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御伽噺
千歳
しおりを挟む痛む額を抑えて森を駆ける。
これ以上石を投げられないように、これ以上叩かれないように。
そして、捕まらないように。
村の人は私を鬼と呼んだ。
額の左の付け根にある小さな突起が鬼を連想させるのだと。
誰かに不幸が降りかかれば、それは私のせいにされる。
しばらく雨が降らなければ、それも私の所為になった。
今日はどうして叩かれたのだったか、もう理由なんてどうでも良いのかもしれない。
「はぁ、はあ――」
幼い頃から虐げられてきたが、今日、遂にその我慢が出来なくなった。
私が通り過ぎる度に驚いた烏が、まるで私の居場所を教えるように木を揺らしながら飛び立ち、叫ぶ。
「あ!」
どしゃり、と派手な音を立てて前方に身が放り投げだされ、惨めについた膝が湿っている土に汚れた。
木の蔓がまるで先を急ぐ私を引き留めるように下駄に絡みついたのだ。
転ぶ時についた手の平に付いた土を見て、ぽろりと涙が零れた。
汚れる事なんて気にもせずに地面に伏せるように泣いた。これからどこに行けば良いのだろうか。村から出たことが無い私には当てにできる人なんていない。それに、このまま村から離れられたとしても同じ目に合うだけなのかもしれない。
……私は本当に鬼なのだろうか。
「そんな所で蹲って何をしているの?」
小さな子供の声が頭上から聞こえて、こんな森の奥に子供なんている筈が無い、と思いつつも顔を上げる。
「ひぃ!」
顔を上げた先には束ねられた白い髪に赤い肌、そしてツノがいくつも生えた鬼が立っていた。
これが、本当の鬼の姿……。
「昨日、雨が降ったから肌まで染みるよ」
こちらが怯えている事には気づかないフリでもしているのか、地べたに座り込む私を指差す。その子の爪は意外にも丸っこく整えられていた。
「あ、あの」
「うん?」
鬼の子供は漆黒の大きな瞳が宙を見上げたあと、首を傾げ、そして合点ついたように「あぁ」と声を漏らした。
「あなた、この森の近くにある村の人?」
「は、はい」
抑えられない恐怖に奥歯がカチカチと鳴る。
私の様子を見てその鬼はどうしたものか、とあぐねている様子。
「これか」
そう言って自分の頭上を見上げる。自分からは見えないだろうツノを見ているようだった。
「私はあなたと同じ鬼なのかもしれません」
彼女のツノと私の突起は全然似ていなかった。しかし、もしも彼女と私が同じ存在であったのなら、今度こそ私は誰かと一緒に生きていけるのでしょうか。
彼女の返答で、長年の自分の不確かさが判明する気がした。
期待と恐怖が渦巻く。ただただこの苦しい生活から離れることが出来るというのなら、私を彼女の傍に置いて欲しい。
拳を握って彼女の小さな足に縋りついてしまいたくなる衝動を抑える。しかし私の願いとは裏腹に鬼の反応はいまいち。どうして?
