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青前さんと僕

青前さんと僕 その5

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 逃げるべきか留まるべきか、とにかくそれが問題だ。

 私だって、アマメの言い分を信じたわけではない。しかし、全く無視出来るかといえばそうではない。

 思えば近頃、私の周りでは〝あり得ない〟出来事が頻発している。謎の組織と地下施設、増えるカモメ、天女を名乗る少女、お祭り発生装置、新座の英雄、リアルゾウキリン、巨大な白蛇、怪獣大戦争……。ここに〝新座墜落〟が名を連ねてもなんらおかしくないだろう。

 だとしても、簡単にここを離れられるかと言えばそうではない。仮に逃げるとすれば、私だけというわけにはいかないだろう。落ちるとすれば事は深刻だ。市長に話をつけて、市民全員を避難させる必要がある。付近の市に被害が及ぶ危険性を考えれば、避難範囲は市内だけに止まらない。

 ここにきて、私の中の〝なんとかなるさ〟精神が揺らいできた。しかし私に市長を動かす力は無い。仮に話をしにいったところで良くて門前払い。悪ければ警察沙汰。最悪の場合、黄色い救急車。どれにせよ、良い結末は思い浮かばない。

 逃げるべきか留まるべきか――。

 そんなことを考えながら授業を受けているうち、茂川先生から電話が掛かってきた。ディスプレイに表示される先生の名前を見た私は、「もしかすれば、先生も新座の置かれた状況を危惧して何らかの手を打つつもりなのかもしれない」などと考えたのだが甘かった。

 茂川先生が電話を掛けてきたのは、佐和田さんについて話をするためであった。

「いいニュースと悪いニュースがあるんだ。どっちから聞きたい?」

 なんだかずいぶんアメリカンナイズされたものの尋ね方だ。本当に切羽詰まっている人ならばこのようなことは言わないだろうから、彼女の件について何かしら進展があったのだろうということは簡単に予想がついた。

「では、いいニュースからお願いします」
「ついに昨日、佐和田さんに会えたんだ。突然電話があったと思ったら、家に来ないかなんて言われてね。授業をほっぽりだしてすぐに駆けつけたよ。家も荒れてなかったし、彼女自身も元気そうだった」

 ふにゃふにゃとした笑顔を浮かべる先生が、その弾むような声の調子のおかげで電話越しでも簡単に想像出来た。

 佐和田さんが立ち直ったことは私にとっても大変喜ばしい。しかし、まだ悪いニュースとやらが残っている。両手放しで喜ぶにはまだ早い。それについて私が問うと、先生は少しだけ声の調子を落として答えた。

「彼女は何かを一心不乱に作っていてね。何を作っているのか、なぜ作っているのか、それを教えようとしてくれないんだ」
「別に、わざわざ心配するようなことでもないのでは?」
「そりゃ僕だってイイ大人だからさ、隠し事なんて二人の間には必要ないなんて言わないよ。でも彼女の瞳を見ていると、なんだかとっても不安になるんだ。彼女がどこか、遠くへ行ってしまいそうで……」

 なんだか空気が不穏になってきた。どうやらこれは恋愛相談に付き合って欲しいだけらしいぞという確信が、私の中にぽんと芽生える。

 三十歳を超えた男女の惚れた腫れたなぞ、まだ二十歳にもなっていない私に到底扱えるはずもない。そもそも私にとっての惚れた腫れたがまだなのだ。人のことに構っていられるか。

 私は「気にしすぎですよ」と答え、早々に会話を打ち切りにかかった。

「在原くんの言う通り、杞憂だといいんだけどね」

 先生は心配そうに言った。「知ったこっちゃないですね」とは言えなかった。





 その日、新座には雪が降った。四月の雪は新座にとっても珍しい。もう間近に五月を控えた今の時期ならなおさらだ。テレビからは、地震と雪との関係性について、騒がしいコメンテーター達があることないこと話しているのが聞こえる。

 細かい雪を乗せた冷たい風がカタカタと窓を揺らしている。外はきっと凍えるように寒いが、積もるほど雪が降ることはないだろう。

 コンクリートにぱらぱらと落ちていく雪を見ているうち、私の心の底にある感情が吹き出してきた。それは小学生のころ、雪を見る度に味わっていた、ぶよぶよとした輪郭を持つ不鮮明な恐怖であった。

