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五、約束をつなぐ午後
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――緊張する。
平常心とはどのようにして保つものだったか、或いは取り戻すものだったか。落ち着け、焦るな、とセリカラーサ・エイラクスは軌道を見失いつつある思考回路をたしなめる。
(しっかりしなきゃ)
異性と二人だけで向き合って食事をするなど――かつて百を超える群衆の前で楽器の演奏をさせられた際や、初めて馬の背に乗った際に比べたら、全然大した状況ではないはずだ。しかも昨日は二人だけで塔を上ったというのに。
こんな風にいくら記憶を辿って比較したところで、今この瞬間の緊張は解消されなかった。
(夕食になったのがいけないんだわ。あたしは陽の高い内に、気楽に済ませられそうな朝食に誘ったのであって。妖しい空気が漂う夜を狙ったんじゃないのよ)
不公平なことに、向かいの席に座すエランディーク・ユオンは顔の右半分を布で隠している。無意識の習慣に組み込まれるほど長い間そうしてきたのだろう、彼は実にさりげなく表情に影をかけたりしていた。これを想定して蝋燭の位置まで計算したのなら、大したものである。
(あたしだって、できることなら布のかかってる死角側に座りたかったわよ。その方が目を合わせなくて済む……って、あれ。もしもだけど、わざわざ顔を隠しやすいように工夫したなら……)
エラン公子もセリカと同じ心境であることを示唆する。
(う、わあ。違う違う、そんなわけない)
妙だった。相手が同じ気持ちであると想像すれば普通は安心できるものなのだが、この場で二人して気もそぞろなのだと考えると、益々身体が強張った。
それにしてもおかしい。
広大なムゥダ=ヴァハナの公宮内でこれまでに利用してきた食卓のどれもがやたらと大きかったのに、この夕餉に限って、卓は小さかった。まさしく、最大で二人分の食事しか並べられないようなささやかな長方形である。
いっそ、この場所の何もかもがおかしい。
セリカにとっては勝手のわからない宮殿だ、食事をしたくてもどこがいいのかなんてわからない。相手に任せっきりにしたら、なんと提案されたのは屋根の上だった。
――エランが寝泊まりしているという例の屋根の上である。
寝床は清潔で片付けられているものの、間仕切りが立てられていない。空間自体は丸見えだった。
(見られて困るようなものは無いんだろうけど。むしろ殺風景だけど)
先日感じた通り、どうやら彼はこの辺り大雑把なようだ。寝床を人に見られて恥ずかしいという発想すら持っていなそうだった。
(昨日はあたしも、こいつに部屋を通らせたわ……ううん、ベッドに天蓋がかかってたし、暗かったからいいの!)
脳内で無理矢理自分を納得させる。
ぼとり。何かが落下した音でセリカは物思いから抜け出した。パンに挟んでいた細切れの肉が、いつの間にかすり抜けて落ちたらしい。
視線を感じた。
落ちた肉を指先でかき集めながら、早口でまくし立てる。言わなくてもいいことまでをペラペラと。
「じ、実は手で食べるの、得意じゃなくて。あんまりキレイにできないの。昨日は頑張ったんだけど、気を張りすぎて味がわからなくなるのよね」
「なるほど。気が回らなくて悪かった」
エランは立ち上がって近くの小型の食器棚を漁り、スプーンを持って戻って来た。ほら、と言って柄から差し出してくる。
「落ちた分は後で宮殿の飼い猫にやる。食べなくていい」
「ありがと」
最初から皿の外に落ちた食べ物を食べるつもりなんて無かったが、それは言わないでおく。
エランに相談すればきっと過ごしやすいようにしてくれる――ベネフォーリ公子が自信ありげにそう告げたのを思い出した。あれからずっと、セリカはもやもやとした感情を拭い去れないでいる。
雑念を抱えたまま手を伸ばした。
勢い余って――否、距離を目で測り損ねて――指と指が触れた。
「ごめんっ」
考えるより先に手を引いた。一拍後、謝る必要なんてなかったのではないかと気付いて、改めてゆっくりとスプーンを受け取る。
「……いや」
向かいの席の青年は僅かに顔を逸らして唇の端を噛んでいた。その仕草がどういう感情を表しているのか、考えてもわからなかった。
なんとも微妙な空気の中、皿の上に残る食べ物を平らげた。おそらく、通常よりもずっと早く食べ終わったことだろう。ものの見事に味はあまりしなかった。
ごちそうさまでした、とセリカは手を合わせた、が。
(しまった! 食べ終わったからってそのまま逃げちゃだめよね)
むしろ緩慢と食べていれば、口が一杯だから雑談はできませんみたいな暗黙の了解を押し通せただろうに。
視界からパッと皿が消えた。消えた軌道を目で追うと、エラン公子が使い終わった食器を自ら重ねて片付けていた。かちゃん、かちゃり、との音に呆然となった。
すぐにセリカも席から立ち上がって、食器を盆の上に積むのを手伝った。
「食後酒、飲むか」
いつしかエランはゴブレット二個と酒瓶らしきものを手にしていた。そういえば自分のことに気を取られて相手の様子を確かめていなかったが、同時に食べ終わったのだろうか。それとも向こうが調整して合わせてくれたのだろうか。
どのような気遣いがあったのかはわからない。ただ、この場から逃げるべきではないとセリカは判断した。
「いただくわ」
答えるやいなや、彼は食卓を引き寄せて時計回り九十度に回す。そして手際よく酒瓶とゴブレットを卓に並べた。
「自分で何でもするのって新鮮な感じがする」
ふとセリカはそんなことを思い、口に出した。
この場からは決定的な何かが不足している。そう、食器まで自分で片付けねばならなかったのは、使用人の影が全く無いからである。
二人で食事をすると言っても、こうまで徹底して人払いをするものとは思わなかった。セリカまで、倣ってバルバを階下に待機させたほどだ。
それに対するエランの答えは、どこか翳っていた。
「人の気配に囲まれるのは好きじゃない」
しばし、酒がゴブレットに流れる音だけが響いた。
セリカは躊躇いがちに訊ねる。
「あんたの側に仕えてるのって、あの強そうな人だけなの」
「タバンヌスのことか? そうだな」
訊き返され、頷いた。
「あれは私の乳母の長男、つまり乳兄弟だ。今でこそ従者と主人みたいな形に収まっているが、元々は血の繋がった家族以上に近しい存在……あいつの妹も交えて、本物の兄弟のように育った」
「そう、なんだ」
「まああいつだけで大抵のことは間に合っている」
――乳兄弟。
溢れんばかりの忠誠心だと思っていたものは、案外もっと身近な感情と混ざっていたのかもしれない。
「じゃあこの場所を指定したのは人の気配を感じなくて済むからなのね」
「それもあるが、本命の理由はあれだ」
酒を注ぎ終わったエランが卓の前にどかっと胡坐をかいた。指差す方向は、セリカのにとっての背後となる。
試しに振り返ってみた。
「えっ、きれい……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
西の空が赤い。
山の向こうに沈まんとする輝かしい円が、まだその圧倒的な存在感を放っている。それを覆う薄い膜のような雲には太陽の橙色が伝い、多様に渡る濃淡を描いている。
言葉では讃え尽くせないほどに美しい一面だった。
「ここから望める落日は格別だ」
「うん、こんなの初めて見るわ」
同意しつつセリカは逡巡した。せっかくだから、座ってゆっくりとこの見事な風景を堪能したいし、食後酒も味わいたい。
それら両方の願望を叶える為には――。
食卓の長辺はかろうじて二人が並んで座れるほどの幅がある。
類稀なる景色を観賞する為だ。この男の隣に座ることくらい、受け入れるべきだろう。
そう自分に言い聞かせて、なるべく自然に腰を下ろした。意図的に「自然」を装うことなどできないとわかっていながら。
いざ座り込んで、足の向きなどを調整している間に、実感する。
(近い! 塔の上でも隣に座ったけど、今が断然近いわ!)
