道化の情

序章

※

「お前ん家、臭いよな！」
「親なしヤロー！」
「腑抜け……！何とか言ってみろよ……！」

心ない言葉に胸を刔られ続け、マイケルは心身共に衰弱していた。
虐められている事は──３年前に両親が事故で他界していて──自分の為に働く兄には話せなかった。
そうでなくても、兄は苦労している。これ以上、迷惑はかけられない。そう思いながらずっと堪えていた。
見えない場所に怪我をさせられる日も少なくない。それを兄に知られないよう、マイケルは家ではずっと笑っていた。
今日も腹に痣を作られ、泣きたい気持ちを背負ったまま帰宅したが、兄は町工場で働いている為、帰宅は１８時をすぎる。
そんな兄の為に自分が出来る事は、文句を言わない、心配をかけない、家事全般を引き受け、笑っている事だけだ。
早く兄を楽にしてやりたい。だから、虐められるだけのハイスクールを辞めてしまいたかった。
だが、虐めを知らない兄は辞めていい、とは言わない。
せめてハイスクールだけは卒業して欲しい。自分の為だけではない。死んだ両親もそう願っているはずだと言われれば、もう何も言えなくなる。
誰にも悩みを話せないマイケルだったが、唯一、隣に住むレナード・ハングマンには打ち明けていた。
彼も兄と同じ町工場に働く社員で、マイケル達が生まれた時からの付き合いだ。
そんなレナードにだけ悩みを打ち明けるようになったのは、先週からだった。

いつものように痣を作り、玄関で冷や汗をかいていたマイケルに、彼は声をかけてきた。

「やぁ、マイケル。どうしたんだい？冷や汗なんかかいて」

たまたま休みだったレナードは、買い物に出ようとしていた。マイケルは微笑して見せたが──痛みのあまり──声が出せなかった。

「怪我でもしているのか？だったら」
「大丈夫……だから、ありがとう……レナードさん」

痛くて顔が歪む。それを不審に思ったレナードは、マイケルに肩をかしてくれた。

「言いたくないなら無理に言わなくてもいいが……デニスは知っているのかい？」

首を振る。すると彼はマイケルの頭を撫でた。その手はシワシワだったが──分厚くて温かい──働く男のものだった。
涙が溢れる。小さなヒビがいってしまった堤防が、もう限界だと叫んでいる。

「君達兄弟を生まれた時から知っているんだ、私はね。そして君達に悲しい事があったのも知っている。だからマイケル、誰にも話せないような事があればおじさんに話してくれ。君達の親代わりになろうとは言っていないが、私からしてみたら、君達はまるで私の子供のようなものだから」

そう言ったレナードはマイケルの代わりに玄関の鍵を開き、彼をリビングまで運んでくれた。

「ありがとう……レナードさん。僕……その……恥ずかしくて……」

堤防が決壊し、涙はとめどなく溢れてきた。

「い……虐められてるなんて、兄さんには言えなくて……！心配かけたくないし、もう、どうしようもなくて……でも辛くて助けて欲しくて……！」

レナードに縋り付き、マイケルは泣いた。両親の葬式以来、我慢していた涙は彼のシャツを濡らした。

「そうだったのか……そりゃ辛かっただろうね……でももう大丈夫だ。おじさんがいつでも君の話しを聞くよ。大丈夫だ」

レナードは、マイケルが泣き止むまで側にいてくれた。ずっと泣くだけのマイケルを、頭を撫でたり背中を撫でたりしながら宥めてくれた。
解決こそ出来なかったが、話しを聞いてもらえただけで、マイケルの気持ちは少し楽になった気がした。

だけど今日は、そのレナードもいない。
テーブルの上には、昼にデニスが戻ったのだろう。手紙が置いてあった。


──今夜から残業だ。すまないんだが、先に寝ててくれ


気が重くなる。
今夜から１人だ。
夜は長い。