羽根/アダムとイヴの純愛

山本ハイジ

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羽根(2)

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 だが、さすがに胸が痛い。彼女の顔へ向かって、手を伸ばす。彼女は一瞬ビクッと震えた。
 その頬を優しく撫でてから、彼女を抱きしめる。彼女の後ろ髪を指でクシャクシャにしながら、互いの頬を擦り合わせた。
「ごめんよ。辛かっただろう? でもこれ以上、ケガをさせたくないんだ」
「……あ、あ」
「大丈夫、君は鳥だ。いつか飛べる」
 彼女は嗚咽を漏らしていた。
「さあ、もうエサの時間だ」
 そのあと、彼女は再び大人しくテレビを見たり、鳥の写真を眺めたりするようになった。これでいい。自傷ともいえる彼女の行為があのまま続いてエスカレートしていったら、取り返しのつかないことになったのかもしれないのだ。壁に思いっきり頭をぶつけて、もしもその打ち所が悪ければどうする? 大袈裟だろうが死ぬかもしれない。
 羽根がまだ、はえていないのに。

 私からミミズをもらって、鳥の姿をうっとり観賞して、天井の空を見上げて、そのまま楽しそうに軽やかに跳びはねて遊ぶ。そんな日々を繰り返し、彼女は十歳になった。身長がすらりと伸びている。ワンピースの裾から覗く、子供にしては長い脚。
 彼女の成長について、気づいたことはもう一つ。肩甲骨が不自然に出っ張ってきた。研究員たちに報告すると、研究員たちは私にポラロイドカメラを渡して「これで娘の背中の経過を、まめに記録してくるように」と言った。
 私はそれから毎日、彼女の背中を撮影した。増えていく写真は肩甲骨がどんどん目立っていく様子を、まるで連写したかのように写していた。今や肩甲骨は、皮膚を破って飛び出しそうな勢いだ。
 彼女は気が狂ったように、背中を掻きむしっている。痒いのだろう。掻き過ぎて、背中は真っ赤になっていた。肩甲骨に伸ばされて薄くなった皮膚は、所々傷つき出血している。盛り上がった肩甲骨の頂上付近のもっとも薄い皮膚が掻き破られると、黄色い骨がうっすら見えた。
 そして、その骨は徐々に突き出てきた。まるで爪が伸びるみたいに、肩甲骨は生長していく。私はひたすら写真を撮り続けた。
 痒みの方はおさまってきたようだ。しかし今度は、シャワーを嫌がるようになった。しみて激痛が走るのだろう。彼女の体は濡らしたタオルで拭いて、綺麗にする。
 だが、消毒は我慢してもらわなければならない。破られたばかりの皮膚は未完成で、ただの傷だ。放っておけば化膿して、黴菌が入るかもしれない。脱脂綿に消毒液を染み込ませて、骨の周りに押しつけると彼女は泣き叫んだ。が、暴れたりはしなかった。私が「あともう少し、もう少しで羽根は完成する」と、勇気づけていたからだろう。健気なものだ。
 羽根が欲しい。きっとその一心で、彼女は苦痛を堪えている。思わず情に動かされて、何度も彼女に「がんばれ」などと声をかけた。
 写真を撮って、消毒して、羽根のゆくすえを見守る。彼女を苦しませている骨は、少しずつ羽根の骨組みを形成していった。そして、芽吹きはじめる羽毛。

