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第1章 はじめての異世界
13話 愚者と魔法
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「テネロ・エメルゲ・コルーム・ラド:オーン・ヘウ:ピントオーン・ソルド・ルーン!!」
素早く詠唱を唱えると俺の腕の先の紫色の魔法陣が光を放ち、何もない空間に徐々に密度を増していくように直径一・五メートル弱の漆黒の円盤が現れた。その直後、オークの巨大な腕、その先の棍棒がまっすぐに俺に向かって振り下ろされた。スローモーションで流れる視界が粗雑な棍棒と黒い円盤に埋まる。そして真っ黒な大盾と棍棒が衝突した刹那、すさまじい轟音が響き渡る。漆黒の円盤は、俺の頭蓋を打ち砕かんとしていた打撃を完璧に受け止めてみせた。
その代価として俺の中の何か、恐らくマナが恐るべき勢いで失われていくのが分かる。ライさんの工房で毎日のように魔法の練習をしていたが、ここまで急激にマナをすり減らした経験はない。
しかしオークの渾身の一撃を受け止めたのはいいものの、数秒後ぴしりという弾けるような不吉な音がして黒い円盤に大きな亀裂が生じる。それは盾の維持に消費されるマナが底をつき始め、耐久性が低下し始めていることを示唆していた。
魔法実行時のマナの消費の例として今回の魔法を上げるなら、闇属性魔法によって生成された漆黒の大盾は体積がおよそ三三万立方センチメートルであり、このとき消費されるマナ量は、一立方センチメートルの小さなサイコロを生成するときに消費される量の単純に三十三万倍になる。つまりは消費量は体積に比例するということだ。そして生成物質の状態を固体にする処理は簡単に言えば微粒子を密集させるという行為なので、そこでさらにその分のエネルギーが消費マナを増加させる。そこに空間内に物体を固定するイモーバルの命令を加えるので、この円盤を生成するだけでも莫大なマナが消費されているのだ。
そこからは物質の維持のために継続的にマナが消費されていくことになり、先ほどのオークの攻撃によってその消費量が急激に高まった。したがって、この盾は今現在破砕の危機に晒されているのだ。
気力、いやマナを振り絞って黒の盾を保つ俺の横を、気を失った女を抱えた男が必死の形相で走り抜ける。良かった、とりあえずあの人たちを助けるというミッションは達成できたみたいだ。ならばこの後俺が生き残れば完璧なのだが、さて、どうしたものか。このまま魔法を使いっぱなしではマナの浪費になってしまう。いったん魔法を止めてこいつに対処しなければ。
直後、マナの供給の停止に呼応して魔法の盾がガシャーン! というガラスめいた破砕音ともに砕け散った。黒い破片が空中に消えていく。円盤の崩壊によって振り下ろされた棍棒が右に飛び退いた俺を掠めた。ゴウ! という風切り音とともに巨大な得物が地面を打つ。恐怖に強張る足を無理やりに動かしてオークの股の下をスライディングで抜ける。今の状態でこのオークを倒そうとするのは得策ではない。できるだけ村の東側にオークを引きつけて広場の村人たちへ被害が及ぶことを防ごう。マナの激しい消費で痺れた脳をフル回転させてとりあえずの作戦を立てると、こっちだ!とオークを挑発して俺は再び大通りを東に走り始めた。
「はあっ……、はあっ……!」
オークを引き連れて村を東に疾走する俺の姿は、普段の村ならばさぞ奇怪に見えたことだろう。しかし襲撃に遭ったこの村の中では、さながらゾンビ映画に出てくる、深夜の町で逃げ回る人々とゾンビのようにぴったりな状況だ。
火事の煙のせいか走るとすぐに息が上がる。対してオークは薄くなった酸素などお構いなしといった感じで、全身の脂肪を揺らしながらのしのしと迫ってきていた。今はまだ俺たちの間にはそこそこの距離があるが、このままではすぐにあの棍棒が届きうる間合いに入ってしまうだろう。冷や汗とも普通の汗ともつかぬ汗が頬を伝って流れる。このままむやみに走ったとて、恐らくオークを撒くことはできない。落ち着け、落ち着け……。解決策を考え続けろ。
