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私のすぐ後ろで重たい金属製の扉が音をたてながら閉まりました。更には巨大な閂が下ろされたのか、地響きのようなゴゴゴ……という音の後にガコンッ!という音が周囲に響きます。先程通過したばかりのこの扉の閂は、屈強な兵士の方が10人がかりで動かす巨大さで、下手をすればモディストス王国の城門の閂よりも大きく頑丈そうでした。
その閂が落された音に、私は退路を塞がれてしまったような気がしてしまい、不安の余り思わずブルッと震えてしまいました。その際にどうも知らず知らず身体に力が入っていたようで、抱えているファフナーから
「苦しいぞ、もう少し優しく扱え!」
と苦情が入ります。
「ごめんなさい、つい緊張してしまって……」
そう謝罪してから、少し乱れてしまったふわふわの毛並みを撫でて整えます。あの事件から1年。思っていたよりもトラウマだったようで、魔境の空気を肌で感じる距離に来た事で足がすくんでしまいそうになります。
そう私は今、樹海の手前まで来ています。
北の魔境の溟海で瘴気の氾濫の予兆が見られるという情報を得てから約2ヶ月が経ち、私はその間に様々な準備を進めてきました
今私が身につけている活動服もその一つで、当初1着だけ仕立てるつもりだった私に、お父様が
「様々なケースを想定して最低でも10着、最高のモノを用意しなさい。
命に関わる事なのだから、絶対に妥協してはいけないよ」
と仰られたのです。そうは言っても自分ではどうしても決められず、お父様に選んで頂いて追加注文したうちの1つです。数ある活動服の中でも防御力に特化した服で、ドレープたっぷりのゆったりとしたブラウスの上に、胸の上あたりからお腹までを覆うコルセット状の火竜革のアーマー。丈長めの太ももまであるブラウスの下から見えるのは、水馬のたてがみを織り込んだ柔らかさと丈夫さを両立させた布で作ったズボン。ブーツとアームガードはとにかく頑丈さを求めて、岩のように固い外皮を持つ岩牛の革を使ったモノです。
更には防御の魔法を籠めた宝石まで渡されていて……。
正直なところ、総額で幾らになるのか考えただけでも恐ろしくて仕方がありません。
また活動服や冒険時に必要となる様々な道具の他にも、欠かせない大事な準備がありました。
「どうした? やっぱり怖いか??」
腕の中から見上げている……と思われるファフナーは、そのもふもふの毛に埋もれていて殆ど見えないのですが、斜めにリボンを巻いています。そのリボンには六角形の板がぶら下がっていて、その表面はアミュレットのように複雑な紋様と数種類の宝石が彩っています。これはお父様の力作の魔道具で、ファフナー用の翻訳機です。
ファフナーが魔力を魔道具に流す事で、ファフナーの思っている事を音として流す仕組みです。現在はその音を皇国語に設定してあり、これで私が通訳せずとも周囲とのコミュニケーションが可能になりました。
「少しだけ……」
ファフナーの怖いか?という質問に素直に答えます。1年前と違って空から落される訳でも1人で魔境に放り込まれる訳でもないのに、やはり怖いという感情は消せません。
「大丈夫だ、俺達が一緒だろ?
