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3章
16歳 -火の陰月7-
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アルティメットシスコン殿下。
略してアルシス殿下と攻略サイトやファンサイトで呼ばれていたミズホ国の第一王子の紫苑は、とにかく強烈なキャラクターでした。恋愛ゲームでは攻略対象でありながらもルート選択次第では彼に殺されてしまいますし、そうでなくても太陽を見ては姉との記憶を語り、月を見ては姉の優しさと美しさを称え、風が吹いても、花が咲いても全て姉と関連付ける、実際に居たら絶対にお近づきになりたくないレベルのシスコンでした。紫苑という名前の方が短いのにも関わらずファンがアルシス殿下と呼び続けていた理由も、彼のキャラクター性を表す言葉としてこれ以上適切なものはないからです。
そんな彼を実際に目の当たりにして思ったのは、お近づきになりたくないなんて考え方じゃ甘い! これは欠片も関わったら駄目なレベルのシスコンだ!!って事でした。
「いけません姉上、刺客です!!
姉上の随身に申し付ける! 今すぐ姉上の安全を確保しつつ船尾に退避せよ!」
「どっちが刺客なのよ!
私の頭を殴って問答無用で誘拐してきたの、そっちじゃない!」
「金瘡、その娘を今すぐ黙らせよ」
今まで一度も感じなかった温度を感じる程、菖蒲様に向かっての言葉は温かい気遣いに満ちているのに、その直後の室内にいる自分の随身へ向けた言葉は、小声なのに凍えそうな……いや、駄洒落じゃなく……本当に背筋がゾワッとするほどの冷たい声です。
拳を熱い湯で包まれてしまっている金瘡は主の命令に少しだけ戸惑ったものの、熱さに顔をしかめつつも再び私に向かってきました。
「菖蒲様! どうか、どうか助けてください!」
そう叫びながらも金瘡の突進を床を転がってギリギリで躱します。背中で腕がまとめられているので、床を転がると身体のあちこちが痛み、思わず顔をしかめてしまいます。ですがその痛みに気を取られている場合ではありません。慌てて立ち上がって扉へと向かおうとしますが、足首と膝の拘束のせいですぐに再び転んでしまいました。ただ幸運にも転んでいなかったら私の頭のあったであろう高さを金瘡の太い腕が横薙ぎにゴォッ!って音を立てながら過ぎていき、ギリギリのタイミングで躱せました。同時にドゴンッ!って音を立てて金瘡が床に転がります。どうも躱されるとは欠片も思っておらず、バランスを崩してしまったようです。
ただ金瘡の攻撃を躱せたのは私の実力などではなく、運が味方をしたからです。加えて拳を包むお湯の熱さが、金瘡の集中を阻害してくれた事も助けとなりました。ですがこんな幸運が何度も続くわけがありません。何とか扉の前まで近づけたと思った途端にガッ!と足首を掴まれて、そのままズルズルと引きずられて部屋の中央へと戻されてしまいました。その際の床との摩擦で、浴衣のような下着の裾がめくれ上がりってしまいます。膝のところで縛られているのでそれ以上はめくれ上がる事はありませんし、前世の影響で膝下を晒したぐらいでは羞恥心は湧きませんが、状況が状況だけに思わず悲鳴が上がってしまいます。
「ぃやぁあーーー!!!」
私の叫び声と同時に、今度は金瘡の顔を湯が包み込みました。
「ゴブォ! ガフッ!!」
たぶん「何だこれは!」的な事を言っているようですが、全く何を言っているのか解りません。それに手で湯を取り払おうとしても、頭を振りまくっても湯が金瘡の頭部から消える事はなく、その隙に何とか扉までたどり着けました。
今はこうやって浦さんたちの霊力のおかげで対処ができていますが、長くは持ちません。なにせ精霊は人間を意図的に傷つける事を基本しません。あくまでも基本なので例外は存在しますが、そんな事をすれば他の精霊たちから爪弾きにされますし、度が過ぎれば汚れが急激に溜まって妖化してしまいます。なので拳を包む湯も40度半ば~後半の湯ですし(それでも熱いとは思う)、顔を包む湯も浦さんの狙いは行動が著しく阻害されるレベルの呼吸困難で、窒息するまではやらないはずです。
ようやくたどり着いた扉には鍵がかかっていて、その向こうからは
「菖蒲様、今すぐ退避を!」
「こちらです!」
などと複数の声が聞こえてくるのですが、その声も足音も急速に遠ざかっていきます。慌てて扉の向こうに声が届くように、空っぽになった肺に酸素を送り込むべく息を大きく吸いました。
「菖蒲様の随身はあの日と同じ朝顔さんですか?!
