上 下
30 / 31
第6話 たった一つの彼女

たった一つの彼女 その5

しおりを挟む
 夜が過ぎて、朝が来ます。とうとう約束の日がやってきてしまいました。一度家に帰ってしまえばきっとここまで来ることなんてできないだろうと思い、昨日からずっと研究室にいます。時折、伊瀬冬くんに呼びかけてみましたが、彼は答えてくれませんでした。

 午前の七時半を過ぎて、まず研究室に現れたのは大藪さんです。その十五分後には水島さん、江村さん、鹿間さんと立て続けにやって来て、隣室に入ってなにやら準備をはじめました。何をするつもりなのか、わざわざ訊ねる気力もありません。

 椅子に座ってただ時間が経つのを待っていると、部屋の扉が静かに開きました。現れたのは佐藤課長です。「どうも」と軽く会釈した彼は、冷えた表情のまま扉に近くに立ちます。

「貴方達のことは信じていますが、〝お別れ会〟を称して妙なことをしないとは限りませんからね。一応、見張りという形になりますが、お気になさらず」

 私は「そうですか」とだけ答えました。

 時計の針は躊躇なく進み。やがて八時半を回りました。隣室から顔を出した水島さんが、「あいちゃん、こっちにいらっしゃい」と手招きします。言われた通りに行ってみると、架空環境展開装置が設置されたベッドの周りにみんなで集まっていました。

「伊瀬冬くんが中で待ってる。どうぞ」

 水島さんに渡されたゴーグルとヘッドセットを身に着けた私は、座椅子に深く身体を預けました。視界が黒に覆われ、「大丈夫?」と呼びかけてくる周囲の声が遠のき、わずかに漂うコーヒーの香りが遠のき、背中に感じる座椅子の感覚が遠のき……身体の感覚すべてが取り払われた次の瞬間、手元にあった現実は消え去り、私は別の世界にいました。目の前に広がっているのは、仮想現実の中にある『2045』の景色です。窓際の席には伊瀬冬くんが座っています。

 私に気づいた伊瀬冬くんは軽く手を挙げ、「おう」と挨拶しました。なんでもない、いつも通りの挨拶でした。

「源尾、来てくれてありがとうな」
「……ありがとう、じゃないよ。私にどうしろっていうの?」
「昨日も言っただろ? 見送ってくれ、笑顔で」
「これから死にますって言ってる人に笑顔でサヨナラしろだなんて、無理だよ。できるわけないに決まってるよ」

 黙って微笑んだ彼はふいに視線を窓の外に向けました。人間の形をした情報の塊が歩道を歩いているのが見えます。

 私は伊瀬冬くんの正面の席に腰かけました。すると、じっと黙っていた彼がなにか決意のようなものを感じられる調子で、「なあ」と切り出しました。

「……源尾。俺が本当に人間だと思うか?」
「人間だよ。私が保証する」
「でも俺、この前見たんだよ。電気羊の夢を。アンドロイドじゃないけど、人間でもないから、きっとそんな夢を見たんだ」
「そしたら、私が伊瀬冬くんの夢に出てあげるから大丈夫」
「源尾が出たからって、どうなるってんだ?」
「ナイフと、チェーンソーと、レーザーカッターを持ってくよ。それで電気羊なんてバラバラにして、ジンギスカンにして食べてあげる」

 宣言と同時に私の瞳からは我慢していたものが一気に込み上げ、流れ始めました。すると伊瀬冬くんは目を丸くして、それからぷっと吹き出します。こちらが本気でぶつかっているのに、この反応はあんまりです。「どうして笑うの?」と問い詰めると、彼は「悪い悪い」と謝ってからまた笑います。

「でも、さっき俺が言ったの、一応冗談なんだぞ。なのに、涙流しながらそんな風に返されたら、笑うしかないだろ」

 そう言うと彼は私の両頬に手を伸ばし、軽くつまんで斜め上に引っ張りました。口角だけがつり上げられた私の顔をじっくり眺めながら嬉しそうにする彼を見て、今度は私が楽しくなってきて……二十四時間近くも続けていた仏頂面がついに溶けてしまいました。全部、伊瀬冬くんのせいです。