俺が立てたアスティオス神への誓言は、当然今も有効たぜ?」
ぽんと私の肩に大きな手を置いたのはヴィルヘルム殿下でした。その安心感を覚える笑顔は1年前と何も変わりません。自分でも具体的な言葉で説明できないぐらい不思議に思っているのですが、ヴィルヘルム殿下の顔を見ていると「もう、大丈夫」という信頼感が心の中に広がっていくのが解ります。
「戦う術の無いリアが魔境を前に怖気づいてしまうのは仕方がないよ。
今でも僕はリアの同行には反対だけど、一緒に行く以上必ず守るよ」
「私だって出来るのならば反対したいんです。何と言っても可愛い妹ですから。
ですが、事が事だけに……」
ギルベルト殿下は以前に比べて少し背が伸びたようで、前よりも見上げる角度が上がったように思います。そのギルベルト殿下に賛同するお兄様は本当に苦渋の決断だったようで、ここ最近はずっと渋い顔をしたままでした。
「俺はこの1年、コルネリア嬢を守るという誓言を忘れた事はない。
その誓言を守る為に日々欠かさず鍛錬にも励んできた。
だから安心……して気を抜くのは駄目だが、必要以上に怖がる事はない」
「はい、アンドレアス卿」
自分の装備の確認をしていたアンドレアス卿もそう言いながら、会話の輪に入ってきました。4人の中では一番体格の良いアンドレアス卿は、その体格に見合った低音ボイスですが決して聞き取りづらいという事はなく、むしろ耳に響く良い声をされています。
そんなアンドレアス卿は私の前まで来ると、じっと私を見ながら
「それから……リア。ここから先はあの時のようにアンディと呼んでくれ」
そう言うと、フッとアンドレアス卿が纏っていた空気が軽くなったような気がしました。貴族や騎士として貴族の女性に相対する時の空気感ではなく、気心の知れた仲間に逢う時の空気感……そんな感じです。
「そうだな。俺もここから先はあの時と同じようにウィルで良い。
俺もあの時のようにリアと呼ぶから」
「私は兄だから、お兄様のままで良いですよね?」
1人だけ今のままが良いと主張するお兄様に対し、ウィルさんたちが揶揄っている様子を見て、ウィルさんの存在だけでは解消しきれなかった不安な気持ちが、スッと落ち着いていくのが解りました。
私達には各々、立場というものがあります。なので普段は皆さんを愛称で呼ぶことはできません。殿下やお兄様たちのように、仲の良い友人を愛称で呼ぶ事はありますが、異性を愛称で呼ぶ事は特別な相手だけなので問題になってしまいます。なのでこうして殿下たちやアンディさんから、リアと愛称で呼ばれるのは本当に久しぶりです。
「はい、アンディさん、ウィルさん、ギルさん、それからお兄様。
足手まといにならないように頑張ります、どうかよろしくお願いします。
それからファフナーもよろしくね」
4人の顔を見回して略式の礼で挨拶をした後、腕の中のファフナーにも声を掛けました。今回の調査任務は2つあり、一つは瘴気の氾濫の予兆の有無を探る事、そしてもう一つは瘴気の大元であるファフナー本体の居場所を特定する事です。後者には追加任務もあり、出来れば大元ファフナーの状態の確認もしてほしいのだとか。サイズや形状は勿論、活発に動き回っていそうか、瘴気の放出はどのように行われているか、出来る限り詳細なデータが欲しいのだそう。
ただ、あくまでも目的は魔境と魔王の調査で、魔王を討伐する事ではありません。
魔王の討伐なんて危険度の高い任務は、各国の精鋭部隊の連合軍で当たるような任務で、こんな少人数が請け負う仕事ではありませんから。
こうして私達は結界の力を込めた装飾品の状態を再度確認した後、ファフナーの
「だいたいこっちの方向だ」
という言葉に従って、魔境に向かって歩き出したのでした。
━━━]━━━━━━━━━-
アスティオス皇国は樹海への出入りを徹底的に管理していて、認可を受けていない人が樹海に入る事が出来ないようなシステムを作り上げています。例えば魔境に接している国境部分には壁を作り、更には村や町に近い場所には堅固な砦を設けて周囲の監視をしています。その上で任務で樹海に赴く人は全員が検問所を兼ねた砦を通るように義務付けられていて、そこで最終意思確認を含む様々なチェックを受けてようやく扉の向こう側へ行けるようになります。
その壁や検問所は年輪のように3重あり、皇国側から見て順に1の壁・2の壁・3の壁と呼ばれていて。壁と壁の間は広い所で1リュー、狭い所でも0.2リューはあります。
