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第一章 聖女は仕事をがんばるみたいです

聖女として召喚されまして

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 薄暗い室内に、乾いた衣擦れの音がやけに大きく響く。
 アルテアが着ていた寝間着をためらいなく脱ぐと、細身ではあるが筋肉質な長い手足と引き締まった身体が、惜しげもなく天音の前に晒される。
 いつもは結んであるプラチナブロンドの長い髪は、無造作に彼の美しい身体に自然に沿って流れる。

「アマネ……」

 アルテアの琥珀色の瞳が苦しげに細められ、天音に真っ直ぐに向けられる。天音はその切なげな声に胸がぎゅっと締め付けられる。

「アルテア……」

 天音は天蓋のついた御伽噺で出てくるようなベッドの上からアルテアを見上げる。否応なく目に入るその怒張を前に、緊張のあまりごくりと喉を鳴らし唾を飲む。

(私、無事に朝を迎えられるのかな……)

 重力に逆らって、筋肉質な腹につきそうなほど、屹立した、凶悪なもの。何人もの乙女たちが涙し、結婚を諦めたというその巨根を、自分の中に受け入れることができるのだろうか?
 天音は無意識に自分のへその下を手で触れる。

 アルテアがゆっくりと近づき、ベッドに上がるとその重みでベッドが沈む。天音の上にアルテアが覆いかぶさると、硬くずっしりとした熱杭が天音の下腹に当たる。
 天音はびくりと身体を震わせる。

(簡単なお仕事なんて、都合の良い話はやっぱりなかったんだ……)

 アルテアの不安そうな琥珀色の瞳が、天音を見下ろしている。天音は、弱気な自分を脇へ寄せ、そんな彼を励ますようにふわりと微笑む。
 アルテアは、顔にかかった天音の亜麻色の髪をそっとよけると、唇に触れるだけの軽いキスを繰り返す。
 少しずつ二人の距離を測るように始まったキスは、次第に深くなる。

 これから婚約式の最後の儀式が始まる。これに失敗すれば、天音のミッションは失敗し、この世界での存在意義は無い。

『役に立たなければ無価値だ』

 前世、信じて愛していた男が言った言葉が頭をよぎるとぶるりと悪寒がはしる。

(違う。あの時の私はもう死んだのだ。そして彼はあの悪魔のような男ではないはず……だ)

 唇が離れる。お互いの息が少しだけ荒くなっている。

「アマネ、どうか私を受け入れて……お願いだ」
「はい……」

 懇願するようにアルテアは言う。天音が諦めたようにこくりと頷くと、アルテアは天音の寝間着に手をかけた。

***


 琴崎天音ことさき あまねは、真っ白な空間で正座していた。 

 享年二十五歳、一ヶ月の残業時間が三百時間を超える日々が続き、朦朧としていた頭で帰宅中、トラックにはねられた。
 即死だった……と思う。

 由緒ある家柄の馬鹿息子が戯れに手を出した女。それが天音の母親だった。天音は認知はされなかったが、世間体を重んじた天音の父親の家は、愛人とその娘として二人を飼い殺しにしていた。
 時折ふらりとやってきては、天音の母親に期待を持たせて、飽きれば数か月も連絡してこない父親の態度に、天音の母は精神を徐々に病んでいった。天音につらく当たる日もあり、暴力をふるわれたのも一度や二度ではなかった。
 そんな生い立ちであったこともあり、天音の人生は幸福とは無縁だった。
 何一ついいことながなかったし、思い残すこともなかったので、死んだと思った瞬間、これで楽になれると思ったのだが……。

 どこ、ここ?

 キョロキョロと周りを見渡しても、誰もいなかった。周りは白い霧がかかっていて、よく見えない。

 ふう……。
 ヒントを探すのを諦めて、無意識に亜麻色の長い髪に触れながら、目の前を向く。

「やあ」
「きゃあああーーーー!」

 音もなく、突然に目の前に人が現れ、天音に声をかけた。
 天音は驚き正座したまま上半身をのけぞり、後ろに倒れてしまった。

「ごめんごめん」

 悪びれた様子もなく目の前の男性が、天音の背を支え、起こしてくれた。

 中性的な彫りの深い顔立ち、古代ギリシャ人のように長い布をぐるぐると巻きつけた服、金の髪に、海の深い所のような濃紺の瞳を持つ美しい男だった。
 一方で、布から伸びる手足は筋肉質で、胸板はがっしりと厚く男らしい身体つきであった。飾らないシンプルな服装が、素材の良さを引き立てていた。

