きみの黒土に沃ぐ赤

甲姫

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終、きみと駆けはしる行方

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 雨は一週間、ほとんど絶えず降り続けた。
 故郷ゼテミアン公国には四季があり、降雨には慣れていたものだが、こうも継続的な雨は新鮮に思える。そんなセリカの個人的な感想はさておいて、雨続きで、ただでさえ慌ただしいムゥダ=ヴァハナの宮殿はますます大変だった。
 古来より火葬の習慣のあったヌンディーク公国だ。教団の教えが大陸に浸透してからは土葬を選ぶ民も増えているが、大公家は未だ火葬を主流としている。
 だが今回ばかりは天候がそれを許さなかった。やむなく、大公の亡骸は燃やされずにありのままで土の下に還されることとなった。
 司祭の祈祷の声が止んで、葬儀も終わりつつあった頃――夫となる男の横顔を盗み見た。
 葬儀に参列していても、セリカにとっては一度しか会ったことのない他人だ。粛々と悼むことはできても、悲しむことはできなかった。最も気がかりだったのは、エランの心の内だった。
 赤みを帯びた目元で、泣いていたのだと知った。大丈夫かと訊ねると、彼はこう答えた。
 ――喪ったのが悲しいんじゃない。私は最期まで父が好きじゃなかったが、好きになれなかったのが、悲しいのかもしれない。好かれようとした頃はあったと思うが。もっと歩み寄ればよかったか……今となっては、どうしようもないことだ。
 エランが父の為に泣いたのは、後にも先にもその一回だけだった。

 ヌンディーク公国大公崩御の報せがまだ大陸中に伝わりきらない間に、次期大公の即位式が内々に執り行われた。一時的な措置であることは、しばらく公にされなかった。
 いくつかの宣誓が並べられただけの、あっさりとしたものだ。即位式に関してセリカの記憶に残った点は二つ、冠が無駄にキラキラしていて重そうだったことと、エランの作り笑いにますます磨きがかかっていたことである。

 連日の雨が上がった頃に、結婚式が始まった。こちらも内々に行われたため、通常に比べると小規模だったらしい。
 と言っても宮廷人とその身内のほとんどは招かれ、三日三晩と宴会が続いた。遠方から戻ってきたベネフォーリ公子の無事な姿もあれば、顔面の腫れがまだ引かないアストファン公子の姿もあり、リューキネ公女も体調の良い間は楽しげに参加していた。
 各々のしがらみはまだ取り除かれないままに。
 さすがは公族貴族といったところか、腹の中にどんな企みを抱えていようと、みな表面上は和やかに振舞った。
 宰相を暗殺しようと目論む人間とて片手で数えられない程度にはいるだろうに、彼も相変わらず平然としていた。密かに暗殺者集団を育成していると噂されるだけあって、一筋縄ではいかない男だ。
 祝いの席に水を差す者が現れないよう、衛兵やイルッシオの兵が終始目を光らせていた。
 その甲斐あってか、無事に最終目を迎えることができた。

_______

(あつい……。エランが言ってた通り、衣装はめっちゃ重いし、裾長いし。被り物は顔まで覆ってて、目鼻口の穴が無いし。おなかすいた)
 花嫁はある種の宴会場の飾り物で、身動きが取れずにひたすらに忍耐を強いられた。ヴェールの中からでは外の様子は全くうかがえなかった。
 そして、食事できる時間が限られていたのだ。何とか隙を見つけられても、かき込める量はそう多くなかった。
(やっと終わる)
 終息が近づいているとはいえ、まだ気を抜けない。
 結婚式典の核である儀式に同席できるのは当事者以外に聖職者のみだ。それでも緊張する。手順は頭に入っているのだが、いざとなると間違えそうなのである。
 法式は地域の古い慣習と教団の教えを混合したものだ。
 セリカは被り物の暗闇の中、絨毯の上で膝を揃えて座り、司祭の聖歌奏上を静聴した。歌が止むと、いよいよ式辞が始まる。
