帳(とばり)珈琲店 〜お気の毒ですがまた幸せな結末です〜

ナナセ

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第6章

(15)夢を諦めた男

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真島 秋斗まじま あきとの場合】


 その人は、少し近付けたかと思うと遠ざかる。

 僕は向かいの席に座っている先輩を見つめてそう思った。
 劇団を辞め、就職した会社で出会った先輩は、どこか寂しげな儚さを纏った女性だった。
 歳は二歳しか変わらないが、二十五歳まで演劇をしていた自分と違い、彼女は入社五年目を迎える社員だ。

 彼女の名は、日比野 初音という。
 彼女の繊細な雰囲気によく似合う綺麗な名前だと思う。けれど日比野さんは、苗字ではなく名前で呼ばれる事をひどく嫌っていた。

 理由はわからない。

 少しミステリアスな雰囲気があり、プライベートで積極的に人と関わりを持とうとしないタイプのように見えるが……。だからと言って、コミュニケーション能力が低い訳ではない。

 社会人経験ゼロの自分にいつも丁寧に業務を教えてくれるし、他の誰かが困っていれば、率先して仕事を手伝う日比野さんの働き方にとても好感を持っていた。

 けれどごくまれに、彼女はひどく棘のある言葉を使う時がある。それは、悪口や陰口などの卑怯な言葉ではなく、面と向かって話をしている相手へ向けた言葉なのだが……。

 役者の芽が出ず劇団を辞めた僕に、『辞めて正解ね』と冷たく返事をしたり、都市伝説のラッキーキャットに会って良い事があったと話す女性に、『ただの偶然』だと呟いたり。

 どうして、わざわざそんな言葉を言わなければいけないのか。初めは少し、腹が立っていた。

 けれど接する時間が増えるにつれ、その棘のある言葉には、相手を傷付けようとする意図は無いと思えてきた。なぜなら、その言葉を言った後の日比野さんは、言われた相手よりもずっと傷付いた目をしている。その事に、気づいたからだ。

「真島くん。今日のお昼、空いてる?」
「は? え! あ、日比野さん! はい、空いてます」

 ずっと考えていたその相手に急に名前を呼ばれ、必要以上に驚いてしまった。

「ごめんね。業務に集中してる時に声かけちゃって、後にしようか」

 僕の態度をとても良い方向に解釈してくれた日比野さんに、少し申し訳ない気分になる。

「いえいえ! 全然! 大丈夫っす」
「そう? この前もらったチケットのお礼のランチ。今日どうかと思って?」
「はい! 大丈夫です」

 僕が笑顔で返事をすると、日比野さんはそっと席を立ち僕の横まで移動してくる。

「会社から近いのは、中華とか、イタリアンとか。真島くんは、何が食べたい? あ、ここの定食屋さんも美味しいよ」

 そう言って、スマホの画面をこちらに差し出す。
 日比野さんも一緒に画面を覗きながらスクロールしているので、今までに無いほど至近距離に彼女の顔があった。

 近い。
 意識しないようにすればする程、色んな事が気になり始める。

 睫毛長いなとか。
 ほのかに良い匂いだなとか。

 そんな事に思考が引っ張られ、先程から定食屋のランチメニューが全く頭に入ってこない。

「全然、頭に……」
「え?」
「ぜん……ぜ、全部! 全部、旨そうですね」

 なんとか、誤魔化せただろうか。

「じゃあ、お店はここにしようか。12時より少し前に出ても平気だから、10分前倒しでお昼に行こう。お店が混む前に座れるよ」
「いいっすね。じゃあ、10分前に」

 日比野さんとこんな風に会話している時は壁があるようには全く感じないが、それでもふとした瞬間に、スッと境界線を引かれてしまう時がある。

 今よりもっと、仲良くなりたい。
 そんな事を考えながら時計に目をやると、既に時間は11時を回っていた。

 ランチまでに資料を完成させる。
 僕は途中になっていた資料に思考を切り替えたのだった。


 *



 昼休み。
 日比野さんと向かい合わせで定食屋の席につく。

「ここの定食。お味噌汁が豚汁なの」
「それ、いいっすね! 僕はチキン南蛮定食にしようかな。日比野さんは決めました?」
「私は、だし巻き卵定食。だし巻きは甘めだから、甘いのが苦手だと外した方がいいメニューかも」
「僕もだし巻き卵は甘い派です」
「一緒だね。それならここのだし巻き卵、好きだと思うよ。今回はチキン南蛮にして、次はこれ食べてみて」

 日比野さんと小さな共通点がみつかりなんだか嬉しい。それに『次』も、一緒に来れるのだろうか。
 そんな事を考えつつメニューから視線を上げると、彼女の肩に小さな糸クズがついているのが見えた。