一番内側の1の壁を通過する事は他の壁に比べると簡単で、駆け出しの冒険者が素材採取などの為に通過する事がままあります。この辺りは草原が広がっていて、ところどころに普通の森や泉があります。また瘴気によって狂化した生物は出ませんが、野生の動物に遭遇する事はあります。なので絶対に安全だとは言い切れませんが、駆け出しの冒険者でもちゃんと準備をしてパーティを組んでいればどうにかなる程度です。
2の壁と3の壁の間もほぼ同様ですが、若干瘴気の影響が出る事があり、動物も狂化こそしていないものの狂暴化していて、駆け出しの冒険者では手におえない事があります。
そして3の壁を超えれば魔境です。といってもすぐ傍まで樹海が迫っているという訳ではありません。モンスターが襲ってきた事を出来るだけ早く察知する必要があるため、最低でも壁から100クラフターは木々が伐採されて見通しが利くように整地されています。
つまりその整地された部分を越えてしまえば、後は木々が空を隠すほどに鬱蒼と茂り、見通しは全く効かず、モンスターが闊歩する危険地帯です。
「ファフナー、貴方が本体の居場所を感知できるように
本体のほうからも貴方を感知する事は可能なのですか?」
「解らん。そんな事を本体に聞いた事は無いし、
そもそも狂化した俺は意思疎通が可能な状態じゃないからなぁ」
お兄様の質問は私も疑問に思っていました。向うもファフナーを感知できるのだったら、危険度は一気に跳ね上がってしまいます。
それでなくとも危険度が上がっているというのに……。
1年ぶりに訪れた魔境は瘴気が濃く、以前も空気が澱んだような感じはありましたが、今はもうそんな言葉では表せられない程に空気が悪いのです。もしも空気が腐るのだとしたら、今の魔境内の空気は完全に腐敗しきっていると思われる程です。
そんな空気の悪さは皆さんも感じていたようで、
「呼吸がしづらいな。
瘴気の影響はリアのおかげで押さえられているはずなんだが」
「もしや瘴気の氾濫の予兆で、空気すら変質してしまっているのでしょうか?」
「だとしても、リアの結界で浄化されて通常の空気に戻るはずですよ」
様々な考察しながらも周囲への警戒を怠る事なく、樹海の奥へと分け入っていきます。ファフナーが事前に教えてくれていた通り、樹海の中は風が上手に通り抜ける事ができないようで、そこかしこに瘴気溜まりが出来上がっていました。直進するだけなら簡単な道のりも、周囲を警戒しつつ瘴気だまりを避けながらだと、2倍どころか3倍や4倍も時間がかかります。
そのかかった時間分、私は重くはないけれど軽くもないファフナーを抱えて歩いている訳です。体調が戻ってからは体力を少しずつつでも付ける為に色々と頑張ってきたのですが、半年にも満たない期間のトレーニングでは戦士のウィルさんやアンディさんどころか、魔法使いのお兄様にすら敵いません。
せめてファフナーを抱いていなければとは思うのですが、手放す事はできません。
結界の力を込めた装飾品を身につけていても、瘴気との親和性が高い為に万全ではないファフナーと、結界と浄化以外の魔法は何も使えない為に身を護る手段に乏しい私は、お互いがお互いをフォローしあわないと足手まとい一直線です。
しかも結界能力は私自身には効果が無いのです。
不思議な事に地面に直接結界を張れば、その範囲に居る限りは私もその恩恵に与れるのに、装飾品にして身に纏うと結界が発動しなくなるのです。お父様も不思議に思って一度研究したいと仰っていました。
ただ、ファフナーによればそれは至極当然の事らしく……。
この力は本来、何かに瘴気を詰め込んで結界で流出を防ぎ、その後浄化するという使い方なのだそうです。なので自分自身を瘴気の器にしかねないような使い方は、どうあがいても出来ないのだというのです。自分の力ですが、その融通が効かなさっぷりが残念でなりません。
何にしても結界・浄化能力のある私が、一番瘴気に対抗できないという笑えない事態の中、私達は樹海の奥へと向かって行かなければならないのです。
お兄様をはじめとした皆さんが徹底して気を遣ってくださって、瘴気が殆どない場所を通ってくださっているのですが、それでも影響はどうしても受けてしまいます。その為に日を追うごとに私は感情的になりやすくなっていきました。自分でもそれでは駄目だと思っているのに、感情が動いてしまう事が止められないのです。
「お兄様、御免なさい……。もう疲れてしまって歩けません」
