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1章

61.染み付いた社畜精神が、転職しても取れていないその2

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 ルミエナの突然の発言。
 まさかの話に、一瞬戸惑ってしまったものの。

「落ち着いて考えてみてくれ。わざわざ自分から待遇の悪い職場に戻る必要はないだろ?」

 正直に言い過ぎたことに一瞬「しまった」と思ってファルの方をチラリと見たが、特に気にした様子はなさそうでホッとする。
 一方でルミエナは顔を俯かせて。

「ここは凄く良いギルドだと思います。お給料もいっぱい貰えますし、忙しいはずのシエラさんまでこうしてあたしのことを心配してくれて、他の皆さんも色々気を遣ってくれて優しくて……」

 良好な職場環境であることが伝わってくる内容なのに、ルミエナの表情がますます暗くなり。

「でも……それが怖いんです。不安なんです。何か裏があるんじゃないかって」
「裏?」
「後から『あの時親切にしてやったんだからお金払え』って言われたりするんじゃないかとか、今みたいにお休み頂いてるのも『足手まといだからもうじっとしてろ』って思われちゃってるかもとか……」
「……何をどうしたらそのような発想になるのか、わたくしには不思議でなりませんわね」

 シエラさんが呆れたように言う。
 ルミエナの言っていることは確かにネガティブ思考が過ぎると思うのが普通だろう。ただ、俺にはどうしてそんな発想になってしまうのか心当たりがある。

 前世の話だ。
 奇跡的にあの職場から転職することが出来た先輩が一人だけ居た。
 その先輩とは竹中さんほど交流があった訳ではないが、ある日偶然再会した時、少しお互いの近況について話す機会があった。
 その時に、こんなやり取りをした記憶がある――。



       ◇



 あの日、俺は顧客やパートナーとの打ち合わせの為に外回りをしていた。

「……次まではまだ余裕あるか」

 腕時計と手帳を見て時間を確認する。
 先方を訪問する際は、基本的に電車遅延や前の打ち合わせが伸びるような不測の事態を想定してアポを取っている。なので予定通りに進んだときは中途半端に時間が空いてしまうことも珍しくはない……というか今がまさにその状況だ。
 時刻は少し昼を過ぎた頃。今日は久しぶりに落ち着いて昼食が摂れそうだ。どうせ帰社したあとは仕事が山積みなので今のうちに英気を養っておこう。これも外回りの特権だ。
 そう思ってどの店に入ろうか考えながら歩いていると。

「ん? 伊藤じゃないか」

 通行人とのすれ違いざまに、そう声を掛けられた。
 振り返ってみると見覚えのある、半年前までは同僚だった人が居た。

「久しぶりだな、元気してたか?」
「お久しぶりです。こっちは……まぁ相変わらずって感じですね」

 この会社から抜け出せた羨ましさを押し留めながら挨拶を交わす。
 先輩の転職先は企業評価サイトでも平均☆3の評価(5段階中)を受けている優良企業。☆1しかついていないようなウチとは大違い。
 そんな転職成功者の先輩はさぞかしワークライフバランスな感じで働いていることだろうと思っていたのだが……。

「あまり元気ないように見えますけど……大丈夫ですか?」

 久しぶりにあった先輩は、顔色こそうちで働いていた時よりもツヤツヤしているが、オーラというか雰囲気が明るくない。退職日のときなんて本気で妬んでしまうぐらいに晴れやかだったというのに。
 俺の言葉を受け、先輩は少し考え込むような素振りをした後。

「……なぁ、ちょっと話す時間あるか?」

 何か深刻そうな雰囲気で、そう切り出したのだった。





 誘いを断れず、すぐ側のファミレスで少し話すことになった。
 先輩は喫煙者ではあるがお互い外回り中ということで禁煙席を選び、注文を通した。
 そうして一息ついた頃。

「悪いな。もう先輩後輩って訳でもないのに付き合わせて」
「いえ大丈夫ですよ」

 断りにくかったというのもあるが、俺も今の職場から抜け出したいという気持ちがあり、先輩からなにか有益な情報が得られないかという打算もある。転職成功者の経験談は非常に貴重だ。

「それで話っていうのは?」
「あぁ……今の職場のことでちょっとな……」

 やっぱり職場のことか。
 暗い表情を見たところ、俺が想像している程あまり良い環境ではないのかもしれない。俺が転職する時に同じ轍を踏まないためにも少し詳しく聞いておきたい。

「もしかして事前に聞いてた条件と違うとかですか?」
「いや聞いてた条件通りだ。暦通りに休めるし有給も月1で取れる。仕事も暇じゃないぐらいにはあるし、給与だって良いんだが……」