黙って静止していると、隣の青年が発する熱すら感じ取れそうだった。気温がやや冷えているだけに。
(べ、別に深い意味はないのよ)
熱は熱でも、それは人間が生きている限りずっと持っている微熱のことだ。セリカとて常に発している。特段、互いに気が動転して体温が上がっているのではない――はず。
ぐるぐると制御の利かない思考を持て余した。
このままでは景色を眺めるどころではないと思い、鉄のゴブレットを持ち上げる。ひんやりとした感触、装飾の手触りなどに意識を向けて、心を落ち着かせようとした。
そうして果実酒が唇を僅かに浸した瞬間、すっかり聴き慣れてしまったあの声が耳朶を打った。
「モスアゲート」
「え?」
エランの突拍子のない発言に、ゴブレットを傾ける手が止まる。
「カーネリアンとガーネットも似合ってはいるが」
青灰色の瞳が見つめる先は、セリカの首の下から胸元を飾る豪華な装飾品だった。
「これは大公陛下からいただいたものよ?」
ゴブレットを卓に下ろし、首下に連なる宝石を無意識に撫でる。ケチをつけられようにもセリカの好みとは無関係なのだ、との無音の抗弁のつもりだった。
青年の表情が瞬時にむすっとなる。
「その父上の見立てが、いまいちだと言っている」
「そんなこと知らないわ。何であんたが眉間に皺を寄せるわけ」
文句があるなら本人に申し立てればいいでしょ――とは言わない。父と子を隔てる身分という壁が、分厚いのはわかっていた。
青年が顎先のちょっとした髭を撫でて返事を組み立てる間、セリカは一度手放した果実酒の容器を再び持ち上げた。
液体の表面から立ち上るクローブの香りが、鼻孔をくすぐる。それから果実の甘さ、酸っぱさ、包み込むように濃厚な味わいが、かわるがわる舌を撫でていった。
想像以上に強い酒だ。ツンとした刺激が脳髄に走り、意識を揺さぶった。
「父上はお前の肌と瞳の色と合わせたつもりだろうが、私に言わせてみれば、安易な選択だな。赤い髪に大量の赤を添えれば、さすがにくどい」
「陛下はあたしの髪色を知らないんでしょ」
なんとなく大公を庇うような反論をする。
「知ろうとしない、の間違いだろう。下女に訊けば済む話だ」
「だから何であんたが不服そうなのよ」
要領を得ない応酬にセリカはしびれを切らした。責め立てるようにしてゴブレットを向ける。
その仕草をどう受け取ったのか、青年は己のゴブレットからぐいっと豪快に酒を一飲みした。更に短く息を吐いて、答えた。
「――もったいないからだ。カヤナイト……ラピスでもいいな。青と緑を使ったほっそりとした型のペンダントの方が、きっとお前の美しさを際立たせる」
静かな声が、頭の中で反響する。
さぞや呆気に取られた顔をしていることだろう。不意を突かれて、次の言葉がなかなか出て来なかった。
(あたしの何をなんだって……?)
礼儀も忘れて公子の横顔をまじまじと見つめるが、先の発言を掘り下げて欲しいと願い出るべきか決めかねている間に、彼はひとりでに話を続けた。
「モスアゲートは調和と自己表現を象徴する。ものによっては白地の内に描かれる深緑の模様が……影だったり森だったり、海に見えたりする」
「へ、え」
少しだけ興味が沸いてきた。自分を着飾ることにそれほど執着しないセリカだが、美しいものは見てみたい。
「宝石としての価値がガーネットやラピスに劣っても、見栄えはするぞ。今度、取り寄せておく」
そこでエランはこちらを突然に振り向く。目先で大きな涙型の宝石が揺れるのを、つい視線で追った。
「青にラピスラズリって、あんたの耳飾と一緒になるわね」
言い終わってからセリカは唇を「あ」の形に固定した。
――間違えた。無難なお礼の言葉を返すつもりだったのに。
語調がきつくなかっただろうか。お揃いが嫌だと主張しているように聞こえただろうか。どうやって取り消せばいいのかわからなくて、微かに身震いした。
が、杞憂に終わる。
「これはラピスマトリクスというバリエーションだ。一緒といえば、一緒になるか」
エランは左手の指の間に耳飾の宝石を挟んだ。それを瞥見した瞬間の微妙な表情筋の動きに、セリカの直感が働いた。
大事なものなの、と問いかける。母の形見らしい、と彼は答えた。
「らしい、って」
「直接手渡されたわけじゃないからな。私が生まれた記念に母が用意したそうだ――いつか成人したら付けるようにと。母は私が成人する前に逝ったから、乳母が内密に預かっていた」
「乳母を信頼してたのね」
「母はヤシュレから嫁いできた時に、最も信頼のおける使用人一家を連れてきた。いや、祖国では奴隷の身分だったか」
「......そっか」
続ける言葉が思い付かなくて、相槌だけを打った。話は一旦そこで途切れた。
どうやらエランの母の身の上は今のセリカと似ていたようだ。子への贈り物を異国の地の人間ではなく祖国から連れてきた供に預けた心境も、わかる気がする。
それからもう一つ、得心した。
兄弟と言っても母親が四人もいれば子が互いに似ていなくても仕方がないと思っていたが、エランの頬骨や顎は、他のヌンディーク公子に比べて明らかに丸みが無い。彼らよりも鼻の形が細くて、肌の色素もやや薄い。
加えてエランは、父親にもあまり似ていなかった。すらりと角ばった輪郭はどちらかというとタバンヌスのそれに寄っている。
目や眉骨や鼻の形など、大公の顔の部分的特徴は、第一公子ベネフォーリと第七公子アダレムが一番引き継いでいるように思えた。
「大公陛下はどこか悪いの」
物思いの果てで、その質問に至った。「容態が悪化したって話だけど、見舞いに行かなくていいの?」
「元から、突然体調が崩れることがあった。今回が特に危険かはわからない」
無感動に彼は語る。「常時この城に専属医が居るように、聖人聖女もひとり雇いたかったようだが……彼らはそういう依頼を受けないらしい」
「そうでしょうね」
聖人または聖女とは――このアルシュント大陸の中北部に拠点を置く唯一にして最大の宗教機関、ヴィールヴ=ハイス教団が育て上げている特殊な聖職者の称号だ。傷や病を不思議な力で治せる貴重な人材であり、いくつか他にも重要な役割がある。セリカも一度や二度は会ったことがある。
天性の素質と厳しい訓練の両方が欠かせないため、その数は極端に少ない。「人類の宝」とも称される彼らは、その特殊能力を大陸の民になるべく平等に――時には最もそれを必要としている地域に――もたらす為に常に旅をしているらしい。為政者だからと優先的に治すことは、教団の道徳観にそぐわないのだろう。
(怪我と比べて病気への効力はムラがあるのよね、確か)
であれば、どのみち常駐の者がいたからと言って助かるとも限らない。
難儀ね――とセリカは小さく感想を漏らした。隣の公子は何も反応しない。
(病だけじゃなくて人間関係も難儀みたい)
正面を向き直り、果実酒を更に喉に流し込む。初めはまろやかに感じていた喉越しも、量を経る内に次第に辛いような気がしてきた。
空の色合いが翳ってきて魅惑的だなあ、などとぼんやり思い始めた頃。ふいに空気が動き、蝋燭の炎が揺らめいた。
エランが立ち上がって寝床の脇を漁りに行ったのである。しばらくして、見覚えの無い道具を持って戻ってきた。
奇妙な形の器だった。黄銅でできた管のようだが、最下部と最上部は幅広くて丸い。最下部の丸みからは細長い管が枝分かれて突き出ている。