「日比野さん。肩に糸がついてますよ」
「え? どっち?」

 彼女が逆の肩を見たので、
「こっちです」
 そう言って、前方から日比野さんの肩へ手を伸ばした。

 その瞬間、思い切り日比野さんに手を振り払われた。

「やめて!」

 怯えるように、彼女がうつむく。

「……あ、あの。す、すみませんでした」

 驚き、一瞬言葉に詰まったが、僕はなんとか謝罪の言葉を口にする。日比野さんはハッとしたように顔を上げた。

「ごめん。私……首元に、前方から手を伸ばされるのが苦手で……その、ごめんね。糸クズをとってくれようとしただけなのに、思い切り払いのけちゃって……ごめん」

 明らかに動揺した日比野さんの様子に、恐らく何かあったのだろうと想像はつく。けれど、何があったのですかと、聞く事はできなかった。

 日比野さんと自分は、会社の先輩と後輩。
 先輩と、ただのポンコツな後輩だ。

 そこに踏み込んでいい、そんな関係性の距離ではないとそう感じたのだ。日比野さんに少しでも元気になって欲しくて、僕は笑って話し出した。

「僕、友達からよく距離感バカって言われるんですよ。パーソナルエリアでしたっけ。友達の距離とか、恋人の距離とか。そういうの間違えて、犬みたいに懐くから距離感バカらしいっす!」

 精一杯、明るい声を出すよう意識する。
 
「だから、ビジネスマナー的にもヤバイって時は、ガンガン指摘して下さいね! その辺も、ご指導よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げると、日比野さんはようやくホッとしたように笑った。

 まずはただの後輩から、仕事のできる後輩に昇格したい。少しでも頼って貰えるようになって、いつかは先程のように不安な顔をした日比野さんを抱き締めてあげられる、そんな立場になれたら……。

 そこまで思ってから、これはもう惚れているのではないだろうかと、そんな疑問にまで行き着いた。

 俺、好きなのか?

 自問が、運ばれてきた定食の美味しそうな匂いにかき消される。

「旨そうですね」
「でしょ」

 得意げに頷いた日比野さんが、だし巻き卵の一つを箸でつまみ、「一個、あげるね」と微笑んだ。

 可愛いなとか、綺麗だなとか、女性に対して思う事は沢山ある。美人とすれ違えば振り返るし、胸の谷間が強調されていれば有り難くチラ見もする。

 けれど今、そういう事だけではない。
 何か心を突き動かされるような、『この人を守りたい』という、そんな思いが僕の心に芽生え始めていた。



「ごちそうさまでした」
「私の方こそ、チケット有り難う。来週の日曜だね」

 ランチに大満足して、日比野さんと並んで歩く。

「あの、日比野さん。……良かったら、一緒に行きませんか? あ、他に誰か行く人がいるなら、その方の分のチケットもお渡しできますけど。もし、一人で行く予定なら……一緒にどうかなと、思い、まして……」

 もっとスマートに誘えればよかったのに、後半かなりモジモジした喋り方になってしまった。
 内心焦りながら、そっと日比野さんの方を見る。

「ありがとう。実は私、舞台とか見に行った事がなくて……。観劇マナーとかあまり分からないから、一緒に行ってもらえると嬉しい」

 そんな返答に、僕は心の中でガッツポーズする。

「全然堅苦しいルールとか無いですよ。それにちゃんとしたホールじゃなくて、小さなライブハウスを借りて、座席はパイプイスを並べただけの即席なんで。文化祭のノリで楽しんで下さい」
「そうなんだ。また後で、待ち合わせの時間とか決めようか」
「そうっすね」
 
 ウキウキとした気分で会社への帰路を歩く途中、ふと目にした公園のベンチにあの黒猫が座っているのが見えた。

「あ、ラッキーキャット!」
「あの黒猫?」
「はい」

 陽だまりの中、座ったままの姿勢で居眠りをしている。

「日比野さんは、ラッキーキャットの話とか嫌いでしたよね」
「嫌い……って訳じゃないの。ただ、サンタさんが来ないのと一緒で、私の所には幸せも届かないから。……あ、ごめん! なに言ってるか分からないよね」

 悲しい目をして、日比野さんが困ったように笑う。
 
「そんな事ないです。ラッキーキャットなら、日比野さんにも幸せを運んでくれます」

 だからそんな、泣きそうな目で笑わないで下さい。後半部分は心の中で、祈るように呟いた。

「そっか。ラッキーキャットは、凄いんだね」

 日比野さんが小さく笑って、黒猫を見つめる。僕もそちらへ視線を向けた。

 座った姿勢でうつらうつらと揺れている黒猫の体が、大きく傾きベンチに倒れ込む。その拍子に頭をぶつけ、驚いたように辺りをキョロキョロしているが、やはりまだ眠いのか大きな欠伸あくびをしていた。

「可愛いね」
「めちゃくちゃ可愛いっすね」

 日比野さんが黒猫にスマートフォンを向けて写真を撮っている。

「待ち受けにしてみようかな」
「それ最高の待ち受けです」

 二人で黒猫を撮り、ホーム画面に設定する。

「信じて……みようかな」

 日比野さんが呟いた。

「ラッキーキャットと……真島くんの言葉。信じてみるね」

 携帯を握り締めて、日比野さんが微笑む。

 彼女の『信じる』の中に、ラッキーキャットの幸運だけではなく、自分の言葉も含まれている。
 そう思うだけで、たまらなく胸の奥が熱くなるのを感じたのだった。
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