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第三章 薔薇のアーチ
第四話
しおりを挟むリンゴのスライスが入った甘いアップルティーの香りが鼻と肺を満たす。
振り向いた先には風の妖精の姿がすでに消えていて独り取り残された気持ちになった。呆然とした様子で庭に突っ立っていた私を見て、朝の掃除のせいで疲れているのかと思ったカロルさんが”リンゴの紅茶”を入れてくれたのだ。
乙女の番人からの依頼も、喉から手が出るほど知りたかった”産まれ直し”についてを知る妖精の存在も、何もかもが現実離れしていた。
二百年ほどの人生。いや、もう少しだけ生きているかもしれない。
長い年月を過ごす中で、人の為に出来ることを見つけて独りきりで生き続けてきたのだ。今更、元に戻る術を探すだなんて、私には出来るのだろうか。
何から考えれば良いのかも分からなくなり温かな紅茶を見つめていると、ズズっと啜る音がしてそちらに顔を向ける。私が視線を向けるとカロルさんはカップを傾けながらこっちを見ていて、わざと音を立てたのだと分かった。
「疲れたか?」
「いえ」
私の曖昧な態度に彼は首を傾げ、テーブルにカップを置いて指を組んだ。
「君は色々な所を歩いているんだったか」
「はい。……乙女の左側は行ったことがないですけどね」
どうしても妖精との会話が頭から離れず、思わず聞き慣れなかった単語を漏らす。
「乙女の左側なんて誰も行きやしないだろう」
カロルさんは面白いことを言うもんだな、と笑った。私もそうやって笑えたらどれ程良かったか。
気持ちを持ち直せない私を見て彼は少しだけ困ったような顔をする。
「じゃあ何処を行ったりしたんだ?」
気遣う様な穏やかな声だった。
うまく気持ちを表現できない小さな子に根気よく話しかける父親そのもので、気を使わせて悪いことをしているなと少し落ち込む。
「此処に来る前は紫色の海が美しい町に行きました」
「へえ。海の町なら海鮮物が美味しかっただろう」
「はい。どれも美味しかったです」
思い出すのは美しい紅碧色の海と町の風景。
アップルパイの香りが漂う温かな家と優しい歌。
「他はどこに行ったんだ?」
スライスされたリンゴを見つめれば、話の続きを催促され、カロルさんを見れば「話してごらん」なんて言いたげに彼は頷いた。
「大きな橋の真ん中にある街にも行きました。橋にはステンドグラスが装飾されていて綺麗でしたよ。……そこの依頼主はバイオリンを弾く人でした」
「橋にステンドグラスか」
カロルさんは少しだけ天井を見上げて、街を想像している様子だった。
「汽車の車両を作っている街は産業に富んでいてとても大きかったです。そこの依頼主は洋服の仕立屋さんでした。……染み抜きなんかもやってましてね、頻繁にケチャップで汚れた服を持って来る常連さんがいて、その話をよくしていました」
「ああ、その街なら行ったことがあるよ。近未来的な建物が沢山建っているんだよな」
そう。近未来的な街だった。ひしめき合う小さなお店は活気よく、そして健気であった。
結局、環境や見ている風景が違っても人々の暮らしはあまり変わらないように思えた。
「庭にイチジクの木がある家にも行きました」
「そこの依頼主は何をしていたんだ?」
「……ふふ」
「うん?」
何をしていたか、かあ。
白鳥の刺繍が美しいレースカーテンが鳥の羽ばたく音を真似するようにはためいていたのを思い出す。
「そこの依頼主は町の領地を管理している人でしてね」
「そりゃあ大した人だな」
「ええ。でも、仲良くなったそこの息子さんは勉強をサボって私の作業部屋に入り浸っていたんですよ」
私達は子供だったんだもの。
何をしているか、なんて聞かれても、彼に関しては可愛い記憶しか思い出せなかった。
「気を許せた友人でした」
始めは重たそうに開けていた扉は徐々に軽々と開けるようになった。扉を気軽に開けて入って来るようになった彼の姿が、私は嬉しくて堪らなかった。
息子さんはいつまで経っても鈍感だったけど、とっても優しい子だったよね。
「それは良い出会いをしたんだな」
口角を上げてしみじみと頷けば、気を使っていたカロルさんは安心した様に頷き返した。
それから、私はこれまで訪れた街や絵の話をした。
商売道具である画材は安い物は選ばないが、どうしたら値引きしてくれるのか、安く買うコツなんかを話したりした。
意外にも彼は私の話を楽しげに聞いていた。
暫くそのままソファーに座って話をしていると、カロルさんはふと外をぼんやりと眺めた。それは庭の薔薇のアーチがある場所だった。
「あまり荒れなけば良いんだがな……」
心配そうに空を見上げ、ポツリと呟く。
今日は台風が来るそうだと言っていたか。
空は雲が密集し、すっかり重たそうな灰色になっていた。
「窓に板を打ち付けますか」
「いや、そこまでしなくて良いだろう」
左手を鎖骨に当てて庭を見つめる彼は、どうか薔薇の花弁が散らされませんように、と心の中で祈っているようだった。
天に彼の願いは届かず、台風はこの街にやって来た。
街の薔薇は大丈夫なのだろうか。
夜。ガタガタと音を立てる窓を覗き、外の様子を伺うが雨が凄くてよく見えない。
「……、……!」
風の悲鳴と雨のぶつかる音に混ざって人の声のような音が聞こえる。
まさかこんな天気の中歩いている人がいるのか?
