鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

08. 憂いなく眠れますように①

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 品川の自宅、桑炭の玄関ドアを開いた月落渉は、左手をそっと引いて鳴成秋史を部屋へと招き入れた。

 手を繋いでいる、ずっと。

 粕川春乃が退散した研究室で、気を失う一歩手前だった鳴成の介抱をしている時から、ずっと。
 鳴成の顔色がだいぶ回復して、力なく座っていた身体を真っ直ぐに保てるようになっても、ずっと。
 親族のグループチャットで送迎を請うメッセージを送り、光の速さで元漁師の叔父が手配した車の後部座席に並んで座っている間も、ずっと。

 ずっと、手を繋いでいる。

「どうぞ、先生」
「お邪魔します」

 温かな色味の間接照明だけを灯したリビングへと入る。
 二人とも、ジャケットも脱がずにナイトブルーのソファへと深く座った。

 どちらからともなくため息を吐く。
 しんと降る静寂は、悪魔のいた研究室とは真反対だ。

 肩が微かに触れ合う微妙な距離で、けれど相変わらず指先はしっかりと握り合ったまま。
 しばらくそうしていたあと、月落が少しだけ身体を傾けて鳴成の顔を覗き込んだ。

「車に乗って吐き気とか頭痛はどうですか?ひどくなったりしてませんか?」
「ええ、大丈夫そうです。本調子とは言えませんが、先ほどよりは随分良くなりました」

 嘘ではないだろう。
 青褪めた肌も、不安を色濃く映していた瞳も、歪んだ眉根も、今ではすっかりと消えている。
 耳の上で綺麗に切り揃えられているヘーゼルの髪を撫でると、鳴成は不思議そうな顔をした。

「乱れていますか?」
「いいえ、全然。むしろ綺麗だから触りたかっただけです」

 その返答に、鳴成は握られている自分の右手を持ち上げて言った。

「もう触っています」
「はい。でも、もっと触りたいです。嫌ですか?」

 言葉と共に、年下の男が身体を近づける。
 見つめられる。
 終わりのない漆黒の眼がただひたすらに自分を捕らえて、視線を逸らすのを禁じるように。
 吸い込まれそうで、けれどそれは何も怖くなくて。

「いいえ、全然」

 だから鳴成は、月落の言葉をそっくり真似て返した。
 そんな戯れができるまでに持ち直したことに安堵して、お互い顔を寄せて笑い合う。

「良かったです」

 言質は取ったとばかりに、月落はなおもさらりとした髪を撫でる。
 そのままシームレスに襟足へと人差し指の背を滑らせると、首を竦めて抗議された。
 それに構わず、血管の透きとおる肌に誘われるまま触れていると、繋いでいる手をぶんぶんと振って猛抗議されたので仕方なく諦めた。

「先生、食欲はありますか?」

 時刻は19時前。
 いつもならば4限の学部間共通講座の授業で提出された約100名分のプリントの採点を終え、どこか食事に行こうかと相談しながら片づけをしている時間帯である。
 招かれざる客の迷惑な訪問のせいで紅茶もスイーツも楽しめなかったのは、本当に大迷惑だ。

 せめて何か食べられるのなら、美味しい物で少しでも心を満たしてほしい。
 けれど帰ってきた返事は、大方予想していたものだった。

「残念ですが、食欲は全くありません。きっと何か食べたら……」

 吐いてしまう、と言葉を濁して告げられた。

「紅茶は飲めそうですか?ストレートも、ミルクティーもカフェラテも作れますし、何なら抹茶ラテとかほうじ茶ラテも用意できますよ?」

 鳴成がこの家を訪ねて以来、月落は美味しい茶葉も珈琲豆も常備している。
 先日遊びにきた幼馴染に、独身男性の一人住まいに似つかわしくないラインナップだと驚きつつも感心された。
 その少しあと、彼が自分のカフェでも使っている上質な抹茶や茶葉を送ってくれたので、そこから更に飲み物のメニューが豊富になった。

「抹茶ラテ?」
「あ、興味ありますか?」
「興味はあるんですが……今日は、遠慮します」

 外側は戻ったけれど内側の治癒はまだまだらしい、とその言葉を聞いて月落は思いを正す。
 貧血を起こした時はストレートの紅茶ならば飲めたことを考えると、この状態はとても重症だ。

 それもそうだろう。
 トラウマを作り出した諸悪の根源に急襲されて、平気でいられる者などいるはずがない。
 鳴成はきっと自身で認識している以上に傷を抉られている。
 今は、時間が必要だ。

「先生、今夜はこの部屋に泊まっていきませんか?」

 歩けるようになるまで研究室のソファで休んだあと、今日は早めに帰ろうと提案する月落へ鳴成はとても遠慮がちにこう告げた。

 独りになるのが怖い、と。

 ドアを開けた先の空間に不幸をもたらす存在が待っていたという光景は、息が止まるほどの恐怖体験だっただろう。
 心構えもできず、ふいを突かれて為す術もない。
 涙に濡れて震える鳴成のその姿だけで、ひどいことをされたのだと分かった月落の頭は沸騰しそうだった。