「泣きながら笑う奴がいるかよ」

「伊瀬冬くんのせいでしょ」と注意するように言ってみた私に、唇を尖らせて顔をしかめ、ちょっとふざけたような表情で返した彼は、ふと席を立って私の背後に立ちます。

「……源尾、ごめんな」

 瞬間、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばして掴み、窓に叩きつけて割った彼は、床に散らばる破片を拾い上げてそれを私の首筋に当てました。何が起きたのか理解できたのは、彼が私の首の薄皮を破片の先端でなぞり、鋭い痛みが走ってからのことでした。

「ちょ、ちょっと。伊瀬冬くん、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇ。ひとりで死ぬと思うか? 道連れだよ。俺が死ぬならお前も殺してやる」

 彼の口から飛び出た信じられない言葉に狼狽していると、窓の景色が途端に黒く塗りつぶされ、間もなく外の様子が映し出されました。水島さん達に混じって佐藤課長がこちらを覗き込んでいます。

「やめなさい、伊瀬冬くん。そんなことをしたってなにも解決しないでしょう?」
「解決なんてしねぇだろうよ。でも、スカっとするだろ」
「自分のやっていることが本当にわかってるの? そこであいちゃんを殺したら――」
「ああ、現実の源尾も死ぬ。現実に近い世界の中で明確な〝死〟を感じたら、コイツの脳味噌が勝手に身体を殺すんだったよな。どうしようもないな、人間の身体ってのは」

 あざけるようにそう言って伊瀬冬くんは鼻で笑い飛ばしました。振り返ることができないため、彼がどんな表情をしているのかわかりませんが、声の調子は辛そうです。

 彼がこんなことを望んでするはずがありません。「伊瀬冬くん、まずは落ち着いて」となんとか説得しようとする私を余所に、あくまで冷静な佐藤課長は大藪さんへ指示を出しました。

「早急に架空環境から源尾博士を離脱させて、彼女と『ISY』と引き離しなさい」

 大藪さんは「了解です」と答えてキーボードを叩きましたが、やがて首を横に振りました。

「……システムの一部が暗号化されています。どうやってやったのかはわかりませんが、外部からは手出しできないようになっているようです」
「ほら、どうする? 強制終了でもするか? 無理だろ。俺だけならまだしも、ここに生身の人間がいるんじゃ。コイツが死ぬかもしれないんだからな」
「……大藪さん、暗号化を解除するまでの所要時間は?」
「少なくとも十五分……人をひとり殺すのには十分すぎるかと」

 一瞬の沈黙。僅かに眉間にしわを寄せた佐藤課長の視界を遮るよう一歩前に出たのは鹿間さんでした。

「課長、方法があります。『ISY』だけを殺せばいい」
「……出来るのですか?」
「『ISY』の介錯のためにウイルスを作ってました。それを入れてやれば根こそぎ破壊可能です。課長がお持ちの、サーバへのアクセス権限さえあればの話ですが」

 表情こそ変えませんでしたが、佐藤課長はいかにも動揺しているようでした。そんな彼に江村さんが「迷ってる暇はあるの? 遅いか早いかの違いでしょ」と言って背中を押します。

 このままでは伊瀬冬くんが消されてしまいます。私は「やめて」となんとか声を絞り出しましたが、外にいるみんなは聞く耳を持ちません。小さく頷いた課長はパスワードを打ち込み、「あとは任せましたよ」と鹿間さんに指示します。

「おい、待てよ。殺すつもりかよ、俺を」
「当たり前ですよ。源尾さんを救うためなら、あなたひとり殺すくらいわけない」

 答える最中も鹿間さんは作業をやめようとしません。耳元で「頼む。やめさせてくれ」と伊瀬冬くんが懇願するように呟きます。私は精一杯に力を込めて声を張り上げました。

「待ってよ、鹿間さん。伊瀬冬くんだって、きっとなにか考えがあってのことだから」
「あるわけないでしょう。殺されかけてるんですよ、源尾さんは」
「でも、伊瀬冬くんに私を殺すつもりがあるのなら、私はもうとっくに――」
「黙ってください! 気が散ります!」