「……天上の神々と尊き聖獣が見守ります中、今日この時をもってして、男と女、ふたりであった者がひとつとなります。エランディーク・ユオン・ファジワニ、そして、セリカラーサ・エイラクス。共にあなたがたの肉体がこの地上に在ります限り、魂はひとつで在りますことを――ここに、誓いの証を立てなさい」
 司祭の指示の後に、静寂があった。
 カチ、と陶器がぶつかり合う音がする。微風と衣擦れで、正面にあった気配が動くのを感じ取れた。
 セリカは瞼を下ろし、意識的に静止した。心臓だけが場違いに大きく動いているようだ。
 やがて、ふわりと被り物がめくられる。酒の香りが鼻孔をくすぐった。セリカは明るさに慣れる為に、何度か瞬いた。
 向かい合って座すエランが酒瓶とからのゴブレットを差し出してきた。いつもと違って、ターバンから垂れる布が顔の右半分を隠していない。
 真剣そのものの表情を見て、「こいつも緊張してるな」と内心で笑ってやれるほど、セリカには余裕がなかった。
 差し出されたものを受け取り、少量の酒を注ぐ。酒瓶は司祭に渡して、ゴブレットを丁寧に持ち直した。右手で持ち上げて、左手を下に添える形だ。エランも、自身が注いだ方のゴブレットで同じ動作をした。
 膝の前にゴブレットを置き、相手が注いだ方の酒と交換する。
 再びゴブレットを持ち上げると、互いに小さく礼をしてから、右腕同士を絡める。
 絡めた状態で、同時に酒を飲み干す。
「ふたりの魂は混じり合い、境を失くしました。おめでとうございます! ヴィールヴ=ハイス教団を代表して、私が証人となりましょう。あなたがたは、夫婦となりました」
「ありがとうございます」
 二人で声と体の向きを揃え、司祭に深々と頭を下げる。
 これから来客に個別に挨拶をしなければならない。改めてのお披露目を経て、ようやく結婚式は終了となる。
 にしても、よほど強い酒だったのか。
 頭の奥が甘く痺れた――。
 離宮の一角を二人だけで占拠できたのは、新婚だからではなく大公特権からだろう。
 静かでなおかつ警備は万全で、都に幾つと見られない風呂設備が内包されている。破格の待遇らしい。浴場が珍しいという感覚に慣れないセリカにも、内装の華やかさからして、ここが特別であることが伝わった。
(生き返ったー)
 うつ伏せに寝そべり、組んだ腕の上に顎をのせる。寝室のベッドの広さも、以前あてがわれた部屋のそれとは比べものにならない。
「一週間もお風呂に入れなかったなんて信じらんない」
 気が緩みすぎて、うとうとする。召使たちは既に下がらせており、気楽だ。
「お前の国の浴場は大抵、温泉を引いたものだろう。ここにそんなものはない」
 独り言に返事があった。
 入り口にかけられた仕切り布がめくられ、同じく湯上りのエランが入ってきた。被り物以外は、羽織って前を重ね合わせるだけの、砂色のローブを身に纏っている。セリカが着ているものと色違いの内着だ。
 入ってすぐに、彼は物入れの棚を漁り始めた。
「うん。お湯を沸かすのって大変だったのね。水も貴重だし……」
 先ほど使用人たちに、この建物の風呂場にお湯を張らせる過程を見せてもらった。実に大掛かりな作業だった。セリカは何やら申し訳ない気持ちになり、これから冬までは水浴びで済ませようかと検討中だ。
 更には地形や風向きの関係上、ヌンディークの領土は雨が不定期で、一度に得られる水量もそう多くない。降る度に貯蓄するのが常識らしい。水道橋は建てられておらず、主に井戸や貯水槽が生活を支えている。幸いと、この間の大雨のおかげで都の河川と蓄えは当分潤う。
「昔は首都が河沿いにあったくらいだ。戦略的に山の方が護りやすいからと今の位置になったが、国の名が『河の恵み』だからな」
「へえ」
 セリカは感心した。ヌンディークの名にそんな意味があったとは知らなかった。名といえば、と思って首をもたげる。
「エランディーク」
「? はい」
 虚を突かれた表情で、青年が面を上げた。
「呼んでみただけ。いい響きよね」
