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第十三章

スイカと馬と上等と

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 夜中にスコールが降り、朝露に濡れた牧場では馬たちが自由に草を啄んでいる。この乗馬牧場では約15頭の馬が飼われていて、ほとんどは牧場内で生まれた馬だが、中にはアラブ馬やアメリカの”クォーターホース”と呼ばれる、本場アメリカのウェスタン乗馬の競技などで活躍する、ややがっちりした体格の馬との交配種もいて、観光や乗馬目的で来る自称“馬乗り”たちにも人気があった。

 牧場は林に囲まれた平地に厩舎が建てられ、厩舎の脇には、タイ語で「ラーチャプルック」と呼ばれる、ゴールデンシャワーの木が黄色い花を満開に咲かせ、夜中に降ったスコール明けの青空に照らされとても美しく咲いている。数頭の馬には既に鞍が付けられていて、都会から来た“馬乗り”たちを待っているところだった。

 この乗馬クラブのオーナーはクワンの幼い頃からの友人で、クワンより年が三つ年上で名をサンティと言った。サンティは時間になっても写真撮影に夢中の”馬乗り”旅行者たちに向かって、

 「そろそろレッスンを始めますよ、騎乗してください‥‥‥」

 小柄だが陽に焼けた端正な顔立ちのサンティは、よれよれのカウボーイハットを被り直し、バンコクから来ていた若い男女に声を掛け、ひょいと彼の愛馬に跨ってレッスン用の馬場へ出て行った。

 「じゃ、クワンと泰地は気を付けて、ランチの時間までには戻ってきてくださいね‥‥‥」 

 サンティはそう言うと「チッチッ」と舌鼓を打って馬を促し、二人に向かって軽く手を上げて親指を立てた。

 気温も少し下がり始めたとは言え、南国の朝は既に暑く、生温い風が頬を撫でていく。

 クワンは以前によく来た外乗ルートを熟知していたので、泰三を先導しゆっくりと小高い丘に向かって歩き出した。この牧場にある、一番見晴らしの良いところだ。

 「まずはここの牧場で一番見晴らしのいいところへ上りましょう!」 

 栗毛の「ラテ」は“クォーターホース”の母馬を持つ雌馬で小柄だが、かなり筋肉質な馬だ。クワンは丘の斜面を馬の歩様を速歩に替えて軽快に上り始めた。泰地は久しぶりの乗馬で少し緊張していたが、丘の上に上がると心地よい風が暑さを和らげてくれた。

 泰地の馬は葦毛のアラブ馬の血が混じったタイ産の馬「シュガー」という牡馬で、よほど勢いよく走りたいのか、グイグイと手綱を引っ張っていく。

 「お母さん、検査の結果が良くて安心したよ‥‥‥」 

 泰地が眼下に広がる草原を見ながら切り出した。

 「そうね、あなたのおかげよ、ありがとう、ちゃんとお礼を言ってなかったわ」

 クワンは馬上からこくりと頭を下げて微笑んだ。

 二人はクワンの母親の病状のこと、今後は投薬治療や定期的な検査入院が必要なことなど、丘の斜面を下りながら「ラテ」の頸筋をポンポンと叩き、

 「お母さんは私がいるから大丈夫よ‥‥‥」 と自分に言い聞かせるように言った。

 不安そうなクワンの気持ちを察してか、泰地が気分を変えて前方の林を指さして言った。

 「ねぇ、あそこに見えるスイカ畑まで行ってみないか?美味しそうなスイカがたくさん見えるね‥‥‥」

 泰地は低い山の裾野に拡がる緑のスイカ畑を指さして、クワンの前に「シュガー」を進めた。「シュガー」は勝手知ったる道なので、畑の畦道を今にでも駈け出しそうに脚をばたつかせる。

 「ダメよ、私が先よ!さぁ!」

 クワンはそう言うや否や、「ラテ」の腹に乗馬ブーツに付けた拍車でポンと当てて駈歩を出した。

 クワンはバンコク郊外の洒落た高級乗馬クラブに通って、英国式の乗馬スタイルだ。アメリカ式の牛追いや、ロデオなどのカウボーイ競技とは違って、英国式はドレッサージと呼ばれ、馬場での馬術競技の一つで、馬を正確かつ美しく運動させることができるかを競うもので、アメリカの派手なロデオ競技とは一線を画し、どちらかと言えば女性に人気のある馬術だ。

 彼女の出立は黒く短い庇の付いたヘルメットに、身体の線がくっきりと美しいポロシャツにタイトなパンツ、そしてイタリアの有名ブランドのブーツを履いている。

 一方、泰地はジーンズにカウボーイブーツを履き、上着はテキサスに旅行に行った時に手に入れた、ブランドのブルーのウェスタンシャツを着こみ、カウボーイハットという出立だ。タイでいつか乗馬することを期待して、わざわざ赴任の際に日本から持ってきたのだ。今日がその晴れ舞台ということになる。 