天辺の蓋をパカッと開けて、エランがこちらを一瞥する。
「吸ってもいいか」
「構わないわ。ていうか喫煙具だったのね、それ」
ゼテミアン公国で見てきた煙管の類とは大分違う――彼がその器具を準備する手順を、興味深く眺めた。
「ここではガリヤーンと呼ぶ。濡れたタバコを用いた吸い方だ。まあ、人が集まれば大抵誰かが引っ張り出してくる」
各部位は取り外し可能らしい。最下部に水を入れ、上の方にはぬちゃっとした、おそらくタバコである塊を詰めている。
「昨夜は見なかったけど」
「女子供の比率が高かったからだろう。そういう場では、あまり褒められたものじゃない」
「どうして?」
「知らん。かつて誰かが言い始めたからそうなったんじゃないか」
「伝統って時々いい加減よね……」
「吸ってみたいのか」
「ううん、興味ないわ」
エランが一個の石炭に火を点けた。トングで挟んでガリヤーンの最上部にのせ、蓋をする。それから数秒ほどして、枝分かれしている方の管に口を付ける。
「あんたは好きなの?」
長い息を吸って、吐いて、やがて青年は答えた。
「それなりには」
「ふうん」
喫煙している時の音や臭いに不快感は無く、ただなんとなくエランは今くつろいでいるのだという印象を受けるだけだった。片膝を立てて空を仰いでいる姿勢からも、気が緩んでいるのがわかる。
先ほどまでにこの屋根上を満たしていた緊張感はいずこへと消えていた。セリカも幾分くつろげた気分になっている。酒の効果もあって、ふわふわとした温かさが手足を駆け巡っていた。
目を細めて夜の風を頬に感じる。被り物をしていなければもっと気持ちよかったのかな、でも寒かったかも、と緩やかに思考を巡らせ――
「何か喋ってくれ」
その一言は、ともすればせっかくのくつろぎ空間を台無しにしかねなかった。無意識に口を尖らせる。
「無理して会話を続けなくてもいいでしょ。静かに座ってるだけの時間も、あたしは嫌じゃないわ。気になるならこの前みたいに笛を……って、吸ってるんだからダメか」
「私も別に、静寂が嫌ということはない」
「じゃあ何が」
「静寂は好きだが、お前の声も話も結構好きだから、もっと話してくれないだろうかと思って」
遮ってまで被せられた言葉は、意外なものだった。
もやぁっと水蒸気が辺りに広がる。セリカは靄を見つめたまま絶句した。
(公子サマ、それはどういうアレですか。口説いてるんですか)
相手の表情が見えないので、ひたすらに悶々と考える。
(口説かれているのだとしても……)
検証の仕方がわからないのが本音である。これまでの人生を振り返ってみても、異性にこんなことを言われたのは初めてだった。
それもそのはず、公女という身分が壁となっていたのだ。兄弟の友人も、宮殿に仕える使用人も役人も、たまに会話してくれた兵士や護衛ですら、一線を引いて接してきた。
引き合いに出せるものと言えば、経験ではなく聞いた話か架空の物語。しかしそこからも役に立つ情報は得られない――相手の真意を測る為に欠かせないとされるのは「顔」で、この場合は、赤面をしているのか否かだ。
残念ながら元々エランは褐色肌で顔色が窺いづらい上、もう日はほとんど暮れてしまっていて暗い。蝋燭の明かりの中では、誰であっても赤みを帯びているように見えよう。
(水蒸気も邪魔ね。払いたいけど、手で煽いだら挙動不審か)
残された手段は言葉で本意を引き出すくらいである。
いくら歯に衣着せぬセリカでも直接訊くのはさすがに憚れる。けれども、喋って欲しいと彼は言った。この機会に思い切ってひとつ核心に迫る問答をしてもバチは当たらないのではないか?
「……あのね。だったらあんたに……訊きたいことがあるわ」
目線を彷徨わせて呟く。
「何だ」
靄が僅かに薄まった。こちらに首を巡らせた青年は、いかにも答えてくれそうな姿勢を見せている。
セリカはすぐには言葉を組み立てることができず、膝上に両手を握らせたり、貴金属の腕輪を触ったりした。
沈黙が重い。
間を置けば置くほど言い出すのが難しくなりそうだ。意を決し、勢い込んで声量を上げる。
「こ、この際だからはっきり教えて。エランは結婚相手に、何を求めてるの」
青灰色の瞳を真っ直ぐに見つめて訊ねた。
不意を突いたらしい。あれほど穏やかに続いていた呼吸が突如として乱れ、青年は二、三度咳き込んだ。散った水蒸気からタバコの甘ったるくて濃密な香りが漂う。他人の吐いた息をそっくりそのまま自分の中に取り込んでいるみたいで、セリカは落ち着かない心持ちになる。
「……――いきなりそれを訊かれると答えづらい」
その声がどこか恨めしそうに聴こえたのは、気のせいだろうか。それとも噎せて息苦しいだけなのか。
「そうかしら」
「ならお前はどうなんだ」
矛先を向けられて、セリカは怯んだ。
「う、わ……わかったわよ。じゃああたしから話す……から」
今更ながら、なんて話を切り出してしまったんだと後悔した。相手に求める分だけ、己も本心を明かすのが道理である。
(ええと、何を求めているか、ね。あたしは婚約者にどうして欲しいんだっけ)
言葉を探る。恥ずかしさに眩暈がする――酒が回ってきたからかもしれないが。やっぱりこの話は無かったことにしようかと、一瞬迷って、思い直す。
――取り消せない。だって自分は、知りたいのだから。
そして多分、知って欲しくもあるのだろう。
「あたしは、ね。リューキネ公女が愛妾って名乗った時……まあ仕方ないと思ったわ」
視界の端でエランが眉を吊り上げたのが目に入った。構わずに話し続ける。
「親が決めた婚姻だもの、不都合ばかりだろうなって最初から予想してたのよ。だから婚約者に、他に腕に抱きたい相手がいても……夫婦間に愛が育めなくても、義務を最低限果たせればそれでいいかなって」
ここまで言って、空しさを覚える。
セリカは膝を抱えて丸まった。宵闇を見上げて小さくため息を吐く。
「ほら、あたしってこんなだから、女社会にほとんど溶け込めないでいるわ。だからせめて結婚する男とはわかり合ってみたかった。恋愛じゃなくても良好な関係を――つまりあたしが欲しかったのは…………遊び相手? って言い方は、なんか変ね。えっと……相手をしてくれる人。姫らしさがどうとか言わずに、一緒に色んなことに付き合ってくれないかなって、ちょっと期待してた」
愛情や友情が無くてもいい。足並みが揃わなくてもいい。時々構ってくれれば、それで充分だ。
「対等な関係じゃなくても我慢するから、女友達が付き合ってくれない遊びに――」
「何故、過去形で語る」
「え」
反射的に視線を右横へ向けた。すぐ近くでエランは呆れたような顔をしていた。
「まるで望みを捨てたみたいに話すんだな。それくらいなら叶えてやれるが」
「え?」
この独白は、笑い飛ばされるか流されるものかと思っていた。真剣に取り合ってもらえるものとは思わなかったので、セリカは間の抜けた返事しかできなかった。
「武術の稽古がしたくても、私は止めない。共に弓を引くのは無理だが……そうだ、遠乗りにでも行くか」
「ええ、遠乗り!? いいの!」
食いつかずにはいられない提案である。思わず身を乗り出した。が、すぐに鼻先の近さに仰天して後退る。
エランは苦笑して話を続けた。
「ルシャンフは限りない空と、雄大な大草原の地だ。馬を走らせると爽快だぞ。お前の知らない『自由』を見せてやろうか」
