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第6話 たった一つの彼女
たった一つの彼女 その5
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夜が過ぎて、朝が来ます。とうとう約束の日がやってきてしまいました。一度家に帰ってしまえばきっとここまで来ることなんてできないだろうと思い、昨日からずっと研究室にいます。時折、伊瀬冬くんに呼びかけてみましたが、彼は答えてくれませんでした。
午前の七時半を過ぎて、まず研究室に現れたのは大藪さんです。その十五分後には水島さん、江村さん、鹿間さんと立て続けにやって来て、隣室に入ってなにやら準備をはじめました。何をするつもりなのか、わざわざ訊ねる気力もありません。
椅子に座ってただ時間が経つのを待っていると、部屋の扉が静かに開きました。現れたのは佐藤課長です。「どうも」と軽く会釈した彼は、冷えた表情のまま扉に近くに立ちます。
「貴方達のことは信じていますが、〝お別れ会〟を称して妙なことをしないとは限りませんからね。一応、見張りという形になりますが、お気になさらず」
私は「そうですか」とだけ答えました。
時計の針は躊躇なく進み。やがて八時半を回りました。隣室から顔を出した水島さんが、「あいちゃん、こっちにいらっしゃい」と手招きします。言われた通りに行ってみると、架空環境展開装置が設置されたベッドの周りにみんなで集まっていました。
「伊瀬冬くんが中で待ってる。どうぞ」
水島さんに渡されたゴーグルとヘッドセットを身に着けた私は、座椅子に深く身体を預けました。視界が黒に覆われ、「大丈夫?」と呼びかけてくる周囲の声が遠のき、わずかに漂うコーヒーの香りが遠のき、背中に感じる座椅子の感覚が遠のき……身体の感覚すべてが取り払われた次の瞬間、手元にあった現実は消え去り、私は別の世界にいました。目の前に広がっているのは、仮想現実の中にある『2045』の景色です。窓際の席には伊瀬冬くんが座っています。
私に気づいた伊瀬冬くんは軽く手を挙げ、「おう」と挨拶しました。なんでもない、いつも通りの挨拶でした。
「源尾、来てくれてありがとうな」
「……ありがとう、じゃないよ。私にどうしろっていうの?」
「昨日も言っただろ? 見送ってくれ、笑顔で」
「これから死にますって言ってる人に笑顔でサヨナラしろだなんて、無理だよ。できるわけないに決まってるよ」
黙って微笑んだ彼はふいに視線を窓の外に向けました。人間の形をした情報の塊が歩道を歩いているのが見えます。
私は伊瀬冬くんの正面の席に腰かけました。すると、じっと黙っていた彼がなにか決意のようなものを感じられる調子で、「なあ」と切り出しました。
「……源尾。俺が本当に人間だと思うか?」
「人間だよ。私が保証する」
「でも俺、この前見たんだよ。電気羊の夢を。アンドロイドじゃないけど、人間でもないから、きっとそんな夢を見たんだ」
「そしたら、私が伊瀬冬くんの夢に出てあげるから大丈夫」
「源尾が出たからって、どうなるってんだ?」
「ナイフと、チェーンソーと、レーザーカッターを持ってくよ。それで電気羊なんてバラバラにして、ジンギスカンにして食べてあげる」
宣言と同時に私の瞳からは我慢していたものが一気に込み上げ、流れ始めました。すると伊瀬冬くんは目を丸くして、それからぷっと吹き出します。こちらが本気でぶつかっているのに、この反応はあんまりです。「どうして笑うの?」と問い詰めると、彼は「悪い悪い」と謝ってからまた笑います。
「でも、さっき俺が言ったの、一応冗談なんだぞ。なのに、涙流しながらそんな風に返されたら、笑うしかないだろ」
そう言うと彼は私の両頬に手を伸ばし、軽くつまんで斜め上に引っ張りました。口角だけがつり上げられた私の顔をじっくり眺めながら嬉しそうにする彼を見て、今度は私が楽しくなってきて……二十四時間近くも続けていた仏頂面がついに溶けてしまいました。全部、伊瀬冬くんのせいです。
「泣きながら笑う奴がいるかよ」
