、櫻姫を守れなかったあの一件以前は気付けなかった。
何はともあれ、その碧宮家がヤマト国の様々な改革の大元だったなんて、自分の目で見ていなければ信じられなかっただろう。
しかも……しかも、それが精霊様の御業によるものだなんて!
初めてその御業の片鱗を垣間見たのは、誘拐された櫻姫の捜索に向かう鬱金殿や槐殿、山吹が乗る船に飛び移った時だった。3人が乗る船が港から出ていくのが見え、それに追いつく為に停泊中や出港したばかりの幾つもの船を足場にして彼らの船に飛び移ったのだが、その時にすでに違和感はあった。あまりにも船足が速いのだ。余裕で飛び移れると思っていた距離だったのだが、かなりギリギリだった。風が特別強いという事もなく、特別沢山の漕手がいるという訳でもないのに、彼らの船だけが明らかに速い。ただ、これは積荷の重さを含めた船の重さや構造など、差が出来てしまう理由は幾つでも考えられる。だから違和感は感じたものの、櫻姫の救出という大事と比べてしまえば、後回しにできる程度の違和感だった。
次に目にした御業は、違和感なんて言葉では誤魔化せるようなものではなかった。なにせ櫻姫が海面を走ってこちらに向かってくるのだ、夢かもしれないと思って密かに手の甲をつねったぐらいだ。ただその直後に発生した襲撃に、その事を尋ねる余裕はなかった。櫻姫や彼女を守って負傷する鬱金殿を山吹と協力して守るが、飛来する矢の数が尋常ではなかった。何が何でもここで討ち滅ぼすという意図が明確に感じられる攻撃に、俺や山吹ですら防戦一方の戦いを強いられた。
その後、不自然な海霧によって敵は視界を遮られたようで徐々に矢の数は減り、しばらくすると諦めたのかピタリと襲撃が止んだ。俺にとってはかなり長い襲撃だったのだが、実際にはそれほど長い時間ではなかったようで、濃い霧の向こうにかなり薄く見える太陽の位置はそれほど変わっていない。
警戒を解くわけにはいかないが、疲労困憊状態の俺と山吹はひとまず船室へと向かったのだが、そこで待ち受けていたのは宙を蛇行する水の流れだった。いや、俺も自分で何を言っているのか……と思うし、兄者たちにこのことをうまく説明できる気もしないのだが、見たままをいえば水が何も無い空間を浮いて流れていたのだ。幻でも見ているのかと思って水に触れようとしたところで、精霊様の御業だから触れるなと山吹に止められた。
ここで初めて俺は今まで感じていた違和感が精霊様の御業だと言うことを知った。
知りはしたものの、やはりここでも尋ねる機会はなかった。なにせ俺達と入れ違いに櫻姫はきれいな布を取りに部屋を出て行ったし、入った船室では鬱金殿が大変なことになっていた。とりあえず応急処置は終わっていたが、見るからに状態は良くない。みるみるうちに鬱金殿の顔から生気が消えていき、櫻姫が戻ってくる頃には呼吸すら怪しくなっていた。
彼らがやっている胸を圧迫する行為などの意味も気になるが、相手がミズホ国絡みだと聞いて即座に懐から薬を取り出した。この丸薬は王族用でかなり高価な薬草他を使用しているが、その分効果は高い。本来ならば王族以外に使用してはならないという決まりなのだが、悲しむ櫻姫を見てなお無視する事などできはしない。
その丸薬を槐殿や山吹にも渡し、念の為に櫻姫が無傷であることを確認しようとした矢先、鬱金殿が力尽きられてしまった。
その衝撃は確かにあったのだが、俺にとってはその直後に生じた意味不明な出来事の方が衝撃的だった。櫻姫のいた場所から何故か見知らぬ男が3人現れたのだ。まとっている衣装からヤマト国、ミズホ国、そしてヒノモト国の者だと察する事はできたが、明らかに気配が尋常ではない。とっさに櫻姫を守らねばと剣を抜いたのだが、その3人が精霊で……しかも櫻姫の守護精霊だというではないか。