「やはり、新座は空から落ちるのではなかろうか」

 不確かな恐怖は確信へと姿を変える。だというのに、この状況を好転させるような、とっておきのアイデアは何一つとして浮かばない。しかし私だけ逃げるわけにもいかない。

 ならば、やれるだけのことをやるしかない。市長に話をしに行こう。市長が動いてくれないその時は、私が動くだけの話だ。

 私はこの町が好きだ。この町に住む人が好きだ。だから後悔はしたくない。

 思い立ったが吉日、鉄は熱いうちに打て。タンスの奥から防寒着を引っ張り出した私はそれを着込むと、策らしい策を持たないまま家を飛び出し自転車に跨った。目指すは市役所、市長の椅子。気分はまさに池田屋に殴り込む新選組である。

 気合を入れて家を出てからおよそ一分。向かいから自転車を走らせてくる人がいた。その人物はふいに自転車をその場に停めたかと思うと、「ナリヒラくん」と特別な名前で私を呼び止めた。

「そんなに急いでどこ行くの?」

「市役所に行かねばならないのです」

 こんな時だからというわけではない。正直に言ってしまえば、私は彼女に会うたびにドキドキしている。それは彼女が突然何を言い出すか不安であったり、彼女が私をどこに連れ出してくれるか楽しみであったり、彼女を前にするだけでなんだか無性に恥ずかしくなったりするせいなのだが、今日のようなドキドキはずいぶん久しぶりだ。きっと、彼女が私にとって〝青前さん〟になった日以来だろう。

 青前さんは私をきつく睨んでいる。ため込んだ怒りをいつ爆発させようか、機会を伺っている表情だ。

 青前さんとの問題は私にとって重要だ。しかし、物事には順序というものがある。新座の墜落が現実になるかもしれないという時に、彼女と話して時間を浪費するわけにはいかない。

 ……そんなことはわかっているはずなのに、私には彼女を無視して走り出すことが出来なかった。新座が落ちるということと、青前さんを怒らせるということは、私にとっては同じくらい深刻なのだ。

「ナリヒラくん。この前うやむやになった話の続きでもしよっか?」
「……何故、私が青前さんを避けているか、ですか」
「そうだよ。なに? なんだっていうの?」

 私だって、その理由が言えるのならば言いたかった。心の内をぶちまけてしまってさっさと楽になりたかった。しかし、言いたくても言えないのだ。何せ、彼女を避けている理由は自分でもわからない。

 ただ、ヨボヨボになった郡司氏に会って話をしたその日から、彼女を見るとどうしても気まずくて、なおかつ猛烈にこそばゆくって駄目になる。しかしこれを説明したところで、彼女が納得するわけがないということはわかっている。むしろ一層怒るだろうということもわかっている。

 だから言わない、だから言えない。

「……早く言ってよ」と青前さんは呟いた。か細い声は嵐の前の静けさの証拠だ。

「言いたくても言えないのです」
「……このチキン――」

 彼女がありったけの揶揄、叱咤、罵詈雑言を私に浴びせるその直前、雄々しい馬の嘶きが新座の空気を震わせた。鬼鹿毛の声だ。

 蹄がコンクリートを蹴る音が急速に近づいてくる。法廷速度なんて不自由なものに縛られることなく無人の道路を全力で駆けてきた彼は、私の前で急停止した。

 突然の大馬の登場に青前さんはしばし固まった。彼を知らないわけではない私ですら、驚きと混乱で動けなかったのだからそれも無理はない。

 鬼鹿毛は私と青前さんにそれぞれ視線を向けた後、自らの鼻先で自分の背を指し示した。「乗れ」と言いたいのだろうということを、彼の清らかな瞳が雄弁に訴えている。

 しかし今は彼に構っている暇はないのだ。私は「悪いね」と言いながら彼の頭を撫でた。

「今は立て込んでいるんだ。また今度にしてくれないかな」

 すると鬼鹿毛はフンと鼻を大きく鳴らし、私の襟首を噛んだ。「何をするんだっ」と叫ぶより早く、彼は私を持ち上げそのまま自分の背に乗せる。あまりに突然のことに混乱した私が、その場に倒れた自転車を眺めることしか出来ずにいると、鬼鹿毛は私にやったのと同じことを青前さんにもやって、彼女を私の後ろに乗せた。

 大馬にちょこんと跨る私達は、他人からすれば馬鹿に見えるに違いない。そんなことを考えた矢先、鬼鹿毛は突然走り出した。

 こうなってしまえば降りられるわけもなく、私達には落ちないように堪える以外の選択肢は残されていなかった。
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