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第8章
1.
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出所パーティーから1週間。その間ずっとクレイズは、ドーズの仕事場に連れて行かれた。
何をするでもなくドーズを眺めていると、患者達が入れ代わり立ち代わりに入って来ては、ドーズの診療を受けていた。診療と言っても外科医のように傷の手当をする訳でもなく、内科医のように聴診器で体の内側の音を聞くでもない。
体の内側を聞く、と言う点で言えば、患者の悩みを聞いているドーズは、ある意味内科医のようでもある。
クレイズに見せた事のないような真剣な顔で患者の話しを根気よく聞いているドーズは、スーツに白衣を羽織っていた。
凛々しく見える。
整った顔立ちも、スラリとした体格も、申し分ない。
患者の大半は若い女で、ドーズ目当てに通っているようにも思えたが、敢えて口にしなかった。
ただ、ボゥッとしているクレイズへ、時折ドーズが視線を向けてくる。それに気付き、中にはクレイズを睨む患者もいたが、クレイズは気にしなかった。
端からどう見えていようが、自分の心はドーズにはない。かえってその嫉妬に燃えた目が迷惑だった。
そしてゲイナーの誕生日パーティーがある今日。ドーズは早目に診療を終えると、白衣を脱ぎながらクレイズを振り返った。
「本部長に、何をプレゼントするの?」
白い診察室の壁にもたれていたクレイズは、その言葉に背中を浮かせた。
「まだ決めてない」
「じゃあ、今から見に行こうか?パーティーまでまだ時間はあるんだし」
脱いだ白衣をハンガーにかけ鞄を持ったドーズは、クレイズを見てきた。
「そうだな。そうしよう」
1人で見たかったが、それをドーズが許す筈もない。こうして診療所に連れて来るのも、自分がゲイナーに会いに行くのを阻止する為のように思われた。
「ある程度、何を上げるか決めてある?」
「いや、全然。何を上げればいいか、検討もつかん」
そう答えると、ドーズは先に診療所を出た。続いてクレイズが出ると、ドーズは鍵をかけながら休診の札をドアノブにぶら下げた。
「じゃ、デパートに行こうか?僕も何をプレゼントするか決めてないし」
それにクレイズが頷くと、ドーズは行こうか、と言ってクレイズの肩に手を回した。
いつものように業務を終えて帰宅したゲイナーは、誕生日パーティーの用意されているリビングに入るなり、家族に祝福された。
息子のケイトから視線を移すと、妻は頷きながら微笑んだ。その笑顔に、今日一緒に祝ってくれる、ドーズとクレイズの話をする。
「そのクレイズさんって、美人なの?」
そう尋ねてきたケイトの質問に、ゲイナーは頷いた。
「あぁ、美人だ。だが、ママの次かな?」
そう笑いながら答えると、ケイトはそうなんだ、と呟いた。
「そうだパパ、これ、ママと僕からのプレゼント」
そう言いながらケイトは──あらかじめ隠していたのか──テーブルの下から包みを取り出した。それは細長く、かわいらしいリボンが不器用そうに巻かれている。
「2人で選んだのよ?」
「そうか……!ありがとう」
そう言って受け取ると、ゲイナーは大切そうにそっと箱を開けた。すると、そこには少し派手めなネクタイと、それに似合うタイピンが収まっていた。
「アナタ、改めておめでとうございます」
ゲイナーは感無量と言った様子で何度も頷くと、ネクタイを箱から取り出し、胸元に宛てて見せた。
「どうかな、似合ってるか?」
照れながらゲイナーがそう言った時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「きっとドーズ達だ」
ゲイナーがそう言って立ち上がろうとすると、ケイトが先に立ち上がり、こちらへ笑みを見せた。
「僕が出るよ」
そう言うと、ケイトはゲイナーの返事を待たずに玄関へと歩き出した。
ドーズと一緒にクレイズがリビングに通されてから、ゲイナーは家族を紹介してくれた。