 泰地はクワンの凛々しくも、女性らしい美しい乗馬姿に一瞬見とれてしまい出遅れてしまった。泰地は彼女に遅れまいと「シュガー」の腹に踵を当てようとしたが、最初から駆け出したい「シュガー」は泰地の指示を待たずに「ラテ」を追いかけ始めた。泰地は少し怯んだが、すぐにバランスを保ちクワンの後を追い駆けて行く。

 山裾のスイカ畑までまっすぐな畦道を二頭の馬が、二人の若い男女が、付かず離れず駆け上がっていく。畦道にはススキが陽の光に照らされてセピア色に光っている。まるで古い映画の世界にいるかのような二人が、二頭の馬にはペガサスのごとく羽が生え、鬣が風に靡き、茜色の空に飛び立つかのようだ。

 二人はスイカ畑の中央あたりまで来て歩様を緩めた。腰を屈め農作業中の初老の男性が顔を上げ、二人を交互に見ながら、「ふぅーっ」と息を吐いた。首に掛けたタオルで額の汗を拭きながら、

 「やぁ、二人で乗馬かい? どうだい、このスイカ甘いぞ、食べてみるかい?」 

 農夫の男はしゃがれた声で訛りのあるタイ語を話し、スイカを一つ切り取って鉈で割って二人に差し出した。

 「ほれ、ちょっと味見してみるかい?」

 甘そうな真っ赤な実が鮮やかだ。小さい頃から、この辺りで採れるスイカが大好きだったクワンは、

 「わぁ、美味しそう!戴いてもいいのですか?」 と尋ねた。

 「いいとも、ここで採れるスイカは甘くて美味いんだよ、”ヨートー!ヨートー!”」

 農夫はまた少し早口に言って親指を立てた。泰地はほとんど聞き取れなかったが、クワンはすぐに通訳して、農夫がスイカを分けてくれると伝えたが、少し首を捻って農夫に向き直り、

 「おじさん、“ヨートー、ヨートー!”ってどういう意味ですか?」 と訊いた。

 クワンもこれはこの土地の訛りのタイ語ではないことは分かったが、農夫は歯の抜けた口を大きく開けて笑い、

 「俺もよく知らねえんだ、なんでも“高級品”っていう意味らしいがね‥‥‥」 

 農夫の老人は切ったスイカを「シュガー」と「ラテ」に惜しみなく食べさせ、腰に下げた袋から刻み煙草を取り出し、火を点けてふぅーっと煙を吐きながら言った。

 「昔、この辺は戦争中に日本軍の駐屯地があってね、そこの日本人の軍人さんとやらが、この言葉を村の人に教えたっていうんだ、でも連合国軍の爆撃があって、日本軍の駐屯地も全部消えちまって、今では俺のスイカ畑さ、もう戦争はしちゃならんよ‥‥‥この辺りの年寄りは今でも使うよ、“ヨートー!”」

 クワンは「なるほど…」と頷いたが、誰がどういう意味で“ヨートー”という言葉をこの村の人に教えたのだろうと不思議に思った。

 泰地は広大な土地に拡がるスイカ畑と、青く澄んだ空の写真を携帯電話のカメラで撮り続けていた。

 二人は農夫に胸元で手を合わせ、丁寧にお辞儀をしてから鞍に座り直し手綱を少し引いた。

 「じゃぁ、あそこの小川を渡ってゴム園農家の林を通って戻りましょ!」

 そう言ってクワンはまた馬を泰地の前へ進め、スイカ畑の畦道をゆったりとした駈歩で走り出した。

 スイカ畑が広がるあたりは少し高台になっているので、遠くの山々までよく見える。山の稜線が雲のない青い空にくっきりと映え、二人は黙ったままその景色を眺めながら、雨季になると現れる小川に歩を進め、川の中央あたりで手綱を緩めた。馬の腕節と呼ばれる脚の膝あたりまで水に浸かった二頭の馬は、嬉しそうに片脚で「水掻き」をするかのように水面を蹴って、まるで二頭の馬が馬上のクワンと泰地にいたずらをするかのように、バシャバシャと音を立てて水しぶきを上げる。

 「シュガー、おい、止めろよ、びしょ濡れになっちゃうよ!」

 「そうよ、ラテ!ズボンがびしょ濡れになっちゃったじゃないの!」

 二人は笑いながら馬の腹をポンポンと蹴って、小川を渡り切ったところの斜面を駆け上がった。

 そこにはゴムの木の林が広がっている。太陽の日差しが低いゴムの樹々を抜けて差し込んでいるが、森の中は南国の鳥の鳴き声と馬の蹄の音だけがこだましている。二人はお伽の国へ迷い込んだように黙り込んで、整然と幾何学的に植えられた木々の間を、森の妖精の出現を待つかのように静かにゆっくり歩いた。