 どうも、と言ってエランは微妙な顔をした。
「父がつけた。意味は河の星――正確には『河面に浮かぶ星明かり』か。母親譲りの瞳の色から思いついたそうだ。ついでに、国の名と揃えたかったらしい」
「ロマンチストね」
「どうだか」
 壁際の物入れから、エランは喫煙具ガリヤーンを一式取り出していた。部品を腕に抱えて、こちらに近付いて来る。それから彼は絨毯に胡坐をかいて、ベッドの側面に背を預けた。
(母親譲りの瞳の色、か。訊きたいな。お母さんと……傷痕のこと)
 あれからまだ、問い質す機会を得られていない。どうやって切り出せばいいかわからなかったのだ。
 思わず起き上がった。
 今なら自然に話題を繋げられるだろうか。しかもちょうどエランは、ターバンを片手で解いて無造作に脱ぎ捨てたばかりだ。
(どうしよう。せっかく? 新婚……とかいうアレなわけで。暗い話は良くないわよね)
 だが訊き出すタイミングを逸しては、今後もこっそり気にしながら接さなければならない。
(いつまでも黙ってられる自信がないわ)
 かといって相手を傷付けない言葉選びにも、自信がない――。
 悶々と小難しく考え続ける。次第に脳が疲れたのか、大きく欠伸をしてしまった。
「眠いなら、もう寝るか?」
 ガリヤーンを組み立て終えて、エランは石炭に火を点けていた。振り返らずに話している。セリカは、涅色の後頭部に向かって返事をした。
「…………まだ」
 おそらく数日ぶりに二人きりになれたのにあっさり就寝してはもったいない、という思いがある。その他に「寝る」の単語が彼の口から出た途端、変に目が冴えたというのもある。
 この部屋のベッドは相当に広い。広いが、一台しかない。
 世の中の夫婦――政略結婚ともなればなおのこと――は同じ部屋同じ寝具で夜を過ごさなければならない決まりではない。しかし夫が我が物顔で寝室に入ってきた以上、追い払う道理も無いのである。
 エランは答えずに、水蒸気を立ち上らせている。
(声かけもノックもせずに入ってきたってことは、自分の部屋と思っているも同然で。つまり……どういうこと? そもそも「初夜」とかにどういうことも何もないような。あ、うん、頭ぐるぐるする)
 こういった場面での心構えを教わった気はするのに、いざとなると何もまともな考えが浮かび上がって来ない。
 さっきまで気分が良かったのが転じて、吐き気がしてきた。
「吸ってみてもいい?」
 苦肉の策だ。何とかして神経を落ち着かせたい。物入れから酒瓶を探し出すよりも、用意が済んでいる喫煙具を試してみた方が早いと判断した。
「どうぞ」
 エランはガリヤーンを持ち上げて、枝のような長い管部分を向けてくる。
 セリカは管の先を指で摘み、口に付ける。見よう見まねで吸ってみた。すぐに手を放し、咳き込んだ。
「不味かったか?」
「だっ……! 甘いし、美味しいと思うけどね、熱い! うう、水蒸気吸った」
 途切れ途切れに抗議した。苦しい。今更ながら――水蒸気を肺に吸い込むのは、水に噎せるのと同義ではないか。
「お前は何を当たり前のことを。要は、慣れだな」
 慣れと言われても、今すぐにはどうしようもない。セリカは毛布に突っ伏した。タバコの匂いも、意図せずお揃いになってしまった石鹸の残り香も、意識しないように必死だ。
 とにかく間を埋めよう。何でもいいから話を振るのだ。
「それで退位後の、後継者の件は解決のめどがつきそう――]
 言った直後に後悔する。
(ああもう。日頃の激務に追われてるエランに、私的な空間でまで政治の話を振ってどうするのよ)
 毎日結婚式の行事が済んだ後に執務室にこもっていたのも知っている。
 己の至らなさに嫌気がさした。これでは気の利かない女だと呆れられそうだ。やっぱり今のはナシ、って続けようとして顔を上げた。
「二人で決めろと、あいつらに課してからなかなか結論が出ないな。セリカは、どうした方がいいと思う?」
 予想外に質問が返ってきた。話題に気を悪くした様子は感じられない。
 ならばと唇を湿らせて、考えを述べる。