妻のマーガレットに、息子のケイト。2人を紹介するゲイナーの表情は幸せに満ちていた。
息子のケイトは、ゲイナー同様嬉しそうにクレイズを見てはいるが、妻マーガレットの視線には、明らかに敵視している、と言うような、怒りにも似た嫉妬が見え隠れしている。
ゲイナーはそんな妻の視線に気付いていないのか、久しぶりに家族で取る食事を楽しんでいるようだった。
「ドーズさん、お仕事どうですか?」
「そうだね」
ドーズが自身の仕事を語り始めると、クレイズは席を立ってリビングを出た。
見ていられない、と言う訳ではなかったが、正直現実を直視するのには参っていた。
クレイズはトイレの前でため息をつくと、中に入った。別に用をたしたかった訳でもなくぼぅっと座っていると、ドアの向こうからゲイナーの声が聞こえた。
「クレイズ?」
「何だ?ゲイナー。今はトイレの最中なんだが」
そう嘘をつくと、ゲイナーは軽く咳ばらいをした。
「いや、すまない」
「構わない。で、何か話でもあるのか?」
そう言うと、一瞬の沈黙の後ゲイナーが話し出した。
「今日は来てくれて本当にありがとう。凄く嬉しいよ」
「どういたしまして」
「それで、その……その時も言ったんだが、裁判の時、控室ではすまなかったな」
申し訳なさそうな声が聞こえ、クレイズは用も足していないのに水を流しトイレの外に出た。ゲイナーは声の通り申し訳なさそうな顔をしている。
「構わないと言ったろ?オレはお前が好きなんだ。好きで好きで堪らなくて、キスをしてくれた時は凄く嬉しかった」
そう言うと、クレイズはゲイナーの胸元にそっと額を擦り寄せた。
「君の気持ちは嬉しい。だが」
「家族がいる、か?知ってる。控室でも言っていたな。お前が家族を第一に考え、捨てられないのも知ってる」
クレイズが俯いたままの姿勢でそう言うと、ゲイナーはまたすまない、と言った。
「君の私への気持ちはやはり父親への思慕だと思う。だから、早く本当の恋を見つけるんだ」
そうゲイナーは言った。
──やはり、この気持ちはゲイナーの言うような感情なのだろうか?
いや、違う。ゲイナーと同じような年頃の男を見ても何も思わない。似た匂いを嗅いでも胸は騒がない。
──これが恋じゃないと言うのなら一体何が恋なのだ?
クレイズはそう自分に問い掛けてみた。だが返答などある筈もなく、ただゲイナーはそうやって諦めさせようとしているのだな、と思った。
「叶わないと知ってる。だからお前が好きだと言ってくれた時は、凄く幸せだった。だけどもう忘れるよ」
ゲイナーが諦めさせたいと願うのなら、そうしようと思った。
このままでは、ただ苦しめるだけだ。
「クレイズ……」
ゲイナーはそう呟いてから、クレイズの肩に手を置いた。
「だからゲイナー。お前も忘れてくれ。これからは前だけを見るんだ。いつまでも過去を振り返らず、前進するんだ」
そう言うと、クレイズは顔を上げてゲイナーを見つめた。辛そうな顔だ。
「すまない、クレイズ」
ゲイナーが謝ると、クレイズも一瞬だけ苦しそうに顔を歪めた。だがすぐに笑顔を作ると、ゲイナーの鼻を軽くつついた。
「いつまでもしけた顔をするなよ。それに、後ろばかり見てると、先に走ってるオレに追い付けないぞ?」
そう言っておどけるクレイズを見下ろすと、ゲイナーは力無く笑った。
「そうだな、追い付けなくなっては困る」
「だがその手を引くのは僕だ」
ゲイナーの後ろから現れたドーズは、そう言うと2人の間に割って入るようにクレイズの手を握って自分の方へ引き寄せた。
「ドーズ……!」
クレイズがドーズを見上げると、その顔は険しく、まるでゲイナーを睨んでいるようだった。
「本部長、そろそろ僕達は帰ります」
そうドーズは言うと、クレイズを玄関の方へと押した。クレイズは軽く抵抗してみるものの、すぐに諦めた。
ついさっき、諦めると言ったばかりなのを思い出したからだ。
「あまりもてなせなくて、すまなかったね」
「いや、いいんです。僕が急に言い出したんですから」
そう言って、ドーズはゲイナーに背中を向けた。
「ゲイナー、これを」
