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鬼①

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 灰色の空が続いていた。
 元々、気持ち良く晴れ渡る事の少ない地域ではあったが、それは人々の気持ちを代弁しているかのように感じてしまう。

 開拓民にとって、希望の地であるはずだった。
 見渡せば乾いた大地が延々と続き、緑は僅かな雑草がある程度。水は少なく、日中は暑く、夜は冷え込んだ。
 だが、何もないわけでもない。貴重な鉱石が取れる事から、それを売って生計が立てられた。一獲千金も夢ではない。

 元々は、田舎貴族の四男が協力者を募り、都市部では生きていくのも難しい者らが集まって一つの集落ができた。定期的にやってくる行商人との取引もできあがり、逞しく生きている。
 二世代から三世代になり、集落と町や都市部を繋ぐ道が作られる計画も立てられた。これから、発展していく。そんな希望が湧いていた。

 それが今、誰も笑顔を見せなくなった。

 魔物がいる。

 人里から離れれば、大陸中の何処ででも遭遇する恐れのあるそれだ。この辺りでも年に何人かが被害に遭っている。
 人間を食べる為、ただ憎しみを持って敵対する為、利己的に奪う為、襲ってくるが魔物だ。知性を持っても理性を持たぬ生物。圧倒的に価値感の乖離した存在。

 だから、覚悟と細心の注意を払って、男どもは仕事に出かけていた。

 これは辺境の地にあっては普通の事で、この地域に限った事ではない。

 この世界では何処でも起きうる普通の事。

 魔物の集団がいる。それも数百の規模で。
 普通ではなかった。

 最初にそれを発見した男は、恐怖の叫びをあげそうなところをどうにか我慢して、命からがら逃げだした。
 集落に数頭しかいない馬を駆り、戻った彼の報告を受けて、指導者であった元貴族の四男は考える。

 一人を使いに出した。小さな王国ではあったが、騎士団がいる。
 逃げだすべきか、籠城するべきかを考え、後者を選んだ。年寄りや小さな子供を連れて、安全な場所まで逃げきれない。

 騎士団が来てくれるまで持ちこたえる為に、集落の周りの囲いを頑丈に直させる。
 有事の際に、女子供を隠す場所は決めていたが、今回は戦える女も動員しなくてはならない。とにかく長い槍を不格好でも多く作っていく。

 生き残る為に必死になった人々から、笑いはなくなった。
 目撃証言から魔物の集団は、数日中には集落に到着するだろう。ここが正念場なのだ。

「成程、それで、皆、忙しそうなのですね」

 スープを飲み干して、少女は微笑む。
 そう、笑ったのだ。

 ここが家の中で良かったとムニは思った。この集落では最年長の老婆であって、彼女自身は気にしないが、苛立っている男衆らが見たら、どう思っただろう。

 いや、もしかしたら、反対に少しは気が安らいだであろうか。

 少女は美しかった。
 漆黒の真っ直ぐな腰までの長い髪をして、前髪は綺麗に切り揃えられている。年の頃は十三、四、といったところであろうか。
 顔立ちも服装も異国風であり、見た事もない煌びやかなかなり上質な生地のそれを少女は着物だと言った。

 浮世離れした美少女。実際に見た数は少ないのだが、貴族のお姫様でもこれ程の可憐さと麗しさを持つ令嬢はいないのではないか。

「腹は満ちたかね?」

「ええ、ありがとうございます」

 五歳になったばかりの孫娘が遠巻きに彼女を見ている。
 強く興味を抱いた様子の孫娘を少女は呼んで、頭を撫でてくれた。

「あんた、異国の方だろ? どうして、こんな所に……」

 少ない水ではあったが、客人の為に出してやる。

「ああ、ここはやはり日本ではないのですね」

 彼女がふらりと現われたのは、つい一時間程前の事だ。
 この辺りには他に人間の集落はなく、また明らかに外国人であったが為、誰もが警戒するのは当たり前である。

 言葉を投げれば、彼女は最初、首を傾げた。
 通じないのかと思ったが、暫くして、言葉を返してきた。「ここは何処でしょうか?」と。
 魔物の中には、人に化ける物もいると聞く。
 少女の美しさは、人間離れしているとも見えた。

