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第四章 聖女は幸せになるようです

追憶

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 都心部から電車で二時間、その後、車で一時間の道のりの場所にそれはあった。

 御園伊玖磨みそのいくまは、ほとんど整備されていない山道を運転する。人があまり通らないためか、道は落ち葉で覆われていて、道路と山の斜面の見分けがつかない。車輪が道路から落ちないよう慎重に運転する。

 やっとのことで目的地に到着し、駐車場に車を停めると、麓で購入した菊の花束を持って外に出る。

 爽やかな初夏の風が、頬を撫でる。ざわざわと葉を揺らし、土や木々の香りを運ぶ。小高い丘を登ると、斜面に張り付くように、古く粗末な墓石が並んでいた。
 こんな山奥に来るならもっと動きやすい格好で来ればよかった。
 高級なスーツと磨き上げられた革靴は、瞬く間に土埃にまみれた。

 目的の場所を探していると、ふうっとタバコの香りが風に乗って伊玖磨の鼻腔をかすめる。
 タバコを吸っている男と目が合った。

「充寿……」
「珍しい場所で会うものだな、伊玖磨。お前も墓参りか?」

 白い仕立てのよいシャツとジーパン姿の天王寺谷充寿てんのうじやみつとしが、墓石の前で悠然とタバコを吸っていた。足元には白い百合の花が供えられている。

「たまたまこちらに用事があったから、立ち寄っただけだ」
「ふぅん。何かのついでに立ち寄れるような場所ではないけどな」

 充寿は全て理解しているかのように、伊玖磨を見る。この男のこういう所が昔から気に食わない。愚鈍の振りをしながら、全てを自分の手の元に置いている。
 年下のくせに本家の長男というだけで、一挙手一投足が傲慢である。そしてあたかもそれが当然であるかのように振る舞う。
 生まれながらの支配者、世が世なら一国の主だったかもしれない。そんな風格がある。

「それが天音の墓か。みすぼらしくて、あいつにピッタリだな」

 そう言いながら伊玖磨は花束を供える。

「死んだ人のことをとやかく言うものじゃないよ。天音はさ、いつも静かに密やかにしていたかったから、こんな場所であまり目立たないように眠らせてあげたいんだ」

 この辺りは限界集落と言われていて、あと数年も経てば消滅してしまうらしい。そうなればこの辺りの墓も自然の中に埋もれていくだろう。わざわざこんな場所に天音を埋葬した理由は、それかと妙に腹落ちした。
 ただそんな充寿の行動に、何だか苛々とする自分もいる。

「そういうものかね。大体、あんな使えない女は生きていても無価値なんだよ。死んだ方が幸せだったかもな」
「お前みたいな人間と無関係だったなら、もっとましな人生を送れたかもしれないね。天音は伊玖磨と清羅に魂を食いちぎられたようなものじゃないか。もっと彼女の生き方を尊重してやれよ」

 充寿は、タバコを思い切り吸い、吐き出す。強い山風で、紫煙が死者への手向けのように空へと舞い上がる。

「何だよ。天音のことなんて、傍観を決めて何もしてこなかったのに、お前は俺を説教できる立場かよ」

 自分と同じように天音を虐げていたやつが偉そうに。

「私は、天王寺谷家にとって天音は無価値だと知らしめたかったから、覚悟を持ってそうした。そうすれば天音は家のことなど気にせず母親が亡くなった後、しがらみもなく自由になれただろう?」

 充寿は、タバコの火を携帯灰皿でぎゅっと消す。

「天音がましな人生を歩めなかったのは俺のせいだっていうのか?」
「そうじゃない。自分の人生は、自分に責任がある。私は私の判断で、天王寺谷から天音の場所を奪った。それが彼女の幸せになるだろうと信じた。だからこうなってしまったことに後悔はない」
「じゃあ何だよ」

 伊玖磨は、意識しないようにしていたジクジクと膿んでいる傷が、痛むような気がした。
 天音が死んだあの夜から、ずっと伊玖磨は五感が全て閉ざされていて、闇の中にいる心持ちであった。池の水面に浮かんでいる木の葉のように心もとなく、気持ちが落ち着かない。