鬼は直ぐ傍までやって来て、視線を合わせるようにしゃがみ込み、徐にこちらに手を伸ばした。
これまで鬼を凶悪な生き物だと認識していた為、怖いと思う事は仕方なく、期待と反して体は怯えからかビクリと揺れた。その震えに鬼の手が戸惑うように一瞬止まったが、彼女の指の先は私の額に届いた。気遣うような手つきで髪を払い、露になった突起を見て納得したような顔をして目を細め、頷いた。
鬼はやさしく、やさしく小さな突起を撫でる。
痛めつけられる事があっても、親ですらこんなに優しく触てくれた事はない。労わるようなその手付きに、嬉しさに胸が締め付けられ、また涙が溢れた。この時、恐怖心はすっかり溶かされてしまっていた。
こんな人の傍にいられたら、私は幸せだったのだろうか。
「なんだあ、これはただのコブじゃないか」
どうか仲間として迎え入れて欲しい、と子供のようなその腕に願い乞いたかったが鬼はあまりにも残酷な言葉を告げた。
「え……」
まるで残念がる私の反応に鬼は憂うように溜息を吐いて、転んだ時についた頬の土を手が汚れるのも気にせず柔らかく擦って取ってくれた。
手についた土を軽く叩き落として、気遣うような手つきで手に取った私の手を鬼は引っ張って自分のツノに触れさせる。
「わたしと貴女の額にくっついているものは違うよ」
ふに、と柔らかなそれは、想像していたものとは違った。
鬼のツノには赤と紫の紐が飾り付けられていて、どこか神聖さえ感じさせる。
「柔らかいでしょう。鬼のツノなんてこんなものなんだよ」
肯定するように頷く私を見て鬼も頷き、白くて長い睫毛を悲しげに伏せる。
温かくて柔らかなツノの先端は子供の頬のように赤らんでいた。
「こんなに柔らかなツノで何を傷つけることが出来るというのかね」
噂通り鬼の肌は赤く、髪は酷いくせ毛の白髪。
聞いていた話と違う所は、肉を引き裂くと言われている爪は短く切り揃えられ、鬼の証である狂暴なツノは温かく、柔らかな皮膚に覆われていた。
「たかだか赤い肌を人は恐れ、人間より長生きをする私達を気味悪がった」
こうして近くで見る鬼は私達とほとんど変わらず、一体どうしてそんな話が生まれたのか不思議になった。
鬼は伏せていた目を上げてゆるりとこちらを向くと、困ったような顔をして笑った。
「どうして、皮膚に覆われているこのツノを怯えるのか。私達は分からない」
村の人達は自分達と違う者を怖がった。自分達と姿形が違う者を忌み嫌った。
恐ろしいのは、どちらの事を言うのだろうか。
「地面に座っているとお尻が冷えちゃうよ」
今更、あの村に帰る事なんて出来そうにもなくて呆然としていた私の腕を引っ張り、半ば無理やり立たせる。
鬼は、ぱんぱん、と至る所を少し強い力で叩いて土を叩き落としてくれた。
「それじゃあ」
「あ、あの!」
登場が急だったように、去る時も急で、背を向けて去ろうとする鬼を慌てて引き留める。彼女は「うん?」と不思議そうな顔をしてこちらを振り向く。
ーー私も連れて行って。
その言葉が喉に引っ掛かって出てこない。
私なんてついて行ったら迷惑を掛けるかもしれない。
優しくしてくれたこの子に拒絶されたら、今度こそ辛くて、どうにかなってしまう気がした。
「こっちだよ」
不安から立ち尽くす私に鬼は森の奥を指さす。
「もう、村には帰らないのでしょう?」
帰らない。
帰れない。
額の突起がただのコブであっても、私はあの人たちにとって受け入れがたい存在である事に変わりないのだ。
「千歳ー! 何してるんだー?」
森の奥からもう一つの声が聞こえた。
次第に近づいてくる足音がこちらに辿り着くと、姿を現したのは赤い着物のもう一人の鬼だった。
「どうしたの、その人」
「意地の悪い事をされたんだって」
「意地悪だ~?」
もう一人の鬼も肌が赤く、髪の毛は酷い癖毛の白い髪。違うところ言えばツノを触らせてくれた彼女よりもツノが大きかった。
「もう村に戻りたくないんだって」
「ふ~ん」
チラリとこちらを見たもうひとりの鬼の瞳は黄金色をしていた。
「まあいいや。ほら、日が暮れる前に森を抜けよう」
やはり連れて行ってはくれないか、と落胆していると2,3歩先を歩いた2人がこちらを振り返る。
「ほら、あんたも早く」
「夜になったら身動きが取れなくなるよ」
当たり前のように私の存在を認めてくれる2人に鼻の先がジワリと熱くなる。
「一緒に行っても良いのですか?」
千歳と呼ばれた鬼が私の手を握り、子供のする仕草のように私の手を小さく引っ張る。
「行こう」
幼き頃から教えられた鬼の姿は、肌が赤くて、口が大きい。鋭く尖れた爪は容易く肉を切り裂き、獣の様な冷たくて硬いツノは誠に恐ろしい。
なんて、そんなお話。
「早く傷の手当てをしちゃいたいな」
この日、私にとってそんな話はあまりにも酷い御伽噺になった。
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