いや、いやいやいやいや……
精霊様が不完全である人の姿を取るなんてありえない。
そもそも精霊を大社以外で、霊格がそれほど高くない俺が目視できるなんてありえない。
何より数が……精霊の数、つまり守護の数がありえない。
俺の理解を超えた事態に思考も呼吸も止まりそうで、こんな事は生まれて初めてのことだった。
その後、色々とあって俺は王宮へ戻り、そして王宮を出た。
その選択を俺は欠片も後悔していないが、父王や兄者や皐月には申し訳ない事をしたとは思っている。
そして火箭家の苧環姫にも。
彼女に対して思う所は多々あるが、彼女が俺を思う気持ちに偽りはなく……。それも俺の身分ではなく、俺自身を見てくれていたことを今回初めて理解した。王族を抜けて国を出ると決めた俺に会うため、彼女は謹慎処分が出ていたのにも関わらず護衛を振り切って港まで駆けつけた。そして自分も一緒に行くと言い出したのだ。王族を離れた俺に付いてくる必要はないと伝えたが、彼女は
「緋桐殿下が王子だからお慕いしていた訳ではありませぬ!!」
と涙を浮かべて抗議してきた。そこで初めて、俺への気持ちも確かにあるのだろうが多少の打算もあるに違いないと思っていた俺の不見識を恥じた。だからといって彼女の手を取るどころか笑顔を向ける事すらできない。なので背を向け、ただ一言だけ「息災で暮らせ」とだけ伝えて海上の人となった。
俺はもう良い年をした大人だから、きちんと考えて結論を出しさえすれば大きな失敗には繋がらないと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
俺よりも大人な山吹に思わずそう愚痴ってしまったのだが、その山吹も
「私も今、全く同じ気持ちです」
と、言葉少なに返された。彼は世間一般では吉野家の奉公人のように思われているが、本来の彼は俺ですら敵わないかもしれない腕利きの随身だ。その彼が守るべき相手である主を守りきれなかったのだ、その心中は察するに余り有る。
そんなふうに過去を振り返ることができたのは、船が陸地が見えなくなるほど沖に出るまでだった。
「浦さん、全力ジェットフォイル始動して!!
それから龍さんは、この船を少しだけ浮かせられる?」
「ようはこの船に上向きの風を働かせれば良いのじゃな?」
「うん。それから金さんは念の為に船全体を「硬化」技能で強化して」
矢継ぎ早に櫻姫が指示を出し始めたかと思った次の瞬間、後ろにすっ転ばなかったのが奇跡だと思えるほどの衝撃が襲ってきた。何事かと周囲を見れば、信じられないほどの高速で船が海の上を滑っていた。こんな速度は海面が全て滑らかな氷になりでもしない限り不可能なのだが、現実に凄まじい速度で船は疾走していく。
「じゃ……とほーいる?」
聞き慣れない単語の意味を知ろうと訪ねようとしたのだが、とてもではないが風が強すぎて口を開けられない。それどころか目も開けられないし、気を抜けば体ごと持っていかれそうな強風だ。
「さ、櫻嬢、船の中へと入ったほうが……」
「いえ、私は大丈夫ですから、緋桐殿下は兄上たちといっしょに中へ」
そう言う彼女の髪はまったく乱れておらず、彼女の周辺だけ無風だということが解る。どうなっているのか……。いや、おそらく彼女の近くにいる総髪の風の精霊といかいう怪しいやつの力なのだろうが、風の精霊なんて俺は聞いたことがない。
槐殿たちに促されて船室に戻った俺は、溜まりに溜まった質問を立て続けにぶつけたのだが、帰ってきた返事は曖昧なものだった。曰く、許可を得られない限り答えられないそうで、今は少し待てとのことだった。彼らの口調から察し無くても許可を求めなくてはならない相手は精霊様方だということは解るし、その精霊様方は今とても忙しい。それに彼らからすれば俺の疑問を解決するよりも、鬱金殿の回復が優先されるのは当然だ。何故か一緒に行きたいという俺の希望を叶えてくれてはしたが、彼らには俺を連れて行く義務はない。あくまでも厚意で同行を許してもらっている状況なので、無理は言えない。
