羽根/アダムとイヴの純愛

山本ハイジ

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アダムとイヴの純愛(6)

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 案内されたテーブル席につきます。辺りを見回すと、あたたかみのある木のインテリア。伊藤くんのセンスに感心しました。
「こんな素敵なお店が近くにあったなんて、知りませんでした」
「穴場なんですよ、ここ」
 メニューを開いている伊藤くんに、ずっと感じていた疑問を聞いてみます。
「……なんで、私なんか誘ってくれたのですか?」
 いつも一人で過ごしていたらしいあなたが、という言葉は飲み込みました。
「ああ、僕いつもお昼は一人で済ましていましたから……よかったら、相手になってもらえないかと思って」
 そっとポケットに手を忍ばせて、お守りに触れます。
「でも伊藤くんならお昼を一緒に過ごせる相手くらい、いくらでも見つけられそうですけど」
 この質問は少し、大胆だったかしら? ……ドキドキします。
 伊藤くんはメニューから視線を外すと、何だか苦い笑いを浮かべました。気に障ってしまったかしら? ああ、怖い。
「……僕、正直言うとあの人たち苦手なんです」
 どきっ。いけない、お守りに手汗が染み込んでしまいます。
「あの人たちって、うちの女子社員たちのことですか?」
「ええ、まあ……メニュー、見ないのですか?」
「あ、すみません」
 ポケットから手を出してスタンドからメニューを取り、開きました。色々なパスタの写真がテーブルに広がります。
「……なんで、苦手なんですか?」
 パスタを検討しつつ、話の先を促しました。私、普通に伊藤くんと喋れています!
「慎みの欠如ですかね。……女性らしさがないといいますか」
「え?」
「最近の女性って、そんな感じじゃないですか。大声で騒ぐ、異性に平気で性的ともとれる物言いをする、悪く言えば下品。……時代のせいなのでしょうか」
 それは、私も常に思っていることです。同性として恥ずかしく感じています。
「はい、わかりますっ」
「やっぱり林田さんは思っていた通りの、素敵な女性ですね」
「えっ……」
 伊藤くんが優しく目を細めて、私を見つめています。
「前から思っていました。今時珍しい、清楚な雰囲気の方だなと」
 ――天にも舞い上がりそうな気持ち、とはこういうことでしょうか?
「そ、そんな。照れてしまいます」
 伊藤くん、やはりあなたは私の理想。もはや不安なんて、どこかへ消し飛んでしまいました。
 呼び鈴を鳴らして、あの老紳士がやって来ると私は紅茶とカルボナーラを頼み、伊藤くんはコーヒーとバジルソースのパスタを注文しました。老紳士が下がるとパスタが来るまでの間に、私は一番気になっていたことを聞いてみることにしました。――伊藤くんがあの人だったらいいな、程度の軽い気持ちです。
「……メリーゴーランドの恋って、知っていますか?」
「え? 映画のことですか、それ」
 趣味も合えば、最高です。
「はい、そうです」
「わあ、よく知ってますね。相当マイナーな映画ですよ」
「映画、好きなんです。特に昔の純愛ものが」
「奇遇だなあ、僕もです。男がそういうの好きだなんて、笑われてしまいそうですけど」
 ああ、伊藤くん。
「いえ、素敵です。男性もロマンチックであるべきです」
「はは、ありがとう。メリーゴーランドの恋、最近借りてみたんですけれどあれは気に入ったなあ」
「私も、大好きです」
 あなたは本当に素晴らしい。
 銀色のお盆にパスタ二皿と、紅茶とコーヒーを載せて老紳士がやってきました。手際よく配膳してくれたあと、頭を下げて去っていきます。
 カルボナーラの上に載っている半熟卵をフォークで割って、パスタに絡めながら話の続きをしました。
「メリーゴーランドの恋、シンプルに会話だけの内容だけれど世の中へのメッセージ性に共感しちゃいますよね」
 バジルソースのパスタをフォークに巻きつけながら、伊藤くんはウンウンと頷いてくれました。
「わかります。僕は特に、アダムとイヴについて語り合っているシーンが好きです」
 カルボナーラを口に運んで、そのミルキーな風味と黒胡椒の刺激を楽しみ、飲み込んでから応答します。
「ええ、まさに今の堕落した男女を象徴しています」
「会話だけ、というシンプルさもいいですよね。わかりやすくて」
「はい。私、ラストにあの二人が教会で祈るシーンも好きです。じんとしてしまいました。……あの少年と少女、美しいですよね」
 伊藤くん、あなたは私の分身ですか? こんなに楽しいお昼休みは初めてです。
 パスタが残り少なくなってきた頃、紅茶を飲みながら最後の確認をしてみました。
「……伊藤くんて、もしかしてお住まいは××駅の方ではありませんか?」
 ××駅前には私の住んでいるアパートと、あのレンタルDVD屋さんがあります。
「えっ、なんで知っているのですか?」
 伊藤くんはコーヒーカップを口元に運ぶのを途中で止めて、目を見開きました。
「駅前にレンタルDVD屋さんがありますよね? そこで前に伊藤くんらしい人を見かけて、気になっていたんです。……メリーゴーランドの恋、借りていましたよね?」
 伊藤くんは何かを思い出したように、ああ! と小さく叫びました。
「そうだったんですか。て、いうことは林田さんも同じお住まいですか?」
「ええ」
「本当、奇遇ですねえ」
 ……胸のつかえが取れました。これでようやく、夜は気持ちよく眠れます。
 パスタを食べ終わり、カップの中身もからになりました。店内のアンティークな壁かけ時計を見てみれば、もうそろそろオフィスに戻らないといけない時間です。
「そろそろ、出ないとですね」
 伊藤くんも時間を察したようです。ああ、惜しい。
「そうですね……」
「林田さん」
 私の名字を呼んだ伊藤くんの声が、何故か緊張しています。いつもは優しそうな伊藤くんの表情が、今は真剣そうでした。
 ドキドキしすぎて、心臓が破裂しそうです。
「は、はい……?」
「僕と」
「はいっ」
「お友達になってください!」
 伊藤くん、声が大きいです。
「はい!」
 しかし私も盛大に頷きながら、大きな声で答えていました。このカフェーは相当見つかりづらい場所にあるのか、昼時だというのに私たち以外客がいないので恥ずかしくはありません。
 伊藤くん。私は今、ようやく報われました。感謝の気持ちを込めて、ポケットの上からお守りを撫でます。
 伊藤くんが伝票を持って、会計を済ませてくれました。私は後で払いますと言いましたが、伊藤くんは気にしないでくださいと繰り返すばかりだったので、私は本当に伊藤くんのお言葉に甘えることになってしまいました。
 カフェーを出てビルへと向かう途中、私たちは「これからは一緒に昼食を取って、仕事が終わった時は一緒に帰りましょう」と約束をしました。オフィスに入ると女子社員が何人か私たちを凝視します。
 午後の仕事は特に面倒臭いお客様に当たることもなく、時間は快適に過ぎていきました。定時になると帰り支度をして、伊藤くんの電話が終わるまで待ちます。
「すみません、お待たせして」
 ややあって、インカムを外して鞄を持った伊藤くんが謝りながら私に近寄ってきました。笑って、伊藤くんを迎えます。
 ――オフィスを出る直前、インカムのマイクに向かってひたすら「すみません」を連呼していた女子社員が、こちらを睨んだような気がしました。
 伊藤くんと一緒の帰路は、好きな映画や好きな小説の話をしました。伊藤くんは恥ずかしそうにしながら少女漫画が好きなことも告白してくれたので、その話も大いに盛り上がりました。電車内のうるさい高校生たちも今日は気になりません。
 ××駅に到着すると、伊藤くんは私をアパートまで送ってくれました。
「それでは、また明日」
「はい、明日!」
 微笑んで手を振ってくる伊藤くんに、惜しみつつ会釈してから小走りで階段を上り、部屋のドアを開けました。パンプスを脱ぎ捨てて、奇声を発しながら走ってベッドへ飛び込みます。
 枕を抱いてごろごろ転がりながら、笑いました。
「うふっ……うふふふふ」
 この喜びの発作は暫く止まりませんでした。

