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1巻

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「そこでだ」

 一枚の地図を差し出された。A3サイズくらいはありそうだ。それは、恐らくこの世界の世界地図。紙ではなく、羊皮紙ようひしのような柔らかいものだ。よく見ると、沢山たくさんのバツじるしがある。

「この印の所に、かつて召喚した賢者や転生者達の作ったものの設計図や日記が隠してある。今で言う、古代の遺跡いせきだ。数は少ないが、貴族達に取られないよう、当時の神官達やその子孫が隠したんだ」

 そうして、この世界に残ったものもあるらしい。

「全部回収して欲しい。ただ、持ち歩くのもなんだろう。君が見て、ある程度理解したら、教会の祭壇に置くか、祈りの間に持ってきて欲しい。そうすればこちらで回収することができる」

 神々も、どうせならばきちんと回収して保管したいそうだ。

「お願いする代わりと言ってはなんだけど、これを渡しておこう」

 差し出されたのは、紙を適当にひもたばねただけの冊子。中を開くと、そこに書かれていたのは、時計の設計図だった。

「っ……これ……」
「魔導具としての作りだから、君の知っている世界の精巧せいこうな作りとは違うけれどね。この世界に適応した立派な時計だよ」

 これを書いたのは、転生者。時計職人だった人のようだ。転生者は召喚された者と違い、記憶が全てあるわけではないらしい。今のフィルズと同じで、曖昧あいまいな部分も多い。
 だからこそ、この世界にある魔法も組み込み、新たに作り上げた。本来の時計の構造と比べれば、かなり簡素な作りになっている。とはいえ、部品も多く、精密せいみつなものであることに変わりはない。

「コピー機とか、携帯電話みたいなものも、作っていたはずだ。その設計図が残っているかどうかは分からないけどね。それで見て分かると思うけれど……」
「日本語……」
暗号化あんごうかするより確実でね。ほとんどがこれだ。それも、今では解読不能な複雑な魔術式が書き込まれているとしか思われない。ということで、君以外はまず読めない。だから、頼めるかな」
「……」

 期待する表情で、十神全員がフィルズを見ていた。

「……分かりました」

 そう言うしかないではないか。
 ほっとしたように微笑まれれば、覚悟も決まる。

「それじゃあ、私達からもプレゼントを受け取って」

 そうリューラが告げると、主神リザフト以外の全ての神々から、本やらものやらを差し出された。
 技巧の女神ファサラからは、何かの皮とかばんの作り方の書かれた紙、それと一緒に魔法神アクラスから、しおりの挟まった分厚い本を手渡される。

「戻ったら、神殿長に部屋を借りて、これだけすぐに作るようにね。マジックバッグだ」
「このしおりを挟んである所に術式がある」
「……分かりました……」

 マジックバッグは、転生者達の作り上げたものではないらしく、今でも作られている。ただ、容量は昔よりも遥かに小さいらしい。現在のものは、高価なものでも一般的な民家一つ分の容量。冒険者が買える最高のものでも小さな部屋一つ分だそうだ。
 だが、手渡されたレシピと術式からすると、軽く貴族の屋敷一つ分は入る容量のものだ。ベッドなども持ち運べそうだった。

「使用者権限も付けるように。それはここだ」

 アクラスがもう一つしおりを取り出して、そこに挟んだ。

「はい……」

 とんでもないものが出来そうだ。

「それじゃあ、無理はしなくていい。人生を楽しんで」
「はい」

 にこやかに手を振られ、光が周りに溢れる。次の瞬間には、フィルズは教会の祈りの間に戻っていた。

「はあ……すぐにマジックバッグを作らないと……」

 その腕には、神々から受け取ったお土産みやげが沢山抱えられていた。

 ◆ ◆ ◆

 部屋を貸してくれと、神殿長室で開口一番告げたフィルズに、神殿長は目をまたたかせた後、大笑いした。

「あははっ」
「いい加減笑うな。うるさい」
「だって。祈りの間から、かつてそんな大荷物で戻ってきた子なんていないし。何事かと思ったよ。それも、部屋貸して、なんて言うし」

