きみの黒土に沃ぐ赤

甲姫

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三、危険な夜

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 狭くて古そうな螺旋階段だった。
 息が苦しいのは、埃とカビの臭いの所為だけではない。不揃いの段差を上がる度に、疲労が足に蓄積されていった。上を見上げると、頂上まではまだいくばくかの段数があるのがわかる。
 こんなことをして何になるのか。数段先を行く青年の背中を一瞥しながら、自問した。
 長旅を経た一日も終わりが近いという刻限に、何故敢えて心拍数が上がるようなことをしなければならないのだろう。いくら体力に自信のあるセリカでも限度というものがある。
(わかってはいるのよ)
 抗えぬ権力を持った人間が、そうしろと命じたからだ。そしてその人間の不興を買うような真似は、決してできない。
「――ふみっ!?」
 途端に、足元がぐらついた。変な声を出してしまうほどに驚く。
 幸いながらセリカは優れた運動神経に恵まれている。左足が階段を踏み外しても、咄嗟に両手を突き出して前に倒れるくらいは造作ない。
 こうして転落を免れた。もしももう少し反応が鈍かったなら、三十以上の段を転がり落ちていたところだ。
「危ないわね……なんで手摺りが無いの」
「狭いからじゃないか。手摺りまで取り付けたら、人が通る幅がますますなくなる」
 無遠慮な物言いに、エランディーク公子は特に気を悪くした様子もなく。彼はのんびりとこちらが体勢を立て直すのを待った。
「もうちょっと広めに設計すればいいでしょ。造った奴らは何考えてんのよ」
「過去の人間の思惑が、私にわかるわけがない」
 怠そうな返事があった。
 セリカは立ち上がって膝周りの衣を叩いてから階段を上り出す。それに伴い前方の青年も歩みを再開した。
 別に言及するつもりはないが、この男は相変わらず人が地に腰を付けても、起き上がるのを手伝ってくれない。
「改造すれば済む話よ。過去はどうあれ、現在を生きる人々が決めればいいことだわ」
「あまり人の来ない場所だ。かつては物見の塔だったらしいが、防壁が一新されてからは使われなくなった」
 人が来ないと語った割には、彼自身は物知り顔で階段を上っている。灯りも、必要ないと言って持っていない。壁をくり抜いたような簡易的な窓からは確かに月明かりが漏れてきているが、まるで窓と窓の間隔を知っているかのような自信に満ちた足取りだった。
「だったらなんで陛下はわざわざ塔に行けだなんて言ったの」
 もしかして、イジメ? とは訊かないでおく。大公家の中での第五公子の立場がどこかおかしいのは明白だが、どこまで踏み込むべきかはまだわからない。
 青年はすぐには答えずに、「ここはしばらく来ない間に朽ちたな……」と足元を見やって独り言を呟いた。
 もう一歩踏み上げたところで、俄かに空気が変わる。セリカは倦怠感を束の間忘れて残りの数段を駆け上がった。
 これまでは古びた壁の湿ったい匂いが屋内に居るような印象を醸し出していたのに、ここまで来ると、打って変わって屋外だった。扉の無い出口をくぐって、外の展望台へ出る。
 夜風を遮るものが何もない。
 手摺りまで一直線に進んで、そのまま寄りかかって顔を突き出してみた。
「すごい……!」
 景色を眺めるよりも先に、セリカは目を細めて風の気持ちよさに感じ入った。パタパタと全身に纏った衣を弄ぶ冷たい流れ。心に溜まった澱を吹き飛ばしそうな勢いである。
 空気が澄んでいる。しかし高山病になるほどの高度ではなく、なんとも快適だ。
「多分父上は、私がここで遊ぶのが好きだったことを憶えていたのだろう」
 細めていた目を開けて、エラン公子の声のした方へ目線を移す。いつの間に右横に立たれたのか。腕の長さほども離れていない。こういう立ち位置だと表情が見えるな、とふと思った。
「……そうだったの?」
「昔の話だ」
 短く答えた青年の横顔は、笑ってこそいなくとも、凪いでいた。
 何か邪魔してはいけないものを見た気がして、セリカは視線を正面に戻した。
 斜面に沿って展開する都、ムゥダ=ヴァハナ。
 山のこちら側――向いている方角は北東だっただろうか――はこの地点から麓までを建築物に覆われている。高度に差があるため、麓までを一望すると、全てがとても広くて遠いように感じる。夜と言えどもまだ活動している人が多いのか、地上はそれなりの明かりに彩られていた。
 不思議な光景だ。
「あんたは最後にいつ公都に戻ってきたの?」
 ぽつりと質問を漏らす。
「丸一年は経っている気がする」
 その返答に、ふーん、とセリカは興味のないふりをした。
(ルシャンフ領って、どんなとこだろ)
 街道も通らないような未開の地と父が説明した気がする。聞いた時は鵜呑みにしたが、今になって考えてみれば、どうにも想像が付かない。未開の地に領主が任じられるだろうか。
 ぐるりと展望台を回って塔の逆側からの景色を眺めに行くと、そこには強固そうな防壁があった。
 背後では山が続く。月明かりに照らされる稜線は壮大で、異なる世界のように美しい。美しくて、どこか恐ろしい。
 肌寒さと畏怖に身震いした。
(檻の形が変わっただけよ)
 生まれ育った都と、本質は一緒だ。そしてきっと、これから暮らさなければならないルシャンフ領だってそうだ。
 姫とは国の象徴。着飾られ愛でられ、果てには結婚して次世代の愛でられるべき対象を生み出す一生を、全うするだけ。
(あたしはどこに行けば馴染めるかな)
 振り仰いだ夜空が哀愁を漂わせているように見えるのは果たして気のせいか。やるせなさに浸る自分を情けないとも思うが、浸りたい気分なのだから仕方がない。
