父の男

上野たすく

文字の大きさ
上 下
52 / 78
クロス・ストリート ~蛍視点~

10

しおりを挟む
 誰かに後ろから引きはがされた。
 ベッドからはみ出た昭弘の腕を看護師が整える。
 治療室から引きずり出され、壁に突き飛ばされた。
 後頭部と背中を強く打ち、蛍は呻いた。
「親族の前だぞ。頭を冷やせ」
 男が背広姿で立っていた。
「加賀島さん」
 茶髪の女性がハンカチを口から離し、男の後ろから、そう言った。
「まだまだガキだな、蛍。でも、今回は生きている側にとっては褒美もんだぞ」
 加賀島が部屋の中に視線を送る。
 昭弘の父親が息子の名を連呼した。
 母親だと思われる女性がそれに続く。
 医師が昭弘の様態を診始め、看護師が取り外した機器を昭弘につけていく。
「先輩にとっては地獄に逆戻りって感じか」
 加賀島が射るように見つめてくる。
 加賀島は茶髪の女性に頭を下げ、革靴を鳴らして廊下を歩いて行った。
 木崎が鞄を持って、こちらへやって来た。
 峠を越えた、と医師は言った。
 昭弘は集中治療室から個室の入院部屋へと移動した。
 彼の家族は疲労と安堵の内在した表情で蛍に会釈をし、帰っていった。
 木崎は父親に迎えに来てもらい、去って行った。
 蛍は茶髪の女性と休憩室でコーヒーを啜った。
「ねえ、私のこと、覚えてる?」
「すみません」
 彼女は小さく笑った。
吉村朱里よしむらあかりよ。桜井さんの後輩。あなたが幼かったとき、遊んだこともあるんだけどな」
「すみません」
「怒ってないわ。忘れることも大切だもの。じゃなきゃ、生きるのが辛いじゃない?」
 吉村はコーヒーの入った紙コップを両手で包んだ。
「私、桜井さんが好きだったの。だいぶ前にふられちゃったけど、あの人、ちっとも結婚しないし、私のことは嫌いじゃないって言うし、脈があるんじゃないかって勘違いしちゃって、結婚適齢期、過ぎちゃった」
 蛍はよく通る彼女の声を、ただ聞いていた。
「でもね、よく考えれば、気づけたはずなのよ。何に誘ったとしても、あなたがいるからって理由で断られたんだもの。あなたが高校生になってもよ。どんだけ過保護な親って感じよね」
 彼女は溜息をついた。

「だけどね、たった一度だけ、絵画の個展に誘ってくれたことがあったの。二人で風景画や人物画を眺めて……。蛍君はギリシア神話のテミスって女神、知ってる?」
「はい。大学に像がありました」
「そうなんだ。桜井さんね、その女神様が描かれた作品と向き合ってから、職場に顔を出す回数が減ったの。何に時間をかけていたのか、私にはわからないけれど、きっと、あの絵が関わっているんだろうって思った。加賀島さんのところへ行ってしまったらしいって聞いたとき、自分の未熟さに後悔した。でも、今日、加賀島さんに会って、桜井さんらしいなと思ったわ。私達が桜井さんの事故を話したのに、加賀島さんは駆けつけようとしなかった。彼は仕事を優先した。桜井さんと開業した事務所だから、きちんと回していきたいって。桜井さんは警察を辞めてまで、この男を更生させたんだって思った。彼、警察で関わった人に、最期まで付き添えないことを、いい風に思っていなかったから。事件や相談のあとも、相手は生きているんですものね。加賀島さんには殺人の容疑がかかっているんだけど、彼はやっていないと言った。私はそれを信じたい」
 彼女はコーヒーを一口、飲んだ。
「ねえ、桜井さんの弱みって、知ってる?」
「いえ」
 指でさされる。
「俺?」
「そう。彼、あなたのことになると途端に脆くなるの」
 吉村の目は笑っているようで鋭い光を秘めていて、蛍は口が渇いていくのを知った。
「実は、今回の事故、桜井さんの自殺未遂で処理されそうなの」
 見開いた目に、寂しげに笑む吉村が映った。
「桜井さんの交通事故は昨晩、午前二時頃。場所は、あなた達が住んでいたアパートから南西にある交差点よ。目撃者によれば、赤信号を渡っていたらしいの。ふらついていたみたいだけど、桜井さんの血液からアルコールは検出されなかった。命の危険も忘れてしまうほど、彼を傷つけられるのは世界でただ一人。ねえ、蛍君。昨晩、桜井さんに会わなかった?」
 あの口論のあと、俺がいつも立ち止まるあの交差点で昭弘は自ら死のうとした?
 吉村はゆるく笑んだ。
「そう。会ったのね」
 躊躇った蛍に、彼女は目を和らげた。
「言葉で言わなくても顔に書いてあるもの。蛍君って、わかりやすいのね。そうやって、桜井さんに迫ったんだ?」
 鼓動が速くなっていく。
 蜘蛛の巣に引っかかった、獲物のような気分だった。
「脅えないでよ。取り調べじゃないんだから」
「吉村さん、友達、少ないでしょ?」
「たくさんいたって、本当の友達ってわけでもないんじゃないの?」
「……ですね」
 苦笑し、昨日のことを思い出そうとした。
「俺はそんなにわかりやすいですか?」
 吉村は微笑んで肯定した。
「だったら」
―俺達の前に、二度と現れないでくれる?
「俺が自殺させるようなことを、言ったのかもしれません」