背中を押されながら、クレイズはゲイナーに向かって腕を伸ばし、小さな箱を差し出した。
「これは……?」
クレイズへと数歩近寄り、ゲイナーが箱を受け取る。
「誕生日プレゼントだ。金を出したのはドーズだが、選んだのはオレだ」
靴を履きながらの姿勢でクレイズはそう言うと、ゲイナーを振り返る事なくドーズに押されて玄関から出て行った。
屋敷に戻ったクレイズは、呼び止めるドーズを無視し自室に閉じこもった。
ベッドに座ると、体のあちこちから力が抜けて行くように感じる。
やはり、家族といる時のゲイナーは優しく、その鋭い目は慈しみと愛情に満ちていた。
──叶うはずない。
改めてそう思った。
見なければよかった、とさえ思う。見なければ、以前のままゲイナーを愛し続けていられただろう。何も知らないで。
だが、見れてよかった、とも思った。あんな優しいゲイナーを見られたのだから。
更に恋しくなった。
──だが、結局は手に入らない。
ベッドへ仰向けに倒れると、クレイズは天井を見上げた。白い壁紙に、さっきまで見ていたゲイナーの家族団欒の姿が映る。目を閉じてみても、それは瞼の裏に張り付き消える事はない。
当分忘れられないだろう。
体を右に倒した。
扉が見える。
左に転がしてみた。
窓が見える。出窓だ。
そこに花瓶があり、バラをいけてある。クレイズはバラを見つめた。
赤いバラはまだ生き生きと葉を広げ、花を咲かせている。刺が鋭く尖っていた。
先週、ゲイナーと駐車場でキスをした。何度も何度も。その時の幸福感は、もう味わえないのだろうか?
体を起こした。すると、扉が軽く叩かれる音がした。
「クレイズ、入るよ?」
ドーズの声がする。クレイズは返事をしなかったが、扉は勝手に開きドーズが入ってきた。
「起きてるなら、返事ぐらいしてよ」
部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、ドーズはシャツのポケットから1枚の紙を取り出した。
「これにサインしてよ」
そう言って差し出された紙を受け取り、クレイズはそれに視線を落とした。
細かい字がたくさん書き綴られていて、ドーズのサインが伺える。文頭には、婚姻届、と書かれていて、クレイズは目を剥いた。
「なっ……なんだこれは?」
紙を掴んでいる手が震えた。
「何って、婚姻届だよ。本部長の事は諦めるんだろ?だったら子供の為にも、僕達は夫婦でなくちゃ」
ドーズは笑っている。笑ってはいるが、どこか恐怖を感じさせた。
「お前とは結婚しない!」
そう怒鳴り、クレイズは婚姻届を握り潰した。それを眺め、ドーズが首を傾げる。
「じゃあ、子供はどうするのさ?産むんでしょ?」
確かに産む決意はした。だが、結婚の決意まではしていない。
──この男に束縛されたくない。
握り潰した紙を丸め、床に放り投げると、クレイズは後ずさった。
決断を求めてくるドーズが怖かった。
まだ、自由を捨てたくない。
「酷いな。シワシワじゃん」
そう言って婚姻届を拾うと、ドーズは丁寧に広げながらシワを伸ばした。
「ほら、ちょっとシワシワだけど問題ないよ?」
再び婚姻届を差し出し、ドーズはクレイズへと歩み寄って来た。少しずつ縮まる距離に、クレイズは更に後ずさった。
背中に壁が触れ、もうこれ以上下がれない事を知った。
逃げ場は窓しかない。扉の方にはドーズがいて、張り倒さない限り扉から逃げる事は出来ないだろう。
「それ以上近づくな……!」
そう言ってクレイズは手探りで枕を掴むと、それを勢いよくドーズへと投げ付けた。
「うぉ……!」
投げ出された枕はドーズに命中したものの、さほどダメージを与えてはくれなかったようだ。
「クレイズ、物を投げちゃ駄目だよ」
またドーズが近付いて来る。クレイズは更に手探りし、出窓に置いてある花瓶に触れた。ツルッとした滑らかな触り心地をしている花瓶は、緩やかに歪曲している。
「ドーズ!オレはお前とは結婚しないと言ってるだろう?何故分からんのだ!」
理解しようともしない。そんな男をどうして愛せると言うのだろう?
