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第3章 蒼き海原と氷雪の砦

67話 心を喰らう炎

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「……テネロ闇よショトゥ射出せよ──」
 脳裏に浮かんだ詠唱を音として紡いだ瞬間、普段の魔法で体を流れるマナとは全く異なる感触の鈍重な何かが伸ばした左腕へと流れ込み、闇をそのまま切り取って来たかのような漆黒の魔法陣を作り出した。前方に佇むアレウエは俺にもはや攻撃できるほどの力が残っていないと踏んだのか、何らかの迎撃をする素振りすら見せずにほくそ笑んでいる。
ルーン魔法実行ッ!!」
 式句の詠唱によって魔法の撃鉄が打ち落とされると同時に魔法陣を中心にねじくれた巨大な黒い槍のようなものが形成され、アレウエの人形部分へ向かってまっすぐに飛翔していく。胸の奥で何か大切なものがごっそりと抜け落ちたような感覚を味わいながらも左腕を掲げたままの姿勢で黒槍の向かう先を睨むと、アレウエが余裕のある表情で周囲から氷の茨を展開して俺の攻撃を防がんとする姿が視界に入った。刹那、ガキンッ!! というおよそ氷に衝突したとは思えないほどの硬質な轟音が響き渡り俺の放った魔法の槍が茨に絡めとられた。驚愕の表情を浮かべているであろう俺とは対照的にアレウエの顔には俺を嘲るような冷たい笑顔が張り付いている。
「あんな大口叩いておいてこんなものなんて、もしかして笑わせようとしているの?」
「……こんなもんな訳ねえ、だろうがあッ!!」
 ふつふつと煮え滾る怒りのままに吼え俺は左腕にさらに精神を集中させる。
 本来、《ショトゥ射出せよ》という式句によって撃ち出された飛翔体は魔法陣から切り離されるため、魔法の発動後さらにマナを流して変化を促すような真似はできない。魔法の矢ならそのまままっすぐ飛ぶし、魔法のロープなら遮蔽物にぶつかったら最後、その長さは変わることがない。
 しかし、奇妙なことに俺の体に刻み込まれた心喰いの呪いの発動下においては詠唱の省略と同様、それが可能な芸当へと変貌する。
「お……ああああッ!!」
 裂帛の気合に乗せて再び胸の中心にある重い塊が一気に左腕に集結し、直後纏いのフラッシュを思わせる漆黒の火炎が左手を核に炸裂した。それと連動するように魔法陣の外周に新たな円が形成され、アレウエに捕らえられた槍が俺の左手と酷似した黒炎を噴き出す。そのまま黒い火炎を推進力にして黒槍は茨の中で回転し始める。
「な、何が──」
 異常な状況に目を見開くアレウエの言葉を遮るように大槍は黒炎をまき散らしながらドリルのように回転し、絡みつく茨を粉砕、あるいは逆に絡め取っていき、ついに茨の壁を突破した。耳をつんざくすさまじい轟音とアレウエの絶叫の中、白い氷の欠片と黒い火の粉を辺りに放ちながら大槍は化け物の右胸に突き刺さり、その硬質な氷の体を打ち砕き、周囲に数多のひび割れを生じさせながら背後へと貫通していった。
 背後の曇り空がきれいに見えるほどの大穴を穿たれたアレウエは端正な顔を歪めて必死に件の患部をまさぐり、自身の置かれた状況を呑み込もうと躍起になっている。しめたとばかりに俺は魔法で大規模な煙幕を焚くとすぐに踵を返し、背後で呆気に取られて蹲るカイナの手を取り駆け出した。

「カイナはここに隠れていてくれ。あいつは俺がなんとしてでも倒してみせる」
 一旦戦場となった広場から退散しカイナを凍てついた家屋の陰に連れてくると、怯えた顔の彼にできる限り落ち着いた調子で伝える。遠くからはすでに混乱から回復して激怒の声を吐き散らしながら俺の姿を探すアレウエの騒音が響いてくる。
 そうしてカイナが頷くよりも早く再び戦場へと戻ろうとする俺の上着の裾を、少年が弱々しく掴んだ。振り向いた俺の目と絶望に染まったカイナの薄藍色の瞳が交錯する。
「ソーマ、行っちゃだめだよ、勝てっこない。先にソーマが死んじゃうよ……! ……一緒にここから逃げよう?」
 正直なところ、カイナの言い分は俺の中でも全くと言っていいほどの正論だった。いくら呪いが発動しているとはいえ限界はあるし、何よりこちらは満身創痍、対するアレウエは前のように肉体を再生する可能性だってある。どう考えても勝利の女神は俺たちを見放しているように見える。しかし──。
「……でもな、俺は誰かが困っているなら絶対に投げ出したくないんだ。無理をするなって言われたこともあったけど、せめてそれだけでも俺は貫きたいんだ」
 俺が俺であるための信念をゆっくりと言葉として紡ぎ出し、なおも不安げなカイナの頭に手を置いた。
「あの時カイナを助けられて本当に良かった。生きててくれて、本当にありがとう」
 最後に軽くポンと頭を撫でて俺は灯台広場へと走り出した。

