クローバー

上野たすく

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 一心は子どもをあやすように、やさしく朔の背中を叩いた。
 朔が胸に額を擦りつけてくる。
 周囲からの心ない失望に傷つけられても泣かなかった彼が、涙を流している。
 歯を食いしばり過ぎて、ギリッと音が出た。
 心臓が血を異常な速度で押し出す。
 感情がそのまま口から溢れそうだ。
 冷静にならなければ、話しすらできないというのに、心が言うことを聞いてくれない。
 影が横切ったかと思うと、野岸が一心達の庇うように立った。
「部屋からあんたと朝波の会話を聞いていました。声の大きさにもよるんでしょうが、プライバシーの配慮に欠けた部屋ですね。どの部屋もこんな感じなんでしょ? 息苦しくありません?」
 野岸の含みを持たせた言い方に、神薙が眼差しをきつくした。
「君は……」
「二人の友人です。まさか、このまま、ここで会話を続けるつもりじゃないですよね? ドアを壊したのは、こちらだとしても、そうさせたのはあんただ。甦禰看さんに輸血の件で連絡もしなければいけない。手配してくれますよね、落ち着ける場所」
 神薙は、しばらく野岸を見つめ、唇を伸ばした。
「なるほど、だから二部屋か」
 野岸が首を傾ける。
「いや、甦禰看さんが二部屋、用意してほしいと言っていて、朝波君は部屋があるのに、どうしてだろうと思っていたんだ。一つは君の分か」
 野岸が顎を引く。
 警戒した野岸に、神薙は観察するような眼差しを向けた。
「月見里君の部屋へ行こう。甦禰看さんには僕から連絡を入れる。着いてきてくれるか?」
 野岸は神薙に返事をせず、一心と朔を目にした。
「行けそうか?」
 聞かれ、一心は朔の背中を撫でた。
「朔」
 呼びかけるとしがみつかれた。
「わかった。そのままでいて。抱き上げる」
 朔を横に抱いたとき、目が合った。
 泣きはらした顔に胸が痛み、一度、きつく抱きしめ、野岸に頷いた。
 様子を窺っていたであろう神薙は、無言で部屋へと入っていった。
 戻ってきた彼の手には刀があった。
「行こうか」
 神薙の後について、白い廊下を進んでいく。
 朔が縮こまるように体を丸めるから、一心は何度も「大丈夫だ」と言った。
 きっと、朔は神薙が部屋に入る前に、害になるか否かを見極めたかったのだろう。一心達にとっての防波堤になってくれたのだ。
 守るために、壊さなければいけないものがあり、なのに、自分は心も力も未成熟だ。
 思いに届かない現実が歯がゆかった。
 だが、今、一番優先すべきなのは、自分の力の無さを嘆くでもなく、他者の善意を突っぱねることでもない。
 朔の重みとあたたかさに心を震わせる。
 安心させてやりたい。朔は独りではないんだ、と。
「ここが月見里君の部屋だ」
 神薙が壁につけられた黒色の装置にカードをかざすと、ドアが開いた。
 ベッドと収納棚が部屋に置かれ、キッチンも見て取れた。
 奥へ行く扉があり、広々としている。
 野岸がベッドを使うよう助言してくれる。
「ありがとう。野岸も」
「ああ。朝波は? ずっと大人しいが、平気そうか?」
 朔は瞼を閉じ、人差し指の関節を吸っていた。
 赤ん坊が眠っているような姿に、漠然とした不安に襲われる。
「朔……?」
 返事はない。
「疲れたんだろ。俺達も休もう」
 野岸が勇気づけるように言い、一心は歯切れの悪い相づちを打った。
 神薙はスマートフォンで誰かと話しをしている。
 体勢が辛いだろうと、朔をベッドに寝かせようとし、彼の空いている方の手で、服を握りしめられているのを知り、抱え直した。
「出血している。針を無理矢理抜いたからな」
 野岸は白衣から小瓶を取り、一心の傷口にかけた。
「ありがとう」
 野岸は瓶を白衣のポケットへ戻し、息をついた。
「なにか飲むか? ヤカンあるし、湯、沸かしてくる」
 野岸がキッチンへと行くのを見送り、一心は朔の頭を撫で、涙の跡を指で拭った。
 神薙が通話をやめ、一心の前へとやって来た。
「朔はここで、いつも、あんな言い方をされているんですね」
「なんのことだ?」
 一心は神薙を見つめた。
「朔は人間です」
 瞳に力を込めた。
 神薙は怪訝な表情をしていたが、ハッと目を見開いた。
「多くの人が、はいそうですって言うことが、すべて正しいわけじゃないってことだ」
 野岸はヤカンに水を入れながら、口を開いた。
「あんたの言動は、あんたの周りからの影響なんだろう。どれだけの大人が関係しているか知らないけど、朝波を人間として扱わないことを、誰もおかしいと思わなかったのか? 最低だな」
 神薙は顔をしかめて俯いた。
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