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第5章
(12)自殺二秒前だった男
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【真田 理人の場合】
ホームで転落しそうになっていた老婦人を助けたことで、自分の心も救われた俺は、新天地の学校で再び熱意を持って教壇に立っていた。
塞ぎ込んでいたせいで、半年間ほど連絡を絶ってしまったかつての教え子の雨宮にも、もう一度連絡をとるとすぐにメッセージが返ってきた。
彼は今、劇団に所属し役者として成功することを夢見て励んでいる。
──先生、久しぶりです! 忙しくしてるんだろうなって思っていたので、また連絡もらえて嬉しいです。この前、高3のクラスが一緒だった手塚さんにばったり会いましたよ!
手塚……。少し考える。
大人しいタイプだけれど、真面目で一生懸命だった教え子の顔が浮かんできた。
卒業生全員、自分が受け持った生徒のことはちゃんと記憶している。
同僚の先生達からは、よくそんなに沢山の生徒のことを覚えていられるなと驚かれる事が多いが、昔から人覚えが早く記憶力には自信があった。
──手塚さんも、来月のミュージカル見に来てくれることになりました!
再会するのが楽しみだ。
教え子が卒業後も変わらず元気にしている事が、とても嬉しかった。
*
そして今、スマートフォンの地図アプリを見ながら、閑静な住宅街を歩いている。
「あった。ここか」
立派な一軒家の表札に『水寺』と書かれた名前を見て、俺はスマートフォンをスーツのポケットへ入れ、手土産の紙袋をチェックした。
駅で目眩をおこした老婦人を助けたその日に、すぐに彼女の夫から感謝の電話があった。お礼の品を贈りたいと切望され、断りきれずに住所を伝えると高級な和食器セットが送られてきたのだ。
一人暮らしで衣服や持ち物に無頓着な俺は、いつも安い茶碗や箸を使っていたので、『匠』と毛筆で印字された霧の箱に入っている和食器を見て、とても恐縮した。
けれど、折角なので割らないように使わせて頂いている。スーパーで買った安いお茶も、その湯飲みに入れるといつもより美味しく感じた。
俺がお礼の手紙を送ると、小町さんから返事が届き、またそれに返事をする。そうして俺と小町さんは、いつしか文通友達になっていたのだ。
スマートフォンなどわずか一秒でメッセージが送れる時代に、手紙を自筆で書く。それがとても新鮮で、俺はそのやり取りを楽しみにしていた。その手紙が途絶えたのは、三週間ほど前の事だ。
やり取りが面倒になったり、忙しさに手紙を書く時間がとれないだけなら何の問題もない。だが、途絶える前の手紙には、近頃体調を壊すことが増えたと書いてあった。そんな小町さんの事が気になり、失礼を承知で家まで足を運んでしまったのだ。
小町さんをホームで助けたのは自分だが、同時に、小町さんは俺にとって命の恩人でもある。
お元気だといいが。
心で祈りながら、背筋を伸ばしインターホンを押した。
小町さんの夫である健次郎さんの「はい」と応答する声が聞こえ、緊張しながら挨拶をする。
「真田理人です。突然の訪問、申し訳ありません……小町さんは……」
そこまで話すと、すぐに家の中から玄関へと出てくる物音が聞こえた。その時ふと、自分の隣で同じように水寺家の方を見守っている黒猫がいることに気づいた。
「あれ? 君はあの時の……」
ホームで黒猫が自分の手に飛びかかり、持っていた缶コーヒーが転がったお陰で、自分も小町さんも救われたのだ。
黒猫へと手を伸ばそうとした時、ちょうど玄関の扉が開いて健次郎さんが出てきた。
「真田さん、どうされました?」
「健次郎さん。こんにちは、突然お宅まで来てしまい申し訳ありません」
小町との文通が途絶え、心配になったことを伝える。
「わざわざ有り難う御座います。実は、体調の悪い日が続いておりまして……。真田さんが来て下さって喜ぶと思います。声をかけてくるので、少しお待ち頂けますか」
体に障るようならすぐに帰りますと伝えたが、小町さんは会いたいと言ってくれたようで、部屋に通してもらえた。
布団の上で上半身を起こした彼女が、柔らかな笑みで迎えてくれる。
「小町さん。体調不良の時に申し訳ありません。手紙が止まってしまったので、心配になり……」
「会いに来て下さるなんて嬉しいわ。ありがとう。あなたには助けてもらってばかりね。今日も真田さんのお陰で心が弾んで、体も軽いような気がするわ」