 鳴成の奥深くで眠っていた忌まわしい記憶が掘り起こされたばかりか、それが更に痛めつけられたことに、月落は内心で放送禁止用語をわめき散らした。
 英語で。
 それはそれは聞くに堪えない英単語の羅列だった。

 そしてその嵐を収めたあと、縋るように見つめてくるヘーゼルを覗きこんでこう訊いた。

 僕の部屋に来ませんか?と。

 鳴成の実家や自宅に送っていくという選択肢もあったにはあったが、あえて候補に挙げなかった。
 自分のテリトリーにいて貰った方がイレギュラー対応がしやすい、そう上手く言い訳をして鳴成の了承を得た。

 囲いたかった、というのが本心だが、それは上手く隠して。
 これ以上どんな恐怖にも脅かされないよう、この部屋に、この腕の中に囲いこんでしまいたかった。
 優しさでひたひたにして、鳴成が不覚になるまで甘やかせるように。

「泊るのはさすがに……そこまでお世話になるつもりはありません」

 きっと鳴成は、束の間の癒しを求めて付いてきたのだろう。
 ぶわりと広がって自身を飲み込みそうになる闇から少しの間だけ逃れて、落ち着いた後は一人で耐えられるように。
 けれどここで帰しては、鳴成を悪夢へと差し出すも同然。
 そんなことは決してしない。

 この夜の淵に、孤独で放り出すなど決してしない。

「家主の僕が許可してるので、先生は遠慮せず泊まってください」
「きみが私のお世話をすることに煩わしさを感じていないということは知っていますが、これはさすがに業務範囲外です。今日の私は酔ってもいないですし……」

 昨年の冬、日本酒に酔って意識を失った鳴成をこの部屋に運んだ日のことを言われて、月落はひらめく。
 ならば。

「先生を酔わせたら、遠慮なく泊まってもらえますか?」
「そういうことを言ってるのではありません。どういう思考回路なの?それは」
「既成事実を作ってしまえば良いのかと思って」
「物騒な物言いをしないでください。怒りますよ?」
「え、怒られたいです」
「きみは本当に……」

 何を言っても暖簾に腕押しな年下の男を、鳴成は呆れた顔で睨む。
 そんな表情さえもその男の脳内では、「可愛い」という要素に変換されてしまうことなど露知らず。

「泊ってください、先生。セキュリティ面でもここが一番安全だと思うので」
「確かに、ここはきっと誰にも見つからないでしょうね」
「ええ、僕と関係者しか開けられないので」

 月落が住むここは、単身者用の低層マンションだ。
 品川駅から徒歩圏内で一室の広さやほぼ2階建てに等しい天井の高さが魅力で、空きが出ても即日入居者が決まる人気物件だ。
 実はこの建物すべて、月落個人の所有物である。

 伯母の弓子に勧められ、自分の住居兼不動産投資として大学在学中に新規建築したのだ。
 立地の良さから当分は住むだろうということを前提に、セキュリティ強化のため月落の部屋はいわゆる隠し扉の奥に続く設計になっている。
 そして、生体認証で開錠する仕組みが採用されているので、この部屋は月落本人と特別登録した数名しか開けられない。
 セキュリティ面においては、鳴成の実家や自宅の遥か上を行く。

「あの人が先生の家に突撃してくる可能性も残念ながらゼロではないので、今夜はここにいてください」

 名前を明示せずにそう提案した。

「ね?先生」

 そしてさらに、大型犬の上目遣いで駄目押しした。

 知り合って約半年、鳴成がこの顔に弱いことは把握済みだ。
 ここぞというとき、強みは出し惜しみしない。
 持てる全てを総動員して、欲しいものは何としても手に入れる。

「うーん、ですが、泊まるのは……」
「先生を家に送り届けたあと、先生が無事で過ごせてるか不安で僕が眠れなくなったら、可哀想だと思いませんか?」
「それは、そう、なんですが……」
「ですよね?帰さなきゃ良かったと後悔して右に左に寝返りを打ち続けて結局朝を迎えたら、すごく可哀想ですよね?僕の今夜の安らぎを作ると思って、ね?先生」

 理論をだいぶ捻じ曲げたが構わない。
 目の前の人が頷いてくれるのなら、なりふりなど構っていられない。
 どうしても帰したくない。
 最終手段は泣き落としか、床の上で大暴れでもしようかなとすら考える月落だ。

「……分かりました。お言葉に甘えてお世話になります」
「ご協力ありがとうございます。無理強いしてすみません」
「いいえ。何だか私はきみと出会ってから、きみの言葉に甘えてばかりいる気がします」
「先生、全く欠片もそんなことはありませんので、絶対に気にしないでください」

 ずい、と隙間を詰めてきた美形のドアップに、鳴成は少しだけ仰け反る。
 未だ繋いだままの指先も、失った距離感も、言葉の端々から漏れ出る想いも、境界線を越えていると思う。
 けれど、見て見ぬ振りをしている。

 流されているという体裁を取りながら、甘えている。
 触ってほしくて、近づいてほしくて、黙っている。
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