 フィルズは今、神殿長室でチクチクと鞄をっていた。何気ない裁縫さいほうではなく、きちんと糸にも魔力を通しながら作る繊細せんさいなものだ。笑われると気が散る。それでも問題ないのは、フィルズが魔力操作に優れた集中力を、きちんと保っているからだ。

「すぐ作れって言われたんだから仕方ないだろ。いいから、お前も静かに仕事してろ」
「はいはい。でも、出来たら教えてね」
「……分かった……」

 細かいことが大好きだった影響で、針仕事も問題なくできる。むしろ、ミシンが苦手だった記憶があった。手縫いの方が修正もしやすくて好きだったようだ。

「上手いもんですねえ。今度、マジックバッグとは言いませんから、普通の鞄を作ってくれませんか?」
「……なんでだよ」
「君からのプレゼントが欲しいです!」
「なんでだよっ」

 なぜ神殿長にプレゼントしなくてはならないのか。

「え? 今日の祝福のお礼とか?」
「無理やり受けさせといて、なんで礼をしなきゃならんのだっ」
「親代わりに立ち会いましたし」
「だから、無理やりだったろうが!」
「いっぱいお土産もらえたでしょう?」
「なんでそれでお前にお礼すんだよ!」
「感謝の心は形で示しましょうよ」
「してねえし!」

 これは精神修業か何かなのだろうか。
 そうこうしているうちに、鞄は完成した。イラつくままに魔力を込めたら、想定したものより容量が大きくなったようだ。良かったのか悪かったのかは不明だ。
 次に使用者権限を付ける。これは簡単だった。だが、これも恐らく、現代の技術より高度で、解除不能だろう。セキュリティが高いのは良いことだ。
 フィルズは早速本のしおりを使って、鞄が機能しているかどうか実験してみる。きちんと入ったことが分かるし、手を入れてみれば、何が入っているかも分かる。取り出す時も、それを念じれば手に吸い付くようにして出てきた。

「おや。もう出来ました?」
「ああ……」


 ズボンのベルト通しに付けられるようにした、ウエストポーチ。神々にもらったものを全て入れると、フィルズは、ポーチを付けて立ち上がった。そして、ポケットから金貨三枚を取り出す。

「寄進はしていく」
「はいはい。ありがたく。プレゼントはいつでも待ってますよ」
「知らん」
「ふふふ。髪の色とか戻してから行きましょうか。その服は持っていって良いそうです」
「っ……分かった……」

 金糸の装飾のある真っ白な儀式服は、神の愛し子のあかしのようで、これも神からのプレゼントだ。早着替え用のストックに加えておく。
 今回、容量の多いマジックバッグの術式を知れたので、服のストックももっと増やせるだろう。着替えを持ち歩く必要がなくなりそうだ。
 因みに、今は最高で三着までストックが可能だった。常のストックは冒険者用の装備服と、平民用の服だけだったので、このまま儀式服と入れ替えることが可能だ。
 フィルズは儀式服を冒険者用の服に変換し、髪と目の色も変える。

「そうやっているんですねえ」
「っ……」

 そういえば、誰にも見せたことなどなかったと、今更気付いた。神殿長が当たり前のように戻していけと言ったから油断した。

「ふふふ。言いませんよ。私とあなただけのヒミツですね」
「……その顔やめろ」

 ニヤニヤと、心から嬉しそうに笑われて、フィルズは気恥ずかしさも相まって少しイラッとした。

「いいじゃありませんか。ヒミツ。私は口が堅い方ですよ?」
「だったらもう少し静かにしろ」
「え~、お喋りしたいな~」
「……」

 神殿長はこういう奴だ。だが、神々は彼を信頼している。それが分かるほど、強い祝福を彼は身に宿しているのだ。
 それから、フィルズは約束通り裏口に案内された。そして、見送る時、神殿長は思わずと言うように声をかけた。

「いつでも来てください。一人で抱え込まないように。私は神々のようにいつでもあなたを見守れるわけではない。会って、言葉を交わさなくては察せられないのです。だから私のためにも……会いに来てくださいね」
「……気が向いたら……」
「はい」

