【完結】絵の中の人々

遥々岬

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第十一章 秋のすすき

第四話

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 少年は見つけた川の浅い場所に立ち尽くし、空を回るトンビの鳴き声を聞き、代り映えのない辺りを眺め、いつまでも大きく成長しない自身の足元に視線を落とす。
 結局、私はそれを窓から眺めているだけで、彼が本当の意味で妹を失う時まで窓を開けて声を掛けることはなかった。


 彼の傷口は繊細だった。
 安直な言葉や夢語りの言葉を掛けることは危険であり、期限付きの付き合いである私が彼の心に介入することは到底出来るものではない。不確かな存在である私が人々の為に在れる彼に対して下手くそに干渉して、その傷口を取り繕うなんてこともあり得なかったのだ。
 それなのに、実直な彼の前で私の意志は情けなく身勝手にブレた。

 私とのおしゃべりは宙に浮かび、彼を酷く焦らしたことだろう。それなのに彼は飽きることもなくすっかり姿を変えた妹の部屋に通い続け、私はノックが聞こえる度に、今日こそ此処が何の部屋だったか思い出すのだろうか、と緊張した。

「筆の目の色は珍しいよな」

 すっかりコーヒーを淹れるのが上手になった息子さんは彼が淹れたコーヒーを冷ますようにティーカップを膝の上に置いて私の瞳を覗く様に見つめた。

「お父さん似? それともお母さん?」

 両親の瞳が何色だったか思い出せない私に彼が無邪気に問いかけた。手帳に描かれる姿をなぞるだけの日々だったが、久しぶりに色を思い出してみようと彼からの視線を外して天井を眺める。

「記憶では父と似た色だったと思います。……母はもう少し濃い暗い色だった」

 確か、そうだった。
 髪の癖毛は母似であるが、瞳の色は父と良く似た焦げ茶色。少し赤く見える茶色だ。

「私の故郷の人々は大体黒の髪色に暗い茶系統の瞳の色をしているんです」

 本当は、同じ色であるようで違う色なのだが、村の外の人が私達を見れば同じ色をしていると言うだろう。

「じゃあ、これから出会う人の中で筆の同郷の人かどうか分かるかもしれないね」

 天井から息子さんに視線を戻すと、閃いた様な顔をした彼の様子があまりにも可愛くて笑ってしまった。

「それはあまりにも安直すぎますよ」
「例え違ったとしてもその時は相手が自身の出身を教えてくれるだろ。故郷の話は大体盛り上がる。それに当たりなら筆の故郷の話を聞けるだろ」
「私の?」
「そうだよ」

 どうして私の故郷の話なんて聞きたいのかと首を傾げれば息子さんはワザとらしく溜息を吐いた。近頃の彼は小生意気さが増したが、それも成長の表れだと思うと微笑ましい。

「だって筆はあまり自分のことを話さないじゃないか」
「知りたいのなら聞けば良いじゃないですか」
「そうだけど……」

 気持ちの良い程に素直な性格をしているのに、よりによって何故私のことで躊躇とまどうのだろうか。

「君、自分のことを話す時に寂しそうな顔をするから」

 そう言って私から視線を外し、いじけた様に僅かに口を尖らせて萎んで小さくなった湯気を見つめた。

「答えにくいことを聞いても君は答えようとしてくれるだろう? 少し誤魔化していたとしてもさ。……友達のことは知りたいけど、君は俺を雇い主の息子として見ているだろうから、なるべく答えようとしてくれる」

 過度に彼の心に触れて良き理解者の一人として振舞うことは可能だろう。しかし、私はそれをしない。私は彼が失った穴を埋められる人物だと認識させないように、のらり、くらり、と息子さんの言葉をいなしてきた。その態度が彼を傷つけていることを知っていても抱擁してやることが出来ないのだ。

「全て話し合えないと駄目だ、なんて思わないけれど、君に関しては小さなことですら知らないんじゃないかと思う時があるんだ。俺ばかり沢山の感情を貰っていて、それがあまりにも一方的過ぎると感じることがある」

 例え、私がして来たことが、相手の為を考えてのことだったとしても、遠回りをして相手を傷つけてしまう爪となる。
 へだたりを作ることは簡単だった。
 浅い場所で漂い続ける彼の手を引っ張って、深い場所に行こう、と手を取ってくれる人だと期待されてはいけない。それは私の役割ではなかった。

「それは違います」

 隔たりを作ることは簡単だった。
 だけど、これはあまりにも悲しいことを言わせてしまった。だってそうだろう。彼の言葉はまるで、俺達は友達だよね? と言わせているようなものだったから。

