鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

05. ハグと父親たちの密談①

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 体感的に長い長いゴールデンウィークが明けた木曜日、月落渉はいつもと同じ時刻に研究室の扉を開けた。
 既に在室だった、1週間ぶりに会うその人。
 窓際のスモークチェアに脚を組んで座り、ゆらゆらと湯気が出ている青い波佐見焼のマグカップで紅茶を飲んでいる。

「先生、おはようございます」

 そう声を掛けると、鳴成秋史は読んでいた本を閉じて立ち上がり、月落の元へと歩いてくる。

 透きとおるヘーゼルの瞳に同色の髪、陶器の肌は相変わらず白いけれど、最後に見たような青白い面影は皆無だ。

 伯母を介して鳴成の体調については知らされていたし、本人からも回復したというメッセージを貰ってはいたが、実際に会って確認すると安心感が段違いで感じられる。

「月落くん、おはようございます」
「先生、すっごくお久しぶりです」
「たったの1週間会えなかっただけなんですが……あの、先日は大変申し訳ありま」
「先生、駄目です」

 神妙な面持ちで謝罪の言葉を伝えようとした鳴成を、月落は制する。
 まさか遮られるとは思っていなかった鳴成は、不測の事態を飲み込めずにきょとんと首を傾げる。
 その肩に手を置いて、月落は慰めるようにさすった。

「あの日起きたことについて、先生には落ち度も責任も一切ありません。だから、謝る必要はありません」
「そうなんですが、実家まで運んでもらったと聞きました。ご迷惑をお掛けしたことに関しては私に責任が——」
「責任なんてありませんし、迷惑だなんてほんの僅かも思ってません。むしろ、先生をまた抱っこして運べる日がこんなに早く来るなんて思ってなかったので、完全に役得でした」
「……お気遣いをありがとうございます。私の気持ちが軽くなるようにそう言ってくれているのは分かっています」
「うーん、気遣いじゃないんですが……あ、じゃあ、なんならしてみましょうか?ここで」
「え、何を?」
「抱っこ」

 そう言って屈みながら、本当に横抱きをしそうな月落に鳴成はとても焦る。

「ちょ、何をして、月落くん、あの、駄目です……やめ、やめなさいっ」
「嫌ですか?」

 上目遣いで問うてくる、年下の青年。
 天気雨の中を手を繋いで走ったあの日、完全に傾いた自分の気持ちに気づいてしまった鳴成の胸は、どきりと脈打つ。
 恐怖に支配された悲惨な過去の記憶が断片的に元の場所へと戻り、襲いくる寒気と頭痛に悩まされた夜も耐えられたのは、ひとえにこの男がいたからに他ならない。

 無理のないペースで交わされるメッセージのやり取りや、見舞いと称して実家に送られてくるケーキや紅茶缶がどれだけ鳴成を元気づけたか。

 極上にやわらかい幾千の羽毛に包まれて、頭から爪先までを抱擁されているような感覚。
 その温かさに頬を擦りつけて、ただ目を閉じていたい。
 届くひとつひとつの心遣いが安らぎの灯りとなって、不安定になった足元を照らしてくれた。

「嫌と言う訳ではないんですが、さすがに研究室で抱っこは……風紀を乱している気がします」
「とっても真面目でそんなところも好きです」
「え?」

 早口に言われた言葉を聞き逃した鳴成に構わず、月落は体勢を元に戻す。
 見下ろしてくる視線をそのまま素直に受け止めていると、年下の男は覗き込むようにしてお伺いを立ててきた。

「じゃあ、先生。ハグならいいですか?」
「ハグ、ですか?」
「挨拶の延長線上にあるハグです。友達同士でやるような、気楽な感じのあれです。元気になった先生への快気祝いの気持ちしかない純度100%のハグです」
「うーん……それなら、どうぞ」

 イギリス生活の長かった鳴成だが、実は周りにスキンシップを積極的に行う友人は少なかった。
 年齢的なものも関係しているのだろうが、インターナショナルに通っていた頃の方が日常的にハグやじゃれ合いをしていた印象が強い。
 なので、『友達同士でやるような、気楽な感じのあれ』という行為とは正直遠ざかっているのだが、鳴成は了承した。
 そうしたい、そうしてほしい、という気持ちに逆らうことができなかった。

 そっと覆いかぶさるようにして、月落にしっかりと腕を回される。
 抱きこまれる、という表現が一番正しいだろうか。
 痛くないけれど身動きは一切取れないほどにくるまれて、その力強さに、鳴成は思わず深呼吸をした。
 胸の内から溢れ返り、喉元を圧迫する想いの奔流を抑え込むことは難しくて、けれどそれも仕方ないと半ば諦める。