疲れている事は確かですが、頑張ればまだ歩けるのです。でも甘えたいという気持ちが湧き上がってしまって、その気持ちを抑えなければと思うよりも先に口から言葉が出てしまいます。
「うーん、もう少し進みたいところだけど……仕方がないね。
ファフナー、大元は今日も動いていないんだよね?」
「そうだな。少なくとも距離と方角は変っていない」
ファフナーの言葉を聞いたお兄様は、地図や方位磁石を使って現在地のおおよその当たりを付け、
「ちょっと遅れ気味だけど……仕方がない。
ウィル、ギル、アンディ。今日はこの辺りでキャンプにしよう」
そう周辺を警戒しているウィルさんたちに声をかけました。
そうなると今度は罪悪感という感情の暴走が止められなくなるのです。恐らく私は泣きそうな顔になっていたのでしょう。そんな私の顔を見たウィルさんは小さく苦笑してから
「気にするな。リアとファフナーは今回の任務の要だからな。
十分に休息を取って、出来るだけ万全の状態で進もう」
とポンポンッと優しく背中を叩いてくれました。その言動にトクンと胸の奥底で何かが脈を打ったような気がしましたが、それが何を意味するのか……。私にはわかりませんでした。
━━━]━━━━━━━━━-
感情の起伏が日に日に激しくなっていく中、私達はそれでも調査を続けて奥地へと進んでいきました。感情的になるのが私だけだった事、明確に目標を見出せるファフナーが居た事、瘴気に詳しいお兄様が居た事、何かあっても力で対処ができるウィルさんやアンディさんが居た事、そして「精神異常抵抗」というグラティアだったギルさんがいた事が幸いし、どうにか調査任務の続行出来ているような状態です。
それでもかなりギリギリの状態になった12日目。
不快極まりない匂いや、濃い瘴気の靄の向う側に黒い巨大な何かが現れたのでした。
その閂が落された音に、私は退路を塞がれてしまったような気がしてしまい、不安の余り思わずブルッと震えてしまいました。その際にどうも知らず知らず身体に力が入っていたようで、抱えているファフナーから
「苦しいぞ、もう少し優しく扱え!」
と苦情が入ります。
「ごめんなさい、つい緊張してしまって……」
そう謝罪してから、少し乱れてしまったふわふわの毛並みを撫でて整えます。あの事件から1年。思っていたよりもトラウマだったようで、魔境の空気を肌で感じる距離に来た事で足がすくんでしまいそうになります。
そう私は今、樹海の手前まで来ています。
北の魔境の溟海で瘴気の氾濫の予兆が見られるという情報を得てから約2ヶ月が経ち、私はその間に様々な準備を進めてきました
今私が身につけている活動服もその一つで、当初1着だけ仕立てるつもりだった私に、お父様が
「様々なケースを想定して最低でも10着、最高のモノを用意しなさい。
命に関わる事なのだから、絶対に妥協してはいけないよ」
と仰られたのです。そうは言っても自分ではどうしても決められず、お父様に選んで頂いて追加注文したうちの1つです。数ある活動服の中でも防御力に特化した服で、ドレープたっぷりのゆったりとしたブラウスの上に、胸の上あたりからお腹までを覆うコルセット状の火竜革のアーマー。丈長めの太ももまであるブラウスの下から見えるのは、水馬のたてがみを織り込んだ柔らかさと丈夫さを両立させた布で作ったズボン。ブーツとアームガードはとにかく頑丈さを求めて、岩のように固い外皮を持つ岩牛の革を使ったモノです。
更には防御の魔法を籠めた宝石まで渡されていて……。
正直なところ、総額で幾らになるのか考えただけでも恐ろしくて仕方がありません。
また活動服や冒険時に必要となる様々な道具の他にも、欠かせない大事な準備がありました。
「どうした? やっぱり怖いか??」
腕の中から見上げている……と思われるファフナーは、そのもふもふの毛に埋もれていて殆ど見えないのですが、斜めにリボンを巻いています。そのリボンには六角形の板がぶら下がっていて、その表面はアミュレットのように複雑な紋様と数種類の宝石が彩っています。これはお父様の力作の魔道具で、ファフナー用の翻訳機です。
ファフナーが魔力を魔道具に流す事で、ファフナーの思っている事を音として流す仕組みです。現在はその音を皇国語に設定してあり、これで私が通訳せずとも周囲とのコミュニケーションが可能になりました。
「少しだけ……」
ファフナーの怖いか?という質問に素直に答えます。1年前と違って空から落される訳でも1人で魔境に放り込まれる訳でもないのに、やはり怖いという感情は消せません。
「大丈夫だ、俺達が一緒だろ?