 顔を上げた彼の期待を滲ませた瞳にグラグラと心が揺れる。
 僅かに奥歯を噛む私の表情に息子さんは敏感に反応を見せた。

 相手の表情や声色から、感情などを読み取れた方が良いと言ったのは私だったのに、今ばかりは僅かな反応なんて気づかなくて良いと思った。

「私だって貴方とのお喋りを楽しみにしているのに、そんな寂しいことを言わないでくださいよ」

 誤魔化された、そう思っただろう。
 そうして私はまた小さなひっかき傷を彼に付けた。

 本当は言ってやりたかったさ。
 楽しみどころか、君と過ごす時間が好きだって。事実を伝えて、悲しみに暮れる君の肩を抱いて、涙が涸れるまでその肩を撫でてやりたいよ。
 だけど、彼は自分で気づかないといけなかった。
 月に上り続ける人である彼は喪失から顔を背けてはいけない。

 彼はどうして月に上らなくてはいけないのか理解していたが、痛みに苦しむ者の為にしてやりたいという気持ちに繋げることが出来ずにいた。いや、何もそういった気持ちが微塵もないと言いたい訳ではないのだが。

 ただ、全てを思い出した時、彼はこの家の者達の成すことを理解するだろう。

 ホーリィさんが苦しんでいた夜。
 高熱に浮かされる幼子の苦しみを取り除いてくれる光がなかったのだと。

 採れる月の光には限りがあり、その恩恵を僅かに貰えるだけ私達は恵まれている。
 危険を顧みず月に上り続けるこの屋敷の者は、今も尚、苦しんでいる全ての命に極小の光の欠片さえ余すことなく分け与える。
 月の光を採ることを許された人々であるのに、自身を特別とせず、世界の為に平等で在り続けて来たのだ。

 今思えば、その生き方は賢者の様だと思わないだろうか。
 全の為に在り、一の為に在らず。

 しかし、彼らはただの人でもあった。
 一の為に寄り添えるのは一だけであり、死んでしまった者の弔いもその一である。それなのに、彼はその唯一の権利を見失ってしまった。家族として、兄として、心から悲しみ花を手向けることが出来るのにそれすら出来ないでいた。

 失った者にだって、してやりたいことなんて山ほどあるのだ。
 弔いとは、本当は残された者の為にあるのかもしれない。

「……だったら、嬉しいよ」

 きっと、もっと確信に近づいたことを言って欲しかったのだろう。息子さんは寂しげに笑って見せた後、滲み出るそれを隠すようにカップに口を付けた。


 私の役割は、近道をするように手を引いて一緒に沈んでやるのではなく、自らの意志で妹を弔えるように沖を指さして深い夢の居所を教えてやること。
 悲しい時は悲しいと言って欲しい。そう言っていた彼は、いつからその言葉を堪えるようになったのだろうか。



 聞き慣れた玄関のベルを鳴らすとシンプルなワンピースにエプロンを付けた女性が玄関から出て来た。私の顔をじっくり見た後、合点が付いたように笑みを浮かべて両手を合わせた。

「あら! あらあら、まあ~。お久しぶりです、筆さん」
「お久しぶりです。突然の訪問、申し訳ないです」
「いいえいいえ、きっと旦那様も奥様も、勿論坊っちゃんもお喜びになりますよ。……ただですね、旦那様たちは家を出られていまして、坊ちゃんは屋敷にいる筈なのですが今朝から見当たらなくて」

 次に続く言葉は、探してきますから中に入ってお待ちください、だろう。

「心当たりがありますので荷物だけ置いて行っても良いですか?」
「えぇ、ええ。勿論です。荷物は私が運びますので」

 本当は彼女も彼がいる所を知っているだろうに。
 彼女のやり方は知っている。彼に聞こえる場所の窓を開けて、彼を探しているように大きな声を出すのだ。
 屋敷の人たちは、今も彼の姿が見当たらない時は無理に連れ戻すことはしないのだろう。

「シンシアさんはお変わりなかったですか?」
「はい。周りの者も変わりなく過ごしていました」
「あ、重たいので……」
「承知しておりますよ」

 手渡した二つの大きな荷物をシンシアさんは逞しく持ってくれた。
 申し訳なく思いながら、私は屋敷の裏に行く為にもう一度だけ彼女にお辞儀をして玄関を離れた。
 

 今日は少しだけ風が強い。
 ハーフアップにしていた髪が風に靡く。

 屋敷の裏に辿り着くと、空でトンビがクルクルと回って飛んでいた。
 その下にはキラキラと輝く川、そしてその傍らに一人の男性が私に背を向けて立っていた。寒いのだろう、手はポケットに突っ込んでいる。

 彼の前の川を後ろから凝らして見るが赤い実は流れていなかった。

「朝から此処にいたのですか」

 すっかり広くなった背中に声を掛ければ、男性は風に弄ばれている柔らかな飴色の髪を邪魔にしながらこちらを振り向き、優しい琥珀色の瞳は、私の姿を視界に捉えるとみるみると大きく見開いた。

 空で回り続けるトンビが笛の様な鳴き声をあげる。
 まるであの日に戻ってしまったように錯覚するほど、此処は何も変わっていなかった。

「筆……?」

 ゆっくりとした動作でポケットから手を取り出し呆然とする彼の言葉に対して私は笑って頷いて見せる。

「お久しぶりです。息子さん」

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