「そうね、適正についてはあんたの方がよくわかってるし。あたしが気になるのは……第六公子なら大公即位までが三年、第七なら九年。空位が長く続いても、周りから付け込まれる隙ができてしまうとこね」
「他の三国で、遠くない未来に動きそうなのがいると思うか」
「少なくともうちは無理よ。知ってるでしょ。あんたんとこに街道を設けたいのは、ヌンディークの主要都市と、果てはヤシュレとの通商を強めたいからよ。大陸の南西海岸四か国の戦争に首突っ込んで以来、食糧難の兆しが見えてきたからね」
 ゼテミアン大公は懇意にしている国への義理立てに、南西海岸に遠征軍を出している。食糧難と言ってもまだ先のことだろうが、父は呑気そうな顔に反して抜かりない君主だ。数年先の情勢を見据えて交易の道を開こうとしているのだ。
 ゆえに、祖国にはヌンディーク公国との友好関係が必要だ。セリカはその為の人質でもある。攻め入るなどありえない。
「協定があるとはいえ、ディーナジャーヤ帝国とヤシュレ公国がどういうスタンスかはよくわからないわ」
「まあ他国の思惑はともかく、いつか帝国の傘下から抜け出たいのが有権者たち過半数の意見だ。協定は恩恵も多いが、最も望ましい形ではないと。長い目で見るなら、独立も視野に入れたい」
「エランがそういう考えだったの、なんか意外だわ」
「私は戦という手段に反対であって独立という目標には反対していない。で、戦を介さずして果たすなら――長期に渡る繊細な交渉が必要だ」
 ふう、と彼は白い霧を吐いた。燭台の光を受けながら、幻想的な形がうねる。
「ベネ兄上は臣下や州民からの信望が厚いが、腹の探り合いに向かない。人格破綻者のアスト兄上、ウドゥアル兄上は論外」
「わかりやすい消去法ね」
「扱いが面倒な親類や貴族をまとめた上で、外交官を管理し、宰相が力をつけすぎないように牽制できるとすれば……ハティルしかいない。父の件で誰より動揺しているのもあいつだが、平静に戻ればもっと広い視野で物事を見渡せる奴だ」
「その線でいくなら、役割分担してアダレム公子を大公にした方が良くない? 九年待つのは痛いけど」
「それもひとつのやり方か。どの道、ここがハティルの檻だ。混沌を根こそぎ失くそうと極論を目指したあいつは、結局は、混沌を宥める中心人物となる。目指していたものはそう違わなかったはずだがな。私に敗けたから、私が敷く道を歩むしかない」
 霧越しにエランが笑うのが見えた。この男、実は鬼畜な一面があるのではないか。
「できることなら当人たちに決めさせてやりたいが、いっそサイでも投げるか。結論を先延ばしにして、得られるものなど何もない」
「サイコロって、あんた。投げやりすぎでしょ」
「優柔不断よりはマシだ」
「…………」
 亡き大公を指したのだろう。非常に返答しづらく、セリカはまた毛布の上で横になる。目線だけ、夫の後ろ姿を捉えたままにして。
 ガリヤーンを置いて、エランは後処理をし出す。
「安心しろ。どんなに面倒だろうと、逃げるつもりも見捨てるつもりもない」
「うん。あんたは、優しいからね」
 自分ではわかっていないのかもしれないが、根が真面目で責任感も強い。温かい人だ。心底そう思う。
 エランが唇を噛んだ。つられて、照れくさく感じる。
 会話が止まってしまった。心地良いはずの沈黙が、今夜ばかりは気をそぞろにさせる。
 ――カタン
 喫煙具を片付ける際に、小さく物音がした。それだけのことに驚いて、セリカはびくりと身じろぎした。振動がベッドを通して伝わる程度に。
 物入れに向かって歩き出したエランの背を、よくわからない気持ちで見つめた。怯え、ではない。暴行されかけた時に味わった底冷えのする恐怖と屈辱とは、似ても似つかない心情だ。
 怖いもの見たさとも違う。怖いけれど、先にあるものを望んでいるのか、いないのか。いずれにせよ青年の動向が気になる。
「セリカ、一応言っておくが」棚の前で、彼は肩から振り返った。「何もしてほしくないなら、私は何もしない」
 ――立ち去ろうとしている?