 どう考えてもうちとは大違いなホワイト環境なのに、先輩の歯切れが悪い。
 数秒間、言葉の続きを待っていると先輩は意を決したように。

「なぁ伊藤、例えばお前が電車遅延で遅刻する時に会社に連絡するとするだろ」
「ええ、まぁ。はい」

 例え話ということなので肯定しておく。
 俺はいつも朝礼(中身が無さすぎて参加することに意味があるとは思えない行事)が始まる1時間前から業務に取り掛かっているので遅刻はしたことないが、もし遅刻するとするなら連絡を入れるのが常識だ。

「その時にさ、上司から『電車遅延は仕方ないよな。慌てなくて良いから気を付けて来いよ』って返ってきたら、お前どう思う?」
「そうですね……少なくとも言葉通りには受け取れないですね」
「というと?」
「裏メッセージとして『電車遅延なんて普段から頻繁にあるんだから、備えて早めに出てくるのが常識だろ。とにかく急いで来い』という意味が込められていると思います」

 ハラスメントが世間で大きく騒がれるようになってから殆どの企業はパワハラ行為に敏感になっている。一定規模の会社に関してはそういった問題に対応するための専門部署も設置されているのが普通で、先輩の転職先にもそういう部署はあるはずだ。
 なので監視・監査の目を掻い潜る為に直接的な言動は取らず、一見なんの問題もない発言をしながらも、言外で「察しろよ?」と圧を掛けてきているのだと考えた。

「……だよなぁ。やっぱ俺達はそう捉えちゃうよなぁ」
「俺達は、ですか? その言い方だとなんか……」

 まるで自分達以外はそう考えないと言っているように聞こえる。
 首をひねっていると先輩は。

「なんていうかさ、俺達は普段からどんな事態に直面しても、最悪の事態を想定していつでも動けるように備えてきただろ?」
「そうですね。お陰で大抵のことには動じなくなったと思います」

 急に納期が極端に短い仕事が振ってきたり、誰かの急な休職や退職でその人が抱えていた仕事がこっちに雪崩込んできても、部長の無責任な空気の読めない発言、取引先や顧客からのお叱りにもあらかじめ備えておけば必要以上に慌てたり心がかき乱されることはない。
 常に最悪を想定して動く。常に最悪の為に備える。先輩も俺も、あの職場で働く人はみんなそういう考えが染み付いている。

「そういう悪い風に捉えるってのがもう癖になっててさ、周りが優しく接してくれても勝手に裏があるんじゃないかって勘ぐっちまって……なんていうか、罪悪感感じたり自己嫌悪しちまうんだよ……」
「ええと……その、周りの人の優しさというのに裏はないんですか?」
「と俺は思っている」

 にわかには信じがたい話だが、先輩が嘘をついているようには見えない。
 さすがは評価☆3のホワイト企業ということなのか。もし仮に、本当にそんな環境下に先輩が居るとするのであれば。

「でしたら少しずつでも癖を無くせるように意識してみるのは?」

 悪いように捉えてしまう癖を無くしてしまえば解決だと思う。

「そうだな……それも考えたんだが……でも怖いんだよ」
「怖い、ですか?」

 俺の知っている先輩はもっと堂々としていたというか、少なくともこんな弱気そうな態度を見せるような人ではなかった筈だ。それなのに、目の前の先輩は何かを恐れているみたいに俯き加減のまま話している。

「この習慣ってさ、自分の心を守るバリアでもあると思うんだよ」

 常に最悪の事態に備えておくのは速やかに業務のリカバリーを図れる他に、実際そうだった時に「やっぱりな」って思えるような予防線の面もある。先輩が例えている心のバリアという表現は的確だ。

「だからさ、もしバリアを解除した途端、またグサッと刺されるような事態が起こったらって思うと怖くてさ、やっぱり悪く考えておく癖ってのが治らないんだよ」
「なるほど……それはそうですね」

 この習慣、先輩の言葉を借りるならバリアは言わば過酷な環境で生き抜くために作られたもの。言わば自己防衛本能にも近い。それを取っ払うというのには相当な覚悟が要る……。
 俺よりも長く勤めていた先輩が覚悟を決められないのも至極当然だ。

「……これは難しい問題ですね」

 解除したくても解除できない、もはや呪いの装備。

「ああすまん。そんなに深刻に考えないでくれ、結局は俺の気の持ちようだしさ」
「ですが……」
「……まったく、相変わらず真面目だなお前は。ほれ、料理が来たぞ。まだまだ仕事あるんだろ、しっかり食って備えておけよ」