……いいや、気のせいかもしれない。だって、こんな酷い天気の時に外なんかに出たら大変なことになる。
「おい!」
今度ははっきりと人の声が聞こえた。
私は慌てて窓を開けて辺りを見渡す。
大粒の暖かな雨がビタビタと顔や肩を濡らした。
「こっちだ、下だ!」
声を辿るように下を覗き込めば庭にカロルさんがガーデニングのネットを持ってこちらに向かって叫んでいた。
まさか彼が外にいるとは思わず、私は慌てて一階へ駆け降りる。
リビングの窓から庭を見ると彼は風や雨が荒れ狂う庭にいた。その姿を見てギョッとした私は玄関から靴を持って来てリビングの大きな窓から外に出る。
息をするのも大変だ……!
雨が目に入らないように腕を盾にして彼に近づく。
「薔薇が傷んでしまう……! これを被せたいんだ! 頼む、そっちを結んでくれ!」
必死に叫ぶカ彼の言うとおりに、びたびたと体を打ちつける雨粒に負けじとネットに手を伸ばす。
カロルさんの脇腹にはどこからか飛んできたチラシがへばり付いていた。
ネットで薔薇のアーチを抱え込むように包み、麻紐できつく結んでいく。土が抉られでもしない限り飛んでいかないだろう、と言う位に薔薇を囲った。
荒れ狂う景色の中で、苦しげにネットで包まれたアーチを握り見上げ、彼は漸くそこから離れた。
「……急に悪かった」
作業を終え、二人して満身創痍でリビングに転がり込む。
髪から垂れる水を拭いもせずグッタリ俯く彼はへばり付いていたチラシを剥がし、それを床に捨てた後、静かに謝った。
「あの薔薇は、大切なものなんだ」
「分かっていますよ」
彼はポタポタと髪の毛から落ちる水を邪魔くさそうに、前髪を握って退ける。
「……そうか、分かるか」
カロルさんは力が抜けた様に呟いた。
「他の薔薇はあのままで良いのですか」
私達がネットを巻いたのはアーチだけだった。
「ああ、いいんだ。あの薔薇はあのくらい問題ない」
取り敢えず、このままでは二人とも風邪を引いてしまう。
雨に当たり小さく身震いする体を擦り、風呂を沸かすか、と立ち上がろうとして、その時にちらりと見た彼があまりにも憔悴しきっていて心配になった。
「あの薔薇は、俺が母さんに結婚を申込む時にプレゼントしたものなんだ」
ポツリと呟いた言葉に一度浮かした腰を下ろす。
彼は私に大切なことを話そうとしている。
それは誰にも見せなかった、大事なアルバムを開いて見せてくれるようなことを、だ。
「こういう時は普通、苗じゃなくて花束を渡しません? って言われたんだ」
「苗をあげたんですか」
「その方が枯れなくて良いだろ」
「……ふふ、そうですね」
彼があげた薔薇はアーチを包み込む程に立派なものになった。
この家に残された妻との大切な思い出が詰まった宝物。あの薔薇は、子供から聞いた話とはまた違う物語を持っていた。
「桃色はな、母さんが好きなんじゃない。あの子が、下の女の子が可愛くて、可愛くて、女の子らしい色を母さんが身に付けさせたがったんだよ」
ポツリポツリと話し始めたのは、家族との大切な記憶。
「母さんの好きな花は薔薇じゃなくて、菫だ。好きな色は、すみれ色」
次男さんと妹さんが描いて欲しいと言ったものは母親の愛情そのものだった。
「上の子は知っているんだが何も言えなかったんだなあ。お兄ちゃんの癖に下の子に気を使うから。……いや、俺にも、か」
困ったような顔をして笑ったカロルさんを見て、嗚呼やっぱり長男さんはこの人に似ているな、と思った。
悲しいことを隠すようにこの人も、あの人も人を気遣う様な顔で笑うのだ。
「この家には母さんとの思い出が沢山ある。その中で暮らせることが唯一の幸せなんだが、……寂しいもんだ。冷蔵庫なんて、中々買い替えられないよ」
冷蔵庫……?