 心配してくれていることは分かる。だから、フィルズも邪険じゃけんにし切れないのだ。

「……変な奴……」

 こんなに親身になってくれる人など、周りにいなかった。だから戸惑う。くすぐったいような、照れ臭いような、そんな気にさせる大人。それが何だか少し嬉しかった。
 昼食を約束通り、女将の食事処で食べ、フィルズは今日依頼を受けたゴブリン退治へと出かける。そのついでに、時計を作る材料となる鉱石を採取し、夕方になる前に帰還した。
 そうして、長い不思議な一日が終わったのだった。



 ミッション② 生活環境改善と救助依頼



 祝福を受けてから、フィルズの生活は少し変わった。

「そうそう。上手いものだ。これで強化したこのバネをしっかりと支えられる」
「そうか……ここの固定化が必要なのは、この強化した部分を支えるためか」

 技巧の女神、ファサラが向かいに座り、現在、時計作りの真っ最中だ。
 こうして、フィルズが一人で部屋にいる時に、神々が顕現けんげんし、話をしたりするようになったのだ。彼らはいつの間にか現れるので、最初は驚くことも多かったが、次第に慣れた。神々は、その神の祝福や加護を受けていない者には、基本見えないらしい。もちろん、見えるようにすることもできるようだが、面倒なので高位神官への用がある時以外は、やらないとのことだ。
 因みに、この町の曲者神殿長には、しょっちゅう会いに行って、愚痴を言ったり聞いたりしているようだ。それだけ気に入られているということだろう。

「なあ、ファサラ。これにも使用者権限を付けるとしたら、どうすればいいだろうか」

 神々は、フィルズに名を呼ぶようにいた。友人のように、父母や兄、姉のようにしたって欲しいと願われたのだ。よって、気安く名を呼び、言葉使いも砕けたもので相談もする。

「時計は時計だし、本人以外は開けられなくするだけでいいとも思ったんだが、開けてる時に盗られたら、それも意味ないよな?」

 形は懐中時計だ。蓋ができるようにと考えている。仮に、これに使用者権限を付けたとして、どう本人との差を付けるか、盗っても仕方がないとどうやって思わせるかが問題だ。

「確かに……時計部分に細工するのは無理だとして……」

 ここで、商いの男神サウルが顕現する。

「守護などの付加価値を付けたらどうだ?」
「サウル……なるほど……売り物としては、時計機能よりも守護の力が主な価値を持ちそうだな。蓋には本人以外が開けられないという機能を付けて……閉めたら二度と開かないようにすれば良いか」

 蓋を開けることで、本人の証明にもなりそうだ。
 サウルが更に助言する。

「無理に開けようとすれば、針が止まるようにすれば良い。壊れるようにしても良いが……それではもったいなかろう。再び持ち主に戻った時には、きちんと時間が合うようにできれば尚良しだ」

 盗られて終わりではなく、本人の証として使えるのだから、手元に正しく戻ってくることも期待できる。

「……付与の方が大変そうだ……」
「はははっ。そこは、アクラスと相談すると良いよ」
「分かった」

 魔法神アクラスと研究するしかなさそうだ。それもまた楽しい。

「さてと。そろそろ戻るとするよ」
「ああ。ありがとうファサラ。終わりが見えてきた」
「ふふふ。あまり根を詰め過ぎないようにな」
「早く作れ。これは売れるでな」
「サウルはそればっかりだ……」
「はっはっはっ。ああ、そうだ。おぬしにこれをやろう」
「……なんだ?」

 サウルが何かをタダでやろうと言うので、フィルズは少し警戒する。商いをつかさどるだけあり、与えられるものは全てサウルにとっては投資なのだ。
 出てきたのは、鍋や魔導コンロ、小さな水差し、包丁やお玉だった。

「……調理道具?」
「恵みのが、料理も早く発展させて欲しいと言うのでな。ほれ、アレからレシピ本をもらったろう」
「ああ……」
「フワフワなパンが食べたいそうだ」
「……鍋で焼くやつでいいか……?」
「鍋でできるのか⁉ 焼いたら祭壇に持ってきてくれ!」
「わ、分かった……」

 神々は、ものを持ってくることは可能だが、この場から持って帰ることはできないらしい。フィルズから渡すには、祭壇に供える必要がある。簡易祭壇でも良いが、質量の制限があるらしく、沢山は送れない。わざわざ祭壇にと言っているということは、十神分、たっぷり欲しいということだ。