「伊瀬冬くんのせいでしょ」と注意するように言ってみた私に、唇を尖らせて顔をしかめ、ちょっとふざけたような表情で返した彼は、ふと席を立って私の背後に立ちます。
「……源尾、ごめんな」
瞬間、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばして掴み、窓に叩きつけて割った彼は、床に散らばる破片を拾い上げてそれを私の首筋に当てました。何が起きたのか理解できたのは、彼が私の首の薄皮を破片の先端でなぞり、鋭い痛みが走ってからのことでした。
「ちょ、ちょっと。伊瀬冬くん、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇ。ひとりで死ぬと思うか? 道連れだよ。俺が死ぬならお前も殺してやる」
彼の口から飛び出た信じられない言葉に狼狽していると、窓の景色が途端に黒く塗りつぶされ、間もなく外の様子が映し出されました。水島さん達に混じって佐藤課長がこちらを覗き込んでいます。
「やめなさい、伊瀬冬くん。そんなことをしたってなにも解決しないでしょう?」
「解決なんてしねぇだろうよ。でも、スカっとするだろ」
「自分のやっていることが本当にわかってるの? そこであいちゃんを殺したら――」
「ああ、現実の源尾も死ぬ。現実に近い世界の中で明確な〝死〟を感じたら、コイツの脳味噌が勝手に身体を殺すんだったよな。どうしようもないな、人間の身体ってのは」
あざけるようにそう言って伊瀬冬くんは鼻で笑い飛ばしました。振り返ることができないため、彼がどんな表情をしているのかわかりませんが、声の調子は辛そうです。
彼がこんなことを望んでするはずがありません。「伊瀬冬くん、まずは落ち着いて」となんとか説得しようとする私を余所に、あくまで冷静な佐藤課長は大藪さんへ指示を出しました。
「早急に架空環境から源尾博士を離脱させて、彼女と『ISY』と引き離しなさい」
大藪さんは「了解です」と答えてキーボードを叩きましたが、やがて首を横に振りました。
「……システムの一部が暗号化されています。どうやってやったのかはわかりませんが、外部からは手出しできないようになっているようです」
「ほら、どうする? 強制終了でもするか? 無理だろ。俺だけならまだしも、ここに生身の人間がいるんじゃ。コイツが死ぬかもしれないんだからな」
「……大藪さん、暗号化を解除するまでの所要時間は?」
「少なくとも十五分……人をひとり殺すのには十分すぎるかと」
一瞬の沈黙。僅かに眉間にしわを寄せた佐藤課長の視界を遮るよう一歩前に出たのは鹿間さんでした。
「課長、方法があります。『ISY』だけを殺せばいい」
「……出来るのですか?」
「『ISY』の介錯のためにウイルスを作ってました。それを入れてやれば根こそぎ破壊可能です。課長がお持ちの、サーバへのアクセス権限さえあればの話ですが」
表情こそ変えませんでしたが、佐藤課長はいかにも動揺しているようでした。そんな彼に江村さんが「迷ってる暇はあるの? 遅いか早いかの違いでしょ」と言って背中を押します。
このままでは伊瀬冬くんが消されてしまいます。私は「やめて」となんとか声を絞り出しましたが、外にいるみんなは聞く耳を持ちません。小さく頷いた課長はパスワードを打ち込み、「あとは任せましたよ」と鹿間さんに指示します。
「おい、待てよ。殺すつもりかよ、俺を」
「当たり前ですよ。源尾さんを救うためなら、あなたひとり殺すくらいわけない」
答える最中も鹿間さんは作業をやめようとしません。耳元で「頼む。やめさせてくれ」と伊瀬冬くんが懇願するように呟きます。私は精一杯に力を込めて声を張り上げました。
「待ってよ、鹿間さん。伊瀬冬くんだって、きっとなにか考えがあってのことだから」
「あるわけないでしょう。殺されかけてるんですよ、源尾さんは」
「でも、伊瀬冬くんに私を殺すつもりがあるのなら、私はもうとっくに――」
「黙ってください! 気が散ります!」
睨むような視線で刺した鹿間さんは苛立ちをあらわにしながらエンターキーを叩きました。同時に、伊瀬冬くんの身体が末端から白い砂へと変わり、地面に落ちていきます。
「……ふざけんなよ。なんで……なんで俺が死ななきゃならないんだよ。いいだろ、生きてたって。権利があるんじゃねぇのかよ」