挑戦的とも取れる笑み。
対するセリカは、子供みたいに心が躍るのを自覚した。それはきっと双眸に、声や表情に、滲み出ていることだろう。
「ほんと? 楽しみにしてる!」
頬が緩むのがわかる。遊び相手となることを、彼は承諾してくれた。好きなものを好きなままでいいと、暗に伝えているようだ。
ああ、と頷いたエランの表情も心なしか柔らかい。
上機嫌にセリカは膝を下ろして座り直した。言いたいことを言い切って胸の内が軽くなり、後は大人しく答えを待つだけである。いつまでも待っていられそうな気がした。
とはいえ、待たされた時間は三呼吸ほどだった。微かに甘い息で青年は語り出す。
「男児の宿命は野望大望を抱いてこそ果たされる、とアスト兄上は言った」
「……憶えているわ」
まさに昨夜の晩餐会でそんな談話をした。宴の席で第二公子は「ディーナジャーヤ帝国に刃を向けて、属国をやめよう」と発言をしたのである。平和な時代に生まれ育ったセリカにしてみれば、肝が冷える思想だった。
他の公子たちにとってもそうだったのだろう。確か第一公子ベネフォーリは「他の者が聞いたら派閥争いの種だ! 軽々しくそんな提案をするな」と注意し、第三公子ウドゥアルは「今から自立するの大変だろー?」と面倒臭そうに聞き流し、第六公子は「後先考えずに喋らないでください」と頭を抱えた。
(そういえばエランの反応はかなり冷ややかだったわ)
例の作り笑いを浮かべてこう言ったのである。
――属国をやめるのは、四国間の協定から抜けるのと同義。アスト兄上は国土を血の海で浸したいのですね。
――まさか! 私は血なんて大嫌いだよ。でも、見てみたいと思うだろう? 己が国が大帝国を打ち負かす未来を――
思い出しただけで、背筋がすうっと冷える。難しい話はわからないが、危険な考え方であるのは間違いない。
「何が宿命だ。公都に居れば公子、所領に帰れば領主……こんな人生でも、たまには心穏やかに過ごせる場所が欲しい。幸いにも、妃となれば堂々と連れ回せる」
かくして野望の話題が、伴侶の話と繋がった。
(張り合いが無くても重圧はあるのね)
第五公子であり第三公位継承者という立場に、セリカは同情を覚える。
「あたしは……喜んで連れ回されますよ」
狭い世界で送る日々に辟易していたセリカには、むしろ移動させられるのは願ったりである。
「そうだろうと思っていたが、お前の口から聞けて安心した」
セリカは相槌を打ち損ねた。留意すべき点は「心穏やかに過ごす場所」という表現ではないか。柔和な性格をした淑女ならともかく、自分に到底務まるような役割ではないように感じられる。
「つまるところ私は――……甘える相手……が、欲しかった……」
歯切れの悪い告白の後、青年はまた顔を逸らして唇を噛んでいた。多分照れているのだというその所作を、何度も瞬きながら眺める。
そこであることに思い至って、セリカは口を挟んだ。
「つかぬことをお訊きしますがエランディーク公子さまは今年でお幾つなのでしょうか」
「……去年の秋に十八になったが」
訝しむ視線が返る。
「そうでございますか」
「歳がどうかしたか。後その改まった口調はどうした」
なんでもない、とセリカは頭と両手を振った。
(年下だった)
わけもなく衝撃を受けた。半年程度なんて大した差ではない、そう自分に言い聞かせる。
束の間の沈黙を置いて、エランは新たに話し始めた。
「十五歳になった時、成人祝いと称して父上が私の寝間に女を呼びつけた」
「そ、そう」
「それからも宴の度に誰かがそういう者を手配している。断ってもややこしくなるからと、楽しめるだけ楽しんではいたが。名も知らない女ばかりだった」
「…………」
「遍歴はそんなものだ。私は、特別な相手を持ったことは無いし、持とうと考えたことも無い」
「ん?」
黙って聞いていたセリカは、ふと引っかかるものを感じて首を傾げた。
青灰色の瞳が靄の向こうからじっと見つめてくる。蝋燭の光がちらちらと映る様子が妖しく、見入った。
「さっきの話だ。国の政略で結婚させられるであろうことは、遥か以前から理解していた。なら、側室も愛妾も必要ない。いずれ与えられる妃の為に取っておきたかった」
取っておいたのが何なのかまでは名言されなかったが、なんとなく伝わった。
(ああそうか。エランがあたしに構うのは責任感からじゃなくて……誠意、なんだ)
セリカは微笑混じりに息を吐く。すとん、と腑に落ちるものがあったのだ。
「すごい。誠実なんですね」
「……? どうも」
疑問符を飛ばすエランに向けて、気が付けば頭を下げていた。絨毯の上で両手を揃え、その上に額をのせる。
「ごめんなさい」
「待て、私は何を謝られている」
心底わからないと声音が訴えかけてくる。セリカは平伏の体勢を維持した。
「それに比べるとあたしは全然ダメね。どうせ親が決める結婚相手だからって、諦めがあったの。まだ見ぬ伴侶との将来を大事にしたいとか、ちゃんと向き合おうとか、考えてもみなかったわ」
一拍置いて、締めくくりの口上を述べる。
「ここに誠心誠意、これまでの非礼を詫びます」
「…………」
数秒間、うるさく鼓動を打つ心臓の音だけが頭の中で響いた。
――なんとか言ってよ。
そう、心中で念じてみたりもした。やがて静かな笑い声が降ってきた。
「お前の言い分はわかった。それは絨毯に額をこすりつけるほどのことか?」
「ほどのことだと思ったのよ」
そう言い返せばやはり笑い声がした。
「顔を上げてくれ、セリカ」
乞われた通りに上体を起こして、驚きの発見をする。
(おや、いい笑顔)
嫌々口角を上げて作られたものではなく、本気で楽しそうに笑っている。半分しか見れないのが惜しいと思った。
(いつかは素顔見せてくれるかな。いつか、でいいわ)
二度と無理強いをしたくないのだから。
「著名な哲学者が、赤を真心や情熱の色とたとえていたな。そんなに身に着けていれば大丈夫だ」
「心構えに、色関係ある?」
「どうだろうな。それにしてもお前は私を面白い人間と評したが、私にしてみればお前の方がよほど面白い」
これにはセリカも笑うしかなかった。
「エランの期待に応えられるかわからないけど、これからはちゃんと歩み寄るわ。差し当たり、遠乗りに連れて行ってくれるのよね」
そうだ、と彼は首肯した。
「約束よ。絶対だからね」
ゴブレットを差し向けて、乾杯をしようとの意を示す。青年は瞬時に意を汲んで、自らのゴブレットを持ち上げた。
「わかっている。私は果たせない約束は最初からしない」
――キン。
鉄同士が接触し、小気味いい音を響かせる。余韻がまだ耳朶に残る内に、セリカはひと思いに中身を空けた。
それから先、意識が曖昧となった。くだらないことを口走ったかもしれないし、睡魔に襲われてだらしない姿を晒したかもしれない。何にせよ――
とても、満たされた気分だった。
平常心とはどのようにして保つものだったか、或いは取り戻すものだったか。落ち着け、焦るな、とセリカラーサ・エイラクスは軌道を見失いつつある思考回路をたしなめる。
(しっかりしなきゃ)
異性と二人だけで向き合って食事をするなど――かつて百を超える群衆の前で楽器の演奏をさせられた際や、初めて馬の背に乗った際に比べたら、全然大した状況ではないはずだ。しかも昨日は二人だけで塔を上ったというのに。