嬉しそうにこちらへ伸ばされた小町さんの手を、そっと握った。初めてホームで会った時より、少し痩せているような気がする。
「お大事にして下さい。今日はお顔を見れて私も嬉しかったです」
小町の負担にならないように少しだけ話をして、部屋を後にした。
小町さんの寝室を出て廊下を歩く。そこから庭が見えた。並んだ植木の横にはあの黒猫がいて、寝室の様子を伺っている。
俺は廊下からガラス扉越しに、黒猫に向かって声を掛けた。
「君も、小町さんが心配なのか?」
その声に驚いたように体を震わせた黒猫が、サッと塀に飛び乗りどこかへ隠れてしまった。
「驚かせてしまったか。また会えて、嬉しかったのにな」
どこへ行ってしまったのだろう。
水寺家を出て、隣の家との間の路地を見つめていると、隣家のエアコンの室外機の奥に身を潜めていた黒猫を見つけた。
「……おいで」
手を伸ばして呼んでみる。
しかし黒猫は、後退りするように少しずつ離れていく。俺はそんな黒猫を見つめ、心を込めて感謝を伝えた。
「君に伝えたかったんだ。有り難う。君がくれたきっかけのお陰で、俺は今も生きてるよ」
黒猫がピタリと動きを止めた。
まるで言葉を理解しているかのように、俺の顔を見つめている。そして、その言葉に返事でもするように、ピーンと立てた尻尾を大きく左右に振った。
俺も微笑みながら手を振る。
黒猫はまた塀に飛び乗り、どこかへ駆けていった。
礼を言えてよかった。そう思って立ち上がる。その時、隣家の玄関から若い女性が出てくるのが目に入った。
「友達とご飯だから、夜はいらないからね。行ってきます!」
その横顔と声、そして表札の『手塚』という名前を見て、俺の脳裏にまだセーラー服を着ていた頃の手塚美空の顔が浮かんでくる。ちょうど雨宮からのメッセージに、登場したばかりの名前だ。
「手塚! 小町さんのお隣だったのか」
思わず呼びかけた俺の声に、振り返った手塚も驚いたように目を見開き大きな声を出す。
「え? さ、真田先生!」
「久しぶりだな」
「お久し振りです。先生は、小町おばあちゃんとお知り合いなんですか」
「ああ。不思議なご縁があってな」
「そうなんですね」
その時、スーツの胸ポケットにある携帯が振動した。
手塚に「すまん」と一声かけてから確認すると、雨宮のメッセージが通知されていた。
──先生、聞いて。実は今日、手塚さんと二人で飯食いに行くんです。二人で!
二人でという言葉が強調され、文末にはビックリマークがついている。恐らく雨宮は、手塚に好意を持っているのだろう。俺は心の中でそっと「雨宮、がんばれよ」とエールを送った。
自分が呼び止めたせいで待ち合わせに遅刻させてしまったら申し訳ないと思い、「これから出掛けるんだろ」と声を掛ける。
「あ、はい! 雨宮くんとご飯に行く約束をしてるんです。少し前に駅前で再会して、真田先生の事も、その時に雨宮くんから聞きました」
「そうか。約束に遅れると悪いから、今度またゆっくり話そう」
「有り難うございます。でも、実はまだ約束の時間までだいぶあるんです。なんだか緊張して、予定より早く家を出てしまって……」
手塚が照れたようにうつむき、「緊張しいなんです」と苦笑する。
その様子に、彼女も少なからず雨宮に好意を持っているのではないだろうかと思えた。その時、また真田の携帯が振動して雨宮からのメッセージが表示される。
──待ち合わせまでまだ時間あるんですけど、俺めっちゃ緊張してて……。もう着いちゃって、暇なので先生にメッセージ送ってます。
二人して、全く同じ事を言っている。
俺は手塚にバレないように、小さく笑った。
高校の頃の二人は、どちらも話し下手なタイプだった。そんな教え子たちの青春にドキドキしつつ、二人が恋人同士になればいいなと心の中で期待したのだった。
ホームで転落しそうになっていた老婦人を助けたことで、自分の心も救われた俺は、新天地の学校で再び熱意を持って教壇に立っていた。
塞ぎ込んでいたせいで、半年間ほど連絡を絶ってしまったかつての教え子の雨宮にも、もう一度連絡をとるとすぐにメッセージが返ってきた。
彼は今、劇団に所属し役者として成功することを夢見て励んでいる。
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──手塚さんも、来月のミュージカル見に来てくれることになりました!