「天音の孤独な心を利用して、駒として使っていたこと、それはお前の判断だ。責任は自分にある。つまりそんな顔をして天音の墓参りに来るのは、お門違いってことだ」
「――っ」

 充寿が目を細めて、伊久磨の顔をじっと見つめる。伊久磨は、充寿のまっすぐで強い視線に耐えられず目を反らす。
 
「お前、本当に酷い顔してる。憎悪、後悔、自己嫌悪、悲しみがごちゃ混ぜだぞ。とても、新婚でもうすぐ待望の第一子が産まれるという男の顔じゃない」

 伊玖磨は自分の顔を片手で隠す。
 一体、どんな表情をしているというのだ。

「あいつのせいだ。あいつがあんな所で無駄死にするからだ。天音はいつも俺の足を引っ張る」
「伊玖磨、人の心を弄ぶのはもう止めろ。お前はそんな器ではないよ。上に立つものとしての覚悟が足りないしな」
「くそっ、私生児として蔑まれ、孤独で不幸で誰にも相手にされないから拾ってやったというのに。本当に使えない、無価値なやつめ」

 伊玖磨は、どうしてこんなにも天音に怒りを覚えるのかよく分からない。別に天音は天王寺谷家に近づくための駒にしか過ぎない。失ったって、壊れたってどうでもいいただの駒。そう扱っていたではないか。
 天音への不満が口からするすると流れ出て止まらないのは、自分と同じように天音を虐げていた充寿と話しているからかもしれない。こんな話、両親にも清羅にもできはしない。

「もういいだろ。天音は死んだ。それに天音は無価値なんかじゃないぞ。天音とその母親を見ていたら、父親みたいに浮気して外に子どもを作るなんて絶対にしないと思ったしな」

 充寿は、「まあ、ささやかなことだけどな」とさみし気に苦笑する。

 なぜそんな風に笑うのか? お前と俺は同じだろう? 天音にしてきたことはさほど変わらないはずだ。
 
「天音はずっと不幸で、俺だけに頼っていればいいんだ」
「私は、そうは思わない。来世では幸せになってほしいって心底思うよ。これでも一応、兄だからな」

 充寿は、「じゃあな」と言ってその場から去っていった。
 
 伊久磨は、一人取り残される。
 この感情は一体何だ。誰とも共有できない、怒り、悲しみが渦巻いている。

 鳥の鳴き声がのどかに聞こえ、午後の陽の光が穏やかに周囲を包む。雲が形を変えて流れていく。平和で心地よい時間がゆるゆると過ぎていく。
 人の感情などお構いなく、風は吹き、鳥は歌う。陽の光は優しく伊玖磨に降り注ぐ。

 伊玖磨は天音の墓の前で、大きく一つ深呼吸すると、スーツが汚れるのも気にせず両膝をつき項垂れる。

 ……憎んでいたと思う。天王寺谷の血が流れていることも妬ましかった。あまり幸福とは言えない家庭環境にいても、健気に自分を愛し、無理な要求にも応え、いつでも側にいた。忌々しい女。

(憎くて、美しい、琴崎天音を)

「俺は、愛して……いた……のか?」

 闇がぱっと晴れて、グズグズとした傷が開き流血する。身を切り裂くような痛みが走る。

 側にいてくれるだけで良かったのかもしれない。家柄以外に何もない自分が彼女によって、野心を持ついっぱしの人間になった。
 居場所を奪って、自分に縛り付けて、虐げる。そんな風にしか接することができなかった。

「はっ……ずいぶん歪んだ感情だな。これが愛と言えるのだろうか」
 
 愛と言うにはあまりにも、おぞましく、醜いエゴの塊だ。
 
『伊玖磨様』

 不意に自分を呼ぶような声が聞こえた。在りし日の天音の甘えた声が耳をくすぐる。
 
 伊玖磨は、そのまま墓石を抱きしめて声を上げて泣いた。
 みすぼらしく目立たない石の下で、静かに冷たく眠っている天音を思い、ひたすらに泣いた。
 
 自分の手からこぼれ落ちたものの重さは、自分の犯した罪の重さのような気がした。
 そしてその重さは伊玖磨にのしかかり、いつまでも消えることはなかった。
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