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172 水面に浮かぶ(3)

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 違う方向から来たんだ。
 昨日いた場所は、ここから右手のかなり向こう側になるだろうか。

 湖の方角から来る、涼しさを含んだ風が、髪を靡かせた。
 ヴァルが草陰に入り込むと、ゴン、と音がした。
 見ると、湖の上、草陰から出てきたのは、一艘のボートだった。
 手漕ぎボートのように簡素な作りだったけれど、公園の池で乗るようなボートよりもずっと大きい。
 ヴァルはロープでボートを手繰り寄せると、片足をボートに乗せる。
 ボートが、微かに揺れる。
 手を差し出される。
 エスコートされながら、
「これどうしたの」
 と、眼を丸くした。
「俺のボート」

 足がボートにかかると、湖の水が揺れた。

 ボートの中に座り込む。

 こんなの、知らない。
『メモアーレン』には出てこなかった。
 王都にあるってことは、ジークの時の物じゃないの?
 それとも、学園からのお使いの時に?

 知らないことも……あるんだ。

 当たり前だけど。
 けどそれが、嬉しいと同時にちょっと胸が痛かったりもする。

 ジークとヴァルが同一人物だと実感してから、『メモアーレン』の王子ルートとはいえ、トゥルーエンドからバッドエンドの隅々までやり尽くした私は、なんだかなんでも知っているような気がしてしまうことがあるのだ。

 ヴァルが短剣を取り出し、力を込め唱える。

「ワール・ウィンド」

 ヴァルの短剣の前に魔法陣が現れ、弾けるように消える。

 ……風の魔術?

 その瞬間、くんっ……とボートが動きだす。
 歩くよりも遅く、風に流されているのかわからないほど。けれど、確かに発動した。
「すごい……」
 確か、竜巻を起こす呪文だ。
 竜巻、と言うには実戦では使えないほど緩やかな風だけれど。
 祝福されていない魔術は、使えないレベルで力が弱まるし、そのくせ体力は異様に使う。
 そんな魔術の魔法陣を覚えるだけでも大変なので、一般的にはしない。
 けど、できないことは、ない。
 実際、学園でも基本の魔術は全属性覚えさせられる。

「すごくはないよ」
 苦笑する顔で、ヴァルが笑った。
 湖面に反射する光。

 う…………。
 やっぱりかっこいいじゃないか。

 素直になってしまえば、こんなに心惹かれる人は他にいないのがわかる。

 ゆるゆると進むボートの中で、風を見て、景色を見た。
 光を受けた湖面が、白く輝くのを見る。

 なんでここに連れてきてくれたんだろう。
 正面に座るヴァルは、じっと、エマの方を見ている。

 ここでなら相談しやすいから、とか?
 やっぱりデートのつもりで来てくれた?
 それとも……、気晴らししないと最近お前おかしいよ、みたいなこと???

 理由はわからないけど、じーっとこっちをみるヴァルの顔は、どことなく優しい。

 その緩やかな優しさが、静かに心臓を波打たせる。

 ゆるゆると進んでいたボートは、湖の真ん中あたりでゆっくりと止まったようだった。



◇◇◇◇◇



普通にデートだよ。微笑ましいね!
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