ただ、なによりも愛されているのは確かだ。
愛しているが故に、他の事が見えていない。無我夢中なのか、五里霧中なのか。クレイズはドーズを睨んでいた。
「分からないのは君さ。僕は誰よりも君を愛してる。誰よりも何よりもだ。本部長なんか諦めるんだ。そもそも勘違いだって事に早く気付くべきだよ」
咄嗟に花瓶を掴んでいた。バラの刺が指先に触れる。
「うるさい!何も分かってないくせに!」
掴んだ花瓶を投げ付けると、ドーズの足元で派手な音を立てて砕けた。水飛沫が飛び散り、バラが散乱する。中には茎が折れてしまったものもあり、花びらが散って、クレイズの中でも何かが砕け散った。
「クレイズ……!何するんだ」
足元を一瞥し、顔を上げたドーズを突き飛ばすように、クレイズは部屋を飛び出した。
──何1つ、叶わない。
何1つ、届かない。
背中からドーズの声がしたが、クレイズは振り返らず、そのまま屋敷を出た。
壊れてしまった花瓶。折れたバラの花束。それらを思い返す。
まだ諦められない。
ゲイナーには、ちゃんとこれが恋だと知ってもらえていない。
──あの日、好きだと言ってくれたのは同情からか?哀れみからか?
ゲイナーとその家族が脳裏に現れると、クレイズは壊れてしまえばいいと思った。
何もかも壊れてしまえばいい。
何をするでもなくドーズを眺めていると、患者達が入れ代わり立ち代わりに入って来ては、ドーズの診療を受けていた。診療と言っても外科医のように傷の手当をする訳でもなく、内科医のように聴診器で体の内側の音を聞くでもない。
体の内側を聞く、と言う点で言えば、患者の悩みを聞いているドーズは、ある意味内科医のようでもある。
クレイズに見せた事のないような真剣な顔で患者の話しを根気よく聞いているドーズは、スーツに白衣を羽織っていた。
凛々しく見える。
整った顔立ちも、スラリとした体格も、申し分ない。
患者の大半は若い女で、ドーズ目当てに通っているようにも思えたが、敢えて口にしなかった。
ただ、ボゥッとしているクレイズへ、時折ドーズが視線を向けてくる。それに気付き、中にはクレイズを睨む患者もいたが、クレイズは気にしなかった。
端からどう見えていようが、自分の心はドーズにはない。かえってその嫉妬に燃えた目が迷惑だった。
そしてゲイナーの誕生日パーティーがある今日。ドーズは早目に診療を終えると、白衣を脱ぎながらクレイズを振り返った。
「本部長に、何をプレゼントするの?」
白い診察室の壁にもたれていたクレイズは、その言葉に背中を浮かせた。
「まだ決めてない」
「じゃあ、今から見に行こうか?パーティーまでまだ時間はあるんだし」
脱いだ白衣をハンガーにかけ鞄を持ったドーズは、クレイズを見てきた。
「そうだな。そうしよう」
1人で見たかったが、それをドーズが許す筈もない。こうして診療所に連れて来るのも、自分がゲイナーに会いに行くのを阻止する為のように思われた。
「ある程度、何を上げるか決めてある?」
「いや、全然。何を上げればいいか、検討もつかん」
そう答えると、ドーズは先に診療所を出た。続いてクレイズが出ると、ドーズは鍵をかけながら休診の札をドアノブにぶら下げた。
「じゃ、デパートに行こうか?僕も何をプレゼントするか決めてないし」
それにクレイズが頷くと、ドーズは行こうか、と言ってクレイズの肩に手を回した。
いつものように業務を終えて帰宅したゲイナーは、誕生日パーティーの用意されているリビングに入るなり、家族に祝福された。