朝顔さんならこの金瘡って男を見てください!
あの日の朝顔さんと似たようなことになってますから!!」
私がそうやって扉の向こうへ届けとばかりに叫ぶその隙を、金瘡は見逃しませんでした。金瘡は自身の熱さと苦しさも後回しにして、右腕を私の喉元に当ててそのまま体重を掛けて扉へと押し付けました。
「ゲホッ! あの時と違って冷めた白湯じゃないけど!
見て、お願い!!」
喉元を押さえつけられて一瞬呼吸が止まってしまい、苦しさのあまり咳き込みながら金瘡の顔を睨みつけます。金瘡も苦しいでしょうがこっちだって苦しく、お互いにやりたくもない我慢比べです。
思わず上がってしまう自分のうめき声の合間に、ストトトという走り寄る軽めの足音が聞こえ、続いてドンッ!!!と強烈な衝撃が背中に伝わりました。結果、図らずも金瘡に向かって頭突きをお見舞いすることになってしまいました。しかも浦さんがそのタイミングでちょうど水を消してしまったので、目から火花が散る程の衝撃です。
「あの時の女童か! 何故ここに居る!」
ですがそんな私の耳に、先程の衝撃が消し飛ぶほどの言葉が扉の向こうから聞こえてきました。
「朝顔さん! 助けて。あの人の勘違い止めて!!」
「黙れ!!!」
ゼーハーと荒い息をする私と金瘡が、二人揃って叫びます。しかも金瘡は更に腕に力が込めてきて、もう声を出すどころか呼吸すら辛くて仕方がありません。
「朝顔、わたくしの名において許します。
扉をどのような手段を使ってでも開けなさい」
「はっ!」
呼吸が苦しくて霞む視界に、分厚い扉の蝶番部分を破壊して入ってくる朝顔さんが映りました。その途端、ホッと安心して意識が遠くなります。
<気持ちは解りますが、気を失っている場合ではないですよ!>
そう浦さんが心話で気合を入れてくれなかったら、意識が飛んでいたかもしれません。確かに浦さんの言う通り、気絶なんてしている場合ではありません。現に私を見た朝顔さんや菖蒲様の顔が驚きのあまり固まってしまっていて、その隙に金瘡は私の背後に回って羽交い締めにしてから、アルシス殿下の元にまで引きずっていってしまいました。
「……紫苑、貴方は何をしているのですか」
色々とキャパオーバーしてしまったのか、掠れた声で菖蒲様がそう問いかけます。これで少しは状況が好転してくれるはずと思った私の耳に、信じられない言葉が飛び込んできました。
「あぁ、姉上。お騒がせしてしまい、申し訳ありません。
姉上の見えないところで全てを終わらせる予定だったのですが……。
安心してください、この刺客に奪われた霊力は全て取り戻してみせますゆえ」
「何を言っているのです!」
「姉上の膨大な霊力をこの娘が奪ったことは、様々な情報や状況から明白。
私は国にある膨大な文献を紐解き、
霊力の高い娘の生き血で霊力を回復させる方法を見つけました」
(なにその異世界版エリザベート・バートリ!!)
思わずツッコミを入れてしまいますが、そんな方法で霊力を回復できるとは初耳です。
<そのような事実は無い!!
精霊力というものの本質を考えれば、
そのような事で回復できる訳がないと何故解らぬのだ!>
ですよねー。でもアルシス殿下はどうやら恋は盲目ならぬ姉には盲目のようで、
「安心してください。姉上が穢れる事のないよう全て別室で処理します。
ただ娘が死んだ途端に霊力が霧散する可能性がありますので、
できれば隣室で待っていてくださると嬉しいのですが」
なんて嬉しそうに段取りを話し続けます。どうやらアルシス殿下の予定では菖蒲様のすぐ近く、ただし菖蒲様が下賤な血で穢れないように壁などで遮ったところで私を半殺しにし、私の血を使って謎の儀式を行って菖蒲様に霊力を移すつもりだったようです。
アルシス殿下の言葉をじっと聞いていた菖蒲様はだんだん表情が悲しそうなものへと変わっていきました。その事に気づいたアルシス殿下が焦り、目に見えてオロオロとし始めます。
「姉上、何か不備がございましたか?」
「不備? それ以前の問題です。
この方は私にとって命の恩人、大切なお方なのですよ!