 そんな時だった。この情動に同調したかのように、細やかな旋律が夜空に放たれた。
 透き通った、管楽器の音。
 近い。
 セリカは踵を返し、都の見える北東側へと戻った。そこでは、エラン公子が手摺りに背を預けて胡坐をかいていた。典雅さにこだわらないリラックスした姿勢で、細長い横笛を唇に当てて、ゆったりとした曲を奏でている。
 奏者のこれまでの言動や態度と結び付かないような、情緒に溢れた演奏だった。緩急や強弱、個々の音の震え方にまで気を遣われているのがわかる。
 聴く者を夢心地へ誘う音色――セリカは手摺りに指先を滑らせ、見えない糸に手繰り寄せられるように歩を進めた。あと一歩というところで、足を止める。
 近くで聴くと益々神秘的な響きだ。目を瞑り、聴覚と触覚のみに身を委ねる。振動が肌に伝わり、毛先を撫でる。
 呑み込まれそうだ。
 首筋がぞくりとしたのは、気温のせいではない。胸になんと呼べばいいのかわからない波が広がった。それは指にまで伝わり、震えと変わる。震えを抑え込もうと拳を握ったがあまり効果は無かった。
 やがて曲を吹き終わると、青年は静かな眼差しでこちらを見上げる。夜の暗さだと灰色ばかりが際立つ瞳だ。
 ――なにこれ。
 相変わらずよくわからない気持ちが胸に渦巻いた。訊きたいことが色々あった気がするのに、うまく言い出せなくて、一呼吸した。
「それって、鉄の笛?」
 人ひとり分の隙間を空けてセリカも床に座る――顔が見える側に。
 エラン公子は手に握った鉄の筒を見下ろして、淡々と応じた。
「お前の実家から送られてきた鉄の一部は個人で使うようにと大公家に分けられた。私は宝剣やナイフは間に合っていたから……」
 職人には、楽器を作ってくれと頼んだらしい。出来上がったものは全長1フット半(約46cm)と程よい大きさなため、なんとなく懐に持ち歩いているそうだ。
「結構かっこいいじゃない」
 素直に称賛した。笛の表面は艶の無い黒色に塗られていて、強かそうな存在感を讃えていた。
 森で遭遇した時も薄っすらと感じたが、この男とは美的感覚或いは嗜好が合うのかもしれない。会ったその日に何がわかるのかという話だし、認めるのも癪だが。
「木製の笛しか触ったことないわ」
「吹いてみるか?」
 青年がスッと掌を返したのに伴い、笛の吹き口がこちらに向けられる。
「いいの? じゃあちょっとだけ失礼――って」
 セリカは手を伸ばしかけて、硬直した。無意識に吹き口に視線を落とす。
 彼はめざとくそれに気付いた。
「ああ、唾液が気になるのか」
「だっ……仮にも公子さまでしょ、唾液とか言わないでよ」
 そこまで具体的に考えていたわけではない。家族か同性ならいざ知らず、血の繋がらない異性とスプーンやコップは共用しないものだから、同じ笛に口をつけるのにも違和感を覚えただけだ。
「唾液は唾液でしかないだろう。ツバと言いかえたところで何も変わらん」
「なんか汚い感じがするのよ! 黙って拭いてくれればいいのに!」
「わかったから大声を出すな。地上の者が不審がる」
 眉をしかめた後、エラン公子は服の裾でゴシゴシと吹き口を念入りに拭った。そんな高価そうな衣を雑巾のように扱っていいのかと突っ込みたいのを、セリカは我慢する。
「ほら」
「ん、ありがと」
 手渡された笛は意外と重くなかった。
(でもやっぱり鉄らしく、冷たい)
 セリカは指穴を求めて筒状の楽器を手の中で翻した。それから、穴の位置に合わせて指の広げ方をざっくり決める。
 ついさっき見たばかりの姿勢を思い浮かべ、真似た。
 いざ笛を持ち上げてみると――
 ――最初に思っていたほど、表面が冷たくなかった。正確には、指穴付近にほんのりと温もりが残っているのである。数秒前まで人肌に触れていたのだから当然と言えば当然だが、妙な心持ちになる。
 気を取り直して、唇を吹き口に当ててみる。
 音が出なかった。
 もっと強く息を吹きかけてみるが「フー」と空ろな効果音だけが返る。そういえば自分は縦笛しか奏でたことが無い、と遅れて思い出した。
「…………」
 落胆して黙り込み、笛を口元から下ろすと、隣の青年が落ち着いた語調で助言してきた。
「少し下にずらして、穴の上を通過するように細く息を吐け」
 唇は吹き口に密着させるのではなくのせるのだと、彼は自分の指を笛代わりにして示した。
 言われた通りにして吹いてみること、数回。三度目で笛の音らしい応答があった。それから指の位置を動かして音域を確かめる。音色は改善の余地ありだが、簡単な旋律を吹くくらいはできた。
 楽しい。この少しずつ何かを習得する手応え、新しいことに挑戦する面白さは普遍的だ。元々セリカは公女の嗜みとして音楽の心得はあった上、純粋に聴くのも奏でるのも好きであった。
 夢中になって鉄笛を堪能した。
 そうして数分ほどやっている内に、腕や指が疲れた。息も切れてきている。この辺りでやめにしようと思って笛を膝上に下ろすと、その時になってやっと、セリカはすぐ傍から注がれている視線に気付いた。
 首を右に巡らせる。エラン公子は胡坐をかいた膝の上に右肘をのせ、更に右手で作った拳の上に頬を休ませていた。やたらくつろいだ体勢でありながら、表情はまるで、興味深いものを観察する時のそれだった。
「……えっと、そんなに気になるくらい下手だった? それともあたしの顔に何かついてる?」
 居心地が悪くなって、問うた。
「表情がよく移り変わるなと思って」
「それは、褒めてるの」
「事実を述べているだけだ」
「あらそう」
 つい目を背けてしまった。とりあえず手の中の笛を返そうと持ち上げると、端からドバッと何かが零れた。おそらくそれは吐息の熱と湿気から生じて溜まった滴だったのだろう。
 幸い服にはかからなかったが、地面にできた小さな水たまりを見て、何とも言えない気分になる。