こんな風にいくら記憶を辿って比較したところで、今この瞬間の緊張は解消されなかった。
(夕食になったのがいけないんだわ。あたしは陽の高い内に、気楽に済ませられそうな朝食に誘ったのであって。妖しい空気が漂う夜を狙ったんじゃないのよ)
不公平なことに、向かいの席に座すエランディーク・ユオンは顔の右半分を布で隠している。無意識の習慣に組み込まれるほど長い間そうしてきたのだろう、彼は実にさりげなく表情に影をかけたりしていた。これを想定して蝋燭の位置まで計算したのなら、大したものである。
(あたしだって、できることなら布のかかってる死角側に座りたかったわよ。その方が目を合わせなくて済む……って、あれ。もしもだけど、わざわざ顔を隠しやすいように工夫したなら……)
エラン公子もセリカと同じ心境であることを示唆する。
(う、わあ。違う違う、そんなわけない)
妙だった。相手が同じ気持ちであると想像すれば普通は安心できるものなのだが、この場で二人して気もそぞろなのだと考えると、益々身体が強張った。
それにしてもおかしい。
広大なムゥダ=ヴァハナの公宮内でこれまでに利用してきた食卓のどれもがやたらと大きかったのに、この夕餉に限って、卓は小さかった。まさしく、最大で二人分の食事しか並べられないようなささやかな長方形である。
いっそ、この場所の何もかもがおかしい。
セリカにとっては勝手のわからない宮殿だ、食事をしたくてもどこがいいのかなんてわからない。相手に任せっきりにしたら、なんと提案されたのは屋根の上だった。
――エランが寝泊まりしているという例の屋根の上である。
寝床は清潔で片付けられているものの、間仕切りが立てられていない。空間自体は丸見えだった。
(見られて困るようなものは無いんだろうけど。むしろ殺風景だけど)
先日感じた通り、どうやら彼はこの辺り大雑把なようだ。寝床を人に見られて恥ずかしいという発想すら持っていなそうだった。
(昨日はあたしも、こいつに部屋を通らせたわ……ううん、ベッドに天蓋がかかってたし、暗かったからいいの!)
脳内で無理矢理自分を納得させる。
ぼとり。何かが落下した音でセリカは物思いから抜け出した。パンに挟んでいた細切れの肉が、いつの間にかすり抜けて落ちたらしい。
視線を感じた。
落ちた肉を指先でかき集めながら、早口でまくし立てる。言わなくてもいいことまでをペラペラと。
「じ、実は手で食べるの、得意じゃなくて。あんまりキレイにできないの。昨日は頑張ったんだけど、気を張りすぎて味がわからなくなるのよね」
「なるほど。気が回らなくて悪かった」
エランは立ち上がって近くの小型の食器棚を漁り、スプーンを持って戻って来た。ほら、と言って柄から差し出してくる。
「落ちた分は後で宮殿の飼い猫にやる。食べなくていい」
「ありがと」
最初から皿の外に落ちた食べ物を食べるつもりなんて無かったが、それは言わないでおく。
エランに相談すればきっと過ごしやすいようにしてくれる――ベネフォーリ公子が自信ありげにそう告げたのを思い出した。あれからずっと、セリカはもやもやとした感情を拭い去れないでいる。
雑念を抱えたまま手を伸ばした。
勢い余って――否、距離を目で測り損ねて――指と指が触れた。
「ごめんっ」
考えるより先に手を引いた。一拍後、謝る必要なんてなかったのではないかと気付いて、改めてゆっくりとスプーンを受け取る。
「……いや」
向かいの席の青年は僅かに顔を逸らして唇の端を噛んでいた。その仕草がどういう感情を表しているのか、考えてもわからなかった。
なんとも微妙な空気の中、皿の上に残る食べ物を平らげた。おそらく、通常よりもずっと早く食べ終わったことだろう。ものの見事に味はあまりしなかった。
ごちそうさまでした、とセリカは手を合わせた、が。
(しまった! 食べ終わったからってそのまま逃げちゃだめよね)
むしろ緩慢と食べていれば、口が一杯だから雑談はできませんみたいな暗黙の了解を押し通せただろうに。
視界からパッと皿が消えた。消えた軌道を目で追うと、エラン公子が使い終わった食器を自ら重ねて片付けていた。かちゃん、かちゃり、との音に呆然となった。
すぐにセリカも席から立ち上がって、食器を盆の上に積むのを手伝った。
「食後酒、飲むか」
いつしかエランはゴブレット二個と酒瓶らしきものを手にしていた。そういえば自分のことに気を取られて相手の様子を確かめていなかったが、同時に食べ終わったのだろうか。それとも向こうが調整して合わせてくれたのだろうか。
どのような気遣いがあったのかはわからない。ただ、この場から逃げるべきではないとセリカは判断した。
「いただくわ」
答えるやいなや、彼は食卓を引き寄せて時計回り九十度に回す。そして手際よく酒瓶とゴブレットを卓に並べた。
「自分で何でもするのって新鮮な感じがする」
ふとセリカはそんなことを思い、口に出した。
この場からは決定的な何かが不足している。そう、食器まで自分で片付けねばならなかったのは、使用人の影が全く無いからである。
二人で食事をすると言っても、こうまで徹底して人払いをするものとは思わなかった。セリカまで、倣ってバルバを階下に待機させたほどだ。
それに対するエランの答えは、どこか翳っていた。
「人の気配に囲まれるのは好きじゃない」
しばし、酒がゴブレットに流れる音だけが響いた。
セリカは躊躇いがちに訊ねる。
「あんたの側に仕えてるのって、あの強そうな人だけなの」
「タバンヌスのことか? そうだな」
訊き返され、頷いた。
「あれは私の乳母の長男、つまり乳兄弟だ。今でこそ従者と主人みたいな形に収まっているが、元々は血の繋がった家族以上に近しい存在……あいつの妹も交えて、本物の兄弟のように育った」
「そう、なんだ」
「まああいつだけで大抵のことは間に合っている」
――乳兄弟。
溢れんばかりの忠誠心だと思っていたものは、案外もっと身近な感情と混ざっていたのかもしれない。
「じゃあこの場所を指定したのは人の気配を感じなくて済むからなのね」
「それもあるが、本命の理由はあれだ」
酒を注ぎ終わったエランが卓の前にどかっと胡坐をかいた。指差す方向は、セリカのにとっての背後となる。
試しに振り返ってみた。
「えっ、きれい……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
西の空が赤い。
山の向こうに沈まんとする輝かしい円が、まだその圧倒的な存在感を放っている。それを覆う薄い膜のような雲には太陽の橙色が伝い、多様に渡る濃淡を描いている。
言葉では讃え尽くせないほどに美しい一面だった。
「ここから望める落日は格別だ」
「うん、こんなの初めて見るわ」
同意しつつセリカは逡巡した。せっかくだから、座ってゆっくりとこの見事な風景を堪能したいし、食後酒も味わいたい。
それら両方の願望を叶える為には――。
食卓の長辺はかろうじて二人が並んで座れるほどの幅がある。
類稀なる景色を観賞する為だ。この男の隣に座ることくらい、受け入れるべきだろう。
そう自分に言い聞かせて、なるべく自然に腰を下ろした。意図的に「自然」を装うことなどできないとわかっていながら。
いざ座り込んで、足の向きなどを調整している間に、実感する。
(近い! 塔の上でも隣に座ったけど、今が断然近いわ!)
