泡影の異世界勇者《アウトサイダー》

吉銅ガト

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第3章 蒼き海原と氷雪の砦

51話 伝える仕事

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「”うみのむこうへ”、か……」
 俺が睨みつけるのは、ここポルターズのシンボルである大灯台に書かれた一つの文字列。乱暴に書き殴られた、この世界には存在するはずのないひらがなのたった七文字の文言が、猛烈な引力を以って俺をその場に硬直させていた。
 その文字たちをそのまま日本語として読み取るならば、”海の向こうへ”。つまりは今この白い灯台を挟んだ向こうに広がる大海原の先を指しているのだろう。ということは、これを書いた俺と同郷の異世界人は、この蒼の海の彼方に帰還への道を見出したのか。しかしそんな情報を一体どこで見つけたというのか。この町にもフレンテのものほどではないものの図書館があり、俺も時間を見つけては足を運んで調査をしていたがそれらしい情報は全く見つけられなかったのだ。フラムさんに頼んだ調査に関する報告も未だないので、あちらでも調査は難航していると見える。
 いや、そんなことより異世界人の彼ないし彼女の向かった先はどこなのだろう。海の向こうということはわかってもその目的地が分からなければ、たとえ俺が今すぐにこの人物を追いかけようとしたとてどこにも向かいようがないではないか。
 異世界人の動向についてああだこうだと思案を巡らせていると、不意に背後から甲高い声が掛けられた。
「ねえおじさん! 邪魔だからどいて!」
「おじ……っ!?」
 苛立ちを含んだ声を上げて俺の後ろからひょっこりと現れたのは小さな少女だった。十歳にも満たないだろう、さぞ暖かそうな衣服をくるまれた小柄な体躯を生かして観光客たちの合間を縫うようにして俺の前に立つと、彼女は地面から炭を一つ拾い上げる。そして大きく背伸びをした少女はあろうことか先ほどまで俺が食い入るように見つめていた文字の上に炭をあてがう。ぐちゃぐちゃに塗りつぶしでもするのだろうかと内心ひやひやしていたが、少女は俺のそんな予想とは裏腹に、あろうことか一画一画何度もその文字たちをなぞっていた。
「なんで君はそんなことをしているの……?」
 呆然と彼女の動向を視界にとらえながら俺は問いかける。そんな俺の問いに対して、小さな少女は壁に目を向けたままうっとおしそうに返答を投げた。
「それがあたしのお仕事だから!」

 俺が大灯台でひらがなと思しき文字と、それをなぞる謎の少女と出会ってから一時間後。俺はなぜか見ず知らずの人の家で呑気にお茶を啜っていた。いや、「なぜか」とは言ったものの、その理由である人物もまたテーブルの向かいでホットミルクを飲んでいるのだ。
「──それで、なんで俺をここまで?」
「おじさんがあたしのお仕事のこと気になるって顔してたからでしょ! だから教えてあげるの!」
「は、はあ……」
 話についていけていない俺を置き去りにして、少女はごくごくとミルクを飲み干すと満足げに笑う。彼女の言葉をそのまま受け取るなら、つまりは俺が彼女の行動について知りたがっていたから教える、俺を家まで連れてきたのはただ彼女が家に帰るからというだけなのだろう。その短絡さ加減には驚かされるばかりだが、まあそのくらい天真爛漫なのが子供らしいと言えばらしいか。
「こらこらティール、あんまりお客さんを困らせちゃだめよ。ごめんなさいね旅人さん、この子すごく頑固だから……」
「いえいえ! こちらこそ突然上がり込んでしまってすみません……」
 少女改めティールの母親はティールを優しくたしなめると彼女の隣に座った。こうして親子が並ぶとくりっとした茶色の目や同じく茶色い髪の毛、そして赤みの差した頬などがそっくりで、なるほど確かに親子なのだなあと妙な感心を覚えてしまうが、本題はそんなことではないのだ。あるはずもない日本語を少女がなぞっていたこと。その真相を知るために俺はここに来たのだ。
 俺はもう一度黄色透明のお茶で唇を湿らすと、ティールの母に単刀直入に尋ねた。
「ティールちゃんのしていた文字をなぞる仕事、あれは一体何なんですか?」
 俺の問いに彼女は驚いた様子はなく、なぜか彼女の顔には期待とも不安ともつかぬ色が浮かんでいるようにさえ見える。彼女は愛娘の頭を撫でながらゆっくりと口を開いた。
「その前にこちらからお伺いしたいのですが、旅人さんはあの文字を読むことが出来るのですか?」
「え? ……ああ、”うみのむこうへ”、ですかね」
「海の向こうへ……、そんなことが描かれていたのですね……」
 俺の返答を聞いて、不思議なことに彼女はその事実を初めて知ったかのように頷いていた。娘がまさにその文言をなぞっているのにも関わらずその内容を知らないという事実の乖離に少なからず違和感を覚えてしまう。俺がその疑問を彼女に投げかけるよりも先に彼女はついに俺の初めの問いに答え始めた。
「ティールがやっている仕事は、昔……百年ほど前にある方に頼まれた仕事なんです」
 言葉を噛みしめるようにゆっくりと語られた謎の仕事の正体の説明は、そんな思ってもみない言葉から始まったのだった。