走りながら策を考える俺の視界の端にまだ倒壊していない建物が映りこむ。厩舎だ。あの建物で何とかオークを撒くことが出来ないだろうか。……考えている暇はない。一縷の望みを賭けて俺は厩舎に飛び込んだ。俺の後を追いかけてオークも厩舎の中に入っていく。厩舎は建物を二分割するように一本の道が内部に通っており、そのサイドに鉄格子のはまった檻が並んでいる。中央の道を駆け抜け俺が一つの檻の中に入ると、オークは追い詰めたといわんばかりの醜悪な笑顔を張り付けて檻に駆け寄ってきた。ずっと思っていたが、こいつこの図体でどんだけ体力あるんだ。かなりの距離を巨大な棍棒を持って走り回ったのに息一つ切らしていない。
化け物は俺が入った檻の前までやってくるとゆっくりとその巨体を檻の中に投じ始めた。俺とオークのいる檻の中はお世辞にも広いとは言えない。俺に棍棒を避けられるような空間的余裕はこれっぽっちもない。間違いなく奴の棍棒は俺の体を文字通り完膚なきまでに叩き潰すだろう。しかし、それは俺の攻撃も奴に必中だということを意味する。逃走中に回復したマナを総動員して、俺は再び詠唱を開始した。俺の詠唱に反応してオークも得物を持ち上げ始める。
「テネロ・ショトゥ・タグ:アラウ・スペウ:マズ・ルーン!!!」
次の瞬間漆黒の矢が魔法陣から神速で撃ち出され、音もなくオークの胸を刺し穿っていた。同時に反動で俺も後方壁に叩きつけられる。一瞬遅れてガキンッ!という向かい側の格子を破壊した音が厩舎内に響き、突風が吹き付けた。
ひと時の静寂の後、ゆっくりとオークの巨体が後方に崩れ落ちた。震える両腕をゆっくりと下ろして俺は地面にへたり込む。マナの枯渇に思考が麻痺するのを感じつつ、警戒を解かずにオークの横たわった体をにらみ続ける。しかし幸いなことにそれは杞憂だったようで、十秒もしないうちにオークの体は灰へと変わっていった。ぼろぼろと崩れ去るオークだった灰の中に何か光るものが現れる。あの見た目には見覚えがある。魔物が死んだときに残すという魔石だ。俺が魔法の矢で打ち抜いたため砕けてしまっているが、それでもなおゴブリンのものよりも大きく見える。重い腰を持ち上げて歩み寄ると俺は鈍く輝く魔石を拾い上げた。直接この手で殺したわけではないのでゴブリンを殺した時ほどの罪悪感はないが、何か例えがたい、苦い味わいが口の中に広がるのを感じた。
俺は魔石をポケットにしまうと、大通りの方へ戻った。オークから逃げながら走っているうちに、気付けば村のかなり東まで来ていた。ここから先はきっと自警団たちが対処してくれるだろう。希望的観測をしつつ、俺は来た道を再び西へと走り出した。
再び周囲を見回しつつ来た道を戻ったが、幸いなことに逃げ遅れた人もオークも見当たらない。安堵と疲労に意識を手放しそうになるが、まだ安心できるような状況ではないと頭を振って耐える。そういえば、男の子は無事に両親に再開することが出来ただろうか。そんなことを考えながら走っていると、やがて目の前に広場がある小さな丘が見えてきた。重い脚を気合で持ち上げて広場への坂道を駆け上がる。すでにほとんどの村人が避難してきたようで、広場には先ほどよりも幾分数を増した人々が集まっていた。フェルテルと男の子を探してきょろきょろ歩き回っていると、向こうも俺のことをずっと探していたのかフェルテルと目が合った。不安げな顔で駆け寄ってくるフェルテルに笑って手を振る。フェルテルが男の子を連れていないということは恐らくあの子は両親と会うことが出来たのだろう。
ほっとしつつフェルテルの方へ歩いていこうとすると不意に小石に躓いてよろめいた。いつもの俺ならすぐに体勢を戻すことができただろうが、今日は日中は洞窟に封印に赴き、先ほどまではオーク相手に鬼ごっこをしていたのだから当然と言えば当然だが、体が思うように動かなかい。だがまあ、安全圏まで戻ってくることが出来たし、もう倒れてしまっても構わないだろう。重力のままに体を投げ出した俺だったが、突然その動きが柔らかな衝撃を以って止められた。俺の転倒を食い止めたのは、目に涙をいっぱいに浮かべて抱き着いてきたフェルテルだった。しかし転倒を免れたと思った瞬間、今度は逆方向、つまり後ろ側に倒れ始める。そのままフェルテルにタックルされたかのような構図で俺は背中から地面に倒れこんだ。仰向けに転がる俺の上で、フェルテルが涙をいっぱいに溜めた青い瞳でにらみつけてくる。はて、俺はいつの間にフェルテルを怒らせるようなことをしたっけ。