首筋に当てられていた破片が床に落ちて音を立てます。私は振り返ると同時に彼を強く抱きしめました。
嫌だよ、こんなお別れなんて。やめてよ、このまま消えるなんて。まだ私の心も伝えていないのに。
形になって現れてくれない思いは、伊瀬冬くん〝だったもの〟と共に宙に舞って消えました。
やがて彼の感触が腕の中から無くなり、世界から色が無くなりました。「とんだ〝お別れ会〟でしたね、まったく」という無機質な課長の声が聞こえ、脳味噌が菜箸で乱暴にかき混ぜられたような気分になります。
痛くて、辛くて、苦しくて、哀しくて。
あまりに受け入れがたい出来事と感情の奔流により、私の身体は意識の喪失を選択しました。
〇
『ISY』の暴走事案と関連事項の顛末報告
十一月二十三日。午前八時時三十分。『ISY』の処分当日。源尾あい博士の提案により、『ISY』との最後の接触(博士はこれを〝お別れ会〟と呼称)がはじまる。
『ISY』と架空環境展開装置をオンラインにし、喫茶店モデルの環境を展開する。環境内へ入った源尾博士が『ISY』と会話していると、『ISY』が割れたカップの破片を博士の首元へと突きつける。同時に、装置のシステムの一部が暗号化され、架空環境からの離脱並びに外部からの介入が一時的に不可能な状態に陥っていることが発覚。この現象の原因は不明だが、前述の行動から『ISY』の手によるものだと想定できる。
架空環境展開装置の再起動を行えば現象の解決は可能だが、環境内に人間がいる状態でのそれは人体に悪影響を及ぼす危険性があり断念。
このままでは博士に危険が及ぶ恐れがあったため、その場に居合わせた職員の鹿間光の提案により、『ISY』の消去を決定。速やかに作業を開始。
八時三十九分。作業終了。『ISY』の消去完了後、源尾博士が気を失い緊急搬送。立ち合いにはその場に居合わせた職員四名が向かう。身体には異常が見受けられないとの診断結果を受けたが、本事案に関するショックが大きく、三日間の入院後に退職届が本人から提出される。
本事案において直接的損害はとくに出なかったものの、これをきっかけに源尾博士を含めた五人の職員が退職した影響は極めて大きく、無視できないものである。
本事案に関する今後の対応策に関しては別紙にて。
以上
午前の七時半を過ぎて、まず研究室に現れたのは大藪さんです。その十五分後には水島さん、江村さん、鹿間さんと立て続けにやって来て、隣室に入ってなにやら準備をはじめました。何をするつもりなのか、わざわざ訊ねる気力もありません。
椅子に座ってただ時間が経つのを待っていると、部屋の扉が静かに開きました。現れたのは佐藤課長です。「どうも」と軽く会釈した彼は、冷えた表情のまま扉に近くに立ちます。
「貴方達のことは信じていますが、〝お別れ会〟を称して妙なことをしないとは限りませんからね。一応、見張りという形になりますが、お気になさらず」
私は「そうですか」とだけ答えました。
時計の針は躊躇なく進み。やがて八時半を回りました。隣室から顔を出した水島さんが、「あいちゃん、こっちにいらっしゃい」と手招きします。言われた通りに行ってみると、架空環境展開装置が設置されたベッドの周りにみんなで集まっていました。
「伊瀬冬くんが中で待ってる。どうぞ」
水島さんに渡されたゴーグルとヘッドセットを身に着けた私は、座椅子に深く身体を預けました。視界が黒に覆われ、「大丈夫?」と呼びかけてくる周囲の声が遠のき、わずかに漂うコーヒーの香りが遠のき、背中に感じる座椅子の感覚が遠のき……身体の感覚すべてが取り払われた次の瞬間、手元にあった現実は消え去り、私は別の世界にいました。目の前に広がっているのは、仮想現実の中にある『2045』の景色です。窓際の席には伊瀬冬くんが座っています。
私に気づいた伊瀬冬くんは軽く手を挙げ、「おう」と挨拶しました。なんでもない、いつも通りの挨拶でした。
「源尾、来てくれてありがとうな」
「……ありがとう、じゃないよ。私にどうしろっていうの?」
「昨日も言っただろ? 見送ってくれ、笑顔で」
「これから死にますって言ってる人に笑顔でサヨナラしろだなんて、無理だよ。できるわけないに決まってるよ」