 数ヶ月、経った。彼女の様子を報告する為に、写真を何枚か持って部屋を出る。そのまま研究員たちが集まっている部屋へ向かった。ドアを開ければ、並ぶデスクとコンピューターに、煙草の煙で満ちた空間。
 ほとんどの研究員たちの仕事は、食用ミミズの育成と開発だ。羽根に直接関わっている者は僅かだった。そんな研究員たちのうち、ある一人に近寄る。
 その研究員は私に気がつかず、くわえ煙草でコンピューターをいじっていた。私がいるのは研究員の右側。この研究員には、右目がない。左目はコンピューターの画面を凝視しているのだろう。
「報告です」
「おっ? ああ、悪い」
 研究員は回転イスを腰で動かして、私の方を向いた。コンピューターのキーボードに置いていた右手で、煙草を口から離し、煙を吐きながら灰皿に灰を落とす。研究員は右目だけではなく、左手も存在していなかった。
 写真を差し出すと、研究員は再び煙草をくわえてから写真を受け取った。手の甲で灰皿をデスクの隅へどけると、カードを広げるみたいな器用さで写真を並べる。彼女の変化していく背中を見て、煙草をまた口から離し、煙を吐きつつ話しはじめた。
「大分、出来上がってきたね」
 持ってきた写真は、毎日撮っていたものの中から選んで、彼女の変化をわかりやすくしたものだ。写真の一枚目は背中から伸びた骨を写している。骨に貫かれた皮膚は、赤く腫れていた。つけてしまった無数の引っ掻き傷はかさぶたになっていた。写真の二枚目は僅かながら骨に羽毛らしきものがはえてきて、皮膚の腫れは引いてきた。かさぶたも薄くなっている。写真の三枚目では骨の羽毛が増えていた。骨を囲む皮膚と、背中は綺麗になっている。それから四、五枚と続く背中の進化の様子。
「ええ、まだ小さい羽根ですが」
「彼女は今、何歳だっけ?」
「十歳です。……もうじき、十一歳になりますが」
「そう。実はね、彼女が成人して最終実験を行う前に、君に一つやってもらいたいことがあるんだ」
 私に残された仕事はもう、彼女の羽根を育て上げることだけだと思っていた。
「やってもらいたいこと、とは?」
「ああ、今はいい。時期がくればいずれ話すよ」
 研究員は写真をまとめて、灰皿を元の位置に戻すと、短くなった煙草を揉み消す。
 報告は終わった。帰ろうと踵を返したが、あることを思い出してまた研究員に振り返る。
「ああ、そうだ……今日、彼女を庭に出してもいいですか?」
「うん? なんで?」
「たまには、外に出してやりたいんです。天気もいいことですし」
「まあ、別に構わないよ。皆に庭へいかないように言っておく」
「はい。ありがとうございます」
 窓の下で楽しそうに跳ねている彼女を見て、思いついていたことだった。部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、ノブが勝手に下りる。開いたドアから現れたのは、資料を片手にたくさん抱えた頭が二つある研究員。その研究員に道を譲ってから廊下へと出た。
 廊下の窓から見えるのは灯台と、太陽の光を反射して水面をキラキラさせている海。本当、天気がいい。
 部屋に帰れば光差すあの窓の下で、踊るように跳びはねている彼女。ワンピースの裾をひらめかせて、背中には小さな羽根。
「庭へいくよ」
 と、声をかけると彼女は跳ぶのをぴたりと止めて、表情を輝かせた。今まで彼女を庭へ連れ出したことは、ほんの数回しかない。たまには外の空気に触れて、直に空を眺めるのもいい学習になるだろう。ドアを開けて廊下に出れば、彼女はニコニコしながらついてくる。
 長い階段を下りて玄関につくと、彼女の足にサンダルを履かせて、私もスリッパから適当な靴に履き替える。そしてガラスドアを開けて、彼女と共にアスファルトを踏んだ。
 塗装された道を歩き、やがて見えるのは背の低い鉄製の柵。その向こう側では、ポプラの木が列をなしてはえている。柵の開き戸の上から身を乗り出して、内側に取りつけてあるカンヌキを外し、中へ入った。
 ここからアスファルトは存在しない。やわらかな土と草を靴の裏に感じながら、彼女と手をつないでポプラへと向かう。木と木の間を通れば、そこは緑と白と青の世界。
 地面一杯にはえている青い花をつけた露草と、小さな白い花をつけたアカネ。それを真っ白な花を咲かせる紫陽花、アナベルと鮮やかな青い大輪の花、西洋朝顔のヘブンリーブルーがさらに彩っている。そよ風に運ばれてくる甘い香りは、低木で下向きに咲いているラッパ状の大きな白い花、エンジェルス・トランペット。この美しい花畑を円形に囲んでいるポプラ。研究員たちの気分転換や、趣味での植物の研究に使われたりする場所だった。
 エンジェルス・トランペットの花には毒がある。間違っても口に入れたりしないように言い聞かせてから、彼女を遊ばせた。私はポプラの幹に背を預けて、駆け回っている彼女を見守る。途中で走るのを止めては、好奇心旺盛にアナベルの花弁をつつく彼女。青天の下、無邪気に笑いながら花と戯れているその姿は、美しい。
 ……どうやら私は、見守るつもりが見とれていたらしい。彼女がまた走り出して、つまずいて前のめりに転んでも、ワンテンポ反応が遅れた。はっとして、慌てて倒れた彼女に近寄り、傍に膝をつくと彼女の体を仰向けにして上体を助け起こす。幸いにも茂った草がクッションになったのか、擦り傷一つ負っていなかった。彼女はきょとんとしている。
 途端、空から聞こえてきた鳴き声。彼女は私の体をはねのけて、急に立ち上がった。私はその拍子に尻餅をついてしまった。
「トリ!」
 彼女は空を仰いでいる。座ったまま見上げてみれば視界に入った、白い羽根を広げて飛ぶ鳥。多分、白鷺だ。私に背中を向けているから、彼女の表情はわからない。でも、うっとりとした笑みをきっと浮かべていることだろう。
 白鷺が去っても、彼女はずっと空に眺め入っている。私は視線を空から彼女の羽根へ移した。まだ小さいながら、形のよい羽根。
 日没まで遊んだあと部屋に帰って、食事を済ませた。シャワーを浴びる前に、最近追加された世話をする。それは水を弾くように、羽根に薄く油を塗る作業だ。油をつけた指で彼女の白い羽根を一枚ずつ、丁寧に撫でていく。
 彼女の羽根は、あの白鷺のように立派に育つだろうか。