その方を傷つけると……しかもわたくしの弟が!!」
「命の……恩人?
ですが姉上の霊力の消失の原因はこの娘でしょう?
そしてこの娘の有りえぬほどの霊力、どう考えても奪ったとしか……」
「そこからして間違っているのです!!」
なんだかこの5年の間に菖蒲様がとってもお元気になっておられます。以前は儚げすぎて今にも倒れるか消えてしまいそうな印象だったのに、弟を叱責している姿は生命力に満ちているように見えます。勿論、弟がとんでもないことをやらかしているので、生き生きとしていると表現はできませんし、違う意味で倒れそうには見えますが……。
「何より、貴方は……あの男と同じことをしようとしているのですよ!」
菖蒲様が言ったその言葉はアルシス殿下にとってクリティカルヒットだったようで、衝撃のあまりアルシス殿下は目を見開いて固まってしまいました。
「わた……私が、あの……あの男と同じ……だと、
そう姉上は仰るのですか……」
力なく呟かれた言葉と一緒に、ガクリとその場に崩れ落ちます。その時になって様子を伺っていた朝顔さんが、私を金瘡からサッと奪い返してくれました。
「ありがとうございます」
「礼ならば姫様へ申せ。お前を助けると決めたのは姫様だ」
そう言いつつも私を拘束していた縄を順に解いていってくれます。あちこちに擦り傷がありますし打ち身もありますが、幸いにも骨折などの重い怪我はありません。血流が急激に回復されて痺れた腕を反対の腕で揉み、ジンジンと指先が痺れる感覚にようやく開放されたという安堵感が広がります。ふと見れば手首には縄の痕が残っていて、同様に足首などにも残っていると思われます。
(これ、叔父上たちに見られたらひと騒動だろうなぁ……)
そんな事を思いながら手首の縄の痕をさすりました。そんな私の様子に気づいた菖蒲様が、更に語気を強めてアルシス殿下に詰め寄ります。
「そもそも年頃の女性を下着姿にし、縄で縛るなどありえません!
しかも膝まで裾がめくれてしまっているではありませんか!!」
「そ……それは、逃げ道を防ぐために必要で……」
檜扇で顔の下半分を隠している菖蒲様ですが、その目が呆れ返っていました。そして弟に背を向けると菖蒲様は
「本当に申し訳ないことを致しました。
愚弟に代わり心から謝罪致します」
と優雅に頭を下げてくださいます。
「いえ、菖蒲様は何も悪くないので謝らないでください」
悪いのは全部その男ですから!って言いたいところですが、とりあえず冷静になろうと数時間前と同じ言葉を心の中で繰り返します。
大きく深呼吸をしてから未だ床に膝をついたままのアルシス殿下の顔を見下ろし、その目をしっかりと見て語りかけました。
「菖蒲様の極めて私的な事ですから、私が勝手に話すのは憚られ……。
もし菖蒲様が許可されるのならば一連の説明はちゃんと致します。
ですが、貴方様は私の話を聞く気がありますか?」
散々痛い目を見せられた所為で、思っていた以上に嫌味ったらしい言い方になってしまいました。ですがこれぐらいの嫌味は許してほしい。菖蒲様が悲しむと思うので声高に批難はしませんが、アルシス殿下のやったことは簡単に許せるような事じゃありません。
ただ最優先すべきは家族みんなの安全です。そのためには自分の中にある苛立ちは抑えこむ必要があります。幸か不幸か敵の親玉が目の前にいて、しかも暴走気味の親玉を完璧に抑え込める菖蒲様という対紫苑究極ストッパーも居ます。
(今ここで安全交渉ができれば、もう逃げ回る必要はなくなる……。
色々と覚悟を決めて、頑張るしかないよね)
そう心に決めると、ギュッと拳を握りしめたのでした。
略してアルシス殿下と攻略サイトやファンサイトで呼ばれていたミズホ国の第一王子の紫苑は、とにかく強烈なキャラクターでした。恋愛ゲームでは攻略対象でありながらもルート選択次第では彼に殺されてしまいますし、そうでなくても太陽を見ては姉との記憶を語り、月を見ては姉の優しさと美しさを称え、風が吹いても、花が咲いても全て姉と関連付ける、実際に居たら絶対にお近づきになりたくないレベルのシスコンでした。紫苑という名前の方が短いのにも関わらずファンがアルシス殿下と呼び続けていた理由も、彼のキャラクター性を表す言葉としてこれ以上適切なものはないからです。
そんな彼を実際に目の当たりにして思ったのは、お近づきになりたくないなんて考え方じゃ甘い! これは欠片も関わったら駄目なレベルのシスコンだ!!って事でした。
「いけません姉上、刺客です!!