黙って微笑んだ彼はふいに視線を窓の外に向けました。人間の形をした情報の塊が歩道を歩いているのが見えます。
私は伊瀬冬くんの正面の席に腰かけました。すると、じっと黙っていた彼がなにか決意のようなものを感じられる調子で、「なあ」と切り出しました。
「……源尾。俺が本当に人間だと思うか?」
「人間だよ。私が保証する」
「でも俺、この前見たんだよ。電気羊の夢を。アンドロイドじゃないけど、人間でもないから、きっとそんな夢を見たんだ」
「そしたら、私が伊瀬冬くんの夢に出てあげるから大丈夫」
「源尾が出たからって、どうなるってんだ?」
「ナイフと、チェーンソーと、レーザーカッターを持ってくよ。それで電気羊なんてバラバラにして、ジンギスカンにして食べてあげる」
宣言と同時に私の瞳からは我慢していたものが一気に込み上げ、流れ始めました。すると伊瀬冬くんは目を丸くして、それからぷっと吹き出します。こちらが本気でぶつかっているのに、この反応はあんまりです。「どうして笑うの?」と問い詰めると、彼は「悪い悪い」と謝ってからまた笑います。
「でも、さっき俺が言ったの、一応冗談なんだぞ。なのに、涙流しながらそんな風に返されたら、笑うしかないだろ」
そう言うと彼は私の両頬に手を伸ばし、軽くつまんで斜め上に引っ張りました。口角だけがつり上げられた私の顔をじっくり眺めながら嬉しそうにする彼を見て、今度は私が楽しくなってきて……二十四時間近くも続けていた仏頂面がついに溶けてしまいました。全部、伊瀬冬くんのせいです。
「泣きながら笑う奴がいるかよ」
「伊瀬冬くんのせいでしょ」と注意するように言ってみた私に、唇を尖らせて顔をしかめ、ちょっとふざけたような表情で返した彼は、ふと席を立って私の背後に立ちます。
「……源尾、ごめんな」
瞬間、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばして掴み、窓に叩きつけて割った彼は、床に散らばる破片を拾い上げてそれを私の首筋に当てました。何が起きたのか理解できたのは、彼が私の首の薄皮を破片の先端でなぞり、鋭い痛みが走ってからのことでした。
「ちょ、ちょっと。伊瀬冬くん、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇ。ひとりで死ぬと思うか? 道連れだよ。俺が死ぬならお前も殺してやる」
彼の口から飛び出た信じられない言葉に狼狽していると、窓の景色が途端に黒く塗りつぶされ、間もなく外の様子が映し出されました。水島さん達に混じって佐藤課長がこちらを覗き込んでいます。
「やめなさい、伊瀬冬くん。そんなことをしたってなにも解決しないでしょう?」
「解決なんてしねぇだろうよ。でも、スカっとするだろ」
「自分のやっていることが本当にわかってるの? そこであいちゃんを殺したら――」
「ああ、現実の源尾も死ぬ。現実に近い世界の中で明確な〝死〟を感じたら、コイツの脳味噌が勝手に身体を殺すんだったよな。どうしようもないな、人間の身体ってのは」
あざけるようにそう言って伊瀬冬くんは鼻で笑い飛ばしました。振り返ることができないため、彼がどんな表情をしているのかわかりませんが、声の調子は辛そうです。
彼がこんなことを望んでするはずがありません。「伊瀬冬くん、まずは落ち着いて」となんとか説得しようとする私を余所に、あくまで冷静な佐藤課長は大藪さんへ指示を出しました。
「早急に架空環境から源尾博士を離脱させて、彼女と『ISY』と引き離しなさい」
大藪さんは「了解です」と答えてキーボードを叩きましたが、やがて首を横に振りました。
「……システムの一部が暗号化されています。どうやってやったのかはわかりませんが、外部からは手出しできないようになっているようです」
「ほら、どうする? 強制終了でもするか? 無理だろ。俺だけならまだしも、ここに生身の人間がいるんじゃ。コイツが死ぬかもしれないんだからな」
「……大藪さん、暗号化を解除するまでの所要時間は?」
「少なくとも十五分……人をひとり殺すのには十分すぎるかと」