「そうだ。母御にも手料理を振る舞ってやれとのことだ。あとは、外の空気も吸わせると良い」
「……ありがとう……やってみる」
「うむ」

 そうして、二神は戻っていった。
 今日は雨で、外でやる剣術の授業ができなかった。他の教師も本館の方で正妻の子ども達相手に授業をしている。
 お陰で、フィルズは一日暇だ。そんな日は珍しくないし、雨では町に出かける気にもならない。こんな時、神々から渡されたものは役に立つ。鞄作りも楽しく、料理のレシピを見るのも楽しい。
 フィルズは料理でも何でも、材料を完璧に用意してから始めたいたちだ。よって、こうした暇な日を使って、既にイースト菌は用意済みだった。ただ、パンを焼くにはかまかオーブンが要る。屋敷の調理場を使えるわけでもない。なので、料理を実際にすることが中々できずにいたのだ。

「ジャムもあるし……作ってみるか」

 野営用のサイズの鍋があれば何とかなるものだ。作ったパンは、フィルズの作った特別なマジックバッグに入れれば時間経過を止めて保存できる。今日は色んなパンを焼いて過ごそうと決めた。
 一つのことにとことん打ち込むのが好きなフィルズだ。そうして、夕食の時間だと言われるまで、ずっとパンを量産し続けたのだ。


 その日の朝は、気分が良かった。久し振りに授業が受けられそうなのだ。勉強は好きだ。計算問題なんて、難しくて時間のかかるものほど良いし、様々な文字を習うのも好きだ。ただ、歴史の授業は苦手。歴史が嫌いなわけではなく、本を読むだけでいいだろうと思ってしまうのだ。それも、自分の気になった所は、自分で調べたいから、モヤモヤする。
 朝食は、また新しいメイドが第一夫人の毒牙どくがにかかったようで、スープに薬物が入っていた。本当の味が分からないのでやめて欲しい。

「はあ……だから、茶に入れろと……」
「あ、あの……ぼっ、坊っちゃま……っ」

 ボソリと呟いた言葉は聞こえなかったのだろう。メイドがビクビクしている。

「もういい。茶も自分でれる。下げてくれ」
「はっ、はい!」

 ガチャガチャと大きな音を立てながら、メイドは下がっていった。
 大きくため息を吐いてから、お茶を淹れる。茶葉はフィルズオリジナルで、スッキリな後味の烏龍ウーロン茶だ。少し落ち着いた。

「……時間もあるし……見てくるか」

 それから、思い立って母の部屋へ向かった。
 母クラルスは、本館より更に距離を置きたいのか、北側の日もあまり当たらない部屋にいる。
 トントントン。

「母上、フィルズです。入ります」

 ノックしたところで、どうせ返事はない。扉の前には、冷めた朝食が置かれていた。それに一目向けてから、答えを待たずに勝手に入る。
 部屋は荒れていた。精神的に参っているらしく、天蓋から吊るされた薄布はビリビリに破れ、クッションも引き裂かれて、中にある少ない綿わたが散らばっている。一人掛け用の木の椅子が、壁に向かって投げられたのか、おかしな場所で倒れていた。
 クローゼットは開いたまま。中にあったはずのドレスはぐしゃぐしゃになって床に転がっている。常に閉じられたままだったカーテンも、無理に引っ張ったのか破れており、カーテンの意味をなさなくなっていた。

「はあ……」

 本人はどこにいるかというと、部屋の奥の隅に、顔を伏せて小さくなって座り込んでいた。

「母上、食事を取ってください。せめて水分を。あと……いい加減、部屋を掃除しましょう」

 部屋はそれなりの大きさがあるので、まだ足の踏み場があるが、祝福を受けたひと月ほど前から週に一度、毎回掃除してもコレだ。いい加減、布などがもったいない。
 その時、か細い声が響いた。

「……部屋なんて……すぐ、全部新しくされるもの……公爵家だもの……お金が……お金で全部……何だってできるって……っ、私も……お金で買われた……だけなんだわ……っ」
「……」