 睨むような視線で刺した鹿間さんは苛立ちをあらわにしながらエンターキーを叩きました。同時に、伊瀬冬くんの身体が末端から白い砂へと変わり、地面に落ちていきます。

「……ふざけんなよ。なんで……なんで俺が死ななきゃならないんだよ。いいだろ、生きてたって。権利があるんじゃねぇのかよ」

 首筋に当てられていた破片が床に落ちて音を立てます。私は振り返ると同時に彼を強く抱きしめました。

 嫌だよ、こんなお別れなんて。やめてよ、このまま消えるなんて。まだ私の心も伝えていないのに。

 形になって現れてくれない思いは、伊瀬冬くん〝だったもの〟と共に宙に舞って消えました。

 やがて彼の感触が腕の中から無くなり、世界から色が無くなりました。「とんだ〝お別れ会〟でしたね、まったく」という無機質な課長の声が聞こえ、脳味噌が菜箸で乱暴にかき混ぜられたような気分になります。

 痛くて、辛くて、苦しくて、哀しくて。

 あまりに受け入れがたい出来事と感情の奔流により、私の身体は意識の喪失を選択しました。





『ISY』の暴走事案と関連事項の顛末報告


 十一月二十三日。午前八時時三十分。『ISY』の処分当日。源尾あい博士の提案により、『ISY』との最後の接触(博士はこれを〝お別れ会〟と呼称)がはじまる。

『ISY』と架空環境展開装置をオンラインにし、喫茶店モデルの環境を展開する。環境内へ入った源尾博士が『ISY』と会話していると、『ISY』が割れたカップの破片を博士の首元へと突きつける。同時に、装置のシステムの一部が暗号化され、架空環境からの離脱並びに外部からの介入が一時的に不可能な状態に陥っていることが発覚。この現象の原因は不明だが、前述の行動から『ISY』の手によるものだと想定できる。

 架空環境展開装置の再起動を行えば現象の解決は可能だが、環境内に人間がいる状態でのそれは人体に悪影響を及ぼす危険性があり断念。

 このままでは博士に危険が及ぶ恐れがあったため、その場に居合わせた職員の鹿間光の提案により、『ISY』の消去を決定。速やかに作業を開始。

 八時三十九分。作業終了。『ISY』の消去完了後、源尾博士が気を失い緊急搬送。立ち合いにはその場に居合わせた職員四名が向かう。身体には異常が見受けられないとの診断結果を受けたが、本事案に関するショックが大きく、三日間の入院後に退職届が本人から提出される。

 本事案において直接的損害はとくに出なかったものの、これをきっかけに源尾博士を含めた五人の職員が退職した影響は極めて大きく、無視できないものである。

 本事案に関する今後の対応策に関しては別紙にて。


 以上
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

騎士爵とおてんば令嬢【完結済】

弓立歩
恋愛
腕は立つけれど、貴族の礼が苦手で実力を隠す騎士と貴族だけど剣が好きな少女が婚約することに。 あれはそんな意味じゃなかったのに…。突然の婚約から名前も知らない騎士の家で生活することになった少女と急に婚約者が出来た騎士の生活を描きます。

甘やかしてあげたい、傷ついたきみを。 〜真実の恋は強引で優しいハイスペックな彼との一夜の過ちからはじまった〜

泉南佳那
恋愛
植田奈月27歳 総務部のマドンナ × 島内亮介28歳 営業部のエース ******************  繊維メーカーに勤める奈月は、7年間付き合った彼氏に振られたばかり。  亮介は元プロサッカー選手で会社でNo.1のイケメン。  会社の帰り道、自転車にぶつかりそうになり転んでしまった奈月を助けたのは亮介。  彼女を食事に誘い、東京タワーの目の前のラグジュアリーホテルのラウンジへ向かう。  ずっと眠れないと打ち明けた奈月に  「なあ、俺を睡眠薬代わりにしないか?」と誘いかける亮介。  「ぐっすり寝かせてあけるよ、俺が。つらいことなんかなかったと思えるぐらい、頭が真っ白になるまで甘やかして」  そうして、一夜の過ちを犯したふたりは、その後…… ******************  クールな遊び人と思いきや、実は超熱血でとっても一途な亮介と、失恋拗らせ女子奈月のじれじれハッピーエンド・ラブストーリー(^▽^) 他サイトで、中短編1位、トレンド1位を獲得した作品です❣️