どんな思い出があるのだろうかと話してくれるのを待っていると、カロルさんは床を見つめていた顔を僅かに上げて、目を丸めて私の方を見たかと思うとスクっと立ち上がった。
急な行動に驚いたが、何処かへ歩き出した彼の背中を追いかける。
彼はキッチンへやって来て、食器棚と壁の隙間に手を入れる。意味が分からない行動だが私は黙って見守ることにした。
「まさか」
信じられない、と言ったように呟いて隙間から取り出した手には一冊の本が握られていた。
彼は心底驚いたような顔をして、キッチンのタオルで軽く手を拭き、急ぎ足でリビングに戻った。
私もその後ろをついて行く。
彼は床に座ってテーブルに取り出した本を置いた。
「喧嘩をすると、母さんは俺の仕事で使う軍手とかをあの場所に隠すんだ。母さんの話を君にして、一度もあの場所の確認をしていなかったことを思い出したんだが……」
カロルさんは驚いたように呆然とテーブルに置いた本を見つめる。呆然としている様子だった。
「母さんが死んでから、あの場所に何かあるなんて考えもしなかった。いや、始めは気になってはいたんだ。でも、期待をして探ったところで何もないだなんて恥ずかしいと思ったんだったか。それで、すっかり確認をするのを忘れてしまっていた」
思い出の薔薇を台風から守り、他人である私に思い出話をして、家族との優しい記憶を思い出して、そういえば、と今まで持たないようにしていた期待を持ったのだろうか。
「君には分からないだろう、けど」
私には伝わる筈がないと言いたげに彼は歯切れ悪く言葉を止めた。
年若く見える私にはまだ出来ないと思っているのかもしれない。その彼の考えを否定するように私は力が抜けるように首を横に振る。
「百年経とうが、二百年経とうが、人は愛に一途なものですよ」
知ったような口ぶりだな、なんて言われるかと思ったが「そうか」とだけ返って来た。私の言葉を易々と肯定してしまう彼の姿が痛々しかった。
冷蔵庫の後ろに隠されていたのは薄い楽譜だった。
カロルさんは小さく深呼吸をして本に手を伸ばす。
彼はパラパラとページを開いて行き、何かが挟まっているページで手を止めた。
そこにあるのは、白と赤の二枚の花弁で作った押し花だった。
「薔薇の花弁」
よくよく見てみれば器用なもので、その二枚をスカートに見立てて並べ、手書きで女の子の上半身や腕、足、愛らしい顔を描いていた。花弁を上手く使ったそれはまるで妖精のような可愛らしい絵であった。
「バラの、花ことば」
押し花を指でなぞっている所を一緒に辿って見れば、小さな文字が書かれていた。その字は少し丸っこくて可愛らしい。
「白は深い尊敬。赤は、あなたを……」
息を飲むとはこのことをいうのかと思えるほど、彼は露骨に息を止めた。
「愛して……います」
そして割れ物をそっと硝子の机に置くような慎重さで短い文章を読み終えるまでに彼の瞳にはあっという間に涙が込み上げていた。
「……は、」
その雫が膝に落ちると同時に押し花を額に押し付ける。
縋るようなその姿は、彼にとっての奥さんの存在は、世界の全てだったのだと知らしめていた。
薔薇のアーチは赤色。
カロルさんが奥さんに贈った花。
その周りにある四季咲きの薔薇たちは殆どが白色。
あれは奥さんが買ったものだろうか。
この家の庭には、白色の薔薇に囲まれるように立派な赤い薔薇が咲いていた。
奥様がいつどのように亡くなったのか、私は知らない。看取れたのは彼だけだったと三人から聞いていたが、彼からは何も聞けなかった。
ただ、可愛らしい悪戯をするように隠されていた手作りの栞は、自分がいなくなった後、独り悲しむ夫の行く末を見越した奥さんからの愛と、精一杯の慰めだったのだろうか。
「う……、ぅ……、チサ。……チサ!」
繰り返し呼ばれる名前は彼ら家族の”母さん”ではなくて、目の前で泣いている彼だけの、ただ一人の愛しい女性の名前。
”母さん”と呼ぶのは父親として気丈に振る舞いたかったからか。子供達の前ではいつもと変わらないようにしたかったのか。
私の前でも頑なに奥さんの名前を呼ばないのは、彼にとっては一種の逃げだったのかもしれない。親をしている時は、少しでも強くいられるものだから。