 天井の窓に雪が積もって、空が見えない。この季節、研究員たちからもらった電気ストーブを置いてはいるが、やはり肌寒い。
 彼女はこの日点けっぱなしのテレビを見ることもせず、ソファーベッドでブランケットをかぶり寝込んでいた。お腹が痛い、と、うめいて。
 寒いから差し込んでしまったのだろうか? かわいそうに。とりあえず彼女の排泄物を気にして、ブランケットを捲り、ワンピースも捲るとオシメに手をかけて下ろした。途端、鼻につく鉄臭さ。
 驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。オシメの中が赤黒く染まっていたからだ。何か、大変な病気にでもかかってしまったのだろうか? オシメを替えて、ブランケットをかけ直すと慌てて部屋から出た。
 研究員たちの部屋に飛び込んで、彼女の出血について話す。すると出血の説明と、前に言われた「やってもらいたい」ことについての話をされて、私は研究員たちの部屋をあとにした。
 私たちの部屋へ戻る。寝息を立てている彼女の安らかな顔。

 それから私はいつも通り、彼女の世話を繰り返す日々を送った。彼女は月一回の痛みさえ乗り越えてしまえば、また元通りにテレビや写真で鳥を観賞して、窓の下で空を見上げて楽しそうに笑う。
 しかし日数が経つにつれて彼女は時折、寂しそうな表情を浮かべるようになってしまった。それは一緒にテレビを見ている時。彼女はあの恍惚とした様子で画面の中の鳥に見とれていたのに、ふと私の方を振り向いた瞬間、熱に浮かされたような笑みは掻き消えて戸惑いの色を見せた。
 その時私はきっと、恐ろしく冷めた顔をしていたのだろうと思う。画面の中の白鳩も不思議そうに小首をかしげて、こちらを見ていた。そんな錯覚。
 彼女の世話はいつもと変わらずちゃんと行っている。ただ問題は、私の感情。それは無意識に態度へ現れて、彼女に伝わってしまったのだろう。以来、彼女がせっかく鳥たちを観賞していても、窓の下で遊んでいても、私の表情やふとした言葉の語調の冷たさで、彼女はうなだれて私の白衣の袖を引っぱるのだった。
 親失格だ。このままだと、彼女の成長に支障をきたす。けれども私はどうしても、投げやりになってしまう自分を止めることが出来なかった。
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