姉上の随身に申し付ける! 今すぐ姉上の安全を確保しつつ船尾に退避せよ!」
「どっちが刺客なのよ!
私の頭を殴って問答無用で誘拐してきたの、そっちじゃない!」
「金瘡、その娘を今すぐ黙らせよ」
今まで一度も感じなかった温度を感じる程、菖蒲様に向かっての言葉は温かい気遣いに満ちているのに、その直後の室内にいる自分の随身へ向けた言葉は、小声なのに凍えそうな……いや、駄洒落じゃなく……本当に背筋がゾワッとするほどの冷たい声です。
拳を熱い湯で包まれてしまっている金瘡は主の命令に少しだけ戸惑ったものの、熱さに顔をしかめつつも再び私に向かってきました。
「菖蒲様! どうか、どうか助けてください!」
そう叫びながらも金瘡の突進を床を転がってギリギリで躱します。背中で腕がまとめられているので、床を転がると身体のあちこちが痛み、思わず顔をしかめてしまいます。ですがその痛みに気を取られている場合ではありません。慌てて立ち上がって扉へと向かおうとしますが、足首と膝の拘束のせいですぐに再び転んでしまいました。ただ幸運にも転んでいなかったら私の頭のあったであろう高さを金瘡の太い腕が横薙ぎにゴォッ!って音を立てながら過ぎていき、ギリギリのタイミングで躱せました。同時にドゴンッ!って音を立てて金瘡が床に転がります。どうも躱されるとは欠片も思っておらず、バランスを崩してしまったようです。
ただ金瘡の攻撃を躱せたのは私の実力などではなく、運が味方をしたからです。加えて拳を包むお湯の熱さが、金瘡の集中を阻害してくれた事も助けとなりました。ですがこんな幸運が何度も続くわけがありません。何とか扉の前まで近づけたと思った途端にガッ!と足首を掴まれて、そのままズルズルと引きずられて部屋の中央へと戻されてしまいました。その際の床との摩擦で、浴衣のような下着の裾がめくれ上がりってしまいます。膝のところで縛られているのでそれ以上はめくれ上がる事はありませんし、前世の影響で膝下を晒したぐらいでは羞恥心は湧きませんが、状況が状況だけに思わず悲鳴が上がってしまいます。
「ぃやぁあーーー!!!」
私の叫び声と同時に、今度は金瘡の顔を湯が包み込みました。
「ゴブォ! ガフッ!!」
たぶん「何だこれは!」的な事を言っているようですが、全く何を言っているのか解りません。それに手で湯を取り払おうとしても、頭を振りまくっても湯が金瘡の頭部から消える事はなく、その隙に何とか扉までたどり着けました。
今はこうやって浦さんたちの霊力のおかげで対処ができていますが、長くは持ちません。なにせ精霊は人間を意図的に傷つける事を基本しません。あくまでも基本なので例外は存在しますが、そんな事をすれば他の精霊たちから爪弾きにされますし、度が過ぎれば汚れが急激に溜まって妖化してしまいます。なので拳を包む湯も40度半ば~後半の湯ですし(それでも熱いとは思う)、顔を包む湯も浦さんの狙いは行動が著しく阻害されるレベルの呼吸困難で、窒息するまではやらないはずです。
ようやくたどり着いた扉には鍵がかかっていて、その向こうからは
「菖蒲様、今すぐ退避を!」
「こちらです!」
などと複数の声が聞こえてくるのですが、その声も足音も急速に遠ざかっていきます。慌てて扉の向こうに声が届くように、空っぽになった肺に酸素を送り込むべく息を大きく吸いました。
「菖蒲様の随身はあの日と同じ朝顔さんですか?!
