未来樹 -Mirage-

詠月初香

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2章

月光に潜む闇

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その部屋は広大な庭園にある池の中央へと突き出した回廊の先にあり、部屋から見える景色はまるで水の上に浮いているかのようだった。そんな部屋の濡れ縁にある高欄に腰を掛けて、池の魚に餌をやっている人影があった。見るからに質の良いゆったりとした部屋着を着崩し、日中は結いあげていた髪も今は背中へと無造作に流している。外見からは年齢も性別も判断しづらいが、落ち着いた所作や傍らに酒器がある事から成人している事は確かなようで、着崩した着物から僅かに見える胸元が平らな事から男だという事が解る。

「で、どちらでしたか?」

どうやらこの部屋の主らしい男は、見た目と同様に中性的な声で部屋の中で頭を下げている男に尋ねた。部屋の中にいた男も主と同じように年齢や性別が判断しづらい外見だったが、主に比べると少しだけ肩幅が広くて男らしさが見て取れる。質問の声に促されてゆっくりと顔を上げた男はどうやら主とは血縁関係にあるようで、顔立ちがどことなく似ていた。

「双方に御座いました」

「ふふっ、やはり……」

主にとっては予想通りの答えだったようで、小さな笑い声を零すと夜空に浮かぶ月を見上げた。




部屋の主は、名を紫苑しおんという。
アマツ大陸の北側にあるミズホ国みずほのくにの王で、蒼の東宮妃の同母弟にあたる人物だ。今年で36歳になったというのに20代前半にも見えるその外見は、人ではないと言われたら信じてしまいそうになるほどに美しい。それが月光の下であれば尚更で、水の大社おおやしろから「大社に飾る絵画や彫刻の雛型にさせてほしい」と望まれる程、水の清廉さや優しさを感じさせる外見をしていた。

だが、その内面は清廉さや優しさとは無縁で、むしろ誰よりも冷たく苛烈だった。

生い立ちの所為で姉の菖蒲あやめに極めて強い執着を持つ紫苑は、逆に菖蒲に関する事以外には一切執着が無かった。その為、国民からは華族であろうと平民であろうと、それこそ王家や自分に関わる事であっても公平に判断する良き王だと思われていて、一部の華族を除いた人々から若き名君として慕われている。

だが、彼に近しい人ならば知っている。
紫苑は単に姉の菖蒲以外はどうでも良いと思っているだけだと。

そして紫苑へと報告を上げている男が、異母弟の鉄仙てっせんだ。他人との意思疎通をなおざりにする紫苑が滞りなく政務を行えているのは、彼が側近として支えているからに他ならない。




「双方とも目的は同じでしたが、その方法、或は標的が違いました。
 蒼の東宮妃菖蒲様の里下がり離婚を阻止し、天都にこの先も留め置く為に
 元凶ともいえる碧宮家の姫沙羅様とその御子を亡き者にしようとしたのは、
 二妃様とその実家でした。

 その際に碧宮家は全員亡くなったと思われていましたが、
 どうやら逃げおおせた者がいたようです。
 その目撃者を消そうとしたのか、或は別の目的があったのかは解りませんが、
 水の陽月の頃から二妃様の派閥で大きな動きが見られました。
 おかげで尻尾を掴む事ができたのですが、愚かにも再び失敗したようで
 二妃様の実家では当主が大荒れだそうです。

 それに対し……」

そこまで言って口ごもってしまう鉄仙に、紫苑は温度を全く感じられない冷たい視線を初めて異母弟へと向けた。

「どうしました? 報告の続きを」

「……はい、失礼いたしました。
 碧宮家を標的とした二妃様とその実家に対し、
 東宮妃がミズホ国に二度と戻らぬように東宮妃当人を標的にしたのは、
 三妃様とその実家でした」

この報告によって三妃に連なる者は老若男女問わず、それこそ乳飲み子であろうと全員が処刑される未来が確定した。菖蒲様に危害を加えようとした大人は極刑に処して然るべきだと思うが、何も罪を犯していない小さな子供の命までもが失われてしまう事に、鉄仙の心の中に苦々しい思いが広がる。

(今の地位で満足しておけば族滅一族皆殺しなんて事にならずに済んだものを……)