「さっき唾液が汚いとかさんざん喚いておいて……なんか、すみません……」
「別に。よくあることだ」
「それは、そうだけど」
 吹奏楽器はしばらく吹いているとこうなることはセリカとて知っている。しかし普段は弦楽器ばかり弾いているため、失念していた。唾液やらの滴の制御は不得手で、こまめに流し出すこともしなかったのである。
「こうすれば大体流れ出す」
 公子はセリカの手から鉄の筒をひったくり、斜めに持って片手の掌を叩いた。
「アリガトウ……ゴザイマス……」
 微妙な気持ちでその作業を、そして青年が笛を雑に拭いて懐に仕舞う動作を見届けた。
 ほどなくして静寂が訪れた。どこかから梟の鳴き声が響いて来る。
 セリカは両膝を抱いて、空を見上げた。
「星が綺麗な夜ね。光の川みたい」
 思ったままの感想を口にするも、話し相手からは反応がなかった。
(相槌のひとつもくれないの)
 半月と星、今夜は稀に見る圧倒的な輝きなのに。かといって、確かに青年の視線は空に釘付けになっていた。いや、真剣そうに見つめるあまり、それはまるで睨んでいるようにも見えた。
「訊いてもいいかしら。いま、何を考えてるの」
「……人は死後にその魂が天へと昇り、『神々へと続く道』に送られるという」
 今度は返事があった。
「あれを天へと続く道だとすると、人は光の上を歩けるのか?」
「魂に重さは無いんでしょう。歩けそうなものだけど」
「だとしてもだ。神々は本当に人間に会いたいのか。人間を見捨てたんじゃないか」
 突拍子もない話に、セリカはしばし呆気に取られた。
 神々の意図について深く考えたことはない。この大陸を創りたもうた偉大なる存在はとうの昔にどこか遠くへ去っているというのが、一般的な認識なのである。
「捨ててはいないわ。だって、人々を導くようにって、世界を浄化するようにって、聖獣を遺したんでしょ」
 と言っても、伝承によれば聖獣は数百年に一度しか地上に顕現しないそうだが。
「その聖獣は尻拭いをしているだけじゃないのか。人間の世話が面倒になって地上を去った神々の。そもそも数百年に一度しか蘇らないのも、世界中を飛行するのが大変だからと、聖獣も面倒臭がっているのかもしれない」
「あんたいつもそんなこと考えながら星を観賞してるの」
 呆れてそう言うと、彼はむっと口元を引き結んだ。
「いつもじゃない、たった今考えた。お前が光の川などと言うから」
「えぇ、あたしのせい?」
「そうだ」
 きっぱり断言する青年の横顔を、セリカはやはり微妙な気持ちで見やる。
 ――変な奴。
 出会った時から、この感想は一貫している。
(気を張らなくてもいいのはわかった)
 こんな人となりであったのか、「未来の夫」。
 慣れない距離感である。歯に衣着せぬ話し方をしても怒らないどころか、同様の率直さで返してくる。淑女を壊れ物のように扱おうとする男よりかはよほど接しやすいが、この国の慣習には添わないのではないか――。
「母上は神々の元に辿り着けただろうか」
 ぽつりと呟いて、エラン公子が立ち上がった。その後ろ姿を三秒ほど呆然と見上げた。
(それってつまり)
 第五公子を産んだ妃は既に他界しているということになる。
 孤立、という言葉が脳裏を過ぎる。それは知り合いの居ない異国の地に嫁がされた自分の心細さとは、似て非なる孤独。
 母親が死んでいるという事実だけでそこまで想像するのは飛躍しているかもしれない。青年が立ち去る際に発生した微風から漂う物寂しさは、全てセリカの思い込みかもしれない。
 ――思い込みであれば、いい。
「塔に来てから充分に時間が経っているな。これで親睦を深めたことにはなるはず」立ち止まり、彼は何でもなさそうに呼ばわった。「戻りましょうか……『殿下』?」
「あんたに殿下って呼ばれるとサムイわ。セリカ、でよろしくお願いします」
 何でもないように話しかけてくるのならこちらも同じように応じればいい。公子は、わかった、とだけ返事をして再び歩き出す。
 セリカも急いで立ち上がり、後に続いた。
 吹き抜ける風がいつの間にか随分とひんやりとしていた。春だと言っても、まだ夜は冷える。建物の中に戻るには良い頃合いだ。
 螺旋階段を下りるのは上るよりもずっと楽で、それぞれの靴は干しレンガを小気味よく打ち鳴らしていった。
 手摺りの無い階段を慎重に下りながら、セリカはぼんやりと紫色の布を目で追う。
 ひらり、ふわり。
 カーテンの端みたいに揺れるそれは右の耳を見せては隠し、見せては隠す。大きな滴型の耳飾を垂らしている左耳と違って、右耳はまっさらである。
「その布――」
 なんとなくだった。なんとなく訊きたくなってそのまま質問が口をついたのである。後になって思い返せば、そんなに答えが知りたかったわけでもなかった。
「寝てる時もしてるの?」
 先の方からひと際大きな足音が響いたかと思えば、それきり靴音が止まった。その間にセリカの方が追い付いてしまう。二人して階段の途中で立ち尽くすこととなった。
 ちょうど合間に窓がある。
 薄明りが、右回りに下る階段と一人の公子の輪郭を映し出していた。
「さすがに寝る時は被り物を脱ぐ」
「……そうよね」
 思わずこちらが声を潜めてしまうほどに青年は無表情だった。
「それじゃ、これから……けっこん、するんだから――今後は、隠してる側の顔も見るかもしれないって、こと……よね」
 他人に触れられたくないところに触れてしまった、そう勘付いていながらも止められなかった。根底にあったのは好奇心だったかもしれないし、今日の間に多少は距離を縮められたという安心感と自惚れだったかもしれなかった。
 ――容認しがたいが、己の内にある戸惑いだったかもしれなかった。これから最も近くに居るであろう人間の素顔を知らずに生きなければならないことと、その素顔自体への、邪推や不安。