ただ今になって思えばあの時にもう少し食い下がって少しでも情報を得ておけば、その後の衝撃は和らげられる事ができたのではないかと思う。
ヒノモト国を出たその日の昼過ぎには、超が着くほどに巨大な船へと到着した。
そこで出会ったのは櫻姫とよく似た女性で、彼女が碧宮家の姫沙羅殿だった。たしか牡丹様より少し年下だったと記憶していたのだが、随分とお若く見える。気丈にも俺の来訪を歓迎する事を笑顔で述べられた後、俺が案内されるのを確認してから、同母弟が封じられている巨大な黄金色の石を抱きしていた。その後姿がかすかに震えていた事に俺は気付いたが、俺は悲しむ姫沙羅殿にかける言葉を探し出せず、何も言えないままその場を後にした。
案内された船の甲板には驚きしかなかった。俺は甲板に畑を持つ船なんて、見たことも聞いたことも考えたこともない。しかも湯に入る施設まであった。湯や水に浸かるなんて、水の妖が出たらどうする気だと青くなったが、その対策はしっかりとしてあるらしい。その他、信じられないぐらいに清潔な部屋や布類、柔らかい御帳台、言葉を失うほどに美味しい料理、そして不浄に関するアレコレにいたるまで、今までの俺の常識が音を立てて崩れてしまうモノが満載の船だった。
ところがその数日後、拠点だと言う島に案内されて、船のアレコレは全て簡易版でしかなかったことを知り、思考することを放棄したくなったし、実際思考停止していたと思う。いや、あれは停止じゃなくて暴走だったかもしれない。なにせ、櫻姫をヒノモト王となる兄者の第一妃にすれば、どれほどヒノモト国の益となるだろうか……なんて考えが頭をよぎる始末だ。
だが、同時に胸に苦々しい思いが湧き上がる。その湧き上がった気持ちには蓋をして、そのうえでその選択肢は堅苦しいことを嫌う彼女を幸せにしないだろうと却下した。
本当に色々とあった。王族時代も色々と濃い人生を送っていたと思うが、この半月には敵わないだろう。それぐらいに色々とあった。
精霊様の御業が常に傍らにある生活は衝撃の連続だったし、俺の守護精霊だという精霊がいきなり現れたかと思ったら、櫻姫の守護精霊の桃太郎様に勝負を挑んで負けたこともあった。精霊といえば鬱金殿の守護精霊を巨大な精霊石に変える事件?もあった。その精霊石の中で鬱金殿は眠り続けることになったのだが、その精霊石に霊力を籠めるのは姫沙羅殿の守護精霊の山幸彦様だった。
ここで精霊様は人型なのが当たり前なのか、名前があるのが当たり前なのかと疑問に思い質問したところ、全て櫻姫の意向によるものだということが判明した。本当に彼女は規格外にも程がある……。
また島に戻った数日後には、取り引きの都合ですぐさまヤマト国へと向かわねばならない槐殿や山吹が、留守番する事になった俺に念押しにも程があるほどに念を押して
「くれぐれも、くーれーぐーれーも!
母上や櫻、橡を頼む」
と頭を下げてきた。アレは外敵から守ってほしいという意味に加えて、手を出すなよという意味が混じっていることには流石に気づいた。俺の評判は拙いなりに一生懸命に考えて実行した策の結果だ。つまり自分の撒いた種なので仕方がないとは思っているのだが、あまりの念押しに苦笑してしまいたくなる。
俺とは逆に言葉の裏の意味に気づいていないのは櫻姫で、
「この島は危険な動物や妖も出ないし、三太郎さんもいるから大丈夫だよ」
と笑顔で返事をして、兄たちに渋い顔をさせていた。こんなに危機感がない妹は確かに兄として心配だろう。もしこれが皐月だったとしたら、俺も頭を抱えていたと思う。