「いいじゃないか、もしも旅人なら困っているかもしれないよ」

 ムニがそう言ったのだ。
 最高齢のオババの言う事だから――迷った人々を決断させた。
 それが正しかったかは分からない。なにせ、直ぐにここは地獄になるのだから。

「二ホン? 聞かない地名だね」

「うーん、ここは電気も通っていないようですし、当然、ネット環境なんてありませんよね。ここは何という国の何という場所なのでしょうか?」

「アンタ、旅人ではないのかい?」

「まあ、旅行中ではあったのですが、皆とも逸れて……」

 罅も皸もない美しい指先が見える。
 きっと異国の貴族の令嬢なのだろう。何処に向かう途中かは分からないが、山賊か魔物に襲われてお付の従者とも逸れたのか。意味の分からない事を言うのは、それだけ怖い目に遭ったのかもしれない。

「ここは、ベトランゼ王国の最果ての地さね。あたしらはここを希望の村と呼んでいるよ」

「ここの人々の顔立ちは、欧州の何処かでしょうかね?」

「欧州?」

「言葉は、英語でもフランス語、ドイツ語、ポーランド語、うーん、どれでもありません。翻訳術は効いているようですが……」

 知らない言葉の羅列。混乱して、記憶の生涯でも起きているのだろう。

「まっ、ゆっくり思い出せばいいさね。まあ、生き延びる事ができれば、の話だけどね」

 頭を撫でられるのが気持ちいいのか、少女の膝元で孫娘はうとうとしていた。

「魔物、ですか」

「ああ、男衆の話じゃ、強い魔物で、鍛えた騎士が数人で一体を倒せるくらいって言うじゃないか。そんなのが数百いるって話さ」

「まあ、強いのですかね!」

 何処かはしゃぐような響きが少女の声にはあった。

「そ、そりゃ、騎士が数人がかりって言ったら……」

「騎士の強さが分かりません。あっ、でも、自衛官一人と計算すればいいのかしら? 武器は何を持っているの? 小銃で計算すればいいのかしら? その魔物、戦車よりも強いのですか?」

「戦車?」

「ご存じないですか、戦車?」

 ポカンとするこちらの顔を見て、少女は話題を変えた。

「地図とかはありませんか?」

「そんな高価な物はないね」

「高価……ですか」

 やはり、高貴な令嬢であり、それもかなり裕福な家の方なのだろう。
 ただ、根の優しい少女であるのは間違いない。こんな貧乏人の汚れた子供を嫌う事無く、纏わりつかれても優しく撫でてくれているのだ。

「悪い事は言わない。あたしらは、ここから離れる事はできないが、アンタ一人なら、今なら逃げられるよ」

「皆さんは逃げないのですね」

「こんな年寄りの為さ。老い先短いのにね」

「ここの魔物は悪いのですね」

「いい魔物なんているのかね?」

「どんな存在にも良き者、悪き者、色々いますから」

 遠い異国から来た少女は、旅路で様々な経験をしてきたのだろうか。

「いたらいいね、よい魔物が」

「いますよ、きっと……」

 その時に見せた少女の笑みに、神聖のような物を感じた。
 生き残れる確率は極めて低い。だから、人生の最後にこんなに美しい女神のような少女に出会えたことを喜ぼう。

 さて――と、食器を片付けようと腰を上げたその時だった。

「来たぞ! 魔物だ。オークが……逃げろ、逃げろ!」

 予想されたよりもずっと早く、その時がやってきた。
 孫娘を起こし、ムニは眠い目を擦る彼女の手を引いて、外に出た。

「さあ、アンタも……」

 いなかった。
 まるで最初からいなかったかのように、少女の姿は消えている。

 何処に行ったのか?

 今は気にしてはいられない。
 孫娘がいる。自分はどうなっても構わないが、この子だけは守らなくてはならない。

 息子は昨年、遠方の採掘場に行ったきり、戻ってこなかった。一緒にいった者らの話では、ゴブリンに襲われて死んだそうだ。
 嫁は孫娘を産んだ時に死んでしまった。

 自分の残された家族は孫娘だけ。愛しくて堪らない小さな彼女だけなのだ。

「ハァ、ハァ……」

 老体に鞭打って走る。

 横で血飛沫が舞った。
 もう、魔物が集落に入り込んでいたのだ。死んだのは隣に住んでいた男の妻である。

「ヒイ……」

 見込みは甘かった。

 警戒していたはずだが、先に数体が先行していたのだ。それを見付けられなかった。

 怠慢と怒ってやる事も可哀想だ。
 急ピッチの塀の補強作業に終われ、まだ二日は接近に掛かると思っていた。

 疲れと、この何もないような荒野を見逃すはずはないという思い込み。
 奴らは、土色の布を使い、それで体を隠しながら、人間の視力の届く距離まで近づくと、匍匐でゆっくりと寄ってきたのだ。

 魔物にそんな知恵はないといつから思っていた?