「さあ」
 返答はそっけない。青灰色の瞳が警戒するように細められた。
 ――そんな、他人事のように言わなくても。
(他人事じゃないわ。あたしにとっても、あんたにとっても。そうでしょ、『婚約者』さま)
 鼻息荒く、拳を握り締めた。
(踏み込んでやる)
 自分にはその権利があるはずだ。
(秘密に怯えて暮らすのはまっぴらごめんよ。気まずいし、周りにもきっと陰で笑われる)
 あの様子だと、少なくとも他の公子たちは布の下に何があるのかを知っているはずだ。自分だけが知らないのは不合理ではないか。人づてに聞くのはマナー違反、ならばこうして訊き出すしかない。
「どうせいつかは見ちゃうなら、その時が今でも変わらないわよね」
「…………」
「そう思わない?」
「断る」
 催促は撥ね退けられ、目も逸らされた。ここまできて後に引けなくなっていたセリカは、知らず声を荒げる。
「何でよ。そんなにひどいの」
「ひどいかどうかは主観、見る者次第だ」
「それなら早い内に慣れさせてよ。これから毎日見なきゃならないかもしれないのに」
 セリカは自分がただ意固地になっていることに、気付かないふりをした。エラン公子の声が段々と低くなっていることにも。
 こんなことは早々にめるべきだった。大人しく諦めて、日を改めるべきだった。いつか彼が自ら言い出してくれるのを、根気よく待つべきだった。
 そのどれもをできなかったのは、環境の変化で気が立っていたからかもしれない。元より堪え性が無いからかもしれない。
「ねえ、女々しいんじゃないの。男ならどんな顔でも堂々としてればいいじゃない」
 自分の声が塔の中を反響していった。
 あっという間に余韻が消えてなくなったが、その後の静けさに、ぞっと背筋が冷えた。
 ――失言だ。
 自覚したのは、振り返った彼の表情を視認する数瞬前だった。
 呼吸音がしたのである。この大袈裟なまでに引き延ばされた吸い込み様は、人が激情を抑え込まんとしている時の、それだ。
「ご――」
「お前は」
 反射的に謝ろうとして、遮られた。瘴気すら渦巻いていそうな質感を持った一言に、戦慄した。
「お前は初対面の人間に叫ばれたことがあるか」
「違っ、あの」
 心臓が早鐘を打つ。続く言葉が出て来ない。
「顔を見せただけで子供に泣かれたことは? 流行り病に罹患した者を見るように、遠巻きに憐れまれたことが無いだろう!?」
 月に照らし出された表情には底知れない怒りが宿っていた。
 それに、悲しみも――。
「容易く言ってくれるな、私は堂々としていたさ! けど周りが勝手に反応する……だから隠した、憐れまれるのにも怖がれるのにもうんざりしたからな!」
 忌々しそうに吐き捨てて、青年は足早に階段を駆け下りる。
「あ……」
 ――待って。ちがう、違う、そんなつもりじゃなかった。
 棒立ちになっていたのはほんの僅かの時間。もつれる足を引きずって、後を追った。
 けれども塔を出た頃にはもう遅かった。
「タバンヌス、公女殿下を部屋まで見届けて差し上げろ」
「承知」
 従者に命令を下して、第五公子が颯爽と立ち去る。一度もこちらを見向きせずに。
 ――まって! と、その背中に向けて手を伸ばした。
 エラン公子が呼びかけに応えたかどうかを、知ることはできなかった。大きな人影が間に入ったからだ。
 タバンヌスという男は二十代後半くらいだろうか、革の鎧を着込み、腰には刃物と思しきものを何本か佩いている。彼は深く頭を下げてから、抑揚のない声で進言した。
「僭越ながら発言いたします、公女殿下。夜も更けておりますゆえ、寝室にお戻りくださいませ。主に代わってお送りいたします」
「……ええ、そうね。お願いするわ」
 どんなに目を凝らしても、巨体の向こうには裾を風になびかせる青年の姿が見えない。観念して、セリカは戦士風の男の申し出を受けた。
 行き方は憶えていなかったが、数歩後ろを無音で歩くタバンヌスが時折「ここは右です」「階段を上がってください」とヒントをくれるので、難なく自室に到着できた。しかも運良く誰ともすれ違わずに。
 部屋の入り口で、送り届けてくれた男性と会釈を交わす。
「主に代わってご挨拶いたします。『良い夜を』」
「……ありがとう。『あなたも』って、伝えてくださるかしら」
「謹んでお断りいたします。では」
 瞬間、射るような鋭さで見下ろされた。思わず身構えたが、何をするでもなく長身の男は廊下の陰に溶けて消えた。
(さすがはあいつの従者って感じ……)
 不遜と捉えられかねない物言いと行動だ。こちらが訴えれば罰せられるかもしれないと言うのに、そうならないとわかっていたのか、それとも罰せられても構わないような心構えであったのか。
 セリカは寝室の中に入り、後ろ手に戸を閉めた。暗闇の中に、溜め息を吐き出す。
 階段でのひと悶着を、タバンヌスは聞いていたのかもしれない。主人に害を成す存在とみなされたのだろうか。だとしたら残念でならない。
 セリカの部屋と繋がる奥の部屋から物音がした。それは一気に近付いてきて、引き戸へのノックとして収束した。
 「入っていいわよ」と声をかけると、寝間着姿のバルバティアが蝋燭を持って転がり込んできた。きっと寝付けずに待っていてくれたのだろう。
「姫さま、おかえりなさい! ご無事でしたか。何も変なことはされませんでしたか!?」
 興奮を隠さずにバルバがまくし立てる。
「大丈夫よ、何もされてないわ」
 そう、変なことは何ひとつされていない。むしろ、親切に笛を貸してもらったり吹き方を教えてもらったりしていた。何かしでかしたのは自分の方だ――思い出すと、鼻の奥がツンと痛む。
「本当に……?」
 重ねて訊かれても、セリカは心中を気取られないように無言で頭を振った。今喋ろうとすれば声が震えそうだ。察しの良い侍女は、その所作だけでどうすべきかを判断した。