 堕ちてしまったら終わり。
 自覚してしまったら、知らない頃には戻れない。

 寄せては返す波に、身を委ねるだけ。

「これが、気楽なんです?」
「そのつもりなんですが、連休明けのせいか脳の電気信号にバグが生じているらしく、腕の筋肉に正確な指令が届かないみたいです。僕の気持ちは気楽なつもりなんですが、困りましたね」
「全然困ってるような声音ではないんですが」
「そうですか?おかしいな、声帯にも異常があるかもしれません」
「連休明けのせいで?」
「連休明けのせいで」

 伝わる微かな振動で、自分を囲う男が笑っているのが分かる。
 真に受ける気は微塵もないけれど、子供騙しの言い訳を並べながら身体を一切離す気配のない月落の背中に、鳴成も両腕を回した。
 逞しい肩に頬をそっと押しつけて、すりりと撫でる。

「先生」
「はい」
「多めに見積もって2週間、窮屈だとは思いますが少しだけ我慢してください」
「……さすがに2週間ハグし続けるのは無理ではないですか?授業もありますし」
「あ、すみません。どう考えても言葉足らずでした」

 ゆるゆると拘束を解いた月落は、まっすぐに鳴成を見つめる。
 それを正面から受け止めた鳴成の瞳は、澄んで、凪いでいた。

「今日の午後、うちの父が先生のお父様とお会いするのはご存じですか?」
「ええ、ご連絡を頂いたと聞いています」
「話し合いの内容は今後のことです。粕川春乃さんが先生にとって有害となった場合、その対処及び粕川家への対応は全て月落が請け負いたい、という旨をご了承いただくというものです」
「それは、月落家がご対応くださるということですか?私はきみとは関りがありますが、一族の皆さんにとっては赤の他人だと思うんですが」
「先生は僕が大変お世話になっている大切な上司ですので、他人事ではないというのが月落の総意です。一応、相手も相手ですし、TOGグループで対応する方が効率的だろうと」
「お手を煩わせてご迷惑をお掛けしてしまうのでは?」
「いいえ、全く。有事の際に大きく振りかざしてこその権力なので、有意義に使ってください」
「…………」
「ね?」

 ううん……と顎に人差し指を当てながら思い悩む鳴成に対して、月落は圧力で押し切るとでも言うように顔を近づけた。
 否応なしに頷かせてしまおうというプレッシャーを感じる。

「ね?先生」

 ドアップに耐え切れずに鳴成が首を振る。

「お言葉に甘えます。きみのお父上と、関わってくださる皆さんにお礼を伝えください」
「かしこまりました」

 月落は、もう一度鳴成を抱き締めた。
 何の抱擁だ、と抗議を示す手の平に腰の辺りを叩かれるが、力を弱める気配はない。

「快気祝いのハグは終わったのでは?」
「はい」
「じゃあ、これは何でしょうか?」
「えーっと、交渉成立のハグですかね」
「それは普通、握手するところではないんですか?」
「うーん、そうするのが一般的だとは思いますが、僕は断然ハグ派ですね」
「聞いたことありません」
「僕も言ったことありません。これは先生限定なので」
「何それ」

 和やかムード満載な研究室で成人男性二名がじゃれながら言い合いをしていると、来訪者を告げるノックの音が響いた。

「はい、どなたでしょうか」

 月落が若干声を張り上げて応答すると、外から女性の声が聞こえてきた。

「お忙しいところ申し訳ございません。わたくし、法学部の粕川春乃特任講師の秘書の者です。鳴成秋史准教授にお話があって参ったのですが……」

 くっつけていた身体を離して、両者見つめ合う。
 先ほどまで綺麗に潤っていたヘーゼルの瞳に不安げな影が差したのを見た月落は、汚く舌打ちしてしまいそうになるのをぐっと堪えた。

「先生、追い返してきますのでちょっと待っててください」
「私が行きましょうか?」
「大丈夫です。僕はTAですが先生の秘書でもありますから。あちらが秘書を差し向けたのなら、こちらも秘書が対応します」