再会するのが楽しみだ。
教え子が卒業後も変わらず元気にしている事が、とても嬉しかった。
*
そして今、スマートフォンの地図アプリを見ながら、閑静な住宅街を歩いている。
「あった。ここか」
立派な一軒家の表札に『水寺』と書かれた名前を見て、俺はスマートフォンをスーツのポケットへ入れ、手土産の紙袋をチェックした。
駅で目眩をおこした老婦人を助けたその日に、すぐに彼女の夫から感謝の電話があった。お礼の品を贈りたいと切望され、断りきれずに住所を伝えると高級な和食器セットが送られてきたのだ。
一人暮らしで衣服や持ち物に無頓着な俺は、いつも安い茶碗や箸を使っていたので、『匠』と毛筆で印字された霧の箱に入っている和食器を見て、とても恐縮した。
けれど、折角なので割らないように使わせて頂いている。スーパーで買った安いお茶も、その湯飲みに入れるといつもより美味しく感じた。
俺がお礼の手紙を送ると、小町さんから返事が届き、またそれに返事をする。そうして俺と小町さんは、いつしか文通友達になっていたのだ。
スマートフォンなどわずか一秒でメッセージが送れる時代に、手紙を自筆で書く。それがとても新鮮で、俺はそのやり取りを楽しみにしていた。その手紙が途絶えたのは、三週間ほど前の事だ。
やり取りが面倒になったり、忙しさに手紙を書く時間がとれないだけなら何の問題もない。だが、途絶える前の手紙には、近頃体調を壊すことが増えたと書いてあった。そんな小町さんの事が気になり、失礼を承知で家まで足を運んでしまったのだ。
小町さんをホームで助けたのは自分だが、同時に、小町さんは俺にとって命の恩人でもある。
お元気だといいが。
心で祈りながら、背筋を伸ばしインターホンを押した。
小町さんの夫である健次郎さんの「はい」と応答する声が聞こえ、緊張しながら挨拶をする。
「真田理人です。突然の訪問、申し訳ありません……小町さんは……」
そこまで話すと、すぐに家の中から玄関へと出てくる物音が聞こえた。その時ふと、自分の隣で同じように水寺家の方を見守っている黒猫がいることに気づいた。
「あれ? 君はあの時の……」
ホームで黒猫が自分の手に飛びかかり、持っていた缶コーヒーが転がったお陰で、自分も小町さんも救われたのだ。
黒猫へと手を伸ばそうとした時、ちょうど玄関の扉が開いて健次郎さんが出てきた。
「真田さん、どうされました?」
「健次郎さん。こんにちは、突然お宅まで来てしまい申し訳ありません」
小町との文通が途絶え、心配になったことを伝える。
「わざわざ有り難う御座います。実は、体調の悪い日が続いておりまして……。真田さんが来て下さって喜ぶと思います。声をかけてくるので、少しお待ち頂けますか」
体に障るようならすぐに帰りますと伝えたが、小町さんは会いたいと言ってくれたようで、部屋に通してもらえた。
布団の上で上半身を起こした彼女が、柔らかな笑みで迎えてくれる。
「小町さん。体調不良の時に申し訳ありません。手紙が止まってしまったので、心配になり……」
「会いに来て下さるなんて嬉しいわ。ありがとう。あなたには助けてもらってばかりね。今日も真田さんのお陰で心が弾んで、体も軽いような気がするわ」
嬉しそうにこちらへ伸ばされた小町さんの手を、そっと握った。初めてホームで会った時より、少し痩せているような気がする。
「お大事にして下さい。今日はお顔を見れて私も嬉しかったです」
小町の負担にならないように少しだけ話をして、部屋を後にした。