「では姫さま、着替えはご自分でできますね。わたしは、気分が落ち着くような温かいお茶を淹れてお持ちします。お疲れ様です」
 頷きで同意を伝えると、バルバは満足そうに微笑んで、手持ちの蝋燭を壁の燭台にさした。
 静かに引き戸が閉まる。
 ひとりになった途端、堰を切ったように色々な感情が溢れだした。セリカは重苦しいカーネリアンとガーネットの首飾りを乱暴に外し、衣服を次々と脱ぎ始めた。
 あんなに苦労して巻き付けた被り物はあっさりと剥がれ落ち、幾重に重ねたスカートもズボンも、呆気なく床に脱ぎ捨てられる。
 先ほどまで身に着けていた煌びやかな布の山を寝台横に蹴ってどかせて、セリカは下着姿でベッドに倒れ込んだ。
 滲み出る涙を何度か手の甲で擦る。ところがどんなに堪えても、ぽろぽろと溢れ出して止まらない。
 このままでは崩れた化粧が枕を汚してしまう。のっそりと起き上がり、乱れた髪を指先で梳きながら、顔を拭えるものを探した。
(泣いちゃだめだ)
 そんな資格が無いのだから。
(傷付いたのは、あたしじゃない)
 故郷を発って数十日、やっと目的地に着いたのが今日。多くの出来事があったと言うのに、ふと目を瞑ると、一番にあの表情と瞳が瞼の裏にチラつく。
 胸が張り裂けそうに痛かった。

_______

 夜も更け、都中が静まり返ってしばらく経った頃。
 セリカラーサ・エイラクスは開け放った窓の枠に両腕と顎をのせていた。
 宮殿内はすっかり静まり返っている。巡回する衛兵の姿もまばらになり、虫の鳴き声を除けばほとんど生き物の気配がしなくなっていた。
(眠れない……)
 始めこそはバルバが淹れてくれた茶が効いてぐっすり寝れたものだが、二時間が過ぎた頃に目が覚めてしまったのである。しかも寝覚めがすっきりとしていて何やら元気だ。
 ひとたび覚醒してしまえば、意識はたちまち憂いに支配された。違うことを考えようとしても、本を読もうとしても、無駄な足掻きであった。
 早く謝らねば――という焦りだけがどんどん膨らんでゆく。
 いざまた会えた時を想定して、謝罪の場面を練習してみたりもした。すぐにいたたまれなくなって、止める。
(それ以前に、修復不可能じゃないかしら)
 あれほど怒らせたのだから、式当日までもう会ってもらえなくても不思議ではない。
 まだ何も始まってもいないのに、終わってしまったのだろうか。特別な絆は無理でも、せめて良好な関係でありたかったのに――気まずいままでこれから数十年を過ごすことになるのかもしれない。最悪、破談になって国に追い返される可能性だってある。
(どうしてあんなこと言っちゃったの)
 隠されたものを暴きたい欲求か。あれは熟考しない内にうっかり出てきた言葉だったのだろう。
 落ち着いて省みれば、目に見えぬ秘密にそこまで怯えていたわけではない。どれほど恐ろしい素顔だろうと工夫すれば見ずに済むし、どうとでもなりそうなものだ。
 いずれにせよ人の心の傷を抉って良い理由はどこにも無い。
(あー! ひとりでうじうじ悩んでも答えが出ないし、もっと落ち込むだけだわ)
 ――散歩にでも行こう。
 強固な防壁に守られている宮殿だ、夜中に敷地内を徘徊しても安全なはず。
 部屋着姿のまま、バルバが整理整頓してくれた箪笥の中から適当な外套を見繕って肩に羽織る。被り物は要らないが、寒さ対策として外套のフード部分だけはしっかり被る。
「よ、っと」
 小声で気合を入れながら、窓枠に手をかける。この窓はガラスの張られていない、両開きの木製の戸がかかっている種のものだ。
 セリカにあてがわれた部屋は中庭の一角に面している。窓の外をかれこれ十五分は眺めていたが、まるで人が通らなかったのである。つまり窓から庭へ抜け出す分には、誰にも見咎められる心配がない。
 たかが二階、壁伝いに地上に下りられる高さである。後ろ向きに身を滑り出させて、壁を軽く蹴った。
 両手両足をついて着地する。多少の衝撃が関節を襲うが、後を引くほどではない。
(上出来だわ)
 沈んでいた気持ちがほんの少し上昇する。
 夜空はまだ晴れ渡っていて、蝋燭を持たなくても足元が見える。
 まずは中庭の方へ足を向けるも、気が変わって前後回転した。セリカ自身から発せられているプリムローズの香りとは別の、爽やかな花の香りが鼻孔をくすぐったからだ。
 これはマグノリアではないだろうか。セリカが生まれた時期に重なって咲く花、つまりはまだ早いはずだ。
(季節外れに咲いてるのかしら?)
 見てみたい。その気持ちに導かれるままに、香りのする方へ歩んだ。
 建物を回って匂いを辿った先は、防壁に向かっていた。と言っても壁が背後に見えているだけで、それほど近付いてはいない。
 五十歩ほど歩いたら、目当ての巨木と出会った。
 セリカは口をあんぐりと開けてそれを見上げる。
 所狭しと白いマグノリアの蕾をつけた木が、佇んでいた。楕円のような形をしたひとつひとつの蕾は、おそらくセリカの掌の上には収まらないほどに大きい。
 幻想的な輝きだった。まるでこれまでに浴びた月の力を燐光に変換して、再び大気に放っているような印象である。
「きれい……」
 近付き、思わずそう口に出していた。満開であればさぞや素敵だろう。
 信じられない異変は、その時に起こった。
 ざわり。
 木の葉や花の蕾が震える。マグノリアは、想像をなぞるように一斉に花開いた。
「え、ええ!?」
 こんなことがあるのかとセリカは仰天した。美しかった光景に不気味さが差し込まれる。
 後退った一瞬の間に、気付く。
 何かがおかしい。そう、花弁から青白い燐光のようなものが立ち上っているのである。それに、大気に漂う匂いが――
 ――汚濁、腐敗。
 うっと呻いて口元を覆った。耐え難い悪臭に襲われ、胃腸がぎゅっと捩れる。
(普通の木じゃない!)
