鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

22. ルーフトップバーで野武士の友人と②

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「出会いは職場だ。室長だった時に一緒に働いてた子、ありきたりだろ?」
「紹介や結婚相談所に行かない限り、大人の出会いの場は限られますから」
「そうだな。それで、その子が異動するってなって……猛アタックされたんだ」

 三白眼を細めた44歳のおじさんは、恥ずかしそうに唇を動かした。

「猛、アタック……?」
「そう、まさかと思うだろ?清潔感は手に入れてもこの目つきのせいで第一印象『怖い』って常に言われる俺が、押されて押されて押されまくって40中盤で初婚なんて、ドラマの脚本でもないよな」
「押されてたじろいでいる重藤さんというのは、ギャップがあって画的にはなかなか映えるかと」
「う……それは一理ある。しかも、相手は10個下だからな」
「10個下……」
「職場で一緒になった10も下の子に押されて恋に落ちて、ついにはゴールインした40代の中年男性。それが、俺」

 職場、10個下、40代。
 そう聞いて鳴成は、それを現在の自分自身に大いに重ね合わせてしまった。
 そして、脳裏に浮かぶ、あの人物。

 他人の感情の矢印に疎い自分でさえも、絶対的に甘やかされていると気づくほどに甘やかしてくれる人。
 TAとして完璧に授業サポートをして、自然な距離感で気遣いをくれて、労力を厭わずいつも用意周到に自分を喜ばせてくれる人。
 選ぶ言葉の温もりで、笑顔の無邪気さで、雷に怯える仕草で、戯れに触れる指先の感触で、凪いでいた心に波風を立てた人。

 しっかり者で、頼りになって、泰然としていて、そして時に可愛い。

 出会ってたったの半年で、こんなにも日常を揺さぶる存在になるとは思っていなかった。
 基本的に他人に対して興味のなかった自分が、ありえない頻度で思い出すようになるほど。

「そういえば、男同士であんまり恋愛がどうとか話したことなかったが、鳴成にそういう相手はいないのか?何か、自分がいざ結婚するってなると、他人のそういう話が気になり始めるのはどうしてなんだろうな」
「今、そういう相手は……いない、ですね」
「ちょっと空いた間がすごく気になるな。そういう相手はいないけど、そうなりそうな相手はいるってことか?」
「うーん、正直よく分かりません。恋や愛というものに真正面からぶつかったことがないんです、お恥ずかしい話ですが」
「いや、別に全然恥ずかしくないだろ。俺だって本物の愛、というか結婚するほど好きになった人に出会ったのはそれこそ奥さんが初めてだからな。40過ぎてからだし。ちなみに、出会ってはいるのか?」
「ええ、出会ってはいると思います」
「出会ってはいるけど、その人と今後発展するかは不明なのか」
「そうです」

 彼に向かう感情の主成分が果たして恋愛由来なのか、正直あまり気にしたことがなかった。

 共にいて楽しい、安心する、穏やかで落ち着く、というのはそれはもうそれで立派な恋愛感情だとも言えるし、友人という関係性の遥か延長線上ともギリギリ言えなくもない。
 いやしかし、彼は友人という枠では決してないから、同僚以上恋人未満……?

 これが10代や20代の勢いある世代だったなら、定まらない関係性には歯がゆさしかないだろう。
 けれど、その世代をとうに飛び越えてしまった鳴成にとってはそれが、救いのように感じるのだ。

 自分の胸の壁を突き破るほどに想いが溢れるのではなく、無理なく収めておける最大限で収まってじんわりと胸の内側に馴染んでいく絶妙なライン。

 それはきっと、気遣いの上手な彼がコントロールしてくれているからだろうと思う。
 白か黒かを明確にしなくても与えられる安心感。
 こういう部分でもきっと甘やかされている。