俺が立てたアスティオス神への誓言は、当然今も有効たぜ?」
ぽんと私の肩に大きな手を置いたのはヴィルヘルム殿下でした。その安心感を覚える笑顔は1年前と何も変わりません。自分でも具体的な言葉で説明できないぐらい不思議に思っているのですが、ヴィルヘルム殿下の顔を見ていると「もう、大丈夫」という信頼感が心の中に広がっていくのが解ります。
「戦う術の無いリアが魔境を前に怖気づいてしまうのは仕方がないよ。
今でも僕はリアの同行には反対だけど、一緒に行く以上必ず守るよ」
「私だって出来るのならば反対したいんです。何と言っても可愛い妹ですから。
ですが、事が事だけに……」
ギルベルト殿下は以前に比べて少し背が伸びたようで、前よりも見上げる角度が上がったように思います。そのギルベルト殿下に賛同するお兄様は本当に苦渋の決断だったようで、ここ最近はずっと渋い顔をしたままでした。
「俺はこの1年、コルネリア嬢を守るという誓言を忘れた事はない。
その誓言を守る為に日々欠かさず鍛錬にも励んできた。
だから安心……して気を抜くのは駄目だが、必要以上に怖がる事はない」
「はい、アンドレアス卿」
自分の装備の確認をしていたアンドレアス卿もそう言いながら、会話の輪に入ってきました。4人の中では一番体格の良いアンドレアス卿は、その体格に見合った低音ボイスですが決して聞き取りづらいという事はなく、むしろ耳に響く良い声をされています。
そんなアンドレアス卿は私の前まで来ると、じっと私を見ながら
「それから……リア。ここから先はあの時のようにアンディと呼んでくれ」
そう言うと、フッとアンドレアス卿が纏っていた空気が軽くなったような気がしました。貴族や騎士として貴族の女性に相対する時の空気感ではなく、気心の知れた仲間に逢う時の空気感……そんな感じです。
「そうだな。俺もここから先はあの時と同じようにウィルで良い。
俺もあの時のようにリアと呼ぶから」
「私は兄だから、お兄様のままで良いですよね?」
1人だけ今のままが良いと主張するお兄様に対し、ウィルさんたちが揶揄っている様子を見て、ウィルさんの存在だけでは解消しきれなかった不安な気持ちが、スッと落ち着いていくのが解りました。
私達には各々、立場というものがあります。なので普段は皆さんを愛称で呼ぶことはできません。殿下やお兄様たちのように、仲の良い友人を愛称で呼ぶ事はありますが、異性を愛称で呼ぶ事は特別な相手だけなので問題になってしまいます。なのでこうして殿下たちやアンディさんから、リアと愛称で呼ばれるのは本当に久しぶりです。
「はい、アンディさん、ウィルさん、ギルさん、それからお兄様。
足手まといにならないように頑張ります、どうかよろしくお願いします。
それからファフナーもよろしくね」
4人の顔を見回して略式の礼で挨拶をした後、腕の中のファフナーにも声を掛けました。今回の調査任務は2つあり、一つは瘴気の氾濫の予兆の有無を探る事、そしてもう一つは瘴気の大元であるファフナー本体の居場所を特定する事です。後者には追加任務もあり、出来れば大元ファフナーの状態の確認もしてほしいのだとか。サイズや形状は勿論、活発に動き回っていそうか、瘴気の放出はどのように行われているか、出来る限り詳細なデータが欲しいのだそう。
ただ、あくまでも目的は魔境と魔王の調査で、魔王を討伐する事ではありません。
魔王の討伐なんて危険度の高い任務は、各国の精鋭部隊の連合軍で当たるような任務で、こんな少人数が請け負う仕事ではありませんから。
こうして私達は結界の力を込めた装飾品の状態を再度確認した後、ファフナーの
「だいたいこっちの方向だ」
という言葉に従って、魔境に向かって歩き出したのでした。
━━━]━━━━━━━━━-