そしてそんな槐殿と姫沙羅殿は親子だなと思ったのは、俺が櫻姫の護衛として禍津地に渡ると決めた時だった。姫沙羅殿は俺に娘を頼むと頭を下げつつも、決して間違いのないようにと釘をさしてきた。あの笑顔の圧は牡丹様とは別種ではあるがかなり強く、思わず背筋を伸ばして了承を伝えたぐらいだ。
こうして俺は、櫻姫やその守護精霊と一緒に禍津地へと向かう船に乗っている。
俺の同行を真っ先に認めてくれたのは、実は三太郎と呼ばれる精霊様方だった。自分たちの情報を知った俺を野放しにするより、手元に置いておいたほうが管理しやすいという理由だったようだ。確かに俺でも同じ判断をするだろう。
櫻姫は直ぐにでも禍津地へと出発したかったようだが、当然ながら長旅にはそれ相応の準備が必要だ。母親である姫沙羅殿だけでなく他の家族や精霊様たちにも窘められ、しぶしぶ大急ぎで準備をすることにしたようだった。その間に精霊様たちは船の改造や修理などを行われ、槐殿や山吹もヤマト国との商談を終えて再びヒノモトへと向かった。ヒノモト国では今度の無の月が終わるのを待って、太陽の熱による塩の生成を試験的に始めるらしい。二人がヒノモト国から戻るの際には、ヒノモトの港に特別に保管してもらっておいたもう一つの船も回収し、それも禍津地へと向かう船へ搭載した。
何もかもが大急ぎの作業だったが、一つとして不必要なモノはなかった。
そして、こうして俺がここに居ることも必要な事なのだと思う。
この航海、そして禍津地で何が待ち構えていても、かならず櫻姫と彼女の大切なモノは守り切るのだと、俺は空と海と己の剣に誓ったのだった。
あの日からずっとそんな考えばかりが心に浮かぶ。
近年、我が国……いや、ヒノモト国の上層部で話題となっていたのは、ヤマト国で流通している画期的な商品や、兵座や貸馬屋をはじめとした新しい組織や機構だった。よほど優秀な人材を登用したのだろうともっぱらの噂だったが、その人物の特定までは出来なかった。ただ商品に関しては全て吉野家という御用商人が関わっていた為、ヤマト国と何かしらの取り引きをした吉野家が国の予算を使って開発をしたのだろうと予測が出来た。なにせ吉野家に関する詳しい情報が全くと言って良いほどに得られないのだ。国が主導で情報を隠蔽していると見て間違いなく、俺達ヒノモト国上層部の予測はほぼ確定だと思われていた。
その吉野家が、俺が幼少時に途絶えたとされた碧宮家だったなんて誰が想像できただろうか。しかも俺にとって人生を変えた恩人とも言える櫻嬢……いや、心の中で呼びかける名なら誰に憚る必要もないのだから、櫻姫で良いだろう。櫻姫が間違いなく姫であったことにも驚いた。5年前、牡丹様が念押しのように素性は探るなと言っていた事の意味が今になって解る。ということは、牡丹様は櫻姫たちの素性を知っていたということだ。俺にも一言教えておいてくれたら……と思ったが、同時に当時の俺が相手なら今の俺だって教えないとも思った。
当時の俺は良くも悪くも若く、正義感を暴走させて今直ぐにでも碧宮家を復興させなくてはと独断で動いていたかもしれない。それが彼女たち一家を危険にさらす行為だなんて思わなかっただろうし、思ったとしても俺なら守れると驕っていた可能性もある。
俺の腕は2本しかなく、守る事のできる範囲は限られていて……
俺の考えは所詮一人の考えでしか無く、多数の知恵には敵わない。
そんな事にすら、櫻姫を守れなかったあの一件以前は気付けなかった。
何はともあれ、その碧宮家がヤマト国の様々な改革の大元だったなんて、自分の目で見ていなければ信じられなかっただろう。
しかも……しかも、それが精霊様の御業によるものだなんて!