息子のケイトから視線を移すと、妻は頷きながら微笑んだ。その笑顔に、今日一緒に祝ってくれる、ドーズとクレイズの話をする。
「そのクレイズさんって、美人なの?」
そう尋ねてきたケイトの質問に、ゲイナーは頷いた。
「あぁ、美人だ。だが、ママの次かな?」
そう笑いながら答えると、ケイトはそうなんだ、と呟いた。
「そうだパパ、これ、ママと僕からのプレゼント」
そう言いながらケイトは──あらかじめ隠していたのか──テーブルの下から包みを取り出した。それは細長く、かわいらしいリボンが不器用そうに巻かれている。
「2人で選んだのよ?」
「そうか……!ありがとう」
そう言って受け取ると、ゲイナーは大切そうにそっと箱を開けた。すると、そこには少し派手めなネクタイと、それに似合うタイピンが収まっていた。
「アナタ、改めておめでとうございます」
ゲイナーは感無量と言った様子で何度も頷くと、ネクタイを箱から取り出し、胸元に宛てて見せた。
「どうかな、似合ってるか?」
照れながらゲイナーがそう言った時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「きっとドーズ達だ」
ゲイナーがそう言って立ち上がろうとすると、ケイトが先に立ち上がり、こちらへ笑みを見せた。
「僕が出るよ」
そう言うと、ケイトはゲイナーの返事を待たずに玄関へと歩き出した。
ドーズと一緒にクレイズがリビングに通されてから、ゲイナーは家族を紹介してくれた。
妻のマーガレットに、息子のケイト。2人を紹介するゲイナーの表情は幸せに満ちていた。
息子のケイトは、ゲイナー同様嬉しそうにクレイズを見てはいるが、妻マーガレットの視線には、明らかに敵視している、と言うような、怒りにも似た嫉妬が見え隠れしている。
ゲイナーはそんな妻の視線に気付いていないのか、久しぶりに家族で取る食事を楽しんでいるようだった。
「ドーズさん、お仕事どうですか?」
「そうだね」
ドーズが自身の仕事を語り始めると、クレイズは席を立ってリビングを出た。
見ていられない、と言う訳ではなかったが、正直現実を直視するのには参っていた。
クレイズはトイレの前でため息をつくと、中に入った。別に用をたしたかった訳でもなくぼぅっと座っていると、ドアの向こうからゲイナーの声が聞こえた。
「クレイズ?」
「何だ?ゲイナー。今はトイレの最中なんだが」
そう嘘をつくと、ゲイナーは軽く咳ばらいをした。
「いや、すまない」
「構わない。で、何か話でもあるのか?」
そう言うと、一瞬の沈黙の後ゲイナーが話し出した。
「今日は来てくれて本当にありがとう。凄く嬉しいよ」
「どういたしまして」
「それで、その……その時も言ったんだが、裁判の時、控室ではすまなかったな」
申し訳なさそうな声が聞こえ、クレイズは用も足していないのに水を流しトイレの外に出た。ゲイナーは声の通り申し訳なさそうな顔をしている。
「構わないと言ったろ?オレはお前が好きなんだ。好きで好きで堪らなくて、キスをしてくれた時は凄く嬉しかった」
そう言うと、クレイズはゲイナーの胸元にそっと額を擦り寄せた。
「君の気持ちは嬉しい。だが」
「家族がいる、か?知ってる。控室でも言っていたな。お前が家族を第一に考え、捨てられないのも知ってる」
クレイズが俯いたままの姿勢でそう言うと、ゲイナーはまたすまない、と言った。
「君の私への気持ちはやはり父親への思慕だと思う。だから、早く本当の恋を見つけるんだ」
そうゲイナーは言った。
──やはり、この気持ちはゲイナーの言うような感情なのだろうか?