子供が家を出て、一人でこの家にいるのは寂しかっただろう。
それでも奥さんが残したこの大切な家を毎日掃除して、庭を綺麗に手入れして、この場所を守り続けた。
子供の前では何処までも父親らしくしていたのだろうが、いま、気丈にしていた糸が小さな栞によって解かれた。
私がいるのも気にせずに泣き続ける彼に掛ける言葉が見つからない。
このままでは風邪を引いてしまいそうだけど、今日はお風呂に入る気にはならない、か。
私は彼をそのままにして、濡れた床をタオルで軽く拭き、与えられた部屋に戻る。
きっと今だけは一人きりになりたい筈。
今日ほど、ひとりぼっちで泣きたい日はないだろうから。
部屋に戻り、タオルで軽く髪の毛を拭きながらイーゼルの前に置いている丸椅子に座る。
未だ窓を叩きつける雨音が彼の激しい悲しみのようだった。
「優しい絵を描こう、優しい人を描こう」
自分に言い聞かせるように零した言葉は寂しげに夜の影に沈んでいった。
背景は勿論、この街で一番愛らしく咲く薔薇のアーチだ。
下地に深い緑色を塗り、その上に葉や枝の輪郭を描くように少しずつ明るい色を乗せていく。ジワリと太陽の光が滲むように下地の濃い色と明るい色は混ざりあった。
立派な薔薇のアーチの前には愛らしく微笑む彼らの大切な人。
目尻と穏やかに弧を描いた口元の端に出来た”幸せの皴”が、これまで彼女が沢山笑って過ごしたことを証明していた。
日々、子育てに奮闘している為か手入れが中々行き届かず慢性的に乾いてしまった髪の毛の一本一本が悪戯げに、一つに結んだ束から零れて陽だまりを浴びて金色に輝く。
髪を一本一本描くことは緊張するもので、不自然に太さを変えてはいけない。肘を固定して震えることがないように慎重に、そして勢いを付けて描いていく。
奥さんが着ているのは綺麗なワンピースではなくて、家事がしやすくて用事が出来ても直ぐに外に出られるようにアイロンが掛けられた女性用のワイシャツ。その上には汚れても良いようにエプロンをしていた。
水仕事や土仕事をする為に手は傷んでいただろう。眩しそうに上げた手の指の先は、少し赤みを増した色を滲ませていく。
リビングから庭を覗くと、振り向いた人は少しだけ影で暗くなる。背景にある太陽が逆光になるのだ。それがまた、彼女の存在を夢のように朧げに見せた。
キャンバスに奥さんがはっきりと形作られてくる頃には、雨音はすっかり弱まっていた。
家事や庭弄りでヒリヒリしているだろう手の為にハンドクリームを贈りたかった。
髪の毛のツヤを取り戻す為のオイルをあげたかった。柔らかな櫛をあげたかった。
「今年も綺麗に咲いたね」って、リビングのソファーに座って、庭の薔薇を一緒に眺めたかった。
涙が頬を伝って顎から落ちた。
チサさんを失って、家族の誰もが孤独になっただろう。そして、ひとりぼっちを望む父親を子供は酷く心配していた。
あんなに出来た人なんだ。父親として、義父として、そしておじいちゃんとして。奥さんが出来なかったこれからを、奥さんがしたかっただろうことを、あの人なら出来ると思うのだ。それは私だけではなくて、子供であるあの人たちが一番に分かっていて、そして望んでいることだろう。
どうか、あの人に寄り添ってくれる絵が描けますように、と左手を鎖骨に当てて祈る。
灰色の空の奥で光が滲み始めた頃、キャンバスはすっかり太陽の輝きの色と植物の優しい色で埋まった。
「……なんだ、泣いていたのか」
朝がやって来て、目元を腫らしたまま一階に行けばカロルさんは既に起きていた。もしかするとこの人は寝ていないのかもしれないな。
私の顔を見るなり驚いた顔をして「待っていろ」と言って水で冷やしたタオルを持って来てくれた。
私以上の顔をしている癖に、気さくなことで……。
受取ったタオルで頬を冷やしながら、真っ直ぐと彼を見つめればカロルさんは訝しげな顔をした。
「絵が出来たら、見てください」
昨日の今日だ。
当初のように、何も考えずに文句を言うことはやめたらしい。
彼はただただ複雑な顔をしていた。
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