初めてその御業の片鱗を垣間見たのは、誘拐された櫻姫の捜索に向かう鬱金殿や槐殿、山吹が乗る船に飛び移った時だった。3人が乗る船が港から出ていくのが見え、それに追いつく為に停泊中や出港したばかりの幾つもの船を足場にして彼らの船に飛び移ったのだが、その時にすでに違和感はあった。あまりにも船足が速いのだ。余裕で飛び移れると思っていた距離だったのだが、かなりギリギリだった。風が特別強いという事もなく、特別沢山の漕手がいるという訳でもないのに、彼らの船だけが明らかに速い。ただ、これは積荷の重さを含めた船の重さや構造など、差が出来てしまう理由は幾つでも考えられる。だから違和感は感じたものの、櫻姫の救出という大事と比べてしまえば、後回しにできる程度の違和感だった。
次に目にした御業は、違和感なんて言葉では誤魔化せるようなものではなかった。なにせ櫻姫が海面を走ってこちらに向かってくるのだ、夢かもしれないと思って密かに手の甲をつねったぐらいだ。ただその直後に発生した襲撃に、その事を尋ねる余裕はなかった。櫻姫や彼女を守って負傷する鬱金殿を山吹と協力して守るが、飛来する矢の数が尋常ではなかった。何が何でもここで討ち滅ぼすという意図が明確に感じられる攻撃に、俺や山吹ですら防戦一方の戦いを強いられた。
その後、不自然な海霧によって敵は視界を遮られたようで徐々に矢の数は減り、しばらくすると諦めたのかピタリと襲撃が止んだ。俺にとってはかなり長い襲撃だったのだが、実際にはそれほど長い時間ではなかったようで、濃い霧の向こうにかなり薄く見える太陽の位置はそれほど変わっていない。
警戒を解くわけにはいかないが、疲労困憊状態の俺と山吹はひとまず船室へと向かったのだが、そこで待ち受けていたのは宙を蛇行する水の流れだった。いや、俺も自分で何を言っているのか……と思うし、兄者たちにこのことをうまく説明できる気もしないのだが、見たままをいえば水が何も無い空間を浮いて流れていたのだ。幻でも見ているのかと思って水に触れようとしたところで、精霊様の御業だから触れるなと山吹に止められた。
ここで初めて俺は今まで感じていた違和感が精霊様の御業だと言うことを知った。
知りはしたものの、やはりここでも尋ねる機会はなかった。なにせ俺達と入れ違いに櫻姫はきれいな布を取りに部屋を出て行ったし、入った船室では鬱金殿が大変なことになっていた。とりあえず応急処置は終わっていたが、見るからに状態は良くない。みるみるうちに鬱金殿の顔から生気が消えていき、櫻姫が戻ってくる頃には呼吸すら怪しくなっていた。
彼らがやっている胸を圧迫する行為などの意味も気になるが、相手がミズホ国絡みだと聞いて即座に懐から薬を取り出した。この丸薬は王族用でかなり高価な薬草他を使用しているが、その分効果は高い。本来ならば王族以外に使用してはならないという決まりなのだが、悲しむ櫻姫を見てなお無視する事などできはしない。
その丸薬を槐殿や山吹にも渡し、念の為に櫻姫が無傷であることを確認しようとした矢先、鬱金殿が力尽きられてしまった。
その衝撃は確かにあったのだが、俺にとってはその直後に生じた意味不明な出来事の方が衝撃的だった。櫻姫のいた場所から何故か見知らぬ男が3人現れたのだ。まとっている衣装からヤマト国、ミズホ国、そしてヒノモト国の者だと察する事はできたが、明らかに気配が尋常ではない。とっさに櫻姫を守らねばと剣を抜いたのだが、その3人が精霊で……しかも櫻姫の守護精霊だというではないか。
いや、いやいやいやいや……
精霊様が不完全である人の姿を取るなんてありえない。
そもそも精霊を大社以外で、霊格がそれほど高くない俺が目視できるなんてありえない。
何より数が……精霊の数、つまり守護の数がありえない。
俺の理解を超えた事態に思考も呼吸も止まりそうで、こんな事は生まれて初めてのことだった。
その後、色々とあって俺は王宮へ戻り、そして王宮を出た。
その選択を俺は欠片も後悔していないが、父王や兄者や皐月には申し訳ない事をしたとは思っている。
そして火箭家の苧環姫にも。
彼女に対して思う所は多々あるが、彼女が俺を思う気持ちに偽りはなく……。それも俺の身分ではなく、俺自身を見てくれていたことを今回初めて理解した。王族を抜けて国を出ると決めた俺に会うため、彼女は謹慎処分が出ていたのにも関わらず護衛を振り切って港まで駆けつけた。そして自分も一緒に行くと言い出したのだ。王族を離れた俺に付いてくる必要はないと伝えたが、彼女は
「緋桐殿下が王子だからお慕いしていた訳ではありませぬ!!」
と涙を浮かべて抗議してきた。そこで初めて、俺への気持ちも確かにあるのだろうが多少の打算もあるに違いないと思っていた俺の不見識を恥じた。だからといって彼女の手を取るどころか笑顔を向ける事すらできない。なので背を向け、ただ一言だけ「息災で暮らせ」とだけ伝えて海上の人となった。
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俺よりも大人な山吹に思わずそう愚痴ってしまったのだが、その山吹も
「私も今、全く同じ気持ちです」
と、言葉少なに返された。彼は世間一般では吉野家の奉公人のように思われているが、本来の彼は俺ですら敵わないかもしれない腕利きの随身だ。その彼が守るべき相手である主を守りきれなかったのだ、その心中は察するに余り有る。
そんなふうに過去を振り返ることができたのは、船が陸地が見えなくなるほど沖に出るまでだった。
「浦さん、全力ジェットフォイル始動して!!
