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8巻
8-3
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月明かりが美しく大地を照らす頃。ティアは王都から少々北に外れた場所に来ていた。
高い塀で囲まれたそこは、夜でも門の前に見張りの兵が立っている。
ここはフリーデル王国の王家の墓だ。
見張りの兵であっても中に入ることはできず、塀を跳び越えて入り込めば邪魔者はいなかった。
途中までマティに乗ってきたのだが、近くの森で別れた。久しぶりの夜の散歩だと言ってはしゃいでいたが、火王を傍に置いてきたので羽目を外しすぎないと信じたい。
ゆったりと歩いた先、中央から少し外れた場所に大木がある。その前にあるのは、『サティア』の名が彫られた墓石。そして、その横にかつての婚約者である、ラピスタの国王『セランディーオ』の墓石が並んでいた。
「セリ様……」
彼に似た王と会っていたからだろうか。ずっと足を向けることができなかったこの場所へ久々に来ようと思ったのだ。
その時、墓石の前に立つティアの後ろに、羽音を響かせながら舞い降りた者がいた。
「ティア……どうしたの?」
彼はカランタ。金の髪に青い瞳、真っ白な翼を持つ天使だ。その前世はサティアの父で、バトラール王国の最後の王であるサティルだった。
ただし、そのことに気付いたことは本人にはまだ内緒にしている。今の彼は十八歳くらいの姿をしているので、ティアの知る父とは似ても似つかなかった。
ティアは振り返ることなく答える。
「不思議だったんだ。なんで王都の場所が、昔のバトラールの王都があった場所でも、ラピスタの王都があった場所でもないのかなって」
「……うん……」
ラピスタはここよりも北にあった。街道や国境への距離なんかを考えれば、この辺りに王都を持ってくるのが自然だろう。そうしなかった理由が、ティアにもようやく分かった。
「ここには、城があった……バトラールの城が。この木が生えてるのは、城の墓地だったはずだもの。母様のお墓があった場所だよね」
「っ……」
答えは返ってこなかった。けれど、それが答えだと確信する。
「セリ様は、ここを王家の墓として守ってくれたんだと思う。わざわざ王都をならして塀で囲って……あの人はそういう、優しい人だった」
「ティア……」
ティアは鞄から一通の手紙を取り出した。それは、先日妖精王から『預かり物だ』と言って渡された物。セランディーオからの手紙だった。
手紙を開くと、仄かに花の匂いがした。それが昔セランディーオに贈った精油の香りだと気付いた時、涙が零れた。あの人の気配を感じた気がした。
「本当に優しくて、私にはもったいない人だった。私が嫁ぐ時にはもう妃が二人いたし、子どももいた。だから、レナード兄様が私を国から逃がそうとしてあてがった相手だと思ってた」
けれど違ったらしい。セランディーオは本当にサティアを愛し、共に生きたいと思ってくれていたのだと、この手紙から知ることができた。二人の妃も、子どもを作ることも、全てサティアを正妃として迎えるための条件だったのだ。
「妖精王から聞いたんだ。『ハイヒューマンは子どもができにくい』って。私が生まれたのは奇跡で、特別だったんだって。それを知っても、セリ様は私を妃にって望んでくれたんだって」
その手紙は、『旅立った魂はいつか再びこの地上に戻ってくる』という伝説を信じて託されたものだった。何千年も生きる妖精族ならば、いつかまたサティアに出会えるかもしれないと、彼は信じていたらしい。
ティアは月を見上げた。美しく淡い光を纏った大木が葉を輝かせるのが目に入った。
この木は精霊樹と呼ばれるもの。精霊界と強く結びついた、強い力を持つ木だ。
母マティアスの眠る場所には相応しいものだ。地下深くに下ろした根は世界樹にも繋がっている。
止めようと思っていた涙は、いつの間にか溢れていた。
「ここの地下に、兄様達のお墓もあるんだって。ホント……っ、どこまで優しいんだろう。なんで忘れてくれなかったんだろうっ」
最期に死を選ぶような女を、どうして愛してくれたのだろう。
涙を流すティアを、いつの間にかカランタが後ろから抱きすくめていた。その痛みを一緒に分かち合うように。