アスティオス皇国は樹海への出入りを徹底的に管理していて、認可を受けていない人が樹海に入る事が出来ないようなシステムを作り上げています。例えば魔境に接している国境部分には壁を作り、更には村や町に近い場所には堅固な砦を設けて周囲の監視をしています。その上で任務で樹海に赴く人は全員が検問所を兼ねた砦を通るように義務付けられていて、そこで最終意思確認を含む様々なチェックを受けてようやく扉の向こう側へ行けるようになります。
その壁や検問所は年輪のように3重あり、皇国側から見て順に1の壁・2の壁・3の壁と呼ばれていて。壁と壁の間は広い所で1リュー、狭い所でも0.2リューはあります。
一番内側の1の壁を通過する事は他の壁に比べると簡単で、駆け出しの冒険者が素材採取などの為に通過する事がままあります。この辺りは草原が広がっていて、ところどころに普通の森や泉があります。また瘴気によって狂化した生物は出ませんが、野生の動物に遭遇する事はあります。なので絶対に安全だとは言い切れませんが、駆け出しの冒険者でもちゃんと準備をしてパーティを組んでいればどうにかなる程度です。
2の壁と3の壁の間もほぼ同様ですが、若干瘴気の影響が出る事があり、動物も狂化こそしていないものの狂暴化していて、駆け出しの冒険者では手におえない事があります。
そして3の壁を超えれば魔境です。といってもすぐ傍まで樹海が迫っているという訳ではありません。モンスターが襲ってきた事を出来るだけ早く察知する必要があるため、最低でも壁から100クラフターは木々が伐採されて見通しが利くように整地されています。
つまりその整地された部分を越えてしまえば、後は木々が空を隠すほどに鬱蒼と茂り、見通しは全く効かず、モンスターが闊歩する危険地帯です。
「ファフナー、貴方が本体の居場所を感知できるように
本体のほうからも貴方を感知する事は可能なのですか?」
「解らん。そんな事を本体に聞いた事は無いし、
そもそも狂化した俺は意思疎通が可能な状態じゃないからなぁ」
お兄様の質問は私も疑問に思っていました。向うもファフナーを感知できるのだったら、危険度は一気に跳ね上がってしまいます。
それでなくとも危険度が上がっているというのに……。
1年ぶりに訪れた魔境は瘴気が濃く、以前も空気が澱んだような感じはありましたが、今はもうそんな言葉では表せられない程に空気が悪いのです。もしも空気が腐るのだとしたら、今の魔境内の空気は完全に腐敗しきっていると思われる程です。
そんな空気の悪さは皆さんも感じていたようで、
「呼吸がしづらいな。
瘴気の影響はリアのおかげで押さえられているはずなんだが」
「もしや瘴気の氾濫の予兆で、空気すら変質してしまっているのでしょうか?」
「だとしても、リアの結界で浄化されて通常の空気に戻るはずですよ」
様々な考察しながらも周囲への警戒を怠る事なく、樹海の奥へと分け入っていきます。ファフナーが事前に教えてくれていた通り、樹海の中は風が上手に通り抜ける事ができないようで、そこかしこに瘴気溜まりが出来上がっていました。直進するだけなら簡単な道のりも、周囲を警戒しつつ瘴気だまりを避けながらだと、2倍どころか3倍や4倍も時間がかかります。
そのかかった時間分、私は重くはないけれど軽くもないファフナーを抱えて歩いている訳です。体調が戻ってからは体力を少しずつつでも付ける為に色々と頑張ってきたのですが、半年にも満たない期間のトレーニングでは戦士のウィルさんやアンディさんどころか、魔法使いのお兄様にすら敵いません。
せめてファフナーを抱いていなければとは思うのですが、手放す事はできません。
結界の力を込めた装飾品を身につけていても、瘴気との親和性が高い為に万全ではないファフナーと、結界と浄化以外の魔法は何も使えない為に身を護る手段に乏しい私は、お互いがお互いをフォローしあわないと足手まとい一直線です。
しかも結界能力は私自身には効果が無いのです。
不思議な事に地面に直接結界を張れば、その範囲に居る限りは私もその恩恵に与れるのに、装飾品にして身に纏うと結界が発動しなくなるのです。お父様も不思議に思って一度研究したいと仰っていました。
ただ、ファフナーによればそれは至極当然の事らしく……。