いや、違う。ゲイナーと同じような年頃の男を見ても何も思わない。似た匂いを嗅いでも胸は騒がない。
──これが恋じゃないと言うのなら一体何が恋なのだ?
クレイズはそう自分に問い掛けてみた。だが返答などある筈もなく、ただゲイナーはそうやって諦めさせようとしているのだな、と思った。
「叶わないと知ってる。だからお前が好きだと言ってくれた時は、凄く幸せだった。だけどもう忘れるよ」
ゲイナーが諦めさせたいと願うのなら、そうしようと思った。
このままでは、ただ苦しめるだけだ。
「クレイズ……」
ゲイナーはそう呟いてから、クレイズの肩に手を置いた。
「だからゲイナー。お前も忘れてくれ。これからは前だけを見るんだ。いつまでも過去を振り返らず、前進するんだ」
そう言うと、クレイズは顔を上げてゲイナーを見つめた。辛そうな顔だ。
「すまない、クレイズ」
ゲイナーが謝ると、クレイズも一瞬だけ苦しそうに顔を歪めた。だがすぐに笑顔を作ると、ゲイナーの鼻を軽くつついた。
「いつまでもしけた顔をするなよ。それに、後ろばかり見てると、先に走ってるオレに追い付けないぞ?」
そう言っておどけるクレイズを見下ろすと、ゲイナーは力無く笑った。
「そうだな、追い付けなくなっては困る」
「だがその手を引くのは僕だ」
ゲイナーの後ろから現れたドーズは、そう言うと2人の間に割って入るようにクレイズの手を握って自分の方へ引き寄せた。
「ドーズ……!」
クレイズがドーズを見上げると、その顔は険しく、まるでゲイナーを睨んでいるようだった。
「本部長、そろそろ僕達は帰ります」
そうドーズは言うと、クレイズを玄関の方へと押した。クレイズは軽く抵抗してみるものの、すぐに諦めた。
ついさっき、諦めると言ったばかりなのを思い出したからだ。
「あまりもてなせなくて、すまなかったね」
「いや、いいんです。僕が急に言い出したんですから」
そう言って、ドーズはゲイナーに背中を向けた。
「ゲイナー、これを」
背中を押されながら、クレイズはゲイナーに向かって腕を伸ばし、小さな箱を差し出した。
「これは……?」
クレイズへと数歩近寄り、ゲイナーが箱を受け取る。
「誕生日プレゼントだ。金を出したのはドーズだが、選んだのはオレだ」
靴を履きながらの姿勢でクレイズはそう言うと、ゲイナーを振り返る事なくドーズに押されて玄関から出て行った。
屋敷に戻ったクレイズは、呼び止めるドーズを無視し自室に閉じこもった。
ベッドに座ると、体のあちこちから力が抜けて行くように感じる。
やはり、家族といる時のゲイナーは優しく、その鋭い目は慈しみと愛情に満ちていた。
──叶うはずない。
改めてそう思った。
見なければよかった、とさえ思う。見なければ、以前のままゲイナーを愛し続けていられただろう。何も知らないで。
だが、見れてよかった、とも思った。あんな優しいゲイナーを見られたのだから。
更に恋しくなった。
──だが、結局は手に入らない。
ベッドへ仰向けに倒れると、クレイズは天井を見上げた。白い壁紙に、さっきまで見ていたゲイナーの家族団欒の姿が映る。目を閉じてみても、それは瞼の裏に張り付き消える事はない。
当分忘れられないだろう。
体を右に倒した。
扉が見える。
左に転がしてみた。
窓が見える。出窓だ。
そこに花瓶があり、バラをいけてある。クレイズはバラを見つめた。
赤いバラはまだ生き生きと葉を広げ、花を咲かせている。刺が鋭く尖っていた。
先週、ゲイナーと駐車場でキスをした。何度も何度も。その時の幸福感は、もう味わえないのだろうか?