 陽が差し込む森の出口に向かって歩きながら、泰地がクワンに訊ねた。

 「ところで、さっきのスイカ畑のおじさんが、最高という意味の“ヨートー!”ってどういう意味かな‥‥‥」

 クワンも首をかしげながら、

 「うーん、それタイ語じゃないよ、当時この辺りに駐屯していた日本の軍人がよく使っていた言葉だそうよ‥‥‥」

 「ふーん、そうなんだ、でも“ヨートー”なんて日本語は聞いたことないし、なんだろう‥‥‥」

 泰地は、やけにその言葉が心に引っ掛かり、強い日差しに照らされたクワンの少し汗ばんだ横顔をぼんやりと見ながら考えていた。

 「何よ、私の顔に答えが書いてあるの?」 とクスっと笑った。

 「”ヨートー”・・・意味は高級かぁ‥‥‥あっ!」 

 泰地は何か閃いたように声を上げた。

 「ひょっとして、“ヨートー”の本当の発音は“上等”(ジョートー)だよ、そうだ、きっとそうだよ!」 

 泰地は右腕を振り上げて「やった!」と叫んだが、クワンは泰地がまだその言葉に拘っているのかと、あまり関心なさそうに泰地を見ながら、

 「ふーん、そうなの、“ジョートー”ね、“ヨートー”、“ジョートー”‥‥‥なるほどね」

 クワンは泰地を揶揄うように同じように右腕を上げ「やった!」と叫んだ。

 泰地は自説を興奮気味に話し始めた。

 「あのね、タイ語を勉強する時に日本のことを「ジープン」とか「イープン」と学ぶんだよ、人によっては「ジー」と言ったり「イー」と覚えたりする。つまり、「J」の発音が「Y」にもなるんだよね。そしたら、「ヨートー(Yoto)」は「ジョートー(Joto)」になってもおかしくないよね、だから当時の日本の軍人さんが「上等(Joto)」と言ったのを聞いたタイ人が「ヨートー(Yoto)」と聞こえて使ったんだよ、きっとそうだよ!」

 そう力説する泰地だったが、クワンはまた、「ふーん、そうなの‥‥‥」 と素っ気なく言った。

 泰地は、自分の推測が間違いないと信じ、

 「上等、ヨートー、ヨートー、上等‥‥‥」 

 繰り返し独り言のように言って右腕を何度も振り上げた。

 それが自分の祖父、泰三があるタイ人の女性に教えた日本の言葉だったとは、夢にも思っていなかった‥‥‥


 現在ではあまり使わなくなった日本語、物の品質や出来栄えが優れて良いこと、その等級のことを「上等」という。近頃の若い人のみならず、大人までもが使う、なんでもかんでも「やばい」とか「サイコー!」という無機質で曖昧な言葉に変化してしまったが、泰地には「上等」という言葉がとても新鮮で、本来日本語が持つ美しい響きと意味に改めて感心するのだった。

 「昔、ここで戦争があって、日本の軍人さんがいて、ここに住んでるタイ人たちとどんなコミュニケーションをとっていたのでしょうね? “ヨートー!”なんて言葉も未だに使われてるなんて、ちょっと素敵だわ‥‥‥」

 クワンは右手を上げて敬礼するようなポーズをとって、「ヨートー!」と言って笑った。

 「ははは、でもどんな軍人さんだったんだろう、その言葉を教えたのは‥‥‥」

 泰地もクワンも、少しの間黙ったまま当時の情景を想像していた。

 「泰地のお爺さんは軍人さんだったの?」 とクワンが唐突に訊いてきた。

 「うん、父からはそう聞いてるよ、なんでも若くして軍医になって、アジアのどこかの国へ軍医として出征したんだ。乗馬が得意でね、馬に乗って病人の診察に行ってたらしいよ‥‥‥」

 「へぇ、軍医さんなんだ、馬に乗ってたなんて、なんだか素敵ね。泰地はお爺さん譲りの馬乗りね、そして名医!ははは!」

 クワンが白い歯を見せて大きな声で笑った。

 「今、そんなカッコいい軍人さんがいたら、私、好きになっちゃうかもね!」

 「‥‥‥」  

  泰地は鼻で笑って馬の頸をポンポンと叩いた。 

 厩舎に戻った頃にちょうどサンティが、旅行者たちと一緒にランチの準備を始めていた。

 二人が戻るのを待っていた彼はニヤニヤしながら二人の馬の手綱を取って、

 「今日の馬デートは楽しかったですか?」 と揶揄いながら二頭を連れて馬房に戻しに行った……
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