黙って静止していると、隣の青年が発する熱すら感じ取れそうだった。気温がやや冷えているだけに。
(べ、別に深い意味はないのよ)
熱は熱でも、それは人間が生きている限りずっと持っている微熱のことだ。セリカとて常に発している。特段、互いに気が動転して体温が上がっているのではない――はず。
ぐるぐると制御の利かない思考を持て余した。
このままでは景色を眺めるどころではないと思い、鉄のゴブレットを持ち上げる。ひんやりとした感触、装飾の手触りなどに意識を向けて、心を落ち着かせようとした。
そうして果実酒が唇を僅かに浸した瞬間、すっかり聴き慣れてしまったあの声が耳朶を打った。
「モスアゲート」
「え?」
エランの突拍子のない発言に、ゴブレットを傾ける手が止まる。
「カーネリアンとガーネットも似合ってはいるが」
青灰色の瞳が見つめる先は、セリカの首の下から胸元を飾る豪華な装飾品だった。
「これは大公陛下からいただいたものよ?」
ゴブレットを卓に下ろし、首下に連なる宝石を無意識に撫でる。ケチをつけられようにもセリカの好みとは無関係なのだ、との無音の抗弁のつもりだった。
青年の表情が瞬時にむすっとなる。
「その父上の見立てが、いまいちだと言っている」
「そんなこと知らないわ。何であんたが眉間に皺を寄せるわけ」
文句があるなら本人に申し立てればいいでしょ――とは言わない。父と子を隔てる身分という壁が、分厚いのはわかっていた。
青年が顎先のちょっとした髭を撫でて返事を組み立てる間、セリカは一度手放した果実酒の容器を再び持ち上げた。
液体の表面から立ち上るクローブの香りが、鼻孔をくすぐる。それから果実の甘さ、酸っぱさ、包み込むように濃厚な味わいが、かわるがわる舌を撫でていった。
想像以上に強い酒だ。ツンとした刺激が脳髄に走り、意識を揺さぶった。
「父上はお前の肌と瞳の色と合わせたつもりだろうが、私に言わせてみれば、安易な選択だな。赤い髪に大量の赤を添えれば、さすがにくどい」
「陛下はあたしの髪色を知らないんでしょ」
なんとなく大公を庇うような反論をする。
「知ろうとしない、の間違いだろう。下女に訊けば済む話だ」
「だから何であんたが不服そうなのよ」
要領を得ない応酬にセリカはしびれを切らした。責め立てるようにしてゴブレットを向ける。
その仕草をどう受け取ったのか、青年は己のゴブレットからぐいっと豪快に酒を一飲みした。更に短く息を吐いて、答えた。
「――もったいないからだ。カヤナイト……ラピスでもいいな。青と緑を使ったほっそりとした型のペンダントの方が、きっとお前の美しさを際立たせる」
静かな声が、頭の中で反響する。
さぞや呆気に取られた顔をしていることだろう。不意を突かれて、次の言葉がなかなか出て来なかった。
(あたしの何をなんだって……?)
礼儀も忘れて公子の横顔をまじまじと見つめるが、先の発言を掘り下げて欲しいと願い出るべきか決めかねている間に、彼はひとりでに話を続けた。
「モスアゲートは調和と自己表現を象徴する。ものによっては白地の内に描かれる深緑の模様が……影だったり森だったり、海に見えたりする」
「へ、え」
少しだけ興味が沸いてきた。自分を着飾ることにそれほど執着しないセリカだが、美しいものは見てみたい。
「宝石としての価値がガーネットやラピスに劣っても、見栄えはするぞ。今度、取り寄せておく」
そこでエランはこちらを突然に振り向く。目先で大きな涙型の宝石が揺れるのを、つい視線で追った。
「青にラピスラズリって、あんたの耳飾と一緒になるわね」
言い終わってからセリカは唇を「あ」の形に固定した。
――間違えた。無難なお礼の言葉を返すつもりだったのに。
語調がきつくなかっただろうか。お揃いが嫌だと主張しているように聞こえただろうか。どうやって取り消せばいいのかわからなくて、微かに身震いした。
が、杞憂に終わる。
「これはラピスマトリクスというバリエーションだ。一緒といえば、一緒になるか」
エランは左手の指の間に耳飾の宝石を挟んだ。それを瞥見した瞬間の微妙な表情筋の動きに、セリカの直感が働いた。
大事なものなの、と問いかける。母の形見らしい、と彼は答えた。
「らしい、って」
「直接手渡されたわけじゃないからな。私が生まれた記念に母が用意したそうだ――いつか成人したら付けるようにと。母は私が成人する前に逝ったから、乳母が内密に預かっていた」
「乳母を信頼してたのね」
「母はヤシュレから嫁いできた時に、最も信頼のおける使用人一家を連れてきた。いや、祖国では奴隷の身分だったか」
「......そっか」
続ける言葉が思い付かなくて、相槌だけを打った。話は一旦そこで途切れた。
どうやらエランの母の身の上は今のセリカと似ていたようだ。子への贈り物を異国の地の人間ではなく祖国から連れてきた供に預けた心境も、わかる気がする。
それからもう一つ、得心した。
兄弟と言っても母親が四人もいれば子が互いに似ていなくても仕方がないと思っていたが、エランの頬骨や顎は、他のヌンディーク公子に比べて明らかに丸みが無い。彼らよりも鼻の形が細くて、肌の色素もやや薄い。
加えてエランは、父親にもあまり似ていなかった。すらりと角ばった輪郭はどちらかというとタバンヌスのそれに寄っている。
目や眉骨や鼻の形など、大公の顔の部分的特徴は、第一公子ベネフォーリと第七公子アダレムが一番引き継いでいるように思えた。
「大公陛下はどこか悪いの」
物思いの果てで、その質問に至った。「容態が悪化したって話だけど、見舞いに行かなくていいの?」
「元から、突然体調が崩れることがあった。今回が特に危険かはわからない」
無感動に彼は語る。「常時この城に専属医が居るように、聖人聖女もひとり雇いたかったようだが……彼らはそういう依頼を受けないらしい」
「そうでしょうね」
聖人または聖女とは――このアルシュント大陸の中北部に拠点を置く唯一にして最大の宗教機関、ヴィールヴ=ハイス教団が育て上げている特殊な聖職者の称号だ。傷や病を不思議な力で治せる貴重な人材であり、いくつか他にも重要な役割がある。セリカも一度や二度は会ったことがある。
天性の素質と厳しい訓練の両方が欠かせないため、その数は極端に少ない。「人類の宝」とも称される彼らは、その特殊能力を大陸の民になるべく平等に――時には最もそれを必要としている地域に――もたらす為に常に旅をしているらしい。為政者だからと優先的に治すことは、教団の道徳観にそぐわないのだろう。
(怪我と比べて病気への効力はムラがあるのよね、確か)
であれば、どのみち常駐の者がいたからと言って助かるとも限らない。
難儀ね――とセリカは小さく感想を漏らした。隣の公子は何も反応しない。
(病だけじゃなくて人間関係も難儀みたい)
正面を向き直り、果実酒を更に喉に流し込む。初めはまろやかに感じていた喉越しも、量を経る内に次第に辛いような気がしてきた。
空の色合いが翳ってきて魅惑的だなあ、などとぼんやり思い始めた頃。ふいに空気が動き、蝋燭の炎が揺らめいた。
エランが立ち上がって寝床の脇を漁りに行ったのである。しばらくして、見覚えの無い道具を持って戻ってきた。
