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第六章 物語のはじまり
失くしたおわり
しおりを挟む銀世界が広がるある町に家族と幸せに暮らす一人の少女がいました。
その地域は1年の半分以上が冬。
水を含み重くなった雪が建物の一階をすっぽりと覆うほど積もるのです。
人々は慣れた手つきで毎日雪かきをします。
重たい雪を掘っては運ぶ作業は大変ですが、家族みんなで力を合わせて玄関や家の前の雪をかくのです。
少女の名前はシズリ。
シズリとは、枝に積もった雪が滑り落ちる事をいいます。
少女が産まれて直ぐに泣く事もせず氷のように冷たくなり始めた頃、家が揺れるほどの雪が屋根から落ちました。暖炉の火が弾ける音よりも大きなその音で少女は自らの力で息をし、ようやく産声を上げたのです。
母は酷く安堵し、例え心に孤独が押し寄せ、白銀の中で彷徨いひとりぼっちになってしまっても、垂る音が再び人の世に少女を戻してくれるのだと願い、そう名付けました。
銀世界の中に1人立ち尽くしたとき、暖かさも、音も、生命の鼓動も失われてしまったような気になります。
森は眠り、僅かに起きている動物の足跡が残っているだけで、それも雪が降ってしまえば消えてしまいます。
沈黙の世界の中では雪が落ちる音でさえ大きなものでしょう。
白猫にシロと名前を付けるように、成長するにつれてなんだか安直な名前だと思う事もありましたが、少女は自身の名前に母の愛情が込められている事を理解していました。
だから、彼女にとっても大好きな名前なのです。
朝の雪かきを終え、朝ご飯を作り、おばあちゃんに編み物を教わり、そして午前の終わり頃は昼食作りを手伝いました。
大きく切ったジャガイモが入ったスープはとても美味しくて体も心も温まります。
昼食を食べ終えると再び自由な時間が訪れます。
おばあちゃんも、お母さんも、そしてシズリも、その兄弟たちも、毎日同じ暮らしを続けて来ました。
きっと家族が続く限り、みんな同じ生活を続けていくのでしょう。
「あれぇ、このおとはなんだろう」
家の前に作ったかまくらに入って兄弟たちと遊んでいると、聞き覚えの無いチューブラーベルの音が聴こえてきました。その音は軽快に胸を揺らすような音でした。
兄弟たちの顔を見渡しても誰も気に留めた様子はありません。シズリは首を傾げます。
空に反響するような鐘の音が真っ白な森から聴こえてきます。
「すこしあっちにいってくる」
兄弟に一言残し、シズリはかまくらを出ます。何処へ行くのかと兄弟たちも首を傾げましたが着いて来るとは言いません。
仕方ない、と思いながらも好奇心を抑える事が出来ないシズリはひとりで森に向かいます。
森からはゆっくりとしたテンポのメロディーが聴こえ続けます。
木々に積もった雪が森の奥を一層暗くしました。
少し怖いですがシズリは一歩森に足を踏み入れます。ザク、ザクと雪を踏みしめてゆっくりと進んで行くと、鐘の音は一層鮮明になりました。
雪に囲まれた町は静かですが、森の中はもっと静かです。
シズリが歩く音と不思議な音だけが聞こえます。
チューブラーベルのメロディーと、伴奏を務める木琴の軽やかなハーモニーが心細さを和らげてくれました。
どんどん雪を踏みしめ道なき道を進むとお母さんに普段から近づいてはいけないと言われている湖が見えてきました。
もこもこのマフラーに顔を埋めて暖かい息を溜めないと鼻が凍り取れてしまいそうになる程寒いのに、あの湖は凍りません。冬の湖とは分厚い氷が張り、スケートを楽しめるというのに不思議なものです。
シズリは母の言い付けを守りその湖に近づかないようにして森の奥に進みます。
おんがくかい おんがくかい
まどのそとはしろく もりはねむる
はるをまつ はるをまつ
おんがくかい おんがくかい
いえはおだやか だんろのひはおどる
はるをまつ はるをまつ
楽器の音と共に声が聴こえました。その声は楽しげです。
シズリはその音楽を聴きながら、弾む気持ちを抑えながら前へ、前へ、進みます。
たくさん歩いて見えたのは小さな洞窟の入り口でした。
「ここからきこえてくるのね」