 天音は、誰もいないと思っていた空間に突然男が現れて、驚愕のあまり、ばくばくと心臓が激しく動くのを感じた。
 死んだはずなのに心臓が、動いているなんて不思議。

「……それで、一体ここは何なのですか? 私、死んだと思うのですが」

 今でも身体がトラックに当たった時の衝撃を覚えている。重たい振動に自分の骨が砕かれるような音がして、『あ、私、死ぬんだ』と思ったことをはっきりと思い出す。

「僕はとある世界の創造主。その国では、シグナイ様と言われている」
「……つまり、どこかの世界の神様であると……」
「そ。君、察しがよくて助かるよ」

 シグナイと名乗った男は、神々しく微笑む。いや実際神様なのだから、神々しいのは当たり前なのかもしれない。天音は、ハーフだった母親譲りのペリドット色の瞳を訝し気に細める。

「で、神様が私に一体何の用事なのでしょう? さくっと人生が終わったので安らかに眠りたいのですが」
「君にお願いしたいことがあって……」
「お断りします!」

 天音は食い気味に断る。

「ちょっと! 断るの早くない? 最後まで話を聞いてから判断してよ! 神様のお願いなんだよ!」
 
 神様からのお願いなんて、大変なことに決まってる。もう生きていることから解放されたのだから、ゆっくりしたい。慌てているシグナイの姿を冷静に見つめる。
 しかしあまりにもがっくりと肩を落とすシグナイの姿を見ると少しだけ良心が痛む……ような気がする。しぶしぶと天音は口を開く。

「……まあ、聞くだけなら」

 項垂れていた頭を素早く上げると、微笑みながら、シグナイは話を始める。

「僕の世界でとある国の王太子を助けてほしい。彼に後継者を産んであげてほしい。このままだと僕の世界の国が一つが滅びちゃう」

 コンビニで菓子パン買ってこいと言うタチの悪い輩のように、カジュアルにお願いしてくるが、そのお願いはかなりなものだと天音は思う。

「そんな偉い人の子どもを何処の馬の骨とも分からない女が、何人産んだって意味ないのでは?」

 天音は死ぬ前の自分の境遇から、由緒ある家のやんごとない方々の思考は充分に理解していた。母がいつか本家から正式に妻として認められると盲信していた姿を思い出す。精神を病み、死ぬ直前までそう信じていた、哀れな母親ひと
 その母の様子をいつも天音は、可哀想に思っていた。
 その容姿は美しいがモデル業界に入れば普通の女、使い捨てにされてしまうような底辺モデルだった母のおこがましい考えだ。
 悪戯に手を出したお手軽な女が、由緒ある家に入ってハッピーエンドを迎える、そんなストーリーはただの都合の良い夢だ。

「君、若いのに中々シビアだね。でも心配無用だよ。君は召喚された聖女として丁寧扱うようにと、僕が神託をだすから」
「そういうものですかね?」
「そ、僕、偉いからさ。後継ぎを産むだけの簡単なお仕事さ」

 シグナイはパチリとウィンクをする。天音は、ふむと少し考える。

「それで、私が王太子殿下を助けて、その子を産んだとして、その見返りとして何があるんですか?」
「次に生まれ変わる時に、君が望む幸せな人生になることを約束しよう」
「『私が望む幸せな人生』って、すごい曖昧ですね……」

 天音は当惑した。幸せについてなど考えたことも無かったからだ。今までそんなことを考える余裕すらなく、生きるのに必死だった。

「曖昧の方が希望を叶えるには、いいこともあるんだよ。さぁ、どうする?  どうする!」

 シグナイは考える時間を与えないようにか、ぐいぐいと結論を迫ってくる。

「ち、ちなみにどの位の期間、その王太子殿下を手伝えばいいのですか?」

 またその世界で何十年も辛く苦しい日々を送るには、今の天音は疲れ過ぎていた。
 いくら神様が約束してくれたって、人の世界に下りてしまえば本当に助けてくれるか分からない。前世では、いくら神様に助けを願っても、何も変わらなかった。

「そうだな。三年ではどうだい? 三年間で、後継者が生まれたらミッションコンプリートだ。君のお役目が終わったら、再び僕の元に戻れるようにしよう」

 三年だったら耐えられるかな。そしてこの緩くごり押してくる感じ、とてもお断りできる雰囲気ではない。ごねればごれるほど、解決策を提案してきて、逃げ場を失うような気がする。
 失敗しても失うものもなさそうだし。そもそも何も持っていないのだから。

「……わかりました。でも幸せな人生って一体どういうものなのでしょうか? そういう考えには全く無縁の人生でしたので、イメージが湧きません」
「とにかく君が生きやすい人生、イージーモードな人生って感じ?」
「由緒ある家の愛人の子として生まれ、私生児のまま、一族の面々には虐げられ、母親からも存在を否定されていましたから、それよりはいい環境って考えればいいですかね……」

 天音はこれまでの記憶をダイジェストで振り返る。そのビスクドール人形のような整った顔には何の表情も浮かばない。シグナイは、少しだけ驚いたように濃紺の瞳を丸くするが、すぐにへらりと笑う。