ティアの手に握られた手紙の最後には、セランディーオの誓いの言葉が綴られていた。
『正妃はただ一人。俺が心から愛したサティアだけ――だからいつまでも俺の隣の椅子は空けておくからな』
その言葉は今でも耳に残っているのだ。
◆ ◆ ◆
いつ眠りについたのか分からない。けれど、泣き疲れて目を閉じたのは覚えている。肩を抱く天使の温もりを、つい先ほどまで感じていた。
夢の気配がする。いつも過去を連れてくるその気配には抗うことができない。
サティアが婚約者セランディーオの国ラピスタにやってきて三日。
先にいた妃達とは上手くやれそうな気がした。険悪になることもなく、彼女達はまるで実の姉のようにサティアを受け入れてくれた。
退屈しないようにとドレスを見せてくれたり、髪をいじりに来たりする。子どもに本を読み聞かせてほしいとも言われた。
そうして過ごす平和な日々。けれど、サティアの心は穏やかではなかった。
「サティアさん? 何か悩みごと?」
「え……あ、すみません。話の途中で……」
今も二人の妃達とお茶会をしていたのだ。それなのに、考え事をしていた。
「いいのよ。ねぇ、サティアさんは戦場にも出ていたのでしょう? バトラールではいつも兵達に交じって訓練場で剣を振るっていたって、王に聞いたわ」
「王ったら、サティアさんのお話ばかりされるのよ? おかげで私達、すっかりサティアさんのファンなの」
「セリ様……王が?」
彼女達はなぜか夫であるセランディーオのことを名前ではなく『王』と呼ぶ。母マティアスが父王のことを愛称で呼ぶので、それが普通だと思っていたサティアとしては違和感を覚えた。
「あら。サティアさんは名前で呼ばなくてはダメよ?」
「そうよ。きっと拗ねてしまわれるわ」
「はぁ……」
意味がよく分からなかったが、サティアは今まで通り名前で呼べばいいらしい。
「それで、どうなさったの?」
「……お兄様が心配で……」
この婚約も唐突に決まったのだ。まるで時間がないと追い立てるかのようだった。
「そう……では、王に相談してみてはいかが?」
「きっと協力してくださるわ」
「でも、これはバトラールの問題ですし……もう少し考えてみます」
結局サティアがセランディーオに相談することはなかった。動くのは自分でなくてはならないと思ったからだ。
結婚の日取りが半月後に決まったその日。サティアはセランディーオの執務室を訪れた。
「どうかしたのか?」
「はい。結婚を取りやめていただきたい。私には、バトラールでやることがあります」
「っ……」
きっぱりと言い切ったサティアに、セランディーオは目を大きく見開いた。
「結婚が嫌なわけではありません。セリ様を嫌いなわけではない。ですが、私の心はまだあの国にあります。ですから、可能ならば国が落ち着くまで待っていただきたいのです。私が、この国を想えるだけの余裕を取り戻すまで。そうでなくては、王の妃にはなれない。なるべきではない」
王の妃とは王を支え、国を想う者だ。民を愛せなくてはならない。けれど、今のサティアにはその余裕がないのだ。
いつ民達が暴動を起こしてもおかしくないような緊張感がバトラールの国にはあった。ここに来る時も父王の瞳には光がなかった。その瞳は何も映していない。亡くした妻を思って心の中に閉じこもっている。それでは国はすぐに立ちゆかなくなるだろう。
「お兄様が……レナード兄様がおかしな顔をしていたのです。何かを決意したような……お兄様だけじゃない。お姉様達も……あの顔が忘れられないのです。何か良くないことが起きるような、そんな不安がここにある」
モヤモヤとしたはっきりしない感情を抱く胸を押さえる。レナードは何かを考えていた。それを実行するのに、サティアの存在は邪魔だったのかもしれない。けれど、行かなくてはと何かが訴えてくるのだ。
セランディーオは難しい顔でサティアを見つめていた。しかし、不意に肩の力を抜いて椅子から立ち上がると、サティアへ歩み寄ってくる。
「もう少しこちらを顧みてほしいものだ。本当に君は真面目だな。いや、そこが良いと思うんだけど……ここへきてもまだ、レナード相手に嫉妬するとはね……」
「セリ様?」
苦笑したセランディーオは優しくサティアを抱きしめる。大きな胸板が頬に当たった。