 心臓が見えない手に握りしめられた気がした。
 ――待って。行かないで。
 落胆と、傷付けてしまったのかという懸念で、顔からサッと血の気が引いた。起き上がり、ベッドから飛び上がろうと床を踏む。
「何も、だなんて思ってない……!」
 けれども足の指が絨毯に降り立った瞬間、迷いが生じた。「で、でも、何をするにも、何があるのかわからない……し。何かをしてほしいとは思うけど、たぶん」
 言葉がうまく出てこないどころか途中から共通語ではなく母国語になってしまった。まるでダメだ。泣きたい。
「まずどうして欲しいかを具体的に言ってくれ。私に読心術の心得は無い」
 対するエランの言葉ははっきりとしていて、丁寧だ。
 優しさが眩しい。なんとなく俯いて視線から逃れた。
 ローブの締め付けが緩んで前が開きすぎているな、直さなきゃ、とぼんやり自分の胸を見下ろす。やがて口を開く決心がつく。
「…………もっと近くに来て……構って、ください」
「いいですよ」
 ちらりと目に入った微笑までもが眩しくて、セリカは身を翻してまた突っ伏すしかなかった。
 毛布がずれ、ベッドが軋むのを感じる。
「セリカ。ふてくされてないでこっち向け。私が黙って別の部屋で寝るとでも思ったか?」
「ふてくされてない! ほっといてよ」
 枕を下から両手で握り、顔を深く埋めた。
「構えと言ったり放っておけと言ったり、忙しいな」
「みゃっ」
 腕を掴まれたのだが、指の触れた位置が脇の下に近くて、くすぐったい。足をバタバタさせると、布のようなものに当たって、動きを制限された。
 力づくで裏返される。
 仕返しがてら、砂色の衣を脇腹辺りを狙って鷲掴みにした。堪えたような笑い声が返る。目線を上げて、ハッとなった。
 近い。覆い被さる体勢で見下ろされている。石鹸とタバコの匂いに酔いそうだ。
(わ、わ。視界いっぱいにエランだ)
 男に強引に組み敷かれているのに拒否感が全くなくて、むしろ嬉しいくらいで、そう感じる自分に戸惑う。
 こういうのを「目のやり場がない」と言うのか。内着がはだけて、左肩が布の下からのぞいている。首都を逃れた時や川で水浴びをした時にも目にした肌だ。着やせする方なのだろう、じっくり観察すると、筋肉の盛り上がりや筋がきれいだと思った。
 目のやり場がないというよりもこれは、眺めたい、気がする。
(さわってみたいな)
 触る口実が欲しい。首筋や鎖骨を、指の腹でなぞってみたい。だが首を触らせてもらえるような口実とは一体何なのか。
 ふと、青い涙型の耳飾が目にちらついたため、気が逸れた。
 付けたままお風呂入ったの? と訊ねると、外すのを忘れてた、と彼が答えた。セリカは手を伸ばして留め具を外した。ラピスマトリクスの耳飾を、そっと寝台横の家具にのせる。
「案外軽いのね。宝石」
「重かったら左右で耳の長さが変わってくるからな」
 そう返されて、噴き出した。
「ごめんごめん……想像したら可笑しくて」
 ほーう、とエランは目を細める。右手を動かしたのかと思えば、セリカの耳たぶを引っ張った。
「いたっ! ちょ、伸びる伸びる」
 足をばたつかせるも、抑え込まれていて思うように動かせない。かたい。うっかり蹴った太ももの触感も、拘束も。
「伸ばそうとしているからな。片方だけ」
 じゃれる程度の力で、実際伸びる心配は無いと思うが。面白がって覗き込む顔に向けて、セリカは歯の間から威嚇音を出す。
 お前は蛇か。彼がくつくつと喉を鳴らして笑った時、また少し距離が縮んだ。
 セリカは抵抗を止めて、目の前の青年を改めて見上げた。
 目の前にそれがあったから、手を伸ばした。訊き出す勇気をついに持てたというよりも、弾みだった。
「これ、お母さんがやったって」
 盛り上がった皮膚に指先が掠る。青年は身を引いて、表情を曇らせる。
「聞いたのか」
「聞いたっていうか聞かされたっていうか…………ごめんなさい」