「比較対象がまあ平均値からはだいぶ遠いけど、基本的にはそれでいい。自分の幸せについて、これからの三年間でじっくりと考えればいよ」

 シグナイが、幼子にするように頭を撫でる。天音は何だかその手がとても温かく心地よいと感じた。母に撫でられた遠い昔の記憶がうっすらと蘇る。

「分かりました。私、今までこれからどう生きようとか考えたことなくて、暗澹たる人生を刹那的に過ごしていましたから、先のことを考えることができるって少しだけワクワクしますね」

 そう明るい声色で話す天音の表情は、やはり死んでいて、シグナイは何ともいえない神妙な表情をする。

「天音、私にとって生きとし生けるものは平等に愛おしい存在だ。不幸な星の下に生まれることがあってもだ。それだけは忘れないでほしい」
「そういうものなのですか? 神様方の視点は、よく分かりませんが、人は不平等だと思います。持つもの持たないものの間には深い溝があり、不相応に何かを求めれば、そこは地獄に早変わりするものです。弱いものは強いものにへつらい慈悲を乞うか、虐げられ殴られるかその二択しかありません」

 天音は自分の母を病床で看取った時、母の自慢の金髪は抜け落ち、身体は骨と皮ばかりとなり、モデルをしていた頃の名残は全くなかった。
 母親譲りの美貌を持つ天音に、美しさが無ければ何の意味もないとペリドット色の瞳をぎらぎらとさせながら、何度も繰り返した。

「天音、僕が思っていた以上に君の心は乾いているのだね」
「そうなんですかね。何も感じないので特に不便はありませんよ?」

 シグナイが、今までになく悲しそうな顔をしたが、一体なぜなのか天音にはよく分からなかった。

「あ、ちなみに失敗したらどうなるのですか?」
「目標達成できなかった場合は、君の魂はまた天界に戻り、他の魂と一緒に輪廻の輪に戻り、新しい世界に生まれ変わるだけさ」
「ペナルティとして地獄に落ちるとかは無いんですね?」
「ない。せっかく僕のお手伝いをしてくれるっていうのにそんなことさせないよ」
「わかりました」

 天音は安心したようにこくりと頷く。

「……大丈夫だ、僕の世界では君が辛い思いをすることはない。お守り代わりに、僕の力を渡そう」
「いや、別に辛いとかあまり感じないですけど……。産まれたら、死ぬまで生きるだけなのでは?」

 シグナイは、それには答えず無言で天音の手を取り、その乳白色の手の甲にキスをする。手の甲に羽ばたく白鳥の模様が浮かび上がり、銀色に輝く。

「神聖力を授けた。君の思うように使ってほしい。『神聖力』は人が持つ魔力と同じものだが、僕から授けたものだから、防御、治癒、浄化の力がある。魔法式を覚えなくても使えるよ。また君の魂の器、依り代としての身体の維持もこの神聖力で補っている」
「魔法式……、魔法がある世界なのですか? 神聖力って具体的には、どうやって使うのですか?」
「君の世界の『科学』の代わりに『魔法』が発達した世界だと思ってくれればいい。神聖力の使い方は簡単。両手を差し出して、効かせたい場所にかざせばいい。三年間の身体の維持に必要な神聖力は白鳥の模様の五分の一の部分くらいかな。よっぽど大量の神聖力を使わなければ、三年で全てを使い切ることはないだろう」
「分かりました。逆に貯蔵された神聖力が無くなれば、この身体は三年間は維持できないという理解で大丈夫でしょうか?」

 天音はシグナイの力を付与された白鳥の模様が、とても大切なものなような気がして、手の甲の模様を優しくなでる。

「そうだ。この三年間の約束に合わせて、生前の君に寄せて作った身体だからね。何もしなくても三年で寿命を終えることになっている」
「分かりました。王太子様を何とか誘惑してみます!」

 天音のペリドット色の瞳は、死んだ魚の目のようだったが、やる気に満ち溢れているように見えた。シグナイは不安げに困ったように微笑む。

「誘惑……しなくても、多分大丈夫だと思う。その身体は彼との相性抜群にしておいたから」
「すごいですね。さすが神様。王太子様は出会う前から身も心も私にメロメロなのですね。これが生まれた時から持っている不平等さというものでしょうか? 持っている人は神様のお手伝いをしているのかな」

 シグナイは、見当違いの分析をする天音を苦笑いしながら、ふわりと抱きしめる。

「まあ、頑張ってきてよ。無理はしなくていいから。頼んだよ。愛しい子よ……この三年間で少しでも君の心が癒されて来世に傷を持ち越さないでほしいよ」

 シグナイの声が遠ざかる。
 少しずつ周りを取り囲んでいた白い霧が晴れていく。シグナイの姿が少しずつ薄くなっていき、その胸の温かさが遠くなっていった。
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