朝顔さんならこの金瘡って男を見てください!
あの日の朝顔さんと似たようなことになってますから!!」
私がそうやって扉の向こうへ届けとばかりに叫ぶその隙を、金瘡は見逃しませんでした。金瘡は自身の熱さと苦しさも後回しにして、右腕を私の喉元に当ててそのまま体重を掛けて扉へと押し付けました。
「ゲホッ! あの時と違って冷めた白湯じゃないけど!
見て、お願い!!」
喉元を押さえつけられて一瞬呼吸が止まってしまい、苦しさのあまり咳き込みながら金瘡の顔を睨みつけます。金瘡も苦しいでしょうがこっちだって苦しく、お互いにやりたくもない我慢比べです。
思わず上がってしまう自分のうめき声の合間に、ストトトという走り寄る軽めの足音が聞こえ、続いてドンッ!!!と強烈な衝撃が背中に伝わりました。結果、図らずも金瘡に向かって頭突きをお見舞いすることになってしまいました。しかも浦さんがそのタイミングでちょうど水を消してしまったので、目から火花が散る程の衝撃です。
「あの時の女童か! 何故ここに居る!」
ですがそんな私の耳に、先程の衝撃が消し飛ぶほどの言葉が扉の向こうから聞こえてきました。
「朝顔さん! 助けて。あの人の勘違い止めて!!」
「黙れ!!!」
ゼーハーと荒い息をする私と金瘡が、二人揃って叫びます。しかも金瘡は更に腕に力が込めてきて、もう声を出すどころか呼吸すら辛くて仕方がありません。
「朝顔、わたくしの名において許します。
扉をどのような手段を使ってでも開けなさい」
「はっ!」
呼吸が苦しくて霞む視界に、分厚い扉の蝶番部分を破壊して入ってくる朝顔さんが映りました。その途端、ホッと安心して意識が遠くなります。
<気持ちは解りますが、気を失っている場合ではないですよ!>
そう浦さんが心話で気合を入れてくれなかったら、意識が飛んでいたかもしれません。確かに浦さんの言う通り、気絶なんてしている場合ではありません。現に私を見た朝顔さんや菖蒲様の顔が驚きのあまり固まってしまっていて、その隙に金瘡は私の背後に回って羽交い締めにしてから、アルシス殿下の元にまで引きずっていってしまいました。
「……紫苑、貴方は何をしているのですか」
色々とキャパオーバーしてしまったのか、掠れた声で菖蒲様がそう問いかけます。これで少しは状況が好転してくれるはずと思った私の耳に、信じられない言葉が飛び込んできました。
「あぁ、姉上。お騒がせしてしまい、申し訳ありません。
姉上の見えないところで全てを終わらせる予定だったのですが……。
安心してください、この刺客に奪われた霊力は全て取り戻してみせますゆえ」
「何を言っているのです!」
「姉上の膨大な霊力をこの娘が奪ったことは、様々な情報や状況から明白。
私は国にある膨大な文献を紐解き、
霊力の高い娘の生き血で霊力を回復させる方法を見つけました」
(なにその異世界版エリザベート・バートリ!!)
思わずツッコミを入れてしまいますが、そんな方法で霊力を回復できるとは初耳です。
<そのような事実は無い!!