小町さんの寝室を出て廊下を歩く。そこから庭が見えた。並んだ植木の横にはあの黒猫がいて、寝室の様子を伺っている。
俺は廊下からガラス扉越しに、黒猫に向かって声を掛けた。
「君も、小町さんが心配なのか?」
その声に驚いたように体を震わせた黒猫が、サッと塀に飛び乗りどこかへ隠れてしまった。
「驚かせてしまったか。また会えて、嬉しかったのにな」
どこへ行ってしまったのだろう。
水寺家を出て、隣の家との間の路地を見つめていると、隣家のエアコンの室外機の奥に身を潜めていた黒猫を見つけた。
「……おいで」
手を伸ばして呼んでみる。
しかし黒猫は、後退りするように少しずつ離れていく。俺はそんな黒猫を見つめ、心を込めて感謝を伝えた。
「君に伝えたかったんだ。有り難う。君がくれたきっかけのお陰で、俺は今も生きてるよ」
黒猫がピタリと動きを止めた。
まるで言葉を理解しているかのように、俺の顔を見つめている。そして、その言葉に返事でもするように、ピーンと立てた尻尾を大きく左右に振った。
俺も微笑みながら手を振る。
黒猫はまた塀に飛び乗り、どこかへ駆けていった。
礼を言えてよかった。そう思って立ち上がる。その時、隣家の玄関から若い女性が出てくるのが目に入った。
「友達とご飯だから、夜はいらないからね。行ってきます!」
その横顔と声、そして表札の『手塚』という名前を見て、俺の脳裏にまだセーラー服を着ていた頃の手塚美空の顔が浮かんでくる。ちょうど雨宮からのメッセージに、登場したばかりの名前だ。
「手塚! 小町さんのお隣だったのか」
思わず呼びかけた俺の声に、振り返った手塚も驚いたように目を見開き大きな声を出す。
「え? さ、真田先生!」
「久しぶりだな」
「お久し振りです。先生は、小町おばあちゃんとお知り合いなんですか」
「ああ。不思議なご縁があってな」
「そうなんですね」
その時、スーツの胸ポケットにある携帯が振動した。
手塚に「すまん」と一声かけてから確認すると、雨宮のメッセージが通知されていた。
──先生、聞いて。実は今日、手塚さんと二人で飯食いに行くんです。二人で!
二人でという言葉が強調され、文末にはビックリマークがついている。恐らく雨宮は、手塚に好意を持っているのだろう。俺は心の中でそっと「雨宮、がんばれよ」とエールを送った。
自分が呼び止めたせいで待ち合わせに遅刻させてしまったら申し訳ないと思い、「これから出掛けるんだろ」と声を掛ける。
「あ、はい! 雨宮くんとご飯に行く約束をしてるんです。少し前に駅前で再会して、真田先生の事も、その時に雨宮くんから聞きました」
「そうか。約束に遅れると悪いから、今度またゆっくり話そう」
「有り難うございます。でも、実はまだ約束の時間までだいぶあるんです。なんだか緊張して、予定より早く家を出てしまって……」
手塚が照れたようにうつむき、「緊張しいなんです」と苦笑する。
その様子に、彼女も少なからず雨宮に好意を持っているのではないだろうかと思えた。その時、また真田の携帯が振動して雨宮からのメッセージが表示される。
──待ち合わせまでまだ時間あるんですけど、俺めっちゃ緊張してて……。もう着いちゃって、暇なので先生にメッセージ送ってます。
二人して、全く同じ事を言っている。
俺は手塚にバレないように、小さく笑った。
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