「もう! ソーマさんのばか! ばかばかばか! 無茶しないでって言ったじゃないですか! さっきここに来たあの男の子の親御さんが、少年が自分たちをかばってオークと戦っているっていうから、絶対ソーマさんのことだって……」
盛大に俺を叱った後に、泣きながらポカポカと俺の胸を殴るフェルテル。物理的には全く痛くないが、こんなにもフェルテルを心配させていたという事実に罪悪感で心がずきりと痛んだ。しっかりしているので忘れそうになるが、この子は俺よりも幼い女の子なのだ。
「ごめん。……でもほら、マナはすっからかんだけど大きな怪我はしていないからさ。大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないです!」
俺が戻ってくるまでよほど気を張ってくれていたのだろう。俺を叱り飛ばした途端、フェルテルは声をあげて泣き始めてしまった。女の子を泣かせてしまった経験も、泣いている女の子を慰めた経験も元の世界で寂しい人生を送ってきた俺にはあるわけもなく、ぎこちなく手を動かして俺のシャツをつかんで泣いているフェルテルの頭を出来る限り優しくぽんぽんと触れてやるのが精いっぱいだった。すでに周りの村人たちがフェルテルの泣き声を聞きつけて好奇の目で俺を見ているが、もとはといえば俺のせいなので甘んじてその視線を受けるとしよう。
しばらくするとようやく落ち着いたのか、フェルテルが赤くなった目を乱暴に擦って俺の上から退いた。俺もよっこらせと起き上がって体についた土埃を払う。……なんだか妙に気まずい。フェルテルに話しかけようとするが、すぐにぷいっとそっぽを向かれてしまう。俺がどうしたものかとおろおろしていると、フェルテルが俺の顔を見ることもなく話し出した。
「えっと……その……、もう無茶しないでくださいね。約束してください!」
「あ、ああ、もちろん。……その、心配させちゃって本当にごめん。もう無茶はしないよ」
俺が約束したのを聞いて、フェルテルはようやくこちらに向き直ってどこか恥ずかしそうに笑った。やっぱりフェルテルには笑顔が一番似合う。何とか機嫌を直してくれたことに俺は胸を撫で下ろした。
比較的人の少ない広場の端の方に寄って、俺とフェルテルは現状を話し合う。
「村の東の方は結構火事で燃えている家もあったな。こっちまで延焼してこないといいけど」
「それなら大丈夫だと思いますよ。この辺の地域は夜西風が吹くんです」
と、フェルテル。さすが現地っ子。俺の知らないような地理情報もすぐに示してくれた。となるとひとまずは火事の心配をする必要はないだろう。
「でも変ですよね、オークの群れがこの村を襲いに来るなんて。しかも東側だけ。この村って西側の方が人も家も多いのに……」
フェルテルが形のいい眉を寄せてつぶやいた。走っていた時は気が付かなかったが、今思えば東側は火事で燃えていたり倒壊したりしてはいたものを含めても、かなりまばらというか建物が少ないという印象を覚えた。それにも関わらずなぜオークは東側を襲撃したのだろうか。うーんと首をひねる。もし自分がオークの立場だとしたらどうするだろう。効率的に収穫を得たいのなら、部隊を二分して一方で獲物を袋小路なりに追い立てて、もう一方で一網打尽にする、といったところか。こうすれば挟み撃ちを出来るので成功率も上がりそうだ。……まさかな。あり得ない。そんな作戦をオークのような魔物が実行することなんてあるだろうか。一応フェルテルにも話してみて一緒に考えてみる。
「あのさ、オークが二手に分かれてて、挟み撃ちをしようとしているっていうのはあり得るかな?」
「うーん、どうでしょうね。それなら今の状況はまんまとオークの術中にはまっているっていうことになりますよね。だとしたら今にも別のオークの群れが来ないとおかしいんじゃ……」
青ざめた顔でフェルテルが続きを口にしようとした、まさにその時だった。突如人ごみの向こうからつんざくような悲鳴が上がる。まさか、とフェルテルと顔を見合わせて発生源を見る。そこには再び蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う村人たちと何体ものオークの巨体があった。祭りの始まりだとでもいうようにオークは邪悪な雄たけびを上げる。