 鳴成を窓際の椅子に座らせた月落は、大股で部屋を横切り外に出る。
 粕川春乃の秘書を連れて、研究室から離れた階段へと場所を移した。

「ご用件は何でしょうか?」
「あの、鳴成准教授に言付けがあって出向いたのですが、准教授はご不在でしょうか」
「私は先生の秘書ですので、ご用件は私がお伺いします」
「あ……かしこまりました。本日夜に粕川が鳴成准教授とお食事をしたいと申しておりまして、ご予定をお伺いしたいんです」
「申し訳ありませんが、鳴成は授業準備等で多忙です。どなたとも会食をする時間は作れそうにございません」
「そうですか。でしたら、別日でのランチはいかがでしょうか?粕川が授業を受け持っている火曜日と木曜日は、鳴成准教授もスケジュールに余裕があるのではとお見受けするのですが」
「これから当分の間、鳴成は昼食を研究室で摂る予定です。粕川特任講師とご一緒する機会を作るのは難しいように思えます」
「そこを何とか、一度だけでも場を作っていただくことはできませんでしょうか」
「不可能です。どれだけ熱心に訪ねていただいても状況は変わりませんので、諦めてくださるよう粕川特任講師にお伝えください」
「え、あ、あの、もう少しお話を……!私が怒られて、あの!」

 静止の声に構わず月落は研究室へと戻る。
 明るい陽射しの中で本を読んでいた鳴成の元に近づくと、対になっている椅子へと座った。

「お帰りなさい。早かったですね」
「はい、お話しすることもあまりなかったので。先生、実は少しご相談があるんですが」
「ええ、何でもどうぞ」
「これからのお昼のことです。食堂のメニューは先生も僕も気に入って、今や週4日の出勤日は毎回食べに行ってますよね?」
「ベーカーリーも新設されて、大変充実したランチ生活を送っています」
「ですが、オープンな場所なので沢山の人に会います。中には会いたくない人にも予期せず会ってしまう」
「……そうですね」

 鳴成の脳裏には、連休前に粕川春乃と遭遇したシーンが蘇る。
 できれば、再び会うことのないようにしたいというのが本音だ。

「なので、今日から約2週間はここで食べませんか?」

 ここ、と言いながら月落は研究室の床を指差す。

「ええ、良いですね。どこかで買ってきて食べるのも楽しいですし」
「そうなんです。駅ビルのお惣菜屋さんで買ってくるのも新鮮かなと思ってたんですが、それが……」
「それが?」
「ついそれを元漁師の叔父の前で話したら、いつもの如く話が飛躍して僕の与り知らぬところで盛り上がってしまって……」
「ええ」
「今日から日替わりで、ホテルに入ってるレストランからケータリングが届きます」
「……はい?」

 本当に何を言っているのか分からないといった調子で鳴成が聞き返す。
 ホテル内のレストランは選び抜かれた一流店だろう。
 そんな格式高い店が、大学の一研究室にケータリングするなど、ある意味で常軌を逸している。
 けれど、ホワイトデーにまつわるあれこれを体験したことで、きっと今回も乗り気で準備してくれたのだろうと想像できる自分が、鳴成は何だか可笑しい。

「ホワイトデーの時に惜しくも不採用となったレストランの料理長たちが、張り切ってメニューを考えてるみたいです。もしかしたらハイテンションな料理が届くかもしれませんが、予めご了承ください」
「ハイテンションな料理?あはは、人生であまり出会ったことがないので楽しみにしています」
「碧酔楼の料理長は憶えてますか?」
「ええ、北園さん」
「そうです。碧酔楼は今回の参加権自体なかったんです、アフタヌーンティー企画の優勝者なので。ですが、研究棟にセントラルキッチンがあることを知って、北園さんはお忍びで炒飯を作りにこようと画策してたみたいです。東雲さんにバレて怒られてました」
「抜け駆けしようとしたからですか?」
「火力の弱いIHで作った不味い炒飯を、先生に食べさせるつもりかって」
「……怒っている方向が想像とだいぶ違いました」
「北園さん、結構しゅんとしてたので、今度時間がある時に一緒に碧酔楼に行きませんか?アフタヌーンティーで用意された料理以外にも先生に食べてほしいものが沢山あるんです」
「ええ、是非。ケーキを作ってくださったレストランにも機会があればお伺いしたいです」
「伝えておきます。他の店が嫉妬で暴れないように、バランスを考えてお誘いしますね」
「よろしくお願いします」

 昼食の対策は完了した。
 授業は基本的に外国語学部がほぼ専用で使っている建物で行われるため、法学部とかち合うことはない。
 鳴成は車通勤なので、帰りは駐車場まで送り届ければいいし、もし必要なら朝も自分の車で迎えに行ってもいい。
 行動範囲が狭まり窮屈だろうが、どうか耐えてほしい。


 全力で守るから。

 必ず、守るから。
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