 その夜。私はまずお守りに、それからコウモリ傘と何よりも神様に、深く感謝しました。
 ただひたすらに純潔を信じ、守り、禁欲的に生きてきた私のたった一つの願い事を叶えてくださった神様。信じる者は救われる。もう、迷いません。
「伊藤くん……」
 あなたが私を楽園へ連れていってくれると信じています。メリーゴーランドの恋の、あの少年のように。
 夜空へ向かって充分に手を合わせてから、ベッドに横になりました。
 明日から仕事が楽しみです。何かを悩むこともなく、気持ちよく眠りへと落ちていけました。

 信じる者は救われる。その通り、ようやく救われた私の毎日は薔薇色でした。
 午前の休憩は伊藤くんと少し談話して、お昼休みにはカフェーで昼食を取りました。帰る時はレンタルDVD屋さんへ一緒に寄って、翌日には借りた映画の感想を言い合います。
 嫌なお客様に不愉快な思いをさせられても、伊藤くんに話せばだいぶ心は軽くなりました。支えてくれる人がいるだけで、こんなに違うものなんですね。
 毎日が楽しい。こんな感情は初めてです。ただ、暫く経つと一つだけ悲しい出来事が起こりました。
 あのカフェーが潰れたのです。
 私たちは仕方なく大衆の好みそうなお店で昼食を取ったりしましたが、周囲がうるさすぎてゆっくり話をすることも出来なかったので、諦めてお昼休みはオフィスで過ごすようになりました。
 デスクを挟んで一緒に買ったサンドイッチを食べながら、伊藤くんはふと、明るくない身の上を話してくれました。きっと、カフェーが潰れた悲しさがそうさせるのでしょう。
「……僕、職を転々としてしまう癖がありまして」
 缶コーヒーを啜りながら、伊藤くんが苦々しそうに言いました。それはコーヒーの味のせいではなさそうです。
「どうして、ですか?」
 サンドイッチのかけらを飲み込んでから、恐る恐る聞いてみました。
「どうしても孤立してしまうのです」
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