悪夢の夜は、まだ明けない。
素早く詠唱を唱えると俺の腕の先の紫色の魔法陣が光を放ち、何もない空間に徐々に密度を増していくように直径一・五メートル弱の漆黒の円盤が現れた。その直後、オークの巨大な腕、その先の棍棒がまっすぐに俺に向かって振り下ろされた。スローモーションで流れる視界が粗雑な棍棒と黒い円盤に埋まる。そして真っ黒な大盾と棍棒が衝突した刹那、すさまじい轟音が響き渡る。漆黒の円盤は、俺の頭蓋を打ち砕かんとしていた打撃を完璧に受け止めてみせた。
その代価として俺の中の何か、恐らくマナが恐るべき勢いで失われていくのが分かる。ライさんの工房で毎日のように魔法の練習をしていたが、ここまで急激にマナをすり減らした経験はない。
しかしオークの渾身の一撃を受け止めたのはいいものの、数秒後ぴしりという弾けるような不吉な音がして黒い円盤に大きな亀裂が生じる。それは盾の維持に消費されるマナが底をつき始め、耐久性が低下し始めていることを示唆していた。
魔法実行時のマナの消費の例として今回の魔法を上げるなら、闇属性魔法によって生成された漆黒の大盾は体積がおよそ三三万立方センチメートルであり、このとき消費されるマナ量は、一立方センチメートルの小さなサイコロを生成するときに消費される量の単純に三十三万倍になる。つまりは消費量は体積に比例するということだ。そして生成物質の状態を固体にする処理は簡単に言えば微粒子を密集させるという行為なので、そこでさらにその分のエネルギーが消費マナを増加させる。そこに空間内に物体を固定するイモーバルの命令を加えるので、この円盤を生成するだけでも莫大なマナが消費されているのだ。
そこからは物質の維持のために継続的にマナが消費されていくことになり、先ほどのオークの攻撃によってその消費量が急激に高まった。したがって、この盾は今現在破砕の危機に晒されているのだ。
気力、いやマナを振り絞って黒の盾を保つ俺の横を、気を失った女を抱えた男が必死の形相で走り抜ける。良かった、とりあえずあの人たちを助けるというミッションは達成できたみたいだ。ならばこの後俺が生き残れば完璧なのだが、さて、どうしたものか。このまま魔法を使いっぱなしではマナの浪費になってしまう。いったん魔法を止めてこいつに対処しなければ。
直後、マナの供給の停止に呼応して魔法の盾がガシャーン! というガラスめいた破砕音ともに砕け散った。黒い破片が空中に消えていく。円盤の崩壊によって振り下ろされた棍棒が右に飛び退いた俺を掠めた。ゴウ! という風切り音とともに巨大な得物が地面を打つ。恐怖に強張る足を無理やりに動かしてオークの股の下をスライディングで抜ける。今の状態でこのオークを倒そうとするのは得策ではない。できるだけ村の東側にオークを引きつけて広場の村人たちへ被害が及ぶことを防ごう。マナの激しい消費で痺れた脳をフル回転させてとりあえずの作戦を立てると、こっちだ!とオークを挑発して俺は再び大通りを東に走り始めた。
「はあっ……、はあっ……!」
オークを引き連れて村を東に疾走する俺の姿は、普段の村ならばさぞ奇怪に見えたことだろう。しかし襲撃に遭ったこの村の中では、さながらゾンビ映画に出てくる、深夜の町で逃げ回る人々とゾンビのようにぴったりな状況だ。
火事の煙のせいか走るとすぐに息が上がる。対してオークは薄くなった酸素などお構いなしといった感じで、全身の脂肪を揺らしながらのしのしと迫ってきていた。今はまだ俺たちの間にはそこそこの距離があるが、このままではすぐにあの棍棒が届きうる間合いに入ってしまうだろう。冷や汗とも普通の汗ともつかぬ汗が頬を伝って流れる。このままむやみに走ったとて、恐らくオークを撒くことはできない。落ち着け、落ち着け……。解決策を考え続けろ。
走りながら策を考える俺の視界の端にまだ倒壊していない建物が映りこむ。厩舎だ。あの建物で何とかオークを撒くことが出来ないだろうか。……考えている暇はない。一縷の望みを賭けて俺は厩舎に飛び込んだ。俺の後を追いかけてオークも厩舎の中に入っていく。厩舎は建物を二分割するように一本の道が内部に通っており、そのサイドに鉄格子のはまった檻が並んでいる。中央の道を駆け抜け俺が一つの檻の中に入ると、オークは追い詰めたといわんばかりの醜悪な笑顔を張り付けて檻に駆け寄ってきた。ずっと思っていたが、こいつこの図体でどんだけ体力あるんだ。かなりの距離を巨大な棍棒を持って走り回ったのに息一つ切らしていない。