 それがわかったところで四肢の反応が追い付くわけでもなく。逃げようとして、足が何かに引っかかった。
 後ろに倒れつつ、目は素早く問題の箇所を捉える。
 引っかかったのではない。絡め取られたのだ。
 人面のようにも見える凹凸を表面に浮かび上がらせているそれは、木の根、なのだと思う。
 凄まじい力で足首が引っ張られた。
 世界が逆転する。
 悲鳴を上げる間もなく、セリカの喉は、ひゅっと嗚咽を漏らしただけだった。
 地面が遠ざかってゆく。
 逆さに滲んだ視界の中で、羽織っていた外套がヒラヒラと長い時間をかけて地面に舞い落ちるのを見た。
 放心した。
 風になびく髪、ぶらんと垂れ下がる両腕、ずり落ちる衣服。
 なんて無様な格好だ。死がすぐそこに迫っているというのに、セリカはそんなことしか考えられなかった。
 頭が展開に追いつかない。
 何故自分は逆さに吊るされているのだろう。この木の樹皮には何故人面が浮かんでいるのだろう。何故、どうして、根幹に人間の頭よりも大きな目玉らしきものがあるのだろう。
 目玉がギョロリとこちらを凝視している。瞼らしきものが恍惚と細められた。
 笑い声がする。
 化け物からではない、これは自身の喉から発せられているものだ。溢れんばかりの恐怖がこうして発散されているのだ。
 視界が揺れた。足を拘束する木の根が動いているらしい。
 刹那、思考回路が鎮まった。
 左手を眼前まで持ち上げる。手首を回る貴金属の細い腕輪が煌めいた。大公家を、祖国を思い出させる輝き。
 ――死ねない。たったひとつの役目も果たせずに、死ねるはずがない!
「この、化け物が! くそ、くらえ」
 思いつくままに罵倒を浴びせながら、身を捻る。木の根を解こうとして手を振り回し、空振りする。
(いやよ、嫌! こんなところで、死んでなんか、やらないんだから!)
 朝まで発見されないかもしれない。異国の地で、夜中に人知れず殺された公女として人の記憶に刻まれるかもしれない。
(間抜けにもほどがあるわ!)
 祈るような気持ちで暴れる。
 いつしか花弁が舞い始めた。一斉に花開いたのと同様に、一斉に枯れ始めたのだ。花があったはずの箇所に、代わりにあの気色悪い目玉が残された。
(目玉の木だ……)
 噎せ返るほどの腐臭の中、胸の内の闘志が弱まっていくのがわかる。
 足首に巻き付いていたはずの木の根は今や腹まで這っている。人面は、餓えと憤怒の形相で歯を見せていた。
 気持ち悪い。眩暈がする。吐き気を堪えようとすると、涙が出る。固く目を閉じておぞましい感触に耐えた。
 ――食べられたくない――
 嗚咽した。
 けれども何故かその音は耳に届くことがなく。より大きな、別の音に埋もれた。
 たとえるならば瑞々しいトマトを刺した時の音と、ソーセージを切る時の音。それらが同時に聴こえたのである。
 次いでセリカの身は激しく振り回され、落下した。
 地面を打つ衝撃。直後、胴や脚を圧迫する異形のモノが離れた。
 数秒の間に何が起きたのか――視界が白く点滅していて何も見えない。吐き気と痛みと耳鳴りが同時に襲ってくる。
 そんな中、聴覚が最初に回復した。
「壁の方にも破片が散った。追って殲滅しろ」
「御意」
 聞き覚えのある声が、短い会話を交わすのを聴いた。その後はまたソーセージが切られる音が続く。何かの液体が噴き出すような音も。
「っつ……」
 何度か瞬きをした後に視覚が回復した。
 人影が化け物に向かって、腕の長さほどの曲刀を振るっている。洗練された動作で次々とうねる枝をかわしては切り落とし、目玉たちを的確に刺していく。剣士は徐々に距離を詰めて、大元と思しき根幹の目玉に斬りかかった。
 恐ろしい時間はそれで終わるかのように思えた、が。
 振り下ろされた剣が目玉の中に沈み、両断せんとする途中。一歩離れた場所で痙攣していた異形の枝のひとつが、今際の力をもって跳ね上がった。
 死角、から。
「あぶない!」
 セリカが叫んだのと同時に、人影が避ける。しかし彼は剣を手放してしまった。次の攻撃に備えて身をくねらせる枝をどう倒すつもりなのか、懐に素早く手をやって跳躍し――
 ――短い棒状のもので目玉を刺し潰した。
 更には化け物の破片が完全に動かなくなるまで棒を抑え込んでいる。
 あまりに凄惨な場面であったため、セリカは顔を伏せて両耳を覆った。十まで数えてから再び人影の動向に注目する。
「強靭だな、ゼテミアンの鉄。折れも曲がりもしない」
 ドロドロとした紫黒色の液体を滴らせる鉄笛を、青年は感心したように眺めている。
「まさか……それ、また吹く気――」
「熱湯で洗えば問題ない。……多分」
 緊張感のない声が聴こえた。
 とうとう胃の中身を吐き出さねばならなくなったセリカは、それに答えることができなかった。
 どれほどの間そうしていたかはわからない。嘔吐の衝動が沸き起こってももはや何も出なくなった頃合いに、ようやっと周りに意識を向ける余裕ができた。
 人の気配がすぐ傍にある。セリカは信じられない思いで顔を上げた。
 てっきり居なくなっているだろうと踏んだのに、青年はまだ居るどころか、歩み寄ってきた。いつの間にか拾っていたのか、セリカが落とした外套をかけ直してくれる。
 肩や背中にかかった外套の重みが、心地良い。
(こんな姿、誰にも見られたくないのに……何でよりにもよって、あんたが)
 羞恥で頬に血が昇る。顔を逸らそうとするも、視界の中に動きがあったので中断する。
 青年が己の帯を解いていた。ヌンディーク公国の伝統的衣装は、腰を何周か回って巻く、幅広い帯を使用する。彼はそれを手で平らになるよう整えてから、差し出してきた。
「何の、真似よ。汚れる……」
 情けなくて泣きたくなる。今度こそ顔を逸らし、あっち行って、早くひとりにして、と心の中で念じた。
「自分の体調よりただの布を心配するのか」
 ――願いは通じず。
 気配が更に近付いてきた。鼻先に無地の布を押し付けられる。
「だっ、て」