「分を弁えぬ愚か者は三妃の方でしたか。
 三妃の実家は……あぁ、確か礼の水嶺みずみね家でしたね。
 残念です、建国より続く家門でしたが……」

紫苑は言葉とは裏腹に欠片も残念とは思ってはいないようで、その瞳に浮かぶのは姉に危害を加えようとした者への憎悪と、それを取り除く事の出来る喜びだけだ。

「それに二妃に関しても碧宮家襲撃を理由に処罰してしまえば……。
 その為には証拠を見つけるか作る必要がありますね」

紫苑は細く綺麗な指を顎に当てながら呟くが、その薄い唇から出てくる言葉は氷のように冷たい。そんな物騒な事を呟く異母兄に、鉄仙は溜息をつく事もできない。

身内とはいえ他国天都の東宮妃となった姉の菖蒲様や宮家……しかも天女という特別な霊格を持つ姫沙羅様に危害を加えた時点で、二妃の一族も三妃の一族も処刑されるのは自業自得だ。二妃の一族は碧宮家を没落した力の無い宮家と思って甘く見ていたのだろうが、亡くなったとされている碧宮家当主はヤマト国と強固に繋がっていたうえに、帝の命令に従わないという叛意を疑われても仕方がない状況で処刑を免れている。それは彼の交渉力が並外れて高い事を意味している。また姫沙羅様も帝が是非にと入内をと望む程の人だ、甘く見て良いわけがない。それに碧宮家には使用人は殆どいなかったが、付き従っていた随身の腕はアマツでも指折りだったと聞いている。

姫沙羅様とは何度かお会いした事がある程度だが、姉上様と同じように優しいお方だった。少なくとも自分を見かける度に喚き散らしたり泣き言を言う二妃や三妃より、ずっとずっと好感が持てる方だった。そんな方の死の知らせを聞いた時、鉄仙は心より悼んだのだが、今は申し訳なさでいっぱいになる。

だが、一個人としての気持ちと王族として優先すべき事は違う。常に自国の利益を考え、悪影響を最小限に抑える為に行動しなくてはならない。鉄仙は自己嫌悪に陥りつつも、自分の肩には無数の国民の命が乗っかっている事の辛さを噛みしめた。

(二妃も三妃も、そして兄上様も我が国を滅ぼすつもりなのだろうか?)

我が国の妃やその実家が他国の高位華族の襲撃を計画したなんて事が知られたら、高確率で開戦の口実にされてしまうだろう。何とか開戦を免れたとしても、国家予算の何倍にもなる賠償金を支払う事になるのは確実だ。

「兄上様、国に咎が及ぶ可能性をお考え下さい。
 そんな事になれば姉上様が悲しまれます」

「そうだね、姉上様を悲しませるのは良くないね。
 ならば二妃も三妃も内密に処理してしまおう」

菖蒲絡みで暴走する紫苑を止める為には、まさにその当人の菖蒲を出すしかない。だからといって鉄仙以外が菖蒲の事を持ち出せば、「貴様に姉上様の何が解る」と紫苑が激怒して命の危険が生じる為、この技が使えるのは鉄仙だけだ。

(そもそもの原因は、狂気に満ちたこの異母兄が
 何時まで経っても正妃を迎えない所為だというのに……)

心の中で盛大に溜息をついた鉄仙は、二度と思い出したくないと思っていた過去の事を、つい思い返してしまった。



死を恐れるあまり錯乱したとされている先代ミズホ国王父親を幽閉して実権を握り、紫苑が玉座に就いたのは7年ほど前だった。その為の下準備はもっと前からで、異母姉が東宮妃となる為に天都の宮家へと送られる事が決まった頃から始まっていた。

紫苑と鉄仙の父親は自分の命というものに極度に執着する男で、ヤマト王族の長い寿命を羨み、彼らの三分の一しかない己の寿命を憎んだ。そんな男の妻たちである正妃は紫苑を産むと同時に身罷り、二妃は鉄仙を無事に出産したものの産後の肥立ちが悪くて身罷った。三妃に至っては、母子ともに出産に耐え切れずに命を落としてしまっている。次々と命を落としていく妻たちに、先代王は元々強かった命への執着を一層激しくし、自分の寿命を伸ばす事に躍起になった。