「いや……いつかは話すつもりだった。気分のいい話じゃないが、聞くか?」
 セリカは力強く頷いた。
 それから彼は簡潔にあらましを語った。異国人であった母親が、世継ぎを産むのに執着していたこと。だというのに、第一子の後に何度も子が流れたこと。
「……女は子孫を精製する機械じゃないわ」
「さあ。人は男女等しくみな己の役割を探し求め、得て、全うしようと生きている。母は、それでしか居場所が得られないと思ったのだろう」
 深いため息をついて、エランは話を続ける。
「せめて私が大公に気に入られていれば違ったかもしれないが、この通り、外見も内面もほとんど似なかった。三度目の流産を経て情緒不安定になっていた母は、周りに突然当たり散らすことも多くなった。煙たがられて、親子揃って軟禁されたのが六年前。その折にハティルが生まれたとの報せが宮中に流れて、何かが壊れたというわけだ。六歳だった私にそこまで母の心境に気が回るはずがなく、ある時普通に構って欲しくて近付いたら……癇癪を起こされた。たまたまその場に果物ナイフがあった」
 ――ナイフは誰かの不注意か、思惑か。
 結局答えが出ることはなかったし、本気で調査してもらえたわけでもない、と彼は言う。
 狂人のレッテルを貼られた妃はそれからも隔離され続けたが、その後は緩やかに衰弱していった。意識は薄れ、我が子の顔も忘れ、侍女のヤチマ以外の誰かとまともに言葉を交わすこともなくなった。
 そうしてある夜。彼女は誰にも見咎められることなく部屋を抜け出て、静かに逝った。おそらく事故だった。ヤチマは己を責めて自害を試みたが、お前のせいではないと、エランは繰り返し言い聞かせて宥めたという。
「…………」
 セリカはしばらく二の句が継げずにいた。確かに、気分の良い話ではない。
 胸の奥がむかむかする。怒りをぶつけたい相手が多々いたが、何より腹が立つのは――
 首の後ろに両手を巻き付ける。力いっぱいエランの頭を抱き寄せて、胸に沈めてやった。
「わかってると思うけど。あんたは何も悪くない。お母さんが追い詰められたのは環境のせいで、元々そういう傾向があったとは限らないし。だからあんたが周りに疎まれてるのって、理不尽以外のなにものでもないわ」
 母親に顔を忘れられたのも、彼のせいではないのだ。セリカはこれでもかと手に力を込める。
 胸元を温める息遣いは、僅かに乱れていた。
「めいっぱい愛情を注ぐからね。寂れた子供時代なんかあたしが忘れさせてあげる。だから、そんな泣きそうな顔しないで」
「そうしてもらえると、助かる」
「任せなさい」
 嫌なことがある分だけ、優しくしてあげよう。半年ばかり年下の夫を見下ろして、そう決意する。
 当人は気持ちよさそうに目を閉じている。
(幸せそうな顔しちゃって、もう)
 ――満たされる。
 この感覚は何だろうとセリカは不思議に思った。胸が膨らんだようだ。誰かが嬉しそうにしているのを、こうも感化されて喜んだのは初めてだ。
「なら私は、お前に何をしてやればいい」
「え。元気にしてくれれば、十分だけど」
「それ以外で頼む。もっと欲を出せ」
「だってねえ……遊び相手になって、はもう言ったし、構って、も言ったわよ。対等に接してくださいとか? あ」
 エランはぐりっと首を巡らせてこちらを見上げた。変な感じがした。できればあまり動かないでほしい。
 窮屈だったのかなと思って、手を放す。
「笛、また聞かせてほしいな」
「わかった。約束する。今は取り込んでいて無理だが」
 むくりと彼は上体を起こした。
 別に今じゃなくても、と言いかけたところでふいに唇を塞がれた。
(この男! 取り込んでるって、そういう意味)
 脳内で悪態をつけたのはそこまでだ。瞼を下ろすと気分が良かった。たとえるなら、まろやかなぬるま湯に浸かっている風だ。
 もっとこうしていたい。ところが、ほどなくして温もりが口元から離れた。名残惜しそうに目で追うと、今度は頬に、耳に、首筋に、肩に、胸元に、口付けが落とされる。