 霞んだ視界を気合でごまかしながらよろよろと走り、ようやくアレウエのもとへと戻ってきた。すでに魔法の黒い霧は晴れ、金色の眼光がまっすぐに俺を捉えている。
「こんな余力を残しているなんて、どこまでも憎たらしい虫けらね……!」
 頭上からアレウエの怒気を孕んだ声が響き渡る。パキパキという硬質な音を鳴らしながら槍が貫いた大穴を塞いでいく氷人形を見ながら俺は左腕に再び精神を集中していく。
「御託はいいから始めようぜ」
 捨て台詞を一言こぼすと俺は左腕を掲げて即座に魔法の詠唱を開始する。それと同時にアレウエもその巨大な腕を俺に向かって振り下ろした。スローモーションに映る光景の中、式句を一語、また一語を唱えていくたびにどくんどくんと何かが俺の体の中から溶け出していき黒い魔法陣を形作っていく。
 これまでの経験からあいまいに分かったことだが、心喰いの呪い発動下において魔法によって生み出されるものはどうやら俺自身がイメージしたものらしい。相手を打倒したかったり、あるいは守りたかったりといった抽象的な望みでさえも、呪いは可能な限り理想的なものに魔法を形作っていくのだ。
 じわじわと巨腕が俺目がけて迫りくる中、俺が望むのは──。
「──ルーン魔法実行ッ!!」
 俺が望むもの、それは炎だ。俺の心で今なお燃え滾る激怒のほむらを具現化したような、目前に迫る氷の塊を融解させ、そしてアレウエすらも焼き尽くす怒りの火炎が欲しい。
 魔法の実行を宣言する式句を叫ぶと同時に先刻と同様の黒い炎が左腕から発生する。直後、ほぼ同質の漆黒の火炎が魔法陣の正面からぶわりと急速に膨れ上がった。そのまま黒炎がアレウエの鉄槌ならぬ氷槌を包み、一瞬その動きを制止させ、そして瞬く間に跡形もなくその腕を消し飛ばしてみせた。視界いっぱいに溢れ出す黒の隙間からアレウエの歪んだ顔が垣間見える。
「燃えろおおおッ!!」
 俺の雄叫びに合わせて体の中の何かを燃料にして魔法陣はさらにその爆炎を膨張させ、ついにアレウエの上体をそれを支える花ごと飲み込んだ。黒炎はぐるぐると渦を巻きながらアレウエの体を継続して焼き尽くしていく。

 このまま炎で焼き続ければあるいは──、と一条の光が見えたような気がしてほんの一瞬だけ緊張が緩和したその時、不意にガクンと体中の力が抜け落ちた。例えるならブレーカーが落ちた時のような唐突さ加減だろうか。朧げな記憶が俺はこの現象をかつて経験したことがあると訴えかけている。急激に暗転していく視界に魔法の炎が掻き消え、中からアレウエが現れるのがわずかに映った。まずい、まずい……。強く歯を噛みしめて抵抗するも空しく、俺の意識はスイッチをオフにされたかのように現実から切り離されて暗闇へと沈んでいった。

 気がつくと俺は、夕日に照らされた草原に立ち尽くしていた。ここを訪れた記憶は全くないのにも関わらず柔らかく照らすオレンジの陽光も、草を揺らすそよ風も、尾行をくすぐる匂いもどうしようもないほどに懐かしくて、気を抜いたら涙すらこみ上げてきそうだ。
 どこに向かうべきかも分からず俺はひとまず適当な方向に検討をつけてゆっくりと歩き始めた。ついさっきまで何かとても大事なことをしていた気がするが、濃霧がかかったようにそれが何だったのか思い出せない。もやもやとした気分のままある気づつけていると、しかし段々とその思い出せない感覚は薄れていった。まあ忘れるということはそこまで大事なことではなかったのかもしれない。
 急に晴れやかな気分になった気がして大きく伸びをしようとするが、奇妙なことに右腕の輪郭が蕩けたように不鮮明でうまく動かせない。まあ別にどうでもいいか、そういう日もあるかと呑気に考えつつ空を見上げた俺の目に斜陽に伴って青く染まりつつある空が映る。薄藍色の空の色はやはりあの少年の目の色によく似ている──。
「っ!?」
 その瞬間、ふやけた思考が一気にリセットされた。俺は何をやっているのだ。何をのんびりしていられようか。俺の焦燥を反映したようにそれまで平穏そのものだった草原の景色がぐにゃりと歪んでいく。そうだ、俺はあの化け物と今も戦っているのだ。凍てついた町を救うために、凍った人々の敵を討つために、そしてあの少年との約束を守るために。
「待ってろよ、カイナ」
 完全な思考の回復とともに決意を込めて一言つぶやくと、一気に世界が崩壊を始めた。意識が水面に浮上するように上へ上へと昇っていき、視界が次第に明るくなっていく。

「っはぁ!?」
 長い潜水を終えて水面から顔を出すような感覚で突然の意識喪失から回復した俺は、気がつけば地面に膝を突いて蹲っていた。どうやら意識を焼失した拍子に思い切りぶつけたのかじんじんと膝が痛む。目の前には全身とその下の茨の花をドロドロに融解させ湯気を立ち昇らせるアレウエの姿が見える。見たところ俺が気絶していたのはほんの一瞬らしい。熱さに耐えるためか顔を覆う片手の隙間から金色の光が容赦なく俺を貫いている。
「貴様貴様貴様貴様ァッ!!」
 全身を魔法で燃やされてもなお、元気に黒板を引っかいた音に似た大絶叫を上げるアレウエの頑丈さには恐怖や驚愕を通り越してもはやうんざりしてしまう。
「ツケを払わせてやるからな……!」
 アレウエに負けないような怒りの籠った眼光で奴を射抜きながら、俺は左腕を突いてゆっくりと立ち上がった。
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