 そう話を切り上げられてしまい以降、この話に触れることはなかった。
 

 ホワイト企業に転職出来ても幸せになれるとは限らない。
 そう思うぐらいに、先輩との再会は印象的だった。



       ◇



 ルミエナはきっとあの時の先輩と同じで、イーノレカで働くうちに身につけた習慣・スキルが抜けていないせいで、ホワイト職場の人達に優しくされることが逆に不安に繋がっているのではないかと思う。その不安を解消するために自分に出来ることを必死にやろうとした結果が、今の状況なのだろう。
 ただ、そんな気持ちを抱いていたとしても……いや、抱くぐらいに社畜精神が根付いているからこそ、今所属している組織を大切にして欲しいと思う。

「だからって急に辞めるのはギルドにも迷惑を掛けるぞ」

 最終的には戻ってくる道もあるという話は出ていたが、移籍してまだ1ヶ月なので転職するにしても早すぎる。
 それにロイヤルブラッドでも十分な実績を残している。今回はギルドに貢献したいという気持ちが強すぎることが裏目に出てしまったが、上手く活用すればより大きな戦力になる。シエラさんとしても手放したくない気持ちはあるはずだ。

「わたくしと話し合って出した結論ですのでご心配には及びませんわよ。正直なところ手放すには惜しい人材でもありますし、そちらのギルドが良いというのは首を捻るところではありますが、ご自身に合った環境で働けるのであればそれが一番ですわ」

 と思っていたら現雇用主直々に許可をくれていたらしい。
 ……さすがはホワイト企業のトップ。俺の常識では計り知れないほどに従業員ファーストだ。
 現職の方が問題ないとなると後は……。

「それで、そちらのマスターはどうお返事なさるおつもり?」

 シエラさんがファルに視線をやる。
 本人の意思と現雇用主の意見が一致した今、後はファルの判断次第。俺としては復職大歓迎ではあるが、ルミエナの成長を願って送り出したファルとしては内心複雑だろう。甘えは許されないと言って復職を認めない可能性も考えられる。
 3人揃ってファルの言葉を待っていると、「ふぅ」と小さく息をして。


「うちで働きたいと言っている以上、拒否はできないわね」


 意外にもあっさりと受け入れる方向で決めてくれた。

「あ、ありがとうございますっ! 頑張りますっ!」
「良かったですわね」

 長い髪を揺らして勢いよく頭を下げるルミエナに、復帰を喜んでくれるシエラさん。
 そしてファルは小さく笑みを浮かべて。

「そうね。を期待しているわ――」

 そのファルの笑みと言葉に、何か含みを感じたが……。
 いや、でもまさかな……。

 

       ◇



 ロイヤルブラッドからの帰り道。
 ファルと並んで歩く。

「なんだかんだで結局元通りになったなぁ……」

 ファルの親父さんの発言から始まった一連の出来事。
 色々と動いたりロイヤルブラッドまで巻き込んだが結局は元通りという結果に落ち着いた。明日からすぐに復帰、という訳にはいかないが数日もすればイーノレカにルミエナが戻ってくることになっている。

「まったく一緒って訳でもないわよ」
「ん、ああそうか。シエラさんに迷惑掛けた訳だし、借りを作ったって形に――」
「そうじゃなくて」

 ファルが俺の言葉を遮り。

「あの子の気持ちが以前とは別物になってるのよ」
「……気持ちが別物?」

 聞き返すと「ええ」と小さく頷き。



「違う環境で働いてみてあの子もようやく自覚したのよ。もう既に、になってるってことにね」


 何か悪いことを企んでいる悪人のような笑みを浮かべながら、怖いことを言い出した。
 確かにロイヤルブラッドのようなホワイト企業に居ながらブラックなこっちに戻りたいだなんて、俺みたいに社畜精神に染まっているのは明らかだ。
 でもファルの口振りからすると、まるでこうなることを知っていたかのようにも思えてくる。

「……まさかとは思うが、退職を勧めた理由って」
「あら、ようやく気付いたのかしら」

 その言葉で疑念は確信に変わった。
 ファルが移籍を勧めた理由は、別にルミエナの幸せを願った訳じゃなく、環境を変えることで社畜精神を自覚して貰う為だけのもので――。

 

「ふふっ、自分から働きたいと申し出てくれた以上、あの子にはこれまでよりも沢山頑張って貰わないといけないわね」

 


 計画通りとばかりにほくそ笑むファルを見ながら俺は、後輩に向けて心の中でこう呟く。

 心のバリアは解除しない方がいいぞ、と。
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