「私たちの家は代々この町で漁師をやっているのですが、私たちの五代前の先祖がある時魔物に襲われてしまったんです。絶体絶命の状況に死を覚悟したその時、疾風はやてのごとく現れたとある旅人様がそれはもう華麗に魔物を蹴散らし、先祖の命をお救いになったそうなんです」
「はあ、なるほど……」
 突然に始まった昔話を俺はただ大人しく聞くことしかできない。五代前で約百年前となるとかなり世代交代が早い気がするが、こんな危険だらけの世界だからと考えればまあそうなるのも頷けない話ではないか。
「そして、私たちの先祖が恩返しをさせてほしいと言ったところ、その旅人様は金品を要求するのではなく、とある文章を大灯台に書きつけておいてほしいとおっしゃったのです。それから今まで、私たちは家長の子供が毎日あの大灯台に旅人様に託されたその文言を描いてきました。まさかそんな意味の言葉だったとは思いませんでしたけどね」
 意味も分からずにそんな言葉をなぞり続けてきたことに対してだろうか、彼女は自嘲気味に笑いながらそう締めくくった。
 つまり彼女の話をまとめて推定するならば、百年前に現れたというその旅人は俺のような次なる異世界人を文字通り海の向こうへ誘導するために、彼らにメッセージを残させる任を託したということなのだろう。海の向こうへ行けという伝言はいささか内容不十分という気もするが、長期間に渡って赤の他人を通じて、それも全く知らない言語を壁に書かせて情報を伝えるためと考えるならば多くの情報量は残せないというのも納得できなくはない……多分。
「そういうことだったんですね……。これからはどうするんですか? 伝言は俺が受け取ったわけですし……」
 百年もの間継承されてきた仕事を俺が発見したことで、果たしてその使命は全うされたことになるのだろうか。彼らの歴史への俺の干渉が本来の目的だとは言え、本当にそれが彼らにとってよい行いなのか俺には判断しかねるのだ。俺の質問に対して彼女はコップを弄び始めた娘を眺めてしばらく考え込み、やがて何かを決心した表情でこちらに向き直った。
「これからも灯台に文言を描く仕事は続けると思います。はじめは伝言を残すためだったのかもしれませんが、百年も経てばもうそれは伝統になってしまいますからね。……仕事を終えるには少しだけ時間が経ちすぎてしまったんです」
「そう、ですか……」
 百年も経てば伝統になる──、どこか哀愁の籠った声色でティールの母の放った言葉が、なぜか心の奥に響くのが分かった。恐らくは今まで図書館の文面のみで実際に感じることの少なかったこの世界の時の流れというものを、今まさに俺の目の前で体感することになったからだろう。独特の無常を噛みしめる俺の様子をティールは不思議そうな目をして見つめていた。

「それでは、色々と教えていただきありがとうございました」
 それからティールに付き合って小一時間ままごとに興じた後、俺はようやく彼らの家を後にすることにした。太陽はすでに大きく西に傾き、内陸方面からの凍えるような冷気が家々の合間を通り抜けて容赦なく吹き付けている。
「こちらこそティールとも遊んでいただいて助かりました。またいらっしゃってもいいんですよ」
「うん! おじさんまた遊びに来てね!」
「うん、ティールちゃんもありがとう。おじさんはやめてほしいけどね、ははは……」
 終始ティールからはおじさんと呼ばれ続けていたが、まあ結果仲良くなれたのならそれでいいか。
 ポンチョを纏って再び彼らに礼を言うと、俺はようやく彼らの家を発った。気分転換のための散策だったが予想外の収穫があった。カエル忍者の金貨強奪事件が無事に解決した暁には、次の目的地をあの蒼い海の向こうへと定めるとしよう。
「……あ、雪だ」
 不意に上空から降りてきた白い粒子に俺は思わず足を止める。夏にこの世界に迷い込んでからもうそんなに長い月日が経とうとしていたとは。そんな中で俺も随分とこの世界に染まってしまったなと呆れながらも、少しは成長できたかなと心の中で自分を褒めて、俺は拠点であるくじら庵への帰路を歩み出した。

 大灯台で異世界人の伝言を発見してからおよそ二週間の時が流れた。季節は本格的な冬を迎え、町行く人の目線もやや下がりがちな今日この頃だが、未だにカエル忍者グミャに関する情報は俺の耳には届いていなかった。
 本来ならば盗難事件を解決に本格的に冬が到来するまでにこの町を出発するつもりだったのだが、結局こんな具合にずるずると冬になってしまい、さらに冬場は潮の影響で海の向こうにある大陸へは向かえないらしく、ならば仕方なし春まで資金を溜めるまでだと魔物狩りへと赴く毎日を送っているというわけだ。秋ほどはマナーゼンの姿もないので俺としては気楽にやっていたのだが、なんとなくギルドのスタッフたちから一人ぼっちの俺に対して憐憫の目を向けられているというのが少々悲しかった。
 そんなわけで新たに買った外套を体に巻き付けて西の洞窟を目指してとぼとぼと雪降る町を歩いていた俺だったが、不意に後ろから声をかけられた。
「ねえ!」
 ややかすれ気味だが一本筋の通った高めの声。どこかで聞いたような気がする声に振り返った俺の目にとある人物の姿が映った。
「あ! 君はあの時の!」
 雪のちらつく道を小走りで近づいてくる小柄な人物。目深にかぶられたケープのフードが、その人物がその人物たることを強く強く俺に示唆していた。
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