紫苑の名も表向きは花言葉の「君を忘れない」や「追憶」といった正妃に対する思いが籠められた名だとされているが、子供たちの前で死の恐怖に錯乱した父親は

「自分に忍び寄る死の音をお前に擦り付ける為に死音しおんと名をつけたのに、
 私に死が近づいてくる。この役立たずめ!!!」

と口から泡を飛ばしながら紫苑を殴り

「お前も役立たずだ! やはり鉄仙ではなく綴仙とすべきだった。
 そうすれば不老不死だという仙の命を私につなぐ懸け橋となったはず。
 菖蒲、お前もだ! それだけの霊力を持ちながら私に何の恩恵も与えない!
 今すぐ大社でその霊力全てを使って神に祈りを奉げて来い!!
 あぁ、生まれた子が全員出来損ないだなんて、私はなんて哀れなんだっっ!!」

と鉄仙や菖蒲を罵る末。この父親にとって、子供は自分の命を長らえる為の道具に過ぎなかった。そんな境遇にいた幼い異母兄弟を母親代わりとなって守り支えたのが、当時すでに水の大社に入る事が決まっていた菖蒲だった。7歳の幼い女の子が6歳と4歳の弟を背に庇い、自身が殴られながらも大人の男の前に立ちはだかるなんて、どれ程の勇気が必要だっただろうか……。

なので鉄仙も菖蒲に対して強い憧憬がある。だから紫苑の気持ちも解らなくはないし、紫苑が正妃の座に菖蒲以外を就かせるつもりがない事も知っている。だが自分と違って紫苑と菖蒲は同腹の姉弟だ。異母兄弟姉妹による婚姻は普通になされるが、同腹の兄弟姉妹の婚姻は許されない。

だから家臣たちは何度も何度も正妃を迎えるように進言したし、二妃や三妃を繰り上げる事も進言された。それでも紫苑は決して正妃を迎えようとはしなかった。しかも紫苑は5年前、鉄仙の息子が5歳になった時に「後継者は鉄仙の息子にする」と鉄仙に相談なく宣言し、それ以降は二妃や三妃に会う事すらしなくなった。

二妃や三妃が、自分はいったい何のために……と思うのも当然だし、それぞれの実家が不服に思うのも仕方がない。




(その点だけは同情する)

そういう意味では元凶は紫苑だし、更に突き詰めればそんな紫苑にした先代国王が悪い。そんな過去の苦い思いを深呼吸と共に心の中から追い出すと、鉄仙は気合を入れ直した。

「もう一つ報告が御座います。
 呪詛騒動の後、姉上様の霊力に急激な低下が見られたとのこと」

この報告に紫苑の雰囲気が一瞬で変わった。紫苑は足早に部屋の中へと戻ってくると、鉄仙に掴みかかる勢いで問い質す。

「どういう事です! 姉上様はご無事なのですかっ!!
 しかも呪詛騒動の後? なぜもっと早くに報告を上げない!!!」

「詳しくは解りません。ただ宮家に潜ませた者から3つ報告が上がりました。
 まずは霊力が……あの膨大な霊力が限りなく低下している事。
 ただし体調はすこぶる好調で、むしろ今までで一番お元気である事。
 そして、例の呪詛騒動の終わり頃、緋の東宮妃牡丹ぼたん様が
 神楽を舞った子供を連れて菖蒲様の元を訪れた事。……その3点です」

「つまり、牡丹殿が何かしらの手段を用いて
 姉上様の霊力を奪った可能性があるという事ですか?」

「そうとは言い切れません。霊力は精霊様、つまり神々からの贈り物です。
 それを人の手でどうこう出来るとは思えませんし、
 そのような方法があるという話も聞いた事がありません」

それに霊力の低下は問題だが、それを機に健康になったという事も不思議でならない。霊力を失うという事は精霊様の守護が減る事を意味し、当然体調も悪化して然るべきだ。つまりこの2つの報告は両立しないはずなのだ。

「……今すぐ天都へ向かいます、準備を!」

「お待ちください、それは流石に無理です!!
 そのような事をすれば、姉上様に心労をおかけするだけです。
 急な弟の来訪に、宮家の方々に頭を下げる姉上様のお姿をお望みですか!」