それから龍さんは、この船を少しだけ浮かせられる?」
「ようはこの船に上向きの風を働かせれば良いのじゃな?」
「うん。それから金さんは念の為に船全体を「硬化」技能で強化して」
矢継ぎ早に櫻姫が指示を出し始めたかと思った次の瞬間、後ろにすっ転ばなかったのが奇跡だと思えるほどの衝撃が襲ってきた。何事かと周囲を見れば、信じられないほどの高速で船が海の上を滑っていた。こんな速度は海面が全て滑らかな氷になりでもしない限り不可能なのだが、現実に凄まじい速度で船は疾走していく。
「じゃ……とほーいる?」
聞き慣れない単語の意味を知ろうと訪ねようとしたのだが、とてもではないが風が強すぎて口を開けられない。それどころか目も開けられないし、気を抜けば体ごと持っていかれそうな強風だ。
「さ、櫻嬢、船の中へと入ったほうが……」
「いえ、私は大丈夫ですから、緋桐殿下は兄上たちといっしょに中へ」
そう言う彼女の髪はまったく乱れておらず、彼女の周辺だけ無風だということが解る。どうなっているのか……。いや、おそらく彼女の近くにいる総髪の風の精霊といかいう怪しいやつの力なのだろうが、風の精霊なんて俺は聞いたことがない。
槐殿たちに促されて船室に戻った俺は、溜まりに溜まった質問を立て続けにぶつけたのだが、帰ってきた返事は曖昧なものだった。曰く、許可を得られない限り答えられないそうで、今は少し待てとのことだった。彼らの口調から察し無くても許可を求めなくてはならない相手は精霊様方だということは解るし、その精霊様方は今とても忙しい。それに彼らからすれば俺の疑問を解決するよりも、鬱金殿の回復が優先されるのは当然だ。何故か一緒に行きたいという俺の希望を叶えてくれてはしたが、彼らには俺を連れて行く義務はない。あくまでも厚意で同行を許してもらっている状況なので、無理は言えない。
ただ今になって思えばあの時にもう少し食い下がって少しでも情報を得ておけば、その後の衝撃は和らげられる事ができたのではないかと思う。
ヒノモト国を出たその日の昼過ぎには、超が着くほどに巨大な船へと到着した。
そこで出会ったのは櫻姫とよく似た女性で、彼女が碧宮家の姫沙羅殿だった。たしか牡丹様より少し年下だったと記憶していたのだが、随分とお若く見える。気丈にも俺の来訪を歓迎する事を笑顔で述べられた後、俺が案内されるのを確認してから、同母弟が封じられている巨大な黄金色の石を抱きしていた。その後姿がかすかに震えていた事に俺は気付いたが、俺は悲しむ姫沙羅殿にかける言葉を探し出せず、何も言えないままその場を後にした。
案内された船の甲板には驚きしかなかった。俺は甲板に畑を持つ船なんて、見たことも聞いたことも考えたこともない。しかも湯に入る施設まであった。湯や水に浸かるなんて、水の妖が出たらどうする気だと青くなったが、その対策はしっかりとしてあるらしい。その他、信じられないぐらいに清潔な部屋や布類、柔らかい御帳台、言葉を失うほどに美味しい料理、そして不浄に関するアレコレにいたるまで、今までの俺の常識が音を立てて崩れてしまうモノが満載の船だった。
ところがその数日後、拠点だと言う島に案内されて、船のアレコレは全て簡易版でしかなかったことを知り、思考することを放棄したくなったし、実際思考停止していたと思う。いや、あれは停止じゃなくて暴走だったかもしれない。なにせ、櫻姫をヒノモト王となる兄者の第一妃にすれば、どれほどヒノモト国の益となるだろうか……なんて考えが頭をよぎる始末だ。
だが、同時に胸に苦々しい思いが湧き上がる。その湧き上がった気持ちには蓋をして、そのうえでその選択肢は堅苦しいことを嫌う彼女を幸せにしないだろうと却下した。