「……や」
 触れられた箇所が火照る。何かにしがみついていたかった。エランの左上腕を掴むと、ただでさえ緩かったローブがずれて、肩が露になる。色素の濃い点があった。
 セリカは謎の衝動に駆られて、はむっと唇を付けた。ぱくついて、世にいう甘噛みに転じる。なんとも満足のいく歯ごたえであった。
 青灰色の瞳が自身の肩口に向かった。エランは特に何も言わないし、止めない。
「あんたこんなとこにほくろあったんだね」
 気が済んだら、放してやった。
「お前は顔に小さいのが結構あるな」
「鼻の横とか頬骨の周りにいくつかね。みっともないから白粉で隠してなさいってお母さんは言うんだけど」
「そうか? 味があって、私は好きだな」
 好きと言われるとそわそわする。セリカは目線を逸らして自身の髪をひと房、指に巻いた。
「ありがと。隠すと言えばこの髪、この国では一生隠して過ごすのかぁ。自慢の赤なのにな」
 エランは答える代わりに髪に顔を近付けた。ジャリ、と微かな音がする。
「こら。食べ物じゃないわよ。そりゃああんたは、さくらんぼみたいな色だって最初に言ったけど」
「……独り占めできるから、私はこれでいい」
 見上げる瞳は湿っぽく煌く。客観的にではなく主観的に見て、色っぽい。奥深くまで揺さぶられるような錯覚がした。
「そ、そう言われると、うわあ。ドキドキする。独り占めかあ」
「事実だろう」
「何よ、勝ち誇ってんじゃないわ。あんたがあたしを独り占めできるんなら、あたしだってエランを独り占めするんだからね」
 言ってから、張り合うところだっただろうかと首を傾げる。恥ずかしいことを口走っている自覚はあったが、もう言ってしまったものは仕方がない。
 それに――楽しそうに口角を吊り上げる彼を見てしまっては、前言を撤回する気になれないのであった。
「そうか。そういうことなら、もっとナカヨクしませんか」
「うん、する。……してください」
 でもどうすればいいかわからないんですけど、とセリカが囁く。
 彼は面食らったように一拍を置いた。
「力を抜いて、好きにしてればいい」
 ――適当すぎる。
 むくれようとして、ふと手の中の布に注目する。視線を落として、青年の、結び目がほどけかかっている帯を目に入れた。
 するりと手を下へ滑らせる。
「じゃあこれ、脱がせますね」
 問いながらも手は帯を解いていた。
「お願いします」
 答え、エランは距離を縮める。
 次なる接吻はより熱く、激しく、そして深かった。息をつく暇がない。つかせたくも、ない。
 お互いの柔らかい部分が交われば交わるほど、脳が蕩けるようだ。
 痛苦も、快楽も、困惑も、幸福も。共に過ごす全てが特別な渦を成して――夜は更けていった。

_______

「おい! この状況で眠れるか、普通。とんでもないな」
 起き抜けに呆れた声が耳に入った。セリカは、寝ぼけ眼を瞬かせる。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない。馬の上で寝るな、危ない。何度言えばわかる」
 初めて会った時と同様の風変わりな格好をしたエランが、責めるような目で振り返る。筒型の帽子やボタンの多い詰襟の黒いチュニック、半袖の羽織り物。ヌンディーク公国に多少は慣れてきた今だからこそわかる、この服装は特異なものだ。
 聞けば、ルシャンフ領の先住民族から贈られたものだという。動きやすくて楽だからと彼は宮殿の外ではこちらを好んで着るらしい。
「だって眠くなるのよ……。いいじゃない、一応つかまってたでしょ」
 手首を布で結び合わせるという、保険はかけてあった。セリカは馬の手綱を持ったエランの後ろに乗って、振り落されないようにその腰につかまっていた。
 荷物はあまり多くない。後ろを走る荷馬車に必需品を積んである。二人で先行したいと言い出したのはエランで、その為に身を軽くした。