「ぐっ……。ならば一番早い手段で準備を!
 これ以上は譲れません!!」

「……解りました。早急に手配致します」

そう言って一礼して部屋を出て行こうとする鉄仙だったが、ふと思い出したように

「そういえば二妃の実家ですが、ヤマト国の華族と繋がっていました。
 現国王の叔父に当たる男で、何やら秘密裏に取引をしていたようです」

「現国王の叔父ですか? 
 たしか現国王の巌桂陛下は御年80半ばを過ぎていたように思いますが……。
 その叔父とやらはいったい幾つ……
 いえ、あの国は私達の常識が通用しないのでしたね」

姉に関する事以外では凍てついたように変わらない紫苑の表情が、珍しく忌々しいものを思い出したかのように歪んだ。父と呼ぶ事すら汚らわしく思うあの男に同情する気は皆無だが、常に目に入る場所に自分たちの常識を超えた長寿な一族が住んでいれば、心を病むのも仕方がないのかもしれない。

「鉄仙、その叔父という華族周辺を海鷂魚エイに調べさせなさい。
 それからヒノモト本国と緋色宮家へは今までの2倍、いえ3倍の海鷂魚を。
 特に東宮妃の牡丹殿と、その神楽を舞ったという子供を重点的に調べ、
 その二人がその期間に接触した者も全て洗い出すよう命じます。
 ただし最優先すべきは変わらず姉上様の警護です。間違えぬように」

ミズホ王家直轄の志能備しのびは海鷂魚と呼ばれ、国王と王位継承権を持つ者からの命令でしか動かない。しかも王を最上位として継承順がそのまま命令の優先順になる為、紫苑の命令は全ての命令より優先される。その実力は凄まじく、アマツ大陸が戦乱に明け暮れていた頃、武で劣るミズホ国が長くヒノモト国と戦争を続けられたのも、この海鷂魚が影から要人を暗殺していたからだった。そんな海鷂魚は今も昔と変わらない優れた実力を持つが、その実力は菖蒲を守るために使われていた。

「解りました。全て兄上様のお望みのままに……」




異母弟が一礼して部屋を出ていき、1人きりとなった部屋で紫苑は夜空を見上げた。優しく自分を照らしてくれる月明りは自分にとっての姉そのもので、その月にこの世の全てを引き換えにしてもかまわない程に大切な姉の姿が重なる。

「姉上様、必ず迎えに行きます……」

姉との幸せの邪魔をする妃たちを始末する道筋は整った。まずは三妃を消して、二妃は頃合いを見てとなるがいずれ消す。一族まとめて死んでもらう方が手っ取り早いが、碧宮家襲撃の証拠を見つけてしまえば目の前から消えてもらうのに十分な取引材料となるだろう。

(姉上様と過ごす王宮に他の女は要らない。
 いや、いっそ姉上様が好きな場所に二人で住むのも良いかもしれない。
 何せこの王宮には嫌な思い出が多すぎる)

玉座を見ても、廊下を歩いていても、部屋に居ても嫌な思い出ばかりが蘇るのだ、王宮に居る限り心安らぐ日が来る事は無い。唯一嫌な思い出が無い場所は、父親が近づこうともしなかった母たちが眠る霊園近くの庭だけだ。その庭の木陰に隠れて父親をやり過ごしていた幼い頃の自分たちを思い出した紫苑は、同時に王宮を出て大社へ入る事になった姉に「一緒に行きたい」と泣きついた事も思い出した。

(あぁ、そうだ。王位は鉄仙に任せてしまえば良い。
 後継者に鉄仙の息子を指名したのだから、ちょうど良いだろう)

それにしても……と紫苑の表情が曇った。
姉上様の霊力が落ちたという事が気になって仕方がない。それに牡丹殿に神楽を舞った子供か……。その二人に何かあるに違いない。特別な事情が無い限り、あんな時期に子供を連れて訪れるはずが無い。

「姉上様に平穏に暮らして頂くためにも、
 少しでも邪魔になりそうな芽は摘んでおいた方が良いな……」

紫苑は優しい月明りの下でどこまでも暗く笑ったのだった。
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