化け物は俺が入った檻の前までやってくるとゆっくりとその巨体を檻の中に投じ始めた。俺とオークのいる檻の中はお世辞にも広いとは言えない。俺に棍棒を避けられるような空間的余裕はこれっぽっちもない。間違いなく奴の棍棒は俺の体を文字通り完膚なきまでに叩き潰すだろう。しかし、それは俺の攻撃も奴に必中だということを意味する。逃走中に回復したマナを総動員して、俺は再び詠唱を開始した。俺の詠唱に反応してオークも得物を持ち上げ始める。
「テネロ・ショトゥ・タグ:アラウ・スペウ:マズ・ルーン!!!」
次の瞬間漆黒の矢が魔法陣から神速で撃ち出され、音もなくオークの胸を刺し穿っていた。同時に反動で俺も後方壁に叩きつけられる。一瞬遅れてガキンッ!という向かい側の格子を破壊した音が厩舎内に響き、突風が吹き付けた。
ひと時の静寂の後、ゆっくりとオークの巨体が後方に崩れ落ちた。震える両腕をゆっくりと下ろして俺は地面にへたり込む。マナの枯渇に思考が麻痺するのを感じつつ、警戒を解かずにオークの横たわった体をにらみ続ける。しかし幸いなことにそれは杞憂だったようで、十秒もしないうちにオークの体は灰へと変わっていった。ぼろぼろと崩れ去るオークだった灰の中に何か光るものが現れる。あの見た目には見覚えがある。魔物が死んだときに残すという魔石だ。俺が魔法の矢で打ち抜いたため砕けてしまっているが、それでもなおゴブリンのものよりも大きく見える。重い腰を持ち上げて歩み寄ると俺は鈍く輝く魔石を拾い上げた。直接この手で殺したわけではないのでゴブリンを殺した時ほどの罪悪感はないが、何か例えがたい、苦い味わいが口の中に広がるのを感じた。
俺は魔石をポケットにしまうと、大通りの方へ戻った。オークから逃げながら走っているうちに、気付けば村のかなり東まで来ていた。ここから先はきっと自警団たちが対処してくれるだろう。希望的観測をしつつ、俺は来た道を再び西へと走り出した。
再び周囲を見回しつつ来た道を戻ったが、幸いなことに逃げ遅れた人もオークも見当たらない。安堵と疲労に意識を手放しそうになるが、まだ安心できるような状況ではないと頭を振って耐える。そういえば、男の子は無事に両親に再開することが出来ただろうか。そんなことを考えながら走っていると、やがて目の前に広場がある小さな丘が見えてきた。重い脚を気合で持ち上げて広場への坂道を駆け上がる。すでにほとんどの村人が避難してきたようで、広場には先ほどよりも幾分数を増した人々が集まっていた。フェルテルと男の子を探してきょろきょろ歩き回っていると、向こうも俺のことをずっと探していたのかフェルテルと目が合った。不安げな顔で駆け寄ってくるフェルテルに笑って手を振る。フェルテルが男の子を連れていないということは恐らくあの子は両親と会うことが出来たのだろう。
ほっとしつつフェルテルの方へ歩いていこうとすると不意に小石に躓いてよろめいた。いつもの俺ならすぐに体勢を戻すことができただろうが、今日は日中は洞窟に封印に赴き、先ほどまではオーク相手に鬼ごっこをしていたのだから当然と言えば当然だが、体が思うように動かなかい。だがまあ、安全圏まで戻ってくることが出来たし、もう倒れてしまっても構わないだろう。重力のままに体を投げ出した俺だったが、突然その動きが柔らかな衝撃を以って止められた。俺の転倒を食い止めたのは、目に涙をいっぱいに浮かべて抱き着いてきたフェルテルだった。しかし転倒を免れたと思った瞬間、今度は逆方向、つまり後ろ側に倒れ始める。そのままフェルテルにタックルされたかのような構図で俺は背中から地面に倒れこんだ。仰向けに転がる俺の上で、フェルテルが涙をいっぱいに溜めた青い瞳でにらみつけてくる。はて、俺はいつの間にフェルテルを怒らせるようなことをしたっけ。
「もう! ソーマさんのばか! ばかばかばか! 無茶しないでって言ったじゃないですか! さっきここに来たあの男の子の親御さんが、少年が自分たちをかばってオークと戦っているっていうから、絶対ソーマさんのことだって……」