一瞬の沈黙。僅かに眉間にしわを寄せた佐藤課長の視界を遮るよう一歩前に出たのは鹿間さんでした。
「課長、方法があります。『ISY』だけを殺せばいい」
「……出来るのですか?」
「『ISY』の介錯のためにウイルスを作ってました。それを入れてやれば根こそぎ破壊可能です。課長がお持ちの、サーバへのアクセス権限さえあればの話ですが」
表情こそ変えませんでしたが、佐藤課長はいかにも動揺しているようでした。そんな彼に江村さんが「迷ってる暇はあるの? 遅いか早いかの違いでしょ」と言って背中を押します。
このままでは伊瀬冬くんが消されてしまいます。私は「やめて」となんとか声を絞り出しましたが、外にいるみんなは聞く耳を持ちません。小さく頷いた課長はパスワードを打ち込み、「あとは任せましたよ」と鹿間さんに指示します。
「おい、待てよ。殺すつもりかよ、俺を」
「当たり前ですよ。源尾さんを救うためなら、あなたひとり殺すくらいわけない」
答える最中も鹿間さんは作業をやめようとしません。耳元で「頼む。やめさせてくれ」と伊瀬冬くんが懇願するように呟きます。私は精一杯に力を込めて声を張り上げました。
「待ってよ、鹿間さん。伊瀬冬くんだって、きっとなにか考えがあってのことだから」
「あるわけないでしょう。殺されかけてるんですよ、源尾さんは」
「でも、伊瀬冬くんに私を殺すつもりがあるのなら、私はもうとっくに――」
「黙ってください! 気が散ります!」
睨むような視線で刺した鹿間さんは苛立ちをあらわにしながらエンターキーを叩きました。同時に、伊瀬冬くんの身体が末端から白い砂へと変わり、地面に落ちていきます。
「……ふざけんなよ。なんで……なんで俺が死ななきゃならないんだよ。いいだろ、生きてたって。権利があるんじゃねぇのかよ」
首筋に当てられていた破片が床に落ちて音を立てます。私は振り返ると同時に彼を強く抱きしめました。
嫌だよ、こんなお別れなんて。やめてよ、このまま消えるなんて。まだ私の心も伝えていないのに。
形になって現れてくれない思いは、伊瀬冬くん〝だったもの〟と共に宙に舞って消えました。
やがて彼の感触が腕の中から無くなり、世界から色が無くなりました。「とんだ〝お別れ会〟でしたね、まったく」という無機質な課長の声が聞こえ、脳味噌が菜箸で乱暴にかき混ぜられたような気分になります。
痛くて、辛くて、苦しくて、哀しくて。
あまりに受け入れがたい出来事と感情の奔流により、私の身体は意識の喪失を選択しました。
〇
『ISY』の暴走事案と関連事項の顛末報告
十一月二十三日。午前八時時三十分。『ISY』の処分当日。源尾あい博士の提案により、『ISY』との最後の接触(博士はこれを〝お別れ会〟と呼称)がはじまる。
『ISY』と架空環境展開装置をオンラインにし、喫茶店モデルの環境を展開する。環境内へ入った源尾博士が『ISY』と会話していると、『ISY』が割れたカップの破片を博士の首元へと突きつける。同時に、装置のシステムの一部が暗号化され、架空環境からの離脱並びに外部からの介入が一時的に不可能な状態に陥っていることが発覚。この現象の原因は不明だが、前述の行動から『ISY』の手によるものだと想定できる。
架空環境展開装置の再起動を行えば現象の解決は可能だが、環境内に人間がいる状態でのそれは人体に悪影響を及ぼす危険性があり断念。
このままでは博士に危険が及ぶ恐れがあったため、その場に居合わせた職員の鹿間光の提案により、『ISY』の消去を決定。速やかに作業を開始。
八時三十九分。作業終了。『ISY』の消去完了後、源尾博士が気を失い緊急搬送。立ち合いにはその場に居合わせた職員四名が向かう。身体には異常が見受けられないとの診断結果を受けたが、本事案に関するショックが大きく、三日間の入院後に退職届が本人から提出される。
本事案において直接的損害はとくに出なかったものの、これをきっかけに源尾博士を含めた五人の職員が退職した影響は極めて大きく、無視できないものである。
本事案に関する今後の対応策に関しては別紙にて。
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