奇妙な形の器だった。黄銅でできた管のようだが、最下部と最上部は幅広くて丸い。最下部の丸みからは細長い管が枝分かれて突き出ている。
天辺の蓋をパカッと開けて、エランがこちらを一瞥する。
「吸ってもいいか」
「構わないわ。ていうか喫煙具だったのね、それ」
ゼテミアン公国で見てきた煙管の類とは大分違う――彼がその器具を準備する手順を、興味深く眺めた。
「ここではガリヤーンと呼ぶ。濡れたタバコを用いた吸い方だ。まあ、人が集まれば大抵誰かが引っ張り出してくる」
各部位は取り外し可能らしい。最下部に水を入れ、上の方にはぬちゃっとした、おそらくタバコである塊を詰めている。
「昨夜は見なかったけど」
「女子供の比率が高かったからだろう。そういう場では、あまり褒められたものじゃない」
「どうして?」
「知らん。かつて誰かが言い始めたからそうなったんじゃないか」
「伝統って時々いい加減よね……」
「吸ってみたいのか」
「ううん、興味ないわ」
エランが一個の石炭に火を点けた。トングで挟んでガリヤーンの最上部にのせ、蓋をする。それから数秒ほどして、枝分かれしている方の管に口を付ける。
「あんたは好きなの?」
長い息を吸って、吐いて、やがて青年は答えた。
「それなりには」
「ふうん」
喫煙している時の音や臭いに不快感は無く、ただなんとなくエランは今くつろいでいるのだという印象を受けるだけだった。片膝を立てて空を仰いでいる姿勢からも、気が緩んでいるのがわかる。
先ほどまでにこの屋根上を満たしていた緊張感はいずこへと消えていた。セリカも幾分くつろげた気分になっている。酒の効果もあって、ふわふわとした温かさが手足を駆け巡っていた。
目を細めて夜の風を頬に感じる。被り物をしていなければもっと気持ちよかったのかな、でも寒かったかも、と緩やかに思考を巡らせ――
「何か喋ってくれ」
その一言は、ともすればせっかくのくつろぎ空間を台無しにしかねなかった。無意識に口を尖らせる。
「無理して会話を続けなくてもいいでしょ。静かに座ってるだけの時間も、あたしは嫌じゃないわ。気になるならこの前みたいに笛を……って、吸ってるんだからダメか」
「私も別に、静寂が嫌ということはない」
「じゃあ何が」
「静寂は好きだが、お前の声も話も結構好きだから、もっと話してくれないだろうかと思って」
遮ってまで被せられた言葉は、意外なものだった。
もやぁっと水蒸気が辺りに広がる。セリカは靄を見つめたまま絶句した。
(公子サマ、それはどういうアレですか。口説いてるんですか)
相手の表情が見えないので、ひたすらに悶々と考える。
(口説かれているのだとしても……)
検証の仕方がわからないのが本音である。これまでの人生を振り返ってみても、異性にこんなことを言われたのは初めてだった。
それもそのはず、公女という身分が壁となっていたのだ。兄弟の友人も、宮殿に仕える使用人も役人も、たまに会話してくれた兵士や護衛ですら、一線を引いて接してきた。
引き合いに出せるものと言えば、経験ではなく聞いた話か架空の物語。しかしそこからも役に立つ情報は得られない――相手の真意を測る為に欠かせないとされるのは「顔」で、この場合は、赤面をしているのか否かだ。
残念ながら元々エランは褐色肌で顔色が窺いづらい上、もう日はほとんど暮れてしまっていて暗い。蝋燭の明かりの中では、誰であっても赤みを帯びているように見えよう。
(水蒸気も邪魔ね。払いたいけど、手で煽いだら挙動不審か)
残された手段は言葉で本意を引き出すくらいである。
いくら歯に衣着せぬセリカでも直接訊くのはさすがに憚れる。けれども、喋って欲しいと彼は言った。この機会に思い切ってひとつ核心に迫る問答をしてもバチは当たらないのではないか?
「……あのね。だったらあんたに……訊きたいことがあるわ」
目線を彷徨わせて呟く。
「何だ」
靄が僅かに薄まった。こちらに首を巡らせた青年は、いかにも答えてくれそうな姿勢を見せている。
セリカはすぐには言葉を組み立てることができず、膝上に両手を握らせたり、貴金属の腕輪を触ったりした。
沈黙が重い。
間を置けば置くほど言い出すのが難しくなりそうだ。意を決し、勢い込んで声量を上げる。
「こ、この際だからはっきり教えて。エランは結婚相手に、何を求めてるの」
青灰色の瞳を真っ直ぐに見つめて訊ねた。
不意を突いたらしい。あれほど穏やかに続いていた呼吸が突如として乱れ、青年は二、三度咳き込んだ。散った水蒸気からタバコの甘ったるくて濃密な香りが漂う。他人の吐いた息をそっくりそのまま自分の中に取り込んでいるみたいで、セリカは落ち着かない心持ちになる。
「……――いきなりそれを訊かれると答えづらい」
その声がどこか恨めしそうに聴こえたのは、気のせいだろうか。それとも噎せて息苦しいだけなのか。
「そうかしら」
「ならお前はどうなんだ」
矛先を向けられて、セリカは怯んだ。
「う、わ……わかったわよ。じゃああたしから話す……から」
今更ながら、なんて話を切り出してしまったんだと後悔した。相手に求める分だけ、己も本心を明かすのが道理である。
(ええと、何を求めているか、ね。あたしは婚約者にどうして欲しいんだっけ)
言葉を探る。恥ずかしさに眩暈がする――酒が回ってきたからかもしれないが。やっぱりこの話は無かったことにしようかと、一瞬迷って、思い直す。
――取り消せない。だって自分は、知りたいのだから。
そして多分、知って欲しくもあるのだろう。
「あたしは、ね。リューキネ公女が愛妾って名乗った時……まあ仕方ないと思ったわ」
視界の端でエランが眉を吊り上げたのが目に入った。構わずに話し続ける。
「親が決めた婚姻だもの、不都合ばかりだろうなって最初から予想してたのよ。だから婚約者に、他に腕に抱きたい相手がいても……夫婦間に愛が育めなくても、義務を最低限果たせればそれでいいかなって」
ここまで言って、空しさを覚える。
セリカは膝を抱えて丸まった。宵闇を見上げて小さくため息を吐く。
「ほら、あたしってこんなだから、女社会にほとんど溶け込めないでいるわ。だからせめて結婚する男とはわかり合ってみたかった。恋愛じゃなくても良好な関係を――つまりあたしが欲しかったのは…………遊び相手? って言い方は、なんか変ね。えっと……相手をしてくれる人。姫らしさがどうとか言わずに、一緒に色んなことに付き合ってくれないかなって、ちょっと期待してた」
愛情や友情が無くてもいい。足並みが揃わなくてもいい。時々構ってくれれば、それで充分だ。
「対等な関係じゃなくても我慢するから、女友達が付き合ってくれない遊びに――」
「何故、過去形で語る」
「え」
反射的に視線を右横へ向けた。すぐ近くでエランは呆れたような顔をしていた。
「まるで望みを捨てたみたいに話すんだな。それくらいなら叶えてやれるが」
「え?」
この独白は、笑い飛ばされるか流されるものかと思っていた。真剣に取り合ってもらえるものとは思わなかったので、セリカは間の抜けた返事しかできなかった。
「武術の稽古がしたくても、私は止めない。共に弓を引くのは無理だが……そうだ、遠乗りにでも行くか」
「ええ、遠乗り!? いいの!」
食いつかずにはいられない提案である。思わず身を乗り出した。が、すぐに鼻先の近さに仰天して後退る。
