父の男

上野たすく

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誰かが誰かを愛している ~蛍視点~

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「こっちに来んな!」
「他の学生が見ている。同じ方向へ行くだけで、喚くな」
「じゃあ、離れろよ、せめて!」
「前を見て歩け」
 木崎は涼しい顔でこちらを見ている。蛍は溜息をつき、彼の助言通り、首を戻した。同時に、歩を緩める。木崎の歩幅が狭くなった。
「俺に関わる、お前のメリットはなんだ?」
 横に来た男が一枚の紙を、こちらへ向けた。
 漫画研究会と書かれた紙には、かわいらしいバニーガールが描かれていた。
「まさか、入るのか?」
「お前も、どうだ?」
「断る」
「漫画は嫌いか?」
 蛍は顔を覆い、息をついた。頭がズキズキと痛み出す。 
「今は考えられない。行きたいなら、一人で行けばいいだろ? いちいち、俺に聞くんじゃねえよ!」
 広がっていく痛みを振り払おうと、頭を左右した。
 今日は、民法の条文と、商法の条文の素読みをしなければいけない。過去問を解き、不動産登記法の記述式の勉強をして、あとは……。
 頑張らないと。頑張らないと。
 渋谷、と呼ばれたかと思えば、足が宙に浮いた。
「馬鹿か! 下ろせ!」
「安心した。暴れる元気はあるんだな」
「はっ?」
 木崎はこちらを抱きあげ、悠々と歩き出す。蛍は突き刺さってくる周りの視線に、奥歯を噛みしめた。
 くそっ、息が。
「保健室へ行く。あそこなら、ベッドで休める」
 男は無表情で前を見続けている。蛍は目を瞑り、心を鎮めようと、木崎の腕の中で体を縮めた。
 渋谷、と男の声がする。
「もっと、自分を大切にしてやれ」
 遠くなっていく意識の片隅で、木崎に反論した。
 うるさい! お前になにがわかる! 俺は昭弘を迎えに行くって約束したんだ! そのためには完璧じゃなきゃ、駄目なんだよ! 完璧じゃないと認めてもらえない! 赤城のときみたいに、簡単に縁を切られる。不完全じゃ、駄目なんだよ! 今の俺じゃ、駄目なんだ!
「俺はそうは思わない」
 見開いた目に木崎が映る。
 白く狭い部屋は、夕暮れの色を素直に反映させていた。
 蛍はベッドの中にいた。
 保健室か。
 部屋には木崎と自分しかいないようだ。
「よく眠れたか?」
 男が聞いてくる。彼はスツールに座っていた。
「うわ言を言っていた」
 背中に冷たい汗が流れる。
「……なんて言っていた?」
「知りたいか?」
「……いや、いい。言わなくていい」
 上半身を起こし、息をつく。汗をびっしょりかいていた。
 ベッドから降りようとして、前のめりに倒れた。木崎が腕を掴んでくれたおかげで転倒は免れたが、鼓動が頭を殴りつけ、立つことができない。
 邪険に木崎の腕を払いのけ、足に力を入れた。自分でなんとかしたかった。だけど、立ち上がれない。頭の痛みも消えてくれない。
 木崎が膝をつき、手を差し出してきた。
「俺は得するとかしないとかを考えて、お前と関わっているわけじゃない。ただ、今までの俺を知る人間が、お前だけだったから話しかけた。お前がたまたま、俺と似ているところがあったから、傍にいて落ち着けた。お前が、大学に受かったというのに、まったく楽しもうとしないから笑わせたい、と思った。お前が」
 男はそこで一旦、口を閉じ、
「いつまで経っても、自分の価値を軽く思っているから、我慢がならなかった。それだけだ」
 腕を掴んで、蛍をベッドに座らせた。
 廊下を駆ける足音がする。
 大学でも、ルールは簡単に破られるんだな。
 蛍は走る学生を想像し、息を整えた。
 だが。
「桜井の職場に連絡を入れた。送ってもらえ」
 木崎がドアを顎で示し、血の気が引いた。
「嘘だろ? 俺はまだ会えない。頼む。帰るように言ってくれ!」
「どうして拒む? お前、俺達が家へ行ったあと、桜井に会いに行ったんじゃないのか?」
「だから、今の俺じゃ、ダメなんだよ!」
 確実に、足音が近づいてくる。見せられない。こんな醜態、昭弘には見て欲しくない。嫌だ。幻滅される。心臓と頭が一体化して破裂してしまいそうで、蛍は悲鳴をあげた。
 そう、腹の底から声を出したはずだった。それなのに音がやんだ。耳鳴りがするくらい静かになる。蛍の目には白い天井と、浅黒く、厚い手が映っていた。
「悪かった」
 木崎がこちらの口から手をどける。
「お前を試した」
 足音はどこへ行ったのか。こちらが叫んだと同時に、ドアを開ける音が聞こえた気がしたのだが、部屋には木崎以外の気配はないし、当の本人は騙したことを告白している。気のせいだったのか?
「送っていく。歩けないようなら、タクシーを呼ぶ」
 蛍は鏡越しに聞こえる男の声に瞼を閉じた。
「大丈夫だ。一人で帰れる」
 出した声がしゃがれていた。
「渋谷、俺は」
「もう、行ってくれ。一人になりたい」
 天井の白がぐるぐると回転していた。脳みそがとても疲れていた。
「わかった。保険医には俺から声をかけておく」
 木崎は鞄を肩にかけ、部屋を出て行った。
 蛍は自分の息遣いだけを聞いた。


 
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