精霊力というものの本質を考えれば、
そのような事で回復できる訳がないと何故解らぬのだ!>
ですよねー。でもアルシス殿下はどうやら恋は盲目ならぬ姉には盲目のようで、
「安心してください。姉上が穢れる事のないよう全て別室で処理します。
ただ娘が死んだ途端に霊力が霧散する可能性がありますので、
できれば隣室で待っていてくださると嬉しいのですが」
なんて嬉しそうに段取りを話し続けます。どうやらアルシス殿下の予定では菖蒲様のすぐ近く、ただし菖蒲様が下賤な血で穢れないように壁などで遮ったところで私を半殺しにし、私の血を使って謎の儀式を行って菖蒲様に霊力を移すつもりだったようです。
アルシス殿下の言葉をじっと聞いていた菖蒲様はだんだん表情が悲しそうなものへと変わっていきました。その事に気づいたアルシス殿下が焦り、目に見えてオロオロとし始めます。
「姉上、何か不備がございましたか?」
「不備? それ以前の問題です。
この方は私にとって命の恩人、大切なお方なのですよ!
その方を傷つけると……しかもわたくしの弟が!!」
「命の……恩人?
ですが姉上の霊力の消失の原因はこの娘でしょう?
そしてこの娘の有りえぬほどの霊力、どう考えても奪ったとしか……」
「そこからして間違っているのです!!」
なんだかこの5年の間に菖蒲様がとってもお元気になっておられます。以前は儚げすぎて今にも倒れるか消えてしまいそうな印象だったのに、弟を叱責している姿は生命力に満ちているように見えます。勿論、弟がとんでもないことをやらかしているので、生き生きとしていると表現はできませんし、違う意味で倒れそうには見えますが……。
「何より、貴方は……あの男と同じことをしようとしているのですよ!」
菖蒲様が言ったその言葉はアルシス殿下にとってクリティカルヒットだったようで、衝撃のあまりアルシス殿下は目を見開いて固まってしまいました。
「わた……私が、あの……あの男と同じ……だと、
そう姉上は仰るのですか……」
力なく呟かれた言葉と一緒に、ガクリとその場に崩れ落ちます。その時になって様子を伺っていた朝顔さんが、私を金瘡からサッと奪い返してくれました。
「ありがとうございます」
「礼ならば姫様へ申せ。お前を助けると決めたのは姫様だ」
そう言いつつも私を拘束していた縄を順に解いていってくれます。あちこちに擦り傷がありますし打ち身もありますが、幸いにも骨折などの重い怪我はありません。血流が急激に回復されて痺れた腕を反対の腕で揉み、ジンジンと指先が痺れる感覚にようやく開放されたという安堵感が広がります。ふと見れば手首には縄の痕が残っていて、同様に足首などにも残っていると思われます。
(これ、叔父上たちに見られたらひと騒動だろうなぁ……)
そんな事を思いながら手首の縄の痕をさすりました。そんな私の様子に気づいた菖蒲様が、更に語気を強めてアルシス殿下に詰め寄ります。
「そもそも年頃の女性を下着姿にし、縄で縛るなどありえません!
しかも膝まで裾がめくれてしまっているではありませんか!!」
「そ……それは、逃げ道を防ぐために必要で……」
檜扇で顔の下半分を隠している菖蒲様ですが、その目が呆れ返っていました。そして弟に背を向けると菖蒲様は
「本当に申し訳ないことを致しました。
愚弟に代わり心から謝罪致します」
と優雅に頭を下げてくださいます。
「いえ、菖蒲様は何も悪くないので謝らないでください」
悪いのは全部その男ですから!って言いたいところですが、とりあえず冷静になろうと数時間前と同じ言葉を心の中で繰り返します。
大きく深呼吸をしてから未だ床に膝をついたままのアルシス殿下の顔を見下ろし、その目をしっかりと見て語りかけました。
「菖蒲様の極めて私的な事ですから、私が勝手に話すのは憚られ……。
もし菖蒲様が許可されるのならば一連の説明はちゃんと致します。
ですが、貴方様は私の話を聞く気がありますか?」
散々痛い目を見せられた所為で、思っていた以上に嫌味ったらしい言い方になってしまいました。ですがこれぐらいの嫌味は許してほしい。菖蒲様が悲しむと思うので声高に批難はしませんが、アルシス殿下のやったことは簡単に許せるような事じゃありません。
ただ最優先すべきは家族みんなの安全です。そのためには自分の中にある苛立ちは抑えこむ必要があります。幸か不幸か敵の親玉が目の前にいて、しかも暴走気味の親玉を完璧に抑え込める菖蒲様という対紫苑究極ストッパーも居ます。
(今ここで安全交渉ができれば、もう逃げ回る必要はなくなる……。
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