 心臓の辺りが自然とあたたかくなるのへ淡く微笑みながら、鳴成はワインの入ったグラスをゆらゆらと揺らした。

「鳴成、いま自分がどんな顔してるか気づいてるか?」

 その微笑みを真正面から受け止めた重藤は、少し面食らった。
 それが、知り合って20年で初めて見る表情だったから。
 まるで、愛しい誰かを思い浮かべているような。

「変な顔でした?」

 鳴成は持っていたグラスをテーブルに戻すと、自分の頬を触って確かめる。

「気づいてないならいい。当事者の実感なく育った実は、結局収穫されずに朽ちて落ちるだけだ」
「いきなり哲学ですね?」
「40代にして初めて本物の愛を知った、しがないおじさんの独り言だ」
「本物の愛を知っただけでも貴重な経験です。それを知らずに通り過ぎる人々も多いと言いますし」
「そうだな。押されるままに押されて、恥も外聞もかなぐり捨てて良かったよ。あ、そうだ。独り言ついでにもうひとつだけ」

 ジンフィズを一気に飲み干した重藤は、鳴成の方へと身を乗り出した。
 三白眼を細めて不敵に笑う。

「愛は虎視眈々だ。その存在を認識した時にはもう既に根を張って、奥深くまで入り込んでる。相手との境界線がブレて馴染み始めたら、それは相当持って行かれてる状態だから諦めろ。血の繋がりのない異質な存在の他者にそばにいられて心地良いって感じるのは、既に自分の一部になってる証拠だ」

 放たれた言葉に鳴成は瞠目する。
 恋愛感情かどうか分からないけれど好意は持っているとはぐらかした先の自分に、ぐさりと刺さる釘。
 胸から、痛みを伴わずに流れる血をただ見下ろすしかできない。
 グラスを持っていなくてよかった、きっと床の上で割れていただろう。
 そんなことを思うだけで。

 この釘を抜いてしまえばきっと、世界が変わってしまう。
 揺蕩っていた世界はあっさりと崩れて、作り変わってしまう。
 そうなっても彼は、今の関係性以上のものを求めても彼は、果たして受け止めてくれるだろうか。

 自分の感情を突きつめ切れないのはきっと、曝け出すのが怖いせいだ。
 踏み出すことを躊躇っているのはきっと、失うのが怖いせいだ。

 ただ彼は純粋に優しさだけで接してくれていたとしたら、そんなつもりになっていたのが自分だけだったとしたら。
 そうやって、無意識の足枷に阻まれる。
 ネガティブな考えが巡る。
 こうなった経験に乏しくて、後退りしてしまう。

 逃げているとは分かっているけれど、今はもう少しだけ。
 優しい海に浸って目を閉じていたい。
 もう少しだけ。

「まぁ、鳴成ももう40過ぎてるし、新しい事象に身を投じるのは怖いだろうけどな。出会ってるなら、それを掴みにいく勇気も必要だぞ。否が応でも変容し続けるこの日常で大切なものを持ち続けたいなら、その状態を繋ぎ止めておくための策を講じないと」
「そうですね……未就学児童に英語を教えるくらい大変な気がしますが」
「そこは経験と知識をフル活用して頑張れ。野武士を紳士の端くれにした利沙さんの息子なら、やってやれないことはないだろ」
「残念ながら、母のバイタリティは妹だけが受け継いだようです」
「確かに、有紗ちゃんはパワフルだよな。聡明さを武器にしてあの業界でも結構なとこまで登ったし。かと思ったらいきなり婿貰って結婚するし。今や双子の母だし」
「ええ、理性を主動力にして動くと言う点では違っていますが、行動力と行動範囲の広さは完全に母そのものですね」
「そう言えば、俺たちが知り合った頃に……」

 それから鳴成と重藤の会話は自分たちの家族や仕事の話題に移った。
 久しぶりに会う友人との静かな夜は、グラスに注がれたアルコールと共に過ぎていく。


 曖昧なままにはしておけない。
 このままではいられない。
 けれど、大切だからこそ手放すのは難しい。
 世界が終わった先に待っているのは、今以上か今以下か。
 分からないからこそ、難しい。









 地上50階のルーフトップバー、その入口に立っているのは、TOGグループホテル部門総責任者の月落正志だ。
 商談相手を見送り、自分たちが乗るエレベーターを待っている最中である。

