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第二章 紅碧色の町と人魚
第五話
しおりを挟む朝、扉をノックする音で目が覚め、私は急いで体を起こし扉を開けた。
「あら、起こしちゃったかしら」
寝巻のままの私を見て眉をハの字にする奥様に慌てて否定する。
休んでいるところ悪い事をしたわ、って思っていそうな表情だ。
「いいえ、いいえ。どうかされたのですか」
寝起きで跳ねているだろう髪の毛を抑える。
「貴女にお手紙が来ていたわ」
「あ、ありがとうございます」
何通か麻紐で括られた手紙を受け取ると奥様はニッコリと笑って一階に下りて行った。
パジャマから作業服に着替えて、顔を洗ったり歯を磨いたりもせずに作業部屋に入る。
あっちこっちに毛先が跳ねている頭を掻きながら、空気を入れ替える為に窓を開ければ、僅かに開いていた扉がパタンと音を立てて閉まった。
手紙は滞在している町の郵便屋さんに個人番号を届けていれば何処にいても届く。
どんな遠くにいる人であっても風の妖精が届けてくれるのだ。手の平ほどの大きさの人に似た鳥、とでもいうのだろうか。首の周りにはマフラーを巻くようにふわふわの羽が生えていて可愛らしいのだが、性格は愛想がなく、ぶっきらぼう。ただ、仕事は完璧にこなしてくれるので人々からの信頼は厚く、嵐の日に届いた手紙は雨の一滴さえも染みていなかった。
郵便物ははちみつをひと瓶と折り紙の紙風船に入るほどのザラメを支払えば、誰でも配達を頼むことが出来た。
「手紙は無事に受け取りました。ありがとうございます」
麻紐に挟んである葉を撫でる。この葉は妖精が編んでいるらしく、手紙が届けられたあと、暫くは作り主に声が届いているのだとか。本当は配達の途中に何かあった時、直ぐに気が付けるようにと掛けた魔法なのだろうが、いつしか配達のお礼を伝える手段として認識されるようになっていった。
妖精の配達は、私のように定住する気がない者にとってはありがたいシステムである。
手紙の束の重さを手で簡単に測り、支払いに必要な量を計算する。
手持ちにある分で足りそうだね。あとで郵便局に行ってこようかな。
一通ずつ差出人を確認してテーブルに置いていく。
「おや、早速か」
その中にあった差出人を見て思わず笑ってしまった。つい最近お世話になっていた屋敷の息子さんから手紙が届いていたのだ。
彼からの手紙を手に取り、床に座る。一番始めに読みたいと思った。
なんて書いているのかな、と弾む心をそのままに、先端が細めのペインティングナイフを使って封を開ける。レターオープナーほど使い勝手は良くないが、工夫をすればこのナイフでも手紙を綺麗に開けることが出来た。
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筆様
お元気でいらっしゃいますか。
貴女が描いてくれた絵を部屋に飾ってからというもの、私たち家族は何処か吹っ切れたかの様に妹の話を沢山するようになりました。
そもそも私が妹の死を忘れてしまっていた為に、両親には随分と気を使わせてしまっていたのだと思います。
夜は深い夢を見るようになりました。
それで、再び夢の中で妹と会ったのです。
何か話していたと思うのですが、朝起きると内容を忘れてしまうので、どうもそれが残念でなりません。
全く、妹が死んで何年も経っていたというのに、今もあの子には心配を掛けているのかもしれませんね。
そう思うと少しばかり自分が情けないです。
そうだ。貴女が使っていた妹の部屋はそのままにしてあります。
絵の具の匂いが抜けないので他の部屋に使えないのです……なんてね。
あの部屋の扉を見ると、貴女の歌を思い出します。
扉を開ければ貴女が窓辺に座っている気がするのです。そんなことはないのにね。
どうかお体に気を付けて。
くれぐれも無茶をしてはいけないですよ。
私は、貴女が深い夢に辿り着けることを願っています。
息子
------------------
なんともお堅い文章なこった。
無意識に口を尖らせ、封筒の上に読み終えた手紙をぶっきらぼうに置く。
九年も同じ屋敷で過ごしていたというのに、果たしてこれは友人に宛てる手紙なのだろうか。
まあ、既に私の名前を知っているだろうに律義に筆と呼んでくれるのは彼らしいな、と思ったけど。
「――はぁ」
もう一度、置いた手紙を手に取って、軽く目を通して便せんに戻す。
「良く眠れるようになったんだね」
手紙を裏返し、彼の名前を指の腹で撫でる。
彼の傍は居心地が良かったなあ。
見上げた窓の向こうの空は快晴。
随分と離れた場所にやって来たから、彼が見ている空の色は違うのだろう。
あの街は雪が降り始めた頃だろうか。
――再び夢の中で妹と会ったのです。
夢とは、まるで生死の狭間を映す水面のようだ。
その夢は、自分が都合よく見せているだけなのか、それとも本当に魂だけとなった人が会いに来てくれているのか分からなくなる時がある。
私の夢は酷く残酷だ。
手を伸ばせば波紋が水底を隠してしまうし、水の冷たさが目を覚ませと骨の奥まで凍えさせた。
彼の元に訪れる魂の存在を信じることは出来るのに、私は揺れることもない己の水面を羨ましげに覗き込んでいるだけ。
ズルい奴、と心の中で悪態をついても傷つくことはなかった。
誰かと思い出を語ることは、大切なことだ。
忘れそうになっても、誰かがまた思い出させてくれる。
そんな相手がいることが、私はただただ羨ましい。
「忘れないように、忘れないように、ね」
冷たい手を気にもせずに、首元に手を突っ込み服の裏側に縫い付けたポケットから縦長の手帳を取り出す。
祈りに似た言葉を繰り返し、ページを捲り、紙を撫で、またページを捲り、また紙を撫でる。
どんなに大切な人であっても、顔を忘れてしまえば、もう夢では会えない気がした。
「こつり、こつりと靴の音」
点字を撫でるように、鉛筆の跡を指でなぞる。
「夕焼け、影は」
開け放った窓からは風がやって来て、悪戯げに前髪を掬う。
目に掛っている我が子の前髪を若干雑に払う母親の手付きのような風だった。
「ひとりぶん」
すっかりヨレて柔らかくなった手帳を慎重に閉じる。
――貴女が深い夢に辿り着けることを願っています。
もう一度窓の外を見上げれば、三羽の鳥が三角に規律を守って飛んでいた。
右手の親指を人差し指で擦る。
起き抜けに風に当たっているからか、指の先は冷たくなっていた。
「わたしは」
地に落ちる鳥を羨ましがる私の気持ちを彼は知らないだろう。
水面に横たわる魚の姿を見て羨ましがる私の気持ちなんて、彼は知りやしないだろう。
撫でていた親指の爪を掌に隠す様に握りしめる。
私はね。
これ以上、夢なんか見ていたくないんだよ。
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