この力は本来、何かに瘴気を詰め込んで結界で流出を防ぎ、その後浄化するという使い方なのだそうです。なので自分自身を瘴気の器にしかねないような使い方は、どうあがいても出来ないのだというのです。自分の力ですが、その融通が効かなさっぷりが残念でなりません。
何にしても結界・浄化能力のある私が、一番瘴気に対抗できないという笑えない事態の中、私達は樹海の奥へと向かって行かなければならないのです。
お兄様をはじめとした皆さんが徹底して気を遣ってくださって、瘴気が殆どない場所を通ってくださっているのですが、それでも影響はどうしても受けてしまいます。その為に日を追うごとに私は感情的になりやすくなっていきました。自分でもそれでは駄目だと思っているのに、感情が動いてしまう事が止められないのです。
「お兄様、御免なさい……。もう疲れてしまって歩けません」
疲れている事は確かですが、頑張ればまだ歩けるのです。でも甘えたいという気持ちが湧き上がってしまって、その気持ちを抑えなければと思うよりも先に口から言葉が出てしまいます。
「うーん、もう少し進みたいところだけど……仕方がないね。
ファフナー、大元は今日も動いていないんだよね?」
「そうだな。少なくとも距離と方角は変っていない」
ファフナーの言葉を聞いたお兄様は、地図や方位磁石を使って現在地のおおよその当たりを付け、
「ちょっと遅れ気味だけど……仕方がない。
ウィル、ギル、アンディ。今日はこの辺りでキャンプにしよう」
そう周辺を警戒しているウィルさんたちに声をかけました。
そうなると今度は罪悪感という感情の暴走が止められなくなるのです。恐らく私は泣きそうな顔になっていたのでしょう。そんな私の顔を見たウィルさんは小さく苦笑してから
「気にするな。リアとファフナーは今回の任務の要だからな。
十分に休息を取って、出来るだけ万全の状態で進もう」
とポンポンッと優しく背中を叩いてくれました。その言動にトクンと胸の奥底で何かが脈を打ったような気がしましたが、それが何を意味するのか……。私にはわかりませんでした。
━━━]━━━━━━━━━-
感情の起伏が日に日に激しくなっていく中、私達はそれでも調査を続けて奥地へと進んでいきました。感情的になるのが私だけだった事、明確に目標を見出せるファフナーが居た事、瘴気に詳しいお兄様が居た事、何かあっても力で対処ができるウィルさんやアンディさんが居た事、そして「精神異常抵抗」というグラティアだったギルさんがいた事が幸いし、どうにか調査任務の続行出来ているような状態です。
それでもかなりギリギリの状態になった12日目。
不快極まりない匂いや、濃い瘴気の靄の向う側に黒い巨大な何かが現れたのでした。
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私はローワン伯爵家の一人娘クララ。私には大好きな男性がいるの。それはイーサン・ドミニク。侯爵家の子息である彼と私は相思相愛だと信じていた。
だって、私のお誕生日には私の瞳色のジャボ(今のネクタイのようなもの)をして参加してくれて、別れ際にキスまでしてくれたから。
けれど、翌日「僕の手紙を君の親友ダーシィに渡してくれないか?」と、唐突に言われた。意味がわからない。愛されていると信じていたからだ。
「なぜですか?」
「うん、実のところ私が本当に愛しているのはダーシィなんだ」
イーサン様は私の心をかき乱す。なぜ、私はこれほどにふりまわすの?
これは大好きな男性に心をかき乱された女性が悩んで・・・・・・結果、幸せになったお話しです。(元さやではない)
因果応報的ざまぁ。主人公がなにかを仕掛けるわけではありません。中世ヨーロッパ風世界で、現代的表現や機器がでてくるかもしれない異世界のお話しです。ご都合主義です。タグ修正、追加の可能性あり。
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