体を起こした。すると、扉が軽く叩かれる音がした。
「クレイズ、入るよ?」
ドーズの声がする。クレイズは返事をしなかったが、扉は勝手に開きドーズが入ってきた。
「起きてるなら、返事ぐらいしてよ」
部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、ドーズはシャツのポケットから1枚の紙を取り出した。
「これにサインしてよ」
そう言って差し出された紙を受け取り、クレイズはそれに視線を落とした。
細かい字がたくさん書き綴られていて、ドーズのサインが伺える。文頭には、婚姻届、と書かれていて、クレイズは目を剥いた。
「なっ……なんだこれは?」
紙を掴んでいる手が震えた。
「何って、婚姻届だよ。本部長の事は諦めるんだろ?だったら子供の為にも、僕達は夫婦でなくちゃ」
ドーズは笑っている。笑ってはいるが、どこか恐怖を感じさせた。
「お前とは結婚しない!」
そう怒鳴り、クレイズは婚姻届を握り潰した。それを眺め、ドーズが首を傾げる。
「じゃあ、子供はどうするのさ?産むんでしょ?」
確かに産む決意はした。だが、結婚の決意まではしていない。
──この男に束縛されたくない。
握り潰した紙を丸め、床に放り投げると、クレイズは後ずさった。
決断を求めてくるドーズが怖かった。
まだ、自由を捨てたくない。
「酷いな。シワシワじゃん」
そう言って婚姻届を拾うと、ドーズは丁寧に広げながらシワを伸ばした。
「ほら、ちょっとシワシワだけど問題ないよ?」
再び婚姻届を差し出し、ドーズはクレイズへと歩み寄って来た。少しずつ縮まる距離に、クレイズは更に後ずさった。
背中に壁が触れ、もうこれ以上下がれない事を知った。
逃げ場は窓しかない。扉の方にはドーズがいて、張り倒さない限り扉から逃げる事は出来ないだろう。
「それ以上近づくな……!」
そう言ってクレイズは手探りで枕を掴むと、それを勢いよくドーズへと投げ付けた。
「うぉ……!」
投げ出された枕はドーズに命中したものの、さほどダメージを与えてはくれなかったようだ。
「クレイズ、物を投げちゃ駄目だよ」
またドーズが近付いて来る。クレイズは更に手探りし、出窓に置いてある花瓶に触れた。ツルッとした滑らかな触り心地をしている花瓶は、緩やかに歪曲している。
「ドーズ!オレはお前とは結婚しないと言ってるだろう?何故分からんのだ!」
理解しようともしない。そんな男をどうして愛せると言うのだろう?
ただ、なによりも愛されているのは確かだ。
愛しているが故に、他の事が見えていない。無我夢中なのか、五里霧中なのか。クレイズはドーズを睨んでいた。
「分からないのは君さ。僕は誰よりも君を愛してる。誰よりも何よりもだ。本部長なんか諦めるんだ。そもそも勘違いだって事に早く気付くべきだよ」
咄嗟に花瓶を掴んでいた。バラの刺が指先に触れる。
「うるさい!何も分かってないくせに!」
掴んだ花瓶を投げ付けると、ドーズの足元で派手な音を立てて砕けた。水飛沫が飛び散り、バラが散乱する。中には茎が折れてしまったものもあり、花びらが散って、クレイズの中でも何かが砕け散った。
「クレイズ……!何するんだ」
足元を一瞥し、顔を上げたドーズを突き飛ばすように、クレイズは部屋を飛び出した。
──何1つ、叶わない。
何1つ、届かない。
背中からドーズの声がしたが、クレイズは振り返らず、そのまま屋敷を出た。
壊れてしまった花瓶。折れたバラの花束。それらを思い返す。
まだ諦められない。
ゲイナーには、ちゃんとこれが恋だと知ってもらえていない。
──あの日、好きだと言ってくれたのは同情からか?哀れみからか?
ゲイナーとその家族が脳裏に現れると、クレイズは壊れてしまえばいいと思った。
何もかも壊れてしまえばいい。
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