エランは苦笑して話を続けた。
「ルシャンフは限りない空と、雄大な大草原の地だ。馬を走らせると爽快だぞ。お前の知らない『自由』を見せてやろうか」
挑戦的とも取れる笑み。
対するセリカは、子供みたいに心が躍るのを自覚した。それはきっと双眸に、声や表情に、滲み出ていることだろう。
「ほんと? 楽しみにしてる!」
頬が緩むのがわかる。遊び相手となることを、彼は承諾してくれた。好きなものを好きなままでいいと、暗に伝えているようだ。
ああ、と頷いたエランの表情も心なしか柔らかい。
上機嫌にセリカは膝を下ろして座り直した。言いたいことを言い切って胸の内が軽くなり、後は大人しく答えを待つだけである。いつまでも待っていられそうな気がした。
とはいえ、待たされた時間は三呼吸ほどだった。微かに甘い息で青年は語り出す。
「男児の宿命は野望大望を抱いてこそ果たされる、とアスト兄上は言った」
「……憶えているわ」
まさに昨夜の晩餐会でそんな談話をした。宴の席で第二公子は「ディーナジャーヤ帝国に刃を向けて、属国をやめよう」と発言をしたのである。平和な時代に生まれ育ったセリカにしてみれば、肝が冷える思想だった。
他の公子たちにとってもそうだったのだろう。確か第一公子ベネフォーリは「他の者が聞いたら派閥争いの種だ! 軽々しくそんな提案をするな」と注意し、第三公子ウドゥアルは「今から自立するの大変だろー?」と面倒臭そうに聞き流し、第六公子は「後先考えずに喋らないでください」と頭を抱えた。
(そういえばエランの反応はかなり冷ややかだったわ)
例の作り笑いを浮かべてこう言ったのである。
――属国をやめるのは、四国間の協定から抜けるのと同義。アスト兄上は国土を血の海で浸したいのですね。
――まさか! 私は血なんて大嫌いだよ。でも、見てみたいと思うだろう? 己が国が大帝国を打ち負かす未来を――
思い出しただけで、背筋がすうっと冷える。難しい話はわからないが、危険な考え方であるのは間違いない。
「何が宿命だ。公都に居れば公子、所領に帰れば領主……こんな人生でも、たまには心穏やかに過ごせる場所が欲しい。幸いにも、妃となれば堂々と連れ回せる」
かくして野望の話題が、伴侶の話と繋がった。
(張り合いが無くても重圧はあるのね)
第五公子であり第三公位継承者という立場に、セリカは同情を覚える。
「あたしは……喜んで連れ回されますよ」
狭い世界で送る日々に辟易していたセリカには、むしろ移動させられるのは願ったりである。
「そうだろうと思っていたが、お前の口から聞けて安心した」
セリカは相槌を打ち損ねた。留意すべき点は「心穏やかに過ごす場所」という表現ではないか。柔和な性格をした淑女ならともかく、自分に到底務まるような役割ではないように感じられる。
「つまるところ私は――……甘える相手……が、欲しかった……」
歯切れの悪い告白の後、青年はまた顔を逸らして唇を噛んでいた。多分照れているのだというその所作を、何度も瞬きながら眺める。
そこであることに思い至って、セリカは口を挟んだ。
「つかぬことをお訊きしますがエランディーク公子さまは今年でお幾つなのでしょうか」
「……去年の秋に十八になったが」
訝しむ視線が返る。
「そうでございますか」
「歳がどうかしたか。後その改まった口調はどうした」
なんでもない、とセリカは頭と両手を振った。
(年下だった)
わけもなく衝撃を受けた。半年程度なんて大した差ではない、そう自分に言い聞かせる。
束の間の沈黙を置いて、エランは新たに話し始めた。
「十五歳になった時、成人祝いと称して父上が私の寝間に女を呼びつけた」
「そ、そう」
「それからも宴の度に誰かがそういう者を手配している。断ってもややこしくなるからと、楽しめるだけ楽しんではいたが。名も知らない女ばかりだった」
「…………」
「遍歴はそんなものだ。私は、特別な相手を持ったことは無いし、持とうと考えたことも無い」
「ん?」
黙って聞いていたセリカは、ふと引っかかるものを感じて首を傾げた。
青灰色の瞳が靄の向こうからじっと見つめてくる。蝋燭の光がちらちらと映る様子が妖しく、見入った。
「さっきの話だ。国の政略で結婚させられるであろうことは、遥か以前から理解していた。なら、側室も愛妾も必要ない。いずれ与えられる妃の為に取っておきたかった」
取っておいたのが何なのかまでは名言されなかったが、なんとなく伝わった。
(ああそうか。エランがあたしに構うのは責任感からじゃなくて……誠意、なんだ)
セリカは微笑混じりに息を吐く。すとん、と腑に落ちるものがあったのだ。
「すごい。誠実なんですね」
「……? どうも」
疑問符を飛ばすエランに向けて、気が付けば頭を下げていた。絨毯の上で両手を揃え、その上に額をのせる。
「ごめんなさい」
「待て、私は何を謝られている」
心底わからないと声音が訴えかけてくる。セリカは平伏の体勢を維持した。
「それに比べるとあたしは全然ダメね。どうせ親が決める結婚相手だからって、諦めがあったの。まだ見ぬ伴侶との将来を大事にしたいとか、ちゃんと向き合おうとか、考えてもみなかったわ」
一拍置いて、締めくくりの口上を述べる。
「ここに誠心誠意、これまでの非礼を詫びます」
「…………」
数秒間、うるさく鼓動を打つ心臓の音だけが頭の中で響いた。
――なんとか言ってよ。
そう、心中で念じてみたりもした。やがて静かな笑い声が降ってきた。
「お前の言い分はわかった。それは絨毯に額をこすりつけるほどのことか?」
「ほどのことだと思ったのよ」
そう言い返せばやはり笑い声がした。
「顔を上げてくれ、セリカ」
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(おや、いい笑顔)
嫌々口角を上げて作られたものではなく、本気で楽しそうに笑っている。半分しか見れないのが惜しいと思った。
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二度と無理強いをしたくないのだから。
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「心構えに、色関係ある?」
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これにはセリカも笑うしかなかった。
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ゴブレットを差し向けて、乾杯をしようとの意を示す。青年は瞬時に意を汲んで、自らのゴブレットを持ち上げた。
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――キン。
鉄同士が接触し、小気味いい音を響かせる。余韻がまだ耳朶に残る内に、セリカはひと思いに中身を空けた。
それから先、意識が曖昧となった。くだらないことを口走ったかもしれないし、睡魔に襲われてだらしない姿を晒したかもしれない。何にせよ――
とても、満たされた気分だった。
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