本当に色々とあった。王族時代も色々と濃い人生を送っていたと思うが、この半月には敵わないだろう。それぐらいに色々とあった。
精霊様の御業が常に傍らにある生活は衝撃の連続だったし、俺の守護精霊だという精霊がいきなり現れたかと思ったら、櫻姫の守護精霊の桃太郎様に勝負を挑んで負けたこともあった。精霊といえば鬱金殿の守護精霊を巨大な精霊石に変える事件?もあった。その精霊石の中で鬱金殿は眠り続けることになったのだが、その精霊石に霊力を籠めるのは姫沙羅殿の守護精霊の山幸彦様だった。
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また島に戻った数日後には、取り引きの都合ですぐさまヤマト国へと向かわねばならない槐殿や山吹が、留守番する事になった俺に念押しにも程があるほどに念を押して
「くれぐれも、くーれーぐーれーも!
母上や櫻、橡を頼む」
と頭を下げてきた。アレは外敵から守ってほしいという意味に加えて、手を出すなよという意味が混じっていることには流石に気づいた。俺の評判は拙いなりに一生懸命に考えて実行した策の結果だ。つまり自分の撒いた種なので仕方がないとは思っているのだが、あまりの念押しに苦笑してしまいたくなる。
俺とは逆に言葉の裏の意味に気づいていないのは櫻姫で、
「この島は危険な動物や妖も出ないし、三太郎さんもいるから大丈夫だよ」
と笑顔で返事をして、兄たちに渋い顔をさせていた。こんなに危機感がない妹は確かに兄として心配だろう。もしこれが皐月だったとしたら、俺も頭を抱えていたと思う。
そしてそんな槐殿と姫沙羅殿は親子だなと思ったのは、俺が櫻姫の護衛として禍津地に渡ると決めた時だった。姫沙羅殿は俺に娘を頼むと頭を下げつつも、決して間違いのないようにと釘をさしてきた。あの笑顔の圧は牡丹様とは別種ではあるがかなり強く、思わず背筋を伸ばして了承を伝えたぐらいだ。
こうして俺は、櫻姫やその守護精霊と一緒に禍津地へと向かう船に乗っている。
俺の同行を真っ先に認めてくれたのは、実は三太郎と呼ばれる精霊様方だった。自分たちの情報を知った俺を野放しにするより、手元に置いておいたほうが管理しやすいという理由だったようだ。確かに俺でも同じ判断をするだろう。
櫻姫は直ぐにでも禍津地へと出発したかったようだが、当然ながら長旅にはそれ相応の準備が必要だ。母親である姫沙羅殿だけでなく他の家族や精霊様たちにも窘められ、しぶしぶ大急ぎで準備をすることにしたようだった。その間に精霊様たちは船の改造や修理などを行われ、槐殿や山吹もヤマト国との商談を終えて再びヒノモトへと向かった。ヒノモト国では今度の無の月が終わるのを待って、太陽の熱による塩の生成を試験的に始めるらしい。二人がヒノモト国から戻るの際には、ヒノモトの港に特別に保管してもらっておいたもう一つの船も回収し、それも禍津地へと向かう船へ搭載した。
何もかもが大急ぎの作業だったが、一つとして不必要なモノはなかった。
そして、こうして俺がここに居ることも必要な事なのだと思う。
この航海、そして禍津地で何が待ち構えていても、かならず櫻姫と彼女の大切なモノは守り切るのだと、俺は空と海と己の剣に誓ったのだった。
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だがそんな子犬のアルスには、ある重大な秘密があって……。
この話は、子犬と戯れながら巻き込まれ成長をしていく兄妹の物語。
※全102話で完結済。
★『小説家になろう』でも読めます★
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