素晴らしいホールに響き渡るようなチューブラーベルの鐘と木琴の音、そして美しいコーラスが聴こえます。
シズリは暗がりの奥を怖がりましたが勇気を出して洞窟へ入りました。
ああ、何か灯りがないと前が見えない。失敗したなあとシズリは思いましたが、奥を見ようと目を凝らして気が付きました。洞窟の壁が光っていたのです。
何が光っているのか。シズリは壁に近づいて良く観察しました。
「これは、サナギ?」
壁には蝶のサナギのようなものが敷き詰められており、サナギの中がぼんやりと水縹に光っているのです。
綺麗な灯りを小さな指先で突いてみましたが、そのサナギは硬く、冷たく、死んでしまっているようでした。敷き詰められたサナギを幾ら見渡しても皆死んでしまっているようで、シズリはなんだか怖くなってきました。
家に帰ろうかなと思いましたが、美しいメロディーが奥へと誘います。
奥へ、奥へ、進むと不思議と悴んで鈍くなった足の指先が暖かくなっていきました。
このさきに、うつしいせいれいさま が いたら なんて あいさつ を したらいいのかしら。
シズリは途端に緊張しはじめます。
森に棲む精霊も、冬の精霊も美しく優しいが恐ろしい一面も持っていると母から聞いていたからです。
挨拶が出来る子は良い子だから、だからちゃんとご挨拶が出来れば優しくして貰えるはず。シズリはそう考えました。
奥へ、奥へ、進むと足音も聞こえないほどメロディーの音量は大きくなり、体はすっかりポカポカとしていました。
「……おはな?」
シズリは遂に洞窟の一番奥へ到達します。
奥にはより一層美しい金色の光を放っている花が一輪咲いていました。
シズリはお花に近づき、膝を付いてそっと耳を寄せました。メロディーはその花から聴こえて来ました。
それにしてもなんて美しいお花なのでしょうか。
その花はまるで銀細工で作られたような花弁を持ち、青く、金粉が散りばめられたような小さな果実をつけていました。
分厚い皮の手袋を脱いで、そっと優しく花弁を撫でると見た目に反して柔らかく、まるで人肌のような暖かさがありました。
「やさしくて、きれいね」
美しい花から、美しいメロディーを聴き、シズリはうっとりしました。
まるで夢の中にいるみたい、と。
花弁を撫でていた手を誘われるままに果実に滑らせ、そして遂には果実を捥ぎ取ってしまいました。
いけない事だと思うのに、シズリはキスを落とすようにその青い果実を齧ります。
こんなに甘い果実は食べたことが無い。
うっとりするように、ゆっくりと噛み、飲み込み、また齧り、充分に味わいました。
食べ終わると咽かえるような甘い香りがシズリの身を包み込みました。
このまま此処で眠ってしまいとさえ思うほどに居心地が良いのです。
ぼんやりとした幸福に満たされていると洞窟の外で雪が落ちる音が聞こえ、夢から覚めるようにハっとしました。
随分奥へ進んだのだから雪の垂りの音が聞こえてくる筈も無いのに、夢を破く様に重たい雪が落ちる音が聞こえたのです。
「いえにかえらないと」
シズリは途端に時間が気になりました。
家の決まりで夕飯までに帰らないと怒られてしまうからです。
小走りで洞窟を抜け、来た道を戻ります。
幸いなことに今日は雪が降っていなかったので来た時に踏んで作った足跡に足を入れるようにして進みます。
森を抜けた頃には太陽は沈み、家には光が灯っていました。
シズリの帰りを待っていたかのように玄関の鍵は開いていました。
玄関扉を開けると中からは美味しそうな匂いが漂ってきました。しまったなあ、と素直に怒られる為、心の準備をしながら玄関と鍵を閉め、すっかり冷えた体を暖めるように家族が待つ居間に向かいます。
しっかりと母親に怒られた後、間に合った夕飯を皆と食べました。
何処に行っていたのかと聞かれても洞窟に行った事は秘密にして、お花の話を誰にも話しませんでした。
眠る頃には、少女は今日の出来事は夢だったのだと思いました。
そして月日が過ぎ、洞窟のことも花のこともすっかり忘れ、祖父母、両親、沢山の兄弟たちと、冬の寒い町でいつまでもいつまでも一緒に暮らしました。
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