「行ってくるといい。君が納得できるように」
そこで懐かしい花の香りに気付く。サティアが調合し、プレゼントした精油の香りだ。それがささくれ立った心を落ち着かせていく。目を閉じて、その温もりと香りに包まれた。
「ただ、これだけは覚えておいてくれ。正妃はただ一人。俺が心から愛するのは君だけ。だからいつまでも俺の隣の椅子は空けておくよ。帰ってくるのを待ってる……」
ゆっくりと体を離した時、目の前にあったのは、優しく微笑む彼の顔だった。無事を祈って額に口づけた後、クスリと笑うその顔が、サティアの胸に静かに焼き付いていった。
第二章 女神が守護する王女
フェルマー学園の高学部の生徒が暮らす、女子寮の一室。ここでヒュリア・ウィストが一人のメイドと生活していた。
「ヒュリア様。この後は街を視察されるのですよね。お供いたします」
一つ年上で、子どもの頃から姉妹のように育ったメイドのロイズは、ヒュリアが行くところならばどこまでもついていくと言って昔から譲らず、昨年まで通っていた他国の学び舎にも当然のようについてきていた。今もヒュリアの制服を整え、胸元に外出用のブローチをつける。
「ロイズは心配性ね。この街は王都よりも安全だと言われているのよ?」
「素晴らしく気が利く上に、強い騎士団が守っているのですよね。何度か街で見ております」
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「さすがは、あの方のいる国ね」
ヒュリアが頬を紅潮させて『あの方』と呼ぶのは、婚約者であるこの国の第一王子レイナルートのことではない。
「フリーデルへ来て半年……ジルバール様に会えるのはいつになるのかしら……」
ヒュリアがこの国へ嫁ぐことを決めた最大の理由がこれだった。王子には悪いが、数えるほどしか会ったことのない彼よりも、昔から憧れているジルバールの方に関心が向いてしまう。
そんな何気ない呟きにロイズも同意する。
「私もジルバール様には是非一目お会いできたらと思っております」
たった一人で、何百年という長い時間を、死に別れてしまった女神サティアを想いながら生きているというジルバール。はっきり言って、こんな話にトキメかない女はいないだろう。
初めてジルバールのことを知ったのはヒュリアが十歳になる頃だ。
ウィストはこの国の五分の一ほどしかない山間の小さな国で、目立った産業も観光地もない。ただ歴史だけは長く、フリーデル王国が建国する前から『聖ウィスト国』として存在し、神教会を中心に人々が集まってできた国だった。
今でも神教会の影響力は強く、司教達が国王に意見することもしばしばあった。貴族達も昔は司教であった者達ばかりだと聞けば、その実態は容易に推察することができるだろう。
神教会には『女神サティア』に関連した本が沢山ある。その中に、サティアを想いながら生きるジルバール・エルースのことを書いたものがあったのだ。
「あの方にお会いすることは、わたくしの悲願でもあります。そのためには、必ずやあの女の化けの皮を剥がさなくてはなりません」
この国へ来た目的の一つは、ウィストで一年ほど前から女神サティアの生まれ変わりを名乗り、『神の王国』という怪しい者達と共に民を扇動している少女の正体を見極めることだ。その少女も同じ学び舎へ編入すると聞き、これは好機だと感じていた。
「本物だとすれば、サティア様の存在を、ジルバール様が感知できないはずがありませんもの。しかも偽者とはいえ、あの方ではなく王子と一緒になろうなどとっ……納得いきませんわ!」
少々ズレているが、それがヒュリアの本音だった。これにロイズも賛同している。
「そうですっ。間違いなく偽者だと、自分で公表しているようなものです。なぜ、それが分からないのかっ。本当に愚かな者達です」
数年前から『神の王国』が国に入り込んできているのは知っていた。少しずつ違和感を覚えてはいたが、思想は自由だ。気にするほどのことでもないと思って見過ごしてきた。
しかし、遊学に出ているうちに国王である父の傍に、その中心人物である神子と呼ばれる少女が立つようになっていた。
「お父様はあのままで大丈夫かしら」