 ようやく、最近クラルスはこれだけ話すようになった。フィルズは子どもで、不満を言っても意味がないと思っていたからか、ずっと口を閉ざしていたようだ。
 この屋敷の者達は、第一夫人のもの。何があっても放っておく夫のもの。声を上げたところで、ここにいるのは全員敵。そう思っていたのだろう。
 フィルズも、何が不満なのかいまいち分からない状態の母が鬱陶しく、距離を置いていたが、祝福を受けた日から、時々部屋をのぞくようになった。
 すると、きちんと気にしてくれる人がいるというのがクラルスには良かったようだ。次第に口を開くようになった。そして、ようやく彼女の心の内が分かったのだ。

「そうですね。何だって、お金で解決できるでしょう。けど……この前替えた、この天蓋の布も、クッションも、カーテンも……この椅子も、私が作ったものです」
「…………え……」

 クラルスが少しだけ顔を上げた。焦点しょうてんが定まらない様子で、ゆっくりとフィルズを見る。しばらくして、きちんと目が合ったことを確認すると、フィルズは告げた。

「私が……俺が町に出て、金を稼いで布を買い、綿や木を採ってきて、作ったものです。公爵家の金は使っていません」
「……あなたが……作った……お金を……稼いで……?」
「そうです。あなたは、公爵家のものが気に食わないのでしょう? 何でも、簡単にお金で解決してしまうのが、気に入らないんだ。そこに、何の心もないから悲しいんだろう?」
「っ……」

 目を丸くするクラルス。そして、ゆっくりと部屋を見回して、自分の壊したものを見る。薄い一枚の下着だけのクラルスに、フィルズは柔らかく暖かい肩掛けを取り出して被せる。

「これも俺がみました。これも破りますか?」
「っ……っ、し、しないっ……っ」

 ぶんぶんと大きく頭を横に振る。声が震えていた。

「っ、ご、ごめんなさいっ。あなっ、あなたが作ったもの……っ、壊しっ、壊したわっ……ごめんなさいっ。きらっ、嫌いにならないでっ。ごめんなさいっ」

 子どものように泣いて、すがり付いてくる。せ細った体。せっかく掛けた肩掛けもずり落ちる。そんな少女のようになった母の背を、フィルズは優しく撫でる。

「嫌いになったりしません。見捨てたりしませんよ。だから、部屋から出ましょう。こんな生活はダメです」
「っ……うん……うんっ……」

 寂しかったのだろう、誰からも目を向けられないことが。考えてみれば、クラルスは踊り子で語り部だった。いつだって誰かの目を惹きつける者だったのだ。それが突然なくなったのだから、おかしくなるのも分からないでもない。完全に生き方を変えるというのは、難しいものだ。

「母上……母上は、俺と父上、どちらが好きですか?」
「っ、あなたよ!」

 即答だった。

「なら、何が嫌なのです? 父上が戻ってこないとなげくのは時間の無駄でしょう。あんな男、第一夫人に熨斗のしを付けて叩き返してやればいい」
「っ……」

 何かが、がれ落ちるような表情だった。

「もう顔も忘れてませんか?」
「……忘れ……あ……」

 もう夫とは十年は会っていないはずだ。そんなに会わずに、覚えていられるだろうか。それだけの情が、クラルスの中に残っているだろうか。

「あんな人は忘れて、昔の……笑って踊っていたあなたに戻りませんか? 久し振りに、語りを聞きたいです」
「っ……わたっ、私……もう、踊れ……」
「踊れますよ。だから、きちんと食べて、元気になってください。母上はリューラの加護が強いんですよ。だから、こんなに痩せても、布を破る力がある。椅子を投げる力があるんでしょう?」
「……あ……」

 その時、命の女神、リューラが顕現する。

「ふふふ。まったく、こんなに痩せてしまって。困った子だわ」
「っ、え? え? め、女神様っ?」
「そうよ。さあ、元気になってきちんと生きて。それで、また舞いを見せてちょうだい」

 それだけ伝えて、リューラは消えた。呆然とするクラルスの手を取り、フィルズは歩き出す。

「まず、俺の部屋に行きますよ。そこで食事です。動けるようになったら、この部屋を片付けてください」
「え……」
「この屋敷のメイドに、俺の作ったものを片付けさせるんですか? 片付け、できますよね?」
「っ、も、もちろんよ……」

 意地悪げに笑ってやれば、少し昔のようにクラルスの目に力が戻った気がする。そうして、フィルズは母クラルスを部屋から出すことに成功したのだ。


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