【完結】「婚約者は妹のことが好きなようです。妹に婚約者を譲ったら元婚約者と妹の様子がおかしいのですが」

まほりろ
恋愛
※小説家になろうにて日間総合ランキング6位まで上がった作品です!2022/07/10 私の婚約者のエドワード様は私のことを「アリーシア」と呼び、私の妹のクラウディアのことを「ディア」と愛称で呼ぶ。 エドワード様は当家を訪ねて来るたびに私には黄色い薔薇を十五本、妹のクラウディアにはピンクの薔薇を七本渡す。 エドワード様は薔薇の花言葉が色と本数によって違うことをご存知ないのかしら? それにピンクはエドワード様の髪と瞳の色。自分の髪や瞳の色の花を異性に贈る意味をエドワード様が知らないはずがないわ。 エドワード様はクラウディアを愛しているのね。二人が愛し合っているなら私は身を引くわ。 そう思って私はエドワード様との婚約を解消した。 なのに婚約を解消したはずのエドワード様が先触れもなく当家を訪れ、私のことを「シア」と呼び迫ってきて……。 「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します。 ※小説家になろう、カクヨム、エブリスタにも投稿しています。 ※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。

【完結】公爵令嬢ルナベルはもう一度人生をやり直す

金峯蓮華
恋愛
卒業パーティーで婚約破棄され、国外追放された公爵令嬢ルナベルは、国外に向かう途中に破落戸達に汚されそうになり、自害した。 今度生まれ変わったら、普通に恋をし、普通に結婚して幸せになりたい。 死の間際にそう臨んだが、気がついたら7歳の自分だった。 しかも、すでに王太子とは婚約済。 どうにかして王太子から逃げたい。王太子から逃げるために奮闘努力するルナベルの前に現れたのは……。 ルナベルはのぞみどおり普通に恋をし、普通に結婚して幸せになることができるのか? 作者の脳内妄想の世界が舞台のお話です。

拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら

みおな
恋愛
 子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。 公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。  クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。  クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。 「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」 「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」 「ファンティーヌが」 「ファンティーヌが」  だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。 「私のことはお気になさらず」

元妃は多くを望まない

つくも茄子
恋愛
シャーロット・カールストン侯爵令嬢は、元上級妃。 このたび、めでたく(?)国王陛下の信頼厚い側近に下賜された。 花嫁は下賜された翌日に一人の侍女を伴って郵便局に赴いたのだ。理由はお世話になった人達にある書類を郵送するために。 その足で実家に出戻ったシャーロット。 実はこの下賜、王命でのものだった。 それもシャーロットを公の場で断罪したうえでの下賜。 断罪理由は「寵妃の悪質な嫌がらせ」だった。 シャーロットには全く覚えのないモノ。当然、これは冤罪。 私は、あなたたちに「誠意」を求めます。 誠意ある対応。 彼女が求めるのは微々たるもの。 果たしてその結果は如何に!?

悪役令嬢ですが、ヒロインが大好きなので助けてあげてたら、その兄に溺愛されてます!?

柊 来飛
恋愛
 ある日現実世界で車に撥ねられ死んでしまった主人公。    しかし、目が覚めるとそこは好きなゲームの世界で!?  しかもその悪役令嬢になっちゃった!?    困惑する主人公だが、大好きなヒロインのために頑張っていたら、なぜかヒロインの兄に溺愛されちゃって!?    不定期です。趣味で描いてます。  あくまでも創作として、なんでも許せる方のみ、ご覧ください。

今日で都合の良い嫁は辞めます!後は家族で仲良くしてください!

ユウ
恋愛
三年前、夫の願いにより義両親との同居を求められた私はは悩みながらも同意した。 苦労すると周りから止められながらも受け入れたけれど、待っていたのは我慢を強いられる日々だった。 それでもなんとななれ始めたのだが、 目下の悩みは子供がなかなか授からない事だった。 そんなある日、義姉が里帰りをするようになり、生活は一変した。 義姉は子供を私に預け、育児を丸投げをするようになった。 仕事と家事と育児すべてをこなすのが困難になった夫に助けを求めるも。 「子供一人ぐらい楽勝だろ」 夫はリサに残酷な事を言葉を投げ。 「家族なんだから助けてあげないと」 「家族なんだから助けあうべきだ」 夫のみならず、義両親までもリサの味方をすることなく行動はエスカレートする。 「仕事を少し休んでくれる?娘が旅行にいきたいそうだから」 「あの子は大変なんだ」 「母親ならできて当然よ」 シンパシー家は私が黙っていることをいいことに育児をすべて丸投げさせ、義姉を大事にするあまり家族の団欒から外され、我慢できなくなり夫と口論となる。 その末に。 「母性がなさすぎるよ!家族なんだから協力すべきだろ」 この言葉でもう無理だと思った私は決断をした。

処理中です...