ウィストには、幼い王子が一人いる。まだ五つになったばかりだが、王位継承権は第一位。父王もまだ四十代で、王子が成人するまでは問題なく在位することになる。だから、ヒュリアも結婚について悩む必要がなくなり、好きな勉学に気兼ねなく向き合えると安心していた。
そこに怪しげな者達が見え隠れするようになった。半年ほど前から父王の様子もどこかおかしい。更にその怪しげな信仰組織に国を乗っ取られつつあるのだから、心穏やかではいられない。
「こんな時に婚約が決まるなんて」
ウィストには、女神の生まれた国との結びつきを強めたいという野心が根強くあった。機会があれば王女を売り込み、嫁がせようと考えていたのだ。
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「国のことは、王妃様や大臣様達がなんとかもたせると約束してくださったではありませんか。それよりも、ヒュリア様のことが心配です。たった一人で国敵に立ち向かおうというのですから」
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何より、遊学で他国を見てきたヒュリアは、自国の異常さに気付いていた。神教会は大切なものではあるが、そのあり方がウィストでは少し違っている。それを正すべきだと思うのだ。
「ねぇ、ロイズ。サティア様は、なぜ国を滅ぼされたのでしょうね。あれほど愛してくださる方がいて、お母上譲りの力もあったというのに」
それは、今や誰も疑問に思っていない。サティアは断罪の女神。そう呼ばれるからには、国が悪かったのだと納得している。
けれどヒュリアは最近思うのだ。強い信念がなければ、王女の身でそれを決意することはできない。ならば、サティアはその時何を思ったのだろうと。
「この国にいれば分かるかしら。かつて、あの方々が生きたこの場所なら……」
ヒュリアはずっと考えている。見捨てきれない国の行く末をどうすればいいのかと。そしてふと気付く。その答えを導いてくれそうな人物がいることに。
「『聖女』と呼ばれるヒュースリーさんなら、答えを知っているかしらね」
「ヒュースリー……確か、これから学外を案内してくださるご令嬢ですよね」
この後、待ち合わせている人物は、この国の神教会に認められ、真の『聖女』と呼び声高いティアラール・ヒュースリー伯爵令嬢。
「ええ。あのヒュースリーさんよ」
学園に編入したその日に見た光景と彼女が壇上で口にした言葉は、今も鮮明に胸に残っている。
「あっ、あの生徒代表の挨拶をしたっ。あの方が案内を!?」
ロイズは驚いた後、緊張した面持ちになる。それもそうだろう。成績は間違いなくトップ。学園長の覚えもめでたく、『聖女』と呼ばれることへの驕りも見せないのだ。
更にこの半年で、新入生達の意識をすっかり変えた。貴族というものがどうあるべきなのか、民や冒険者達を見下す彼らに優しく諭し、勉学の楽しさやその必要性を説いてみせたらしい。
「思えば、この学園に来た当初から驚かされたわね。驕り高ぶった貴族らしい者が一人もいないんだもの」
「ええ……本当に貴族のご子息様達が通う場所なのかと、思わず街の方々に確認して回ってしまいました」
「あなた、そんなことをしていたの?」
身分による上下関係や政治的な柵で萎縮しながら生活するしかないというのが、貴族の通う学園での常識だ。
しかし、この学園にはそれがない。あるのは、目上の者に対する最低限の礼節だけ。感謝や謝罪をする時は身分が下の者にも頭を下げるが、上の者に必要以上におもねることはしない。それが自然にルールとして定着しているのだ。
それを築き上げたのがティアだと聞き、ヒュリアは大層驚いた。
「ふふっ、ようやく直接会って話せるのね」
「そうですね。一気にお会いしたくなってきました」
「では行きましょう。こちらがお願いする立場ですもの。お待たせするわけにはいかないわ」
「はいっ」
ヒュリアはロイズを連れてティアの待つ場所に向かった。
◆ ◆ ◆
ティアはヒュリアを伴い、学園街を巡っていた。
「こちらの古書店は、掘り出し物が見つかるオススメの店です。三百年前の戦争より前の古書もありますし、伝記や各種図鑑も取り扱っていますよ」