 現在、馬は速歩はやあしで野を横切っていた。やや遅れて、タバンヌスも続いている。
 エランは大げさにため息を吐いた。
「それより、もうすぐ着く。上を見てみろ」
「うえ?」
 言われた通りに上空を振り仰ぐ。
 時を同じくして、清々しい風が吹き抜けた。春が夏と出会うまでもう少しと言ったところの、暖かい風が袖口を撫でる。
 呼吸を奪われた。そう感じるほどの絶景であった。
 抜けるような青空を見上げたのは、いつぶりだっただろうか。遠くでは、絹を思わせる柔らかそうな白雲が並んでいる。
「空に落ちたら飲み込まれそう」
 自分でも変な感想だと思う。深く息を吸い込んでみると、肺は優しい夏の香りに満たされていった。
「まだ驚くのは早い。下も見てみろ」
 セリカは首を戻した。
 若葉色の地平線が、群青を受け止める。大草原が視界を占領していった。
 際限なく美しい眺めだ。奥に向かってなだらかな丘陵が展開しており、そこまですっきりと見渡せるほどに、平地が広々としている。
 後ろを振り返っても同じだった。いつの間にか森が途切れていたのだ。まばらな常緑樹だけが残っている。
 進行方向には木という木の姿はほとんどなく、あるのは草花と――白くて丸い人工物。てっぺんだけが尖っている。
「あの円柱、何?」
 指を指すと、形は指の爪ほどの大きさもないように見えた。いかに遠くにあるかを実感する。
「移動式住居だ。ルシャンフ領の民は冬は山や谷の近くに定住するが、暖かい間は放牧しながら天幕に寝泊りする」
 なるほど目を凝らしてみれば、住居の影に羊が見えた気がした。
「あたしたちも?」
「当然」
「遊牧民って排外的だって聞いたけど」
 泊めてもらえるだろうか。近くで天幕を張ることすら嫌がられるのでは、との疑念を込めて指摘する。
「一概にそうとも言えない。まあ私は、受け入れてもらえるまでに色々とやらされたな」
 そう言った青年の横顔には、領主の余裕みたいなものが感じられた。果たして領民はどんな人たちなのだろう。
「色々って何よ」
「それは後で話そう。酒でも入れないと、語る気になれない」
「えー。どんだけ恥ずかしい思い出なのよ」
 エランは誤魔化すように笑って、取り合わない。馬の走行を調整しているようだ。
「駆けるぞ。ちゃんと掴まってろ」
「うん」
 限界までに密着した。首筋と髪に顔を近付けると、もはや慣れつつある香油の匂いがした。夫の、とても安心する匂いだ。
 のびやかな風が草花を揺らす。目の前で黄色い蝶が二匹、ひらひらと舞っていた。
 掛け声と共に、エランが馬の腹を蹴った。
 ――穏やかな昼下がりだった。
 そんな世界を、息苦しいほどの速さで駆け抜ける。
 景色が勢いよく通り過ぎていった。胸が高鳴る。この手応え、爽快、としか評せない。
 ――ああ、ほんとうだ。あたしの知らなかった「自由」がある。
 約束がひとつ果たされた。それゆえに、溢れんばかりの幸せに浸る。
 これからいくつ約束を繋ぎ、そして果たしていくのか――楽しみだ。
 咳き込んだ。空気の流れが速すぎて、肌から熱がさらわれている。余計なことを一切考えられなくなる。余計なことを取り除くと、後には鮮烈な想いが残った。
「エラン! ありがとう! すっごくたのしい!」
 叫んだ。唾が少量、風に乗って消えていく。
「よかった! けど、まだこれからだ! セリカを楽しませるのは私の役目で歓びだ!」
 わかっている。が、これ以上喋ったら舌を噛みそうだったので、相槌を打つのは断念した。
 ――わかってる。あたしたちは二人でひとつの魂だから。
 きっと二人でなら、悲しいこと辛いことは分かち合うことができて、そのぶん楽しい遊びは倍楽しくなること、間違いなしである。
 面白そうだ。面白い人生に、これからなりそうだ――。





<了>
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