 結果、まだ十分に補強されていない囲が簡単に崩され、そこから入り込まれたのである。

 たった数体。だが、一体を村の男衆が囲っても、誰一人、傷すらつけられない。
 訓練された騎士が数人がかりで倒せる魔物。豚に似た顔に、でっぷりとした腹をした二メートルを超える巨体で、荒々しく武器を振るってくる。

 オーク。奴らの目的が何なのか知らない。
 ただ、殺そうとしているのは解かる。

「捧げよ、混沌を!」

 豚面が叫んだ。

「我らが破滅神に、混沌を!」

 何を言っているのか解からない。いや、言葉は聞き取れた。だが、破滅神など聞いた事もなかった。

 考えてもいられない。

 逃げる。逃げなくては、孫娘を守れない。戦えない老婆にできるのは、それしかないのだから。

 悲鳴や絶叫が聞こえる中、逃げ込むべき、集落の倉庫が見えた。
 もう少し――、最も分厚い壁と扉で覆われたあそこなら、何時間かは立て籠もれるだろう。それまでに騎士が間に合ってくれさえすれば。

「うぐ……」

 足がもつれ、ムニは膝を付いた。胸を押さえる。

「お婆ちゃん?」

 心臓に負担が掛かり過ぎて、全身が汗に塗れ、呼吸すらおぼつかなくなった。
 元々霞んでいた視界が更に暗くなって、もう立ちあがる事はできない。それでもこのまま気絶するわけにはいかない。

「お行き……。ほら、あそこに向かって、走るんだよ」

 孫娘が泣きながら体を揺すってきた。

「やだ……、お婆ちゃん、やだぁ――」

「困らせないでおくれ。さ、さあ、行って」

 倉庫の扉が微かに開いていて、こちらの様子を見ていたが、誰かが助けに来てくれるわけでもなかった。
 怖いのだ。外に出るのが怖くて、誰も動いてはくれない。

「ババアが倒れているぞ」

 背後に気配があり、大きな影が体を覆ってきた。
 豚面の魔物がいる。その手には、狩ったばかりの人間の男の顔があり、無造作に投げるのだ。

 ムニは慌てて孫娘を胸に抱き締めた。ただギュッと包むように。

 倉庫の扉が閉じられた。見捨てられたのだ。
 いや、これも仕方がない。誰が助けに来られるというのか。

 見下ろしてくる一体のオークの他に、二体もやってくる。そいつらは全員、体中を赤に染めていて、それが男衆らの返り血であると簡単に想像ができてしまった。

「で、このババア、どうするんだ?」

「人質にするか。子供もいるぞ」

「なら――、おい、倉庫にいる人間ども、こいつらを助けに来ねえの? 殺しちゃうぞ」

 ギャハハ、と笑ってきた。

 当然、反応は戻ってこない。

「ち……、んじゃあ、殺しちまうか。どうせ本体が来たら、あんな倉庫、直ぐに潰せるだろ」

「それまで、たっぷり怖がってもらおうか」

「まずは、ババアを殺して、その後、ガキで遊ばせてもらうか」

 大鉈に似た得物が振り被られる。

 丸めた自分の背中が盾。胸にこのまま孫娘を抱き続け、少しでも長く死なないようにする。そうすれば、騎士団が間に合うかもしれない。

「神様……」

 それがどんなに見込みのない奇跡か知っていた。
 小さな王国と言っても、騎士団がいる大きな町に使いが到着するのはきっと今頃であろう。
 どんなに急いで来てくれても三日はかかる。このまま三日、生きているはずはない。

 だから、誰でもいい。
 自分はもういいから。
 この子だけでも。

「救ってください……」

「あい、分かった」

 風が吹いたような気がした。
 僅かに開いた瞳に入り込んだのは、煌びやかな着物と呼ばれた衣装の生地である。
 振り返る。

「こやつらを排除すればいいのでしょ」

 彼女は、振り下ろされそうになっていたオークの拳を頭の上で、支えるように制していた。
 涼しい顔で、美麗な大きな瞳を細め、やはり微笑むのだ。

 そして見た。

 微笑む口の中に覗ける牙と艶やかな黒髪の上に生えた二本の角を。

「な、なんだ、てめえ――」

 震えているのはオークの方の腕だった。押し込む事も引く事もできないでいる。

「ん? ああ、私はエンキ。妖怪の鬼よ」

 次の瞬間、拳を握られていたオークの体が爆発して、肉塊が飛び散った。
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