 あ……れ? 

―昭弘が加賀島にそうしろって言ったってことなのかよ!
―ああ。

「……そ……か」

 涙が溢れた。
 そうか。あれは、そういう意味だったんだ。
 昭弘は罰を背負っていた。
 雁字搦めにされていた。
 それが彼の思考を歪めていて、だけど、そのことについてしゃべらないから理解ができなかった。
 わかるわけないだろ? こんなの。
 あんたが恐れていたのは誰もが犯してしまうだろう、生きているがゆえに避けられない、意思があるかどうかも関係がない、そんな、自分という存在が他者に与えた影響、これから与えるであろう影響、今、与えているであろう影響、そのすべてだったなんて。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

寮生活のイジメ【社会人版】

ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説 【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】 全四話 毎週日曜日の正午に一話ずつ公開

「優秀で美青年な友人の精液を飲むと頭が良くなってイケメンになれるらしい」ので、友人にお願いしてみた。

和泉奏
BL
頭も良くて美青年な完璧男な友人から液を搾取する話。

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

一度くらい、君に愛されてみたかった

和泉奏
BL
昔ある出来事があって捨てられた自分を拾ってくれた家族で、ずっと優しくしてくれた男に追いつくために頑張った結果、結局愛を感じられなかった男の話

愛する者の腕に抱かれ、獣は甘い声を上げる

すいかちゃん
BL
獣の血を受け継ぐ一族。人間のままでいるためには・・・。 第一章 「優しい兄達の腕に抱かれ、弟は初めての発情期を迎える」 一族の中でも獣の血が濃く残ってしまった颯真。一族から疎まれる存在でしかなかった弟を、兄の亜蘭と玖蘭は密かに連れ出し育てる。3人だけで暮らすなか、颯真は初めての発情期を迎える。亜蘭と玖蘭は、颯真が獣にならないようにその身体を抱き締め支配する。 2人のイケメン兄達が、とにかく弟を可愛がるという話です。 第二章「孤独に育った獣は、愛する男の腕に抱かれ甘く啼く」 獣の血が濃い護は、幼い頃から家族から離されて暮らしていた。世話係りをしていた柳沢が引退する事となり、代わりに彼の孫である誠司がやってくる。真面目で優しい誠司に、護は次第に心を開いていく。やがて、2人は恋人同士となったが・・・。 第三章「獣と化した幼馴染みに、青年は変わらぬ愛を注ぎ続ける」 幼馴染み同士の凛と夏陽。成長しても、ずっと一緒だった。凛に片思いしている事に気が付き、夏陽は思い切って告白。凛も同じ気持ちだと言ってくれた。 だが、成人式の数日前。夏陽は、凛から別れを告げられる。そして、凛の兄である靖から彼の中に獣の血が流れている事を知らされる。発情期を迎えた凛の元に向かえば、靖がいきなり夏陽を羽交い締めにする。 獣が攻めとなる話です。また、時代もかなり現代に近くなっています。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

オメガ修道院〜破戒の繁殖城〜

トマトふぁ之助
BL
 某国の最北端に位置する陸の孤島、エゼキエラ修道院。  そこは迫害を受けやすいオメガ性を持つ修道士を保護するための施設であった。修道士たちは互いに助け合いながら厳しい冬越えを行っていたが、ある夜の訪問者によってその平穏な生活は終焉を迎える。  聖なる家で嬲られる哀れな修道士たち。アルファ性の兵士のみで構成された王家の私設部隊が逃げ場のない極寒の城を蹂躙し尽くしていく。その裏に棲まうものの正体とは。

処理中です...