大通りを中心に、ティアの行きつけの場所などを説明しながら回っていく。連れているのはロイズという一人のメイドだけだ。ただし、姿は現さないがシルもついてきている。
「古書もあるなんて素敵だわっ。あ、興奮してごめんなさい。本はとても好きなのよ。良い店を紹介してもらえて嬉しいわ」
遊学経験は伊達ではないようで、ヒュリアは博識だった。それを知ったからこそ、こんな店も紹介しているのだ。
この半年ほど、ヒュリアはフリーデル王国の歴史などを知るために、学園での授業後も図書館に通い詰めていた。腕の良い騎士達が巡回しているとはいえ、学外へ出ることを躊躇っていたようだ。
彼女に騎士がついていたのは、この国へ送り届けられた時だけ。今や護衛と呼べるのはロイズの兄である従者だけらしい。ただし、実戦で役に立つほどのレベルではないという。
この国の騎士達を護衛として要請することもできる立場なのだが、いずれ王太子妃になれば、自由に動けなくなる。せめて今は街を身軽に見て回りたいと、護衛は頼まなかったらしい。
「ヒュリア様ならば、そう仰るだろうと思いました」
今回の外出は、ヒュリアが学内で根を詰めすぎていることを気にした、学園長や王の計らいによるものだ。
「次はどちらに向かいましょう。右手側には各ギルドが、左手側には騎士団の詰め所があります。直進した先は騎士学校と魔術師の養成学校です」
中央通りの店は、ほぼ全て見終わった。最新の流行に敏感な服屋。宝石店や雑貨屋に、美味しい食事処。武具店や鍛冶屋の場所も一応は紹介しておいた。
「で、では、左でお願いしますっ。この街にいる騎士達はとても優秀で、素晴らしい実力の持ち主ばかりだとお聞きしました。そんな彼らのいる場所を是非とも見ておきたいのです」
「っ……分かりました。では、行きましょう」
ティアは引きつりそうになる表情をなんとか誤魔化す。
ここにいる騎士達はティアを神聖視している。それは、今の伯爵令嬢然とした姿であっても変わらない。魔術で成長した『バトラール』の姿が一番嬉しいらしいが、わざわざそれに応えてやる義理はないだろう。
騎士団の詰め所は、貴族の大きな屋敷一つ分ほどの広さを有している。訓練場も含まれるので妥当な広さだと言えた。
その訓練場は外から見ることもでき、異常なほど厳しい訓練を行う騎士達のファンは多い。今も多くの人々が張りついて見守っていた。
「街の人々も訓練を見られるというのは面白いですね。なるほど。こうして常に見られているから、真剣に訓練なさっているということですか」
ヒュリアとロイズはしきりに頷いている。しかし、実際はそんな理由ではない。
「いいえ。彼らは見られていてもそうでなくても訓練内容を変えたりしません。全員、強くなることに貪欲なのです。そのためには手を抜いたりしませんよ」
「何が彼らをそこまで駆り立てるのでしょう?」
「それは……」
ここで真実は話せない。ティアを女王のように崇めているなんてことも言えないが、ひたすら過酷な訓練を追い求めている変態達だとは口が裂けても言えない。
「いいえ、よく分かりました。彼らは騎士という立場にあぐらをかくことなく、国のため、己のために強くなろうとしているのですね」
「え、ええ。そうかもしれません……」
実態を知らない方が幸せだと結論付けたティアは、そのまま曖昧に笑顔で通すことに決めた。
しばらくヒュリアとロイズは訓練に見惚れていた。その間、ティアは密かに周りに目を光らせている。ティアに敵う者など存在しないとしても、ここには王太子妃となる人がいるのだ。そう思うと気は抜けなかった。
それが功を奏したと言うべきなのだろうか。
訓練場が見える場所から離れ、兵舎を一周してギルドの方へ向かおうとした時、きらりと光る何かが空に見えた。ティアはその不穏な気配と、それがまっすぐに向かってきていることに気付く。
「っ!? シル!」
「はっ」
ティアの呼び声に驚くことなく、瞬時にヒュリア達の前に現れたシルは、飛んできたそれを短剣で叩き落とした。
「なっ、なんです!?」
ヒュリアは驚きの声を上げ、ロイズが反射的にヒュリアを守ろうと手を広げる。二人が揃って目を向けたのは、地面に落ちた物体。それは、黒く光るナイフだった。
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