 セリカは嫌々エラン公子と目を合わせた。しゃがんだ姿勢からこちらを覗き込む表情には、苛立ちが浮かんでいる。
「いいから拭け。臭いを嗅いだら、また吐くぞ」
「……」
 吐き出せるようなものは尽きたはずだが、言わんとしていることはわかる。
 諦めて従った。持ち主が強要するのだから、遠慮しても仕方がない。面積は余るほどあるのだと開き直って、鼻や口周りはもちろん、額や首周りの汗まで拭った。
(いいにおい)
 微かな温もりの残る帯には、香が焚き込まれているようだった。薬草と香辛料を混ぜたものだろうか、心を落ち着かせる類の香りである。
 ひとしきり拭き終わって、汚れた部分が内に収まるように帯を畳む。
「あんたもここに居たら……あてられるんじゃないの」
 大分気分が良くなり、言葉をまともに紡げるようになっていた。相変わらずしゃがんだままでこちらをじっと観察する青年に、セリカは躊躇いがちに話しかける。
「平気だ。鼻から息さえしなければ、嗅がずに済む」
「ならいいけど……」
 化け物から噴き出す得体の知れない体液が服の裾にかかっても平然としている者が、人間の吐瀉物程度で騒がないのには妙に納得できた。
「あの、まさか……あたしが立ち上がるのを待ってたりする?」
 またしても躊躇いがちに問いかけてみる。何故この場を動かないのか――そのことに思考を向けてみると、訊かずにいられなくなったのだ。
「そうだな。常よりも時間がかかっているな、と思っている」
「実は腰が抜けて立てないんですごめんなさい」
 口に出すのが恥ずかしいので早口でまくし立てた。たとえ、これ以上に恥のかきようがないとしても。
「ああ、そういうことか」
 その可能性には思い至らなかった、とでも言わんばかりに彼は拳でぽんと掌を叩いた。そして両手を上向きに翻し、こちらに向かって差し伸べてきた。
 セリカはその手を見つめてしばし思考停止した。腰を上げて立つ、たったそれだけの行為だと言うのに。
 ――手助けを得られるなんて願ってもなかったことだ。
 無意識に腕が伸びる。けれども己の右手で握り締めている帯が目に入って、逡巡する。一応拭いたとはいえ、手から汚れが移る――みたいなことを懲りずに考えていた、その隙に。
 肘を掴まれた。声を上げられるよりも早く、否応なしに引っ張り上げられる。慌てて肘を掴み返す。
(男にしては細めの体格なのに、なんなのこの力!)
 おそらくは立ち上がり方にも関連している。腕で引っ張ったのではなく、しゃがんだ体勢から足腰や脚力をバネにしたのだ。
「……ありがとうございます」
 俯き加減に、礼を呟いた。立ち並ぶと目線が近い。まだ直視するには心の準備ができていないのである。
(支えがないと、崩れそう)
 いざ地に足を立ててみると自分の不安定さを思い知らされた。背は丸まり、手足が小刻みに震えている。
「魔物に遭遇するのは初めてか」
 そう訊ねる声は、思いのほか柔らかい。
「遭遇すること自体は初めてじゃないけど、あそこまで大きいのは見たことなかったし、丸腰だし。一人の時に相対したのは……初めてかも」
「都の結界が綻んで、入り込めたんだろうな。稀にある。然るべき人間に修繕するように伝えておくから、明日からはこういうことがなくなるだろう」
「そうしてもらえると安心だわ。ともかく、夜中に出歩くのは当分控えることにする」
 ――怖かった。
 後になって冷や汗が滝のように噴き出る。震えが止まらない。手を放さなきゃと思えば思うほど、握る力が勝手に篭もる。
(いい加減に放すのよ)
 己の両手を睨んで、指に命令を送る。全部ほどけるまでに十秒は要した。
 ふいに上体が傾いだ。
「――!」
 前のめりに倒れかける。肩に何かが当たった気がした。呆けていたのが果たしてどれくらいの時間だったのか――背中がさすられている感触で、我に返る。
「ちょっとコレはいったいナニをしていらっしゃるのですかな!?」
 動揺のあまり、共通語がおかしくなる。通常ならば抑え込めている訛りですら解放してしまった。
 だがこの体勢に関しては、物申さねばならない。
(抱擁とか、親しい人とすら滅多にないことなのに!)
 むしろセリカには抱き合うような仲の人間がほぼいない。敢えて挙げるなら侍女のバルバティアくらいだ。
「お前が何かに縋りたそうな顔をするから」
「……」
 奇妙だった。頭の後ろから、と言うほど後ろでもなく。発生源は耳に近いけれども、向きの都合上、声は遠ざかっているように聴こえる。
 その息遣いはとても落ち着いていた。
 鼓動が伝わる。伝わってくる。意識し出すとますます地に足の付かない気分になるが、同時に、神経を尖らせていた恐れの名残がほぐされていった。
 発想を換えてみよう――これなら、目を合わせずに済むのである。
「どうして助けてくれたの。あたし、あんなにひどいこと言ったのに」
 セリカは一息に訊いてみた。
「ならお前は、逆の立場だったら助けなかったのか」
「た、助ける! 当たり前じゃない! たとえムカつく相手でも、命の重さは変わらないわ」
 目を合わせない為にこの体勢に甘んじていたのに、思わず身を引き剥がしてしまった。結局は間近で見つめ合う形となる。
「それが答えだ」
 見つめ返す瞳は静かで、目立った感情を映していなかった。
「つまり、まだ怒ってる……んですよね」
「別に。そんなことは言っていない」
 青灰色の瞳が僅かに逸らされるのを、この至近距離で見逃すはずがなかった。
「う、嘘。どんな叱責も罵詈雑言も受けるわ。気が済むようにして」
「怒りという感情は保つのが面倒だ。疲れる。私は数時間もすれば、大抵の恨みは水に流すことにしている」
「何なのその理屈。あたしに遠慮しなくていいから」
 そこで言葉を切った。必要以上に詰め寄っていると、自覚したのである。
 いけない、これでは過ちを積み重ねるだけだ。だからと言ってどうすればいいのかがわからないので、とりあえず口を噤んだ。
「責めて欲しいのか」