 今しがた出てきたばかりのバーの店内を、身体を仰け反らせながら覗く。
 幾何学な段差で作られた本棚が通路の役割を担っているバーの店内で、つい先日会った麗人を見た気がしたからだ。

朝比奈あさひな、あの窓際のソファ席にいたのは、もしかして渉のとこの准教授だったか?」
「ええ、鳴成准教授でしたね」
「やはりそうか」

 後ろを振り返りながら発した疑問は、正志の秘書からの答で返された。
 朝比奈——こげ茶の髪を綺麗なお団子にまとめた50代の女性である。
 岩のような存在感のある正志の隣に並んでもバランスの取れる、背筋の伸びた長身がトレードマークだ。

「一緒にいたのはどなただ?」
「本省勤務のご友人かと」
「どの省だ?」
「METIです」
「そうか……渉の今日の予定は?」
「大陸のご友人と会食中です」
「そうか……」

 正志は何か作戦を練るように顎に手を当てて考えていたが、その顔色はあまり明るくならないまま秘書を見遣った。
 これは妙案が思い浮かばなかったな、と朝比奈は思い至る。

「METIの局長に連絡してそのご友人をあの席から離脱させ、代わりに渉を宛てがうのはやりすぎだと思うか?」
「幾ばくか強引かと思いますが」
「仕方ないだろう。君もこの前の渉を見たから俺の気持ちは分かるはずだ。あんなに幸せそうな渉の姿を見たら、何とか協力したいって思うのが人情ってもんだろう?」

 ホワイトデーの日にホテルで見た月落と鳴成の微笑ましい姿は、正志の後ろに控えていた朝比奈もしっかりと見ている。
 面立ちといい、会話のリズムといい、雰囲気といい、こんなにもぴたりと嵌る他人同士がいるのかと驚いた。
 30年も知り合わなかったのが不思議で仕方ないと思うくらい。

「その気持ちは私にもありますが、あまりご心配はいらぬかと」
「なぜだ?」
「渉様が会食されているのは、この複合施設40階にある料亭。つまり、10階下にいらっしゃいます」
「は?……こんなに密集して縦に長い飲食店ジャングルの大都会東京で、そんな偶然があるか?」
「運命なのでしょう」
「運命ね……」

 ゴールドのランプが灯り、到着したエレベーターの扉が開く。
 中に入ろうとした朝比奈を制して先に乗り、1階のボタンを押して秘書が乗り込むのを待ってから正志は扉を閉めた。

「正志様、まだ業務中でございますので、行き過ぎた行動は控えていただきたいのですが」
「二人きりの密室だろう?商談が終わった時点で業務も終了じゃないのか?」
「家に帰るまでが遠足というのが常識ですので、家に帰るまでが業務かと」
「こんな時間まで残業したんだから今日はもう心のタイムカード押します。早苗さなえも押して」
「あなた、タイムカードっていつの時代なの。古くさいこと言うと部下に笑われるでしょう?」

 下の名前で呼ばれた朝比奈は敬語をやめて苦笑いを浮かべる。
 この二人、実は夫婦である。

 漁師を辞めてホテル部門に就職した数年後、要職候補となった正志の秘書となったのが朝比奈だった。
 交際わずか半年のスピード婚で周囲を驚かせたカップル。
 出産と育児で朝比奈が仕事から遠のいていた時期もあったが、子供たちがある程度育ったのを境に正志の秘書に復帰した。
 公私は完璧に区別する主従関係だが、その形は人目がないと保たれるのが難しいらしい。

「渉には連絡しない方がいいと思うか?」
「もちろん。その方が偶然会えた時の感動も一入でしょう?」
「そうなんだが……老爺心が疼くな」
「大丈夫よ。あの子は稀に見る強運の持ち主ですもの。運命ならば必ず自らの手で掴むから」
「そうだな」

 エレベーターが40階を過ぎるとき、正志は心の中で『渉、頑張れ』と唱えた。
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