盛大に俺を叱った後に、泣きながらポカポカと俺の胸を殴るフェルテル。物理的には全く痛くないが、こんなにもフェルテルを心配させていたという事実に罪悪感で心がずきりと痛んだ。しっかりしているので忘れそうになるが、この子は俺よりも幼い女の子なのだ。
「ごめん。……でもほら、マナはすっからかんだけど大きな怪我はしていないからさ。大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないです!」
俺が戻ってくるまでよほど気を張ってくれていたのだろう。俺を叱り飛ばした途端、フェルテルは声をあげて泣き始めてしまった。女の子を泣かせてしまった経験も、泣いている女の子を慰めた経験も元の世界で寂しい人生を送ってきた俺にはあるわけもなく、ぎこちなく手を動かして俺のシャツをつかんで泣いているフェルテルの頭を出来る限り優しくぽんぽんと触れてやるのが精いっぱいだった。すでに周りの村人たちがフェルテルの泣き声を聞きつけて好奇の目で俺を見ているが、もとはといえば俺のせいなので甘んじてその視線を受けるとしよう。
しばらくするとようやく落ち着いたのか、フェルテルが赤くなった目を乱暴に擦って俺の上から退いた。俺もよっこらせと起き上がって体についた土埃を払う。……なんだか妙に気まずい。フェルテルに話しかけようとするが、すぐにぷいっとそっぽを向かれてしまう。俺がどうしたものかとおろおろしていると、フェルテルが俺の顔を見ることもなく話し出した。
「えっと……その……、もう無茶しないでくださいね。約束してください!」
「あ、ああ、もちろん。……その、心配させちゃって本当にごめん。もう無茶はしないよ」
俺が約束したのを聞いて、フェルテルはようやくこちらに向き直ってどこか恥ずかしそうに笑った。やっぱりフェルテルには笑顔が一番似合う。何とか機嫌を直してくれたことに俺は胸を撫で下ろした。
比較的人の少ない広場の端の方に寄って、俺とフェルテルは現状を話し合う。
「村の東の方は結構火事で燃えている家もあったな。こっちまで延焼してこないといいけど」
「それなら大丈夫だと思いますよ。この辺の地域は夜西風が吹くんです」
と、フェルテル。さすが現地っ子。俺の知らないような地理情報もすぐに示してくれた。となるとひとまずは火事の心配をする必要はないだろう。
「でも変ですよね、オークの群れがこの村を襲いに来るなんて。しかも東側だけ。この村って西側の方が人も家も多いのに……」
フェルテルが形のいい眉を寄せてつぶやいた。走っていた時は気が付かなかったが、今思えば東側は火事で燃えていたり倒壊したりしてはいたものを含めても、かなりまばらというか建物が少ないという印象を覚えた。それにも関わらずなぜオークは東側を襲撃したのだろうか。うーんと首をひねる。もし自分がオークの立場だとしたらどうするだろう。効率的に収穫を得たいのなら、部隊を二分して一方で獲物を袋小路なりに追い立てて、もう一方で一網打尽にする、といったところか。こうすれば挟み撃ちを出来るので成功率も上がりそうだ。……まさかな。あり得ない。そんな作戦をオークのような魔物が実行することなんてあるだろうか。一応フェルテルにも話してみて一緒に考えてみる。
「あのさ、オークが二手に分かれてて、挟み撃ちをしようとしているっていうのはあり得るかな?」
「うーん、どうでしょうね。それなら今の状況はまんまとオークの術中にはまっているっていうことになりますよね。だとしたら今にも別のオークの群れが来ないとおかしいんじゃ……」
青ざめた顔でフェルテルが続きを口にしようとした、まさにその時だった。突如人ごみの向こうからつんざくような悲鳴が上がる。まさか、とフェルテルと顔を見合わせて発生源を見る。そこには再び蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う村人たちと何体ものオークの巨体があった。祭りの始まりだとでもいうようにオークは邪悪な雄たけびを上げる。
悪夢の夜は、まだ明けない。
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