 溜め息混じりにそう言われて、セリカは怯んだ。身を引こうとしていた最中だったのが、凍り付いたようにその場に静止する。
「そういうんじゃなくて埋め合わせがしたい――」
 何か違うなと思い、言い終わらなかった。ただ謝ってこちらの気が済めばいいのではない。これは、相手が受けた傷を消すことはできずとも、できるだけ和らげる為の儀式なのだ。
 新たに深呼吸をする。目を伏せて、意を決した。
「……ごめんなさい」
 深く頭を下げて、言葉を連ねる。
「大変、失礼をしました。個人の事情で隠しているものを見せろと、今後二度とせがんだりしません」
「わかった。もう気にしてない」
 まだ色々と言おうと思っていたのに遮られて、セリカは拍子抜けした。
「え、ほんと? ほんとのほんとに怒ってない?」
「悪気が無かったのはわかる。お前は多分、言いたいことを何でもすぐ言うあまりに弾みで人を傷付ける発言をするが、その直後に反省して、自ら謝罪できる素直さも持ち合わせているのだと……森で髪の色の話をした時に、そんな気はしていた」
 なんとも正確な分析をされて、苦笑せざるをえない。セリカは顔を上げて尚も抗弁しようとする。
「謝る暇も与えずに怒鳴ったのはこちらの非だ。だからこの件はもう忘れろ」
「そんな、忘れろだなんて。謝ったってひどいことを言った事実は消えないし、どうやっても償えるとは思ってないけど――」
「セリカ」
 えっ、と狼狽して目を見開く。
 不意打ちだった。名を呼ばれたのは、初めてではないだろうか。
 眉を吊り上げ、青年は力強く告げた。
「しつこい。私は許すと言っている」
「あ、はい……」
 引き下がるべきだと悟り、セリカは後退った。そしてこの時点で、自分が普通に動けるまでに回復したのだと知る。同様にそのことを理解したエラン公子は、ようやく手を放して踵を返した。
 何やら地面に突き立てられているらしい、二つの細長いものを回収して戻ってくる。つい先ほど、命のやり取りに使った笛と剣だ。
 改めて近くで眺めると、剣と思っていたものはナイフかもしれない。確か、初めて会った時にも持っていた代物だ。ぐにゃりと湾曲した輪郭に合わせて、鞘も湾曲している。
 彼はそれらを脚周りの衣でざっと拭いてから、懐に収めた。
「大雑把じゃない?」
「よく言われる」
 何故だか、その返し方に失笑した。
「面白いわ。あんたって面白い人間なのね、エランディーク・ユオン」
「……お前は忙しない――賑やかだな」
「お騒がせします」
 張り詰めていた空気がいつしか和んでいるのが嬉しくなり、セリカはくすりと笑いを漏らして、羽織っている外套の端を握った。
「さすがに遅い時刻だ、送る」
「うん。ありがと」
 それから、二人で無言で歩き出した。
 作法である三歩後ろではなく並んで歩いてしまったと気付いたのは数分経ってのことだったが、右隣の青年をチラと窺っても、これといって気に留めている様子はなかった。
 建物の通用口が見えてきた頃、ふと疑問に思った。
「ねえ、あの魔物に気付いたくらいだから、あんたの部屋ってここから近いの」
「部屋……?」
 意外な反応だ。何故、この男はそんなに不可解そうに首を傾げるのか。続いた答えはもっと意外だった。
「私は屋内で眠るのが苦手だ。あの辺で寝泊まりしている」
 彼は隣の建物を指差して答える。その指の延長線上を辿って、セリカは目を凝らした。丸っこい屋根が多いこの宮殿だが、水平な箇所もあるらしい。
 返答に窮した。
「屋外だと眠りが浅くなりそう」
 通用口を通り、階段を上がっているところで、なんとか感想を述べる。
「慣れればそうでもない」
「そんなものかしら」
 廊下にも達すると、互いに話し声を潜めてしまう。不用意に誰かを起こしたくないのだ。
 やがてセリカの寝室の前に行き着いた。
 いざ挨拶をしようと体の向きを変えると、青年の目線が部屋の中に注がれているのに気付き、どうかしたのかと問いかける。
「窓から出た方が近道だなと」
「ぶっ」
 セリカは気管から噴き出す笑いの波動を、手で塞いだ。
(同じこと考えるのね)
 動機に少々の差異あれど、やはり気が合うのかもしれないと思った。
 笑われている理由がわからない当人は、訝しげな顔をしているが。
「いいわよ、通って。足元に気をつけてね」
「ああ」
 許可を得た直後、彼は躊躇なく暗い部屋に踏み入る。
 その後姿を急がずに追った。
 不思議だ。与えられたばかりの部屋とはいえ、出会ったばかりの異性に入室を許すとは。
 ほんの少しだけ――他人が他人でなくなる予感に、抵抗がなくなっているのかもしれない。この者には警戒をしなくていいのだと、腹の奥深いところがそう判じている。
 今日という一日を咀嚼している内に、青年が窓枠から飛び出ていた。
 早い。
 セリカは窓まで駆け寄って身を乗り出した。
「エラン!」
 大声になり過ぎないように気を配って呼びかけると、既に歩み去ろうとしていた彼は、布で覆われていない方から振り返る。
 夜の闇の中に、青い宝石が鈍く光って揺れた。
「助けてくれて本当にありがとう! ――――おやすみ!」
 彼は声に出さずに「おやすみ」と答え、軽く片手を振ってからその場をあとにした。
 別れの余韻が深夜の静寂に溶けてなくなるまでセリカは窓際に留まった。深い物思いに耽るわけでもなく、窓枠に人差し指を走らせたりして、埃の有無を確かめた。
 指を裏返してみる。宮殿の使用人かバルバの仕業か、埃も汚れも付いていないようだった。
(寝るか)
 灯りを点けずにせっせと顔を洗って服を着替える。ベッドの柔らかさと温かさは、疲れた身体に染み入った。
 天蓋を見上げてまどろむ。
 明日はどんな日になるのだろう――いつの間にやら不安よりも期待の割合が勝るようになっていた。
(あたしの婚約者は変だけど……いい